紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

お茶への道

2006-07-13 00:08:13 | お買いもの
 昨日は月一のお茶のお稽古に行った。いえ、お稽古とは名ばかりで常に先生に手取り足取り(いや手だけです)教えてもらって、一向に上達の気配もない。それでも続いているのは、そんなどうしようもない弟子を見捨てない、明るい先生のおかげである。

 そもそも「茶の湯」なんぞ、私の柄でない。柄でもなく好きになってしまったのは、長い話の要因がある。

 原因は夫・H氏の交友関係から始まった。
 
 彼が独身時代から行きつけのジャズバーが、行きつけの献血センターの近くに昔あった。そこのマスターはジャズやオーディオを通してH氏の知り合いでもあったが、私達が結婚してまもなく、店をたたんだ。

 だから、私はそのお店=「エンヤ」に一度しかつれていってもらってない。付け加えておくが、彼が店をたたんだことと私達の結婚の因果関係は皆無である。

 ついでにいうなら、あるときマスターから電話がかかって来た。受話器を取ったおばあちゃんが「どなたですか?」ときき「『エンヤ』です」とおっしゃたのを「『エンマ』さんから電話や~」と取り次いだので、それ以降彼の事を我が家では『エンマさん』と呼ぶようになる。

 店をたたんだ『エンマさん』はイタリアへ飛ぶ。悪事を働き高飛びしたわけではなく、美術の勉強をしにいったというウワサだった。

 その後彼は信楽に舞い戻り、自力で家を建てる。セルフビルドの家なら好きな人は建てるだろうが、彼は窯も作った。陶圏pの窯である。家の前で友人を招き、結婚式をあげ、家と窯の次に子どもを作った。たぶんこの順番だったと思う。そしてもちろん、その前後に陶訣?iも作った。ジャズバーのマスターから陶潔ニに転身したのである。

 その後、信楽のギャラリーで初の個展を開くという案内のハガキが舞い込み、気まぐれに義理堅いH氏は、私を引き連れて個展に出かけた。幼いTくんも一緒だった記憶がある。

 会場を一巡りして、なにげなく訊くH氏。「どれが一番気に入った?」
なにげなく答える私。「そらー、やっぱり、あれやな」と渋い抹茶茶碗を指差す。「うん、あれは、いいな」と同意してもらい、「そやろ、ピカイチやん!」と気分は青山二郎にほめられる白洲正子である。夫は『エンマさん』のところに行き、「あれ、もらうわー」。

 えっ!!!??? 改めて値段をみればゼロがいくつもついてるやん!うそーーー、買う気で訊いたんかよ・・・さっと青ざめる(ような気がした)私。でも、お金は?

 「初個展やから、ご祝儀や、思て持って来たねん」
うそーーー! それならはじめに言ってくれよ~(泣)

 とはいえ後戻りはできない。いまならこの1/10の値段でも却下だろうが。あとは『エンマさん』が陶潔ニとして登り詰めてゆくのを、そして作品の値段が高騰するのを祈るばかりだ。

 購入のとき『エンマさん』は私に言った。
「どうか使ってくださいね」
そりゃもう使わせていただきます。でなきゃ、もったいないやん!!

 というわけで、それからずいぶんな月日が流れ、子どもたちが幼稚園を出た時点で、月一くらいのゆるゆるのお稽古を付けてくださりそうな、おっかなくないお茶の先生がいないか、読書会友達に訊いてみた。

 彼女はそれを心においてくれ、幼稚園ママでお茶の師範免許を持っている方をみつけ、「お茶を教えて下さい!」と説得してくれ、紹介してくれた。(その節はありがとう、Mさん) そして今に至るわけである。

 ケチケチ根性と茶碗から始まった茶の湯だが、習い出してからは、その不思議な静けさと落ち着いた時空間が心地よい。

 村松栄子さんの『ひよっこ茶人の玉手箱ーインターネットでお茶を愉しむ』(マガジンハウス) を読んだ時には、内心はまりまくってしまった。
敷居の高い「お茶」の世界をフランクでバラエティに富んで、ちょこっと笑えるもの、季節感を大切にした、平等で平和を祈る世界と認識し直した。

 それでも着物を着たり、お茶会に行ったり、茶杓を手づくりしたりするには至らず、せいぜい和菓子屋さんを覗いて、気に入った和菓子を購入するくらいである。お菓子の種類は、かなりインプットされたかもしれないな。