「あなたは神を信じますか?」
そう白人宣教師(?)の兄ちゃんから問われたことがある。
わたしは常々思うのだが、これの意味がよくわからない。
今回はこれの意味を非キリスト教徒の立場から考えてみようかと思う。
あらかじめ断っておくが、わたしは不信心な仏教徒ではあるけれども確固とした無神論者という立場ではない。
それに仏教徒とは言っても、新興宗教やとかカルトとか創ではないからね。
まず思うこと。
神の『何を』信じますかと問うのか?
どっちかというと、
「あなたは神を信じますか?」
というより
「あなたは神が実在すると思いますか?」
と問うたほうが良いような気がする。
いや、彼ら的には神の実在は自明であって、神が実在すると言っている彼らの主張を信用するかどうか、という意味なのだろうか。
仮にYES以外の答えがありうると思うならば、やっぱり「あなたは神を信じますか?」と問うのは不適切な気がする。
まず第一に神とは何だ?
人間はそれを説明するのに何千年もかけているが、いまだに説明しきらない。
逆に
「恐れ多くも人間には説明しきれるものではない」
という説明に終始しているものすらある。
わたしはそれでは説明したことにはなっていないと思う。
そもそも
「人間とは何だ?」
という問いにすら答えられないので、神が何かという妥当な説明をするのは当面のあいだムリだろうな。
これはあくまでわたしが思うところなのだが・・・
キリスト教よろしく一神教の神みたいな超越神がいたとしよう。
その神は人間臭い喜怒哀楽や倫理観を持ち合わせるだろうか?
人間は喜怒哀楽に個体差があるし、倫理観にしてはそれこそ個体差が甚だしい。
そもそも人間の持つ喜怒哀楽や倫理観というのは、ホモサピエンスというハードウエアがあるがゆえに、そしてそれに人間が入っているがゆえに存在するものだと思う。
もっと言うと、ホモサピエンスというハードウエアに人間を入れなければ、それは人間として機能しないのではないかと思っている。
つまり、例えば人間をPCに移植できたとすると、それはカンタンに人間の精神構造からかけ離れていくであろうと考えているわけだ。
これは幽霊のようにホモサピエンスというハードウエアから人間単体の分離に成功したとしても同じことで、だから幽霊がいたとしても一般的には人間臭いものではなかろうと考える。
(ちなみにわたしは、わたしの体に入っているソフトウエアこそが「わたし自身」だと考えている)
そこへきて超越神である。
あたりまえだが超越神はホモサピエンスというハードウエアには入っていない。
そういう意味から、超越神は人間臭い喜怒哀楽や倫理観を持ち合わせるとは考えにくい。
だから超越神がいたとしても、すべてにおいて人間の味方であり常に人間を見張っているというふうに考えるべきではなく、どちらかというとインド神話のように人間に関係なく神様の都合により勝手にウロついていると考えたほうが自然な気がするのだ。
そういったように考えていると、
「あなたは神を信じますか?」
と言われても
「神がいるかいないかで言えば多分いると思うけど、信じるか信じないかで言えば答えに困るとしか言いようが無い」
としか答えられないのである。
このあと、さきの白人宣教師(?)の兄ちゃんから
「日本人は先祖を大切にしますが、それはなぜですか?」
と、こちらの宗教観を聞かれた。
その場でとっさに
「欧米では神は1人しかいない。けど日本では死んだら神になる。だから先祖を大切にするんだ」
と答えた。
実際には・・・
仏教的には人が死んだら輪廻転生が続くわけで、生きているうちに善行をつんで真理にたどり着いたら輪廻転生から開放されて仏になれる。
だれか人が死んだら、きっとその人は善行をつんで真理にたどり着いたのだろうということにして、そして仏として祭るのである。
そしてこれを説明するには多神教における神の意味を説明しなければならないし、そして神と仏の概念の違いも説明しなければならない。
わたしが白人にそれを解るように説明できるとも思えなかったし、その場でとっさに口から出るとは思えなかったので、めんどうだからそうやって答えておいた。
兄ちゃんは
「それは正しくないのですが、意味はわかりました」
と言った。
神は1人しかいないという異教徒の理解が間違っていると言っているのか、死んだら神になるという仏教の教えがキリスト教的に正しくないと言っているのか、そこまでは不明だが。
まあ、異教徒との宗教論争の不毛さはきっと宣教師のほうが良く知っているだろう。
宗教論争はそんなところで終わりだった。