数年前、実家に戻ったとき、ようやっと「昔の日記」という重要機密書類を回収した。
何を思ったか、中学入学と同時に私は日記をつけ始めた。
ファンシーな小花模様のコンパクトな縦書き日記なのに、タイトルは銀色で「奥の細道」と背中にプレスしてある。初めて買った日記帳が、装丁とタイトルがかけ離れてミスマッチ、というのも、何かを暗示しているのかもしれない。
自分で開くのも恐ろしいので、現在私の複数の日記帳は封印し押入れの奥深くに眠っている(はずである)。
それと平行して、十代の頃には手紙も山のように書いた。
いまでこそ筆無精に成り果ててしまったが、中学生の頃は雑誌でペンパル募集をしていた県内の同学年の女子中学生と文通をした。彼女は受験を理由に中3で文通を中止することにしたが、不思議な因縁で同じ大学に在籍し、そのとき初めて顔を合わせた。彼女は私のイメージを「ボーイッシュもしくは中性的」とイメージしていたようだが、(私の意にも反していたが当時)見かけはずいぶん乙女チックだったので、仰天していたようだ。「イメージと違いすぎる!」と理不尽に責められた。
一方、同じ中学校の親友の女の子とも学校で手紙を交換し、それだけではもの足らずャXトにも投函していた。規定の金額の切手ではとうてい無理なくらい分厚い封筒で、便せんの枚数を競うように洋楽や本の話を綴った。(こんなことをしているから受験に失敗するのである) 別々の高校に行った後も、しばらくは文通は続いた。
高校1年の1学期に隣の席になった女の子とも、夏休みに入ったらすぐさま手紙をやりとりした。
大学生になってからは、ひとつ年下の大阪の女の子と、ひょんなことから仲良くなり、手紙をやりとりするようになる。私がもっとも波瀾万丈だった20代の頃の文通相手である。
彼女と初めて会ったのは、京都の某喫茶店での合評会だったが、そのメンバーには、たまたま若き日の吉村萬壱氏もいらっしゃった。過激な作風とはうらはらに、温厚でジェントルな方だったが、彼の作品は誰にも理解されていなかったと記憶している。まさか後年芥川賞作家になるとは、だれが予想したであろう・・・・・・(サインもらっとけばよかったな)。
上記の女の子Iさんは、その後東京の大学に行かれた。波瀾万丈の人生の後、現在は東京でIT関係の会社社長&ライターさんとして活躍している。
彼女とは結婚後もしばらくは手紙をやりとりしていたが、赤ちゃん子育てに音をあげていた私が、音信を絶ってしまった。それでもKちゃんが幼稚園児の頃に京都で再会でき、かっこいい彼女のご主人を拝見することができた。
赤ちゃん子育ての後も、まだまだ休む間もなく心の余裕もなかった。しかし3年ほど前に、ちょっとしたメールから意気投合して始まった長文メール文通が開始される。
相手は読書会友達のRさん。生まれ育った場所も、ものの感じ方も、好きなものも似ている上、しっかりと耳を傾けてもらえる安心感で、とりとめなく多岐にわたる話題や感想を、つい送りつけてしまう。彼女は多忙を極めているのに悪いなあ、と思いつつも。たまにはちゃんと手で書いて郵送することもある。いつも本当にありがとう、Rさん。
この経験があったおかげで、ブログを続けられているのだと思う。二人以上の方が読んで下さるのなら、すくなくとも去年までの文通状態より読まれている訳なので、読んで下さっている皆さんに感謝しつつ、ありがたいことだと思う日々である。
何を思ったか、中学入学と同時に私は日記をつけ始めた。
ファンシーな小花模様のコンパクトな縦書き日記なのに、タイトルは銀色で「奥の細道」と背中にプレスしてある。初めて買った日記帳が、装丁とタイトルがかけ離れてミスマッチ、というのも、何かを暗示しているのかもしれない。
自分で開くのも恐ろしいので、現在私の複数の日記帳は封印し押入れの奥深くに眠っている(はずである)。
それと平行して、十代の頃には手紙も山のように書いた。
いまでこそ筆無精に成り果ててしまったが、中学生の頃は雑誌でペンパル募集をしていた県内の同学年の女子中学生と文通をした。彼女は受験を理由に中3で文通を中止することにしたが、不思議な因縁で同じ大学に在籍し、そのとき初めて顔を合わせた。彼女は私のイメージを「ボーイッシュもしくは中性的」とイメージしていたようだが、(私の意にも反していたが当時)見かけはずいぶん乙女チックだったので、仰天していたようだ。「イメージと違いすぎる!」と理不尽に責められた。
一方、同じ中学校の親友の女の子とも学校で手紙を交換し、それだけではもの足らずャXトにも投函していた。規定の金額の切手ではとうてい無理なくらい分厚い封筒で、便せんの枚数を競うように洋楽や本の話を綴った。(こんなことをしているから受験に失敗するのである) 別々の高校に行った後も、しばらくは文通は続いた。
高校1年の1学期に隣の席になった女の子とも、夏休みに入ったらすぐさま手紙をやりとりした。
大学生になってからは、ひとつ年下の大阪の女の子と、ひょんなことから仲良くなり、手紙をやりとりするようになる。私がもっとも波瀾万丈だった20代の頃の文通相手である。
彼女と初めて会ったのは、京都の某喫茶店での合評会だったが、そのメンバーには、たまたま若き日の吉村萬壱氏もいらっしゃった。過激な作風とはうらはらに、温厚でジェントルな方だったが、彼の作品は誰にも理解されていなかったと記憶している。まさか後年芥川賞作家になるとは、だれが予想したであろう・・・・・・(サインもらっとけばよかったな)。
上記の女の子Iさんは、その後東京の大学に行かれた。波瀾万丈の人生の後、現在は東京でIT関係の会社社長&ライターさんとして活躍している。
彼女とは結婚後もしばらくは手紙をやりとりしていたが、赤ちゃん子育てに音をあげていた私が、音信を絶ってしまった。それでもKちゃんが幼稚園児の頃に京都で再会でき、かっこいい彼女のご主人を拝見することができた。
赤ちゃん子育ての後も、まだまだ休む間もなく心の余裕もなかった。しかし3年ほど前に、ちょっとしたメールから意気投合して始まった長文メール文通が開始される。
相手は読書会友達のRさん。生まれ育った場所も、ものの感じ方も、好きなものも似ている上、しっかりと耳を傾けてもらえる安心感で、とりとめなく多岐にわたる話題や感想を、つい送りつけてしまう。彼女は多忙を極めているのに悪いなあ、と思いつつも。たまにはちゃんと手で書いて郵送することもある。いつも本当にありがとう、Rさん。
この経験があったおかげで、ブログを続けられているのだと思う。二人以上の方が読んで下さるのなら、すくなくとも去年までの文通状態より読まれている訳なので、読んで下さっている皆さんに感謝しつつ、ありがたいことだと思う日々である。