教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

現実をどこまで仮想しようか

2009-07-23 00:00:29 | オタネタ全般
某氏のblog(※1)にバーチャルリアリティーの記事がのっていた。
常々こういう命題には関心はあったので、ちょうどいい機会だから当blogもつられて書いてみることにした。



かつていにしえのファミコン時代、ゲームやグラフィックはリアルであればリアルであるほど良いとされた。
CPUの演算能力を強化し、記憶容量を増やし、どんどんリアルなものが再現できるようになっていった。
よりリアルなものはより市場に受け入れられた。

しかし!

最もリアルなものが最も優れているのだろうか?
リアルさの追求以外の選択肢もありうるのではないだろうか?

あるとき、そのことにハタと気付いたものもいた。
今日はそのゲームの進化の軌跡について記したい。



たとえばギャルゲー。
よりリアルにするには実写の女優を使えば良い。
かつてそういうチャレンジャブルな作品はあった。

たとえば「みつばち学園」がそうだ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm147685

作者には少し失礼なのだが・・・
現在の感覚からしてかなりキモチガワルイのもそうだが、当時の感覚からしても到底ギャルゲーとして受け入れられるレベルのものではなかった。

当時を知るものの多くに
「やっぱ実写はダメだな・・・」
という印象を刻みつけ、そのまま闇に葬り去られた。
みつばち学園はハドソンの黒歴史のなかでも最強クラスに位置するのではなかろうかと思う。
当時ゲーセンの脱衣ゲーにもこれ系統の実写モノがいくつかあったように思うが、どれ1つとして有名になることはなく闇に消えた。

それに対し、もっとマシンパワーをふんだんに使って、いいところだけリアルにしようとした作品もある。
たとえばアイドルマスターがそうである。
完全に3D化しているが、実写さながらのリアルさを最重要項目として追求したキャラではない。
身振り手振りは実写さながらにリアルだが、ちゃんとアニメ絵のまま3D化していて実写のイヤなところは極力排除した。
そして商業的にも大成功した。



レースゲームでもそれはいえる。
この場合、見た目ではなくゲームシステムのほうの話になる。

ホンモノの車の場合、無理をしたらカンタンにスピンするし、いったん滑ったらシロウトにはコントロール不能になる。
ぶつけ所が悪かったらカンタンに動かなくなる。(たとえばラジエータから漏れ出したら、とりあえず走るがすぐオーバーヒートして固まる)

ゲームシステムでそれを忠実に再現したらどうなるか。
ちょっとでも変なことをしたらすぐコントロール不能になってコースアウトする、またはぶつかって大破する。

これは面白いだろうか。
実は面白くない。
ほとんど全てのレースゲームでは、操作をミスったら少しのペナルティーを科せられるだけでそのままプレイ続行ができるようになっている。
たとえばスピンしそうになったら逆ハン切れば立ち直るとか。
なかには可能な限りリアルにしたというレースゲームも稀に見るが、その手のゲームが売れたという話は聞いた事がない。

つまりレースゲームはカンペキに現物さながらにするのではなく、見た目やドリフト時の爽快感は実写さながらに、現物のコントロール不能になりやすいイヤなところは移植しない、そんな感じに作るのが最適なのである。



ガンシューティングとかもそうだ。
ガンシューティングの醍醐味は、スタローンやシュワルツネッガーの映画よろしく、悪いヤツらを次々にブチ殺すことにあるだろう。
もちろんわたしは悪いヤツをブチ殺した経験はないが、こういうところはきっと現物さながらに作られているに違いない。

ガンシューティングを現実さながらのリアルさにしたときの面白くないところは何だろうか。
ホンモノのガンシューティングのイヤなところは何だろうか。

案外ぱっとは気付かないかもしれないが、ものすごくイヤなところがある。
それは、殺人を犯すということだ。

もちろんやったことはないが、自分で銃を持って人を撃ち殺したら、それこそ死にたくなるほど後味が悪いに違いない。
だからこそ、そういうところはガンシューティングには移植されない。



これは重要な意味を表している。
「リアルさ至上主義でよいのか?」
という問いに対し、明確にNo!と市場は言ったのだ。

リアルさだけを追及する地点は遥かな過去に通り過ぎた。
だから我々は
「ゲームが現実と区別がつかないくらいリアルになった」
というのではなく
「ゲームは現実なみのリアルさを追求した地平線のさらに向こう側へ到達しようとしている」
と言うべきなのだ。

さて、その地平線の向こう側へ到達したのち、いったいそこに何が待っているのだろうか?

それは難しい。
だが手掛かりはなくはない。
少ない手掛かりからどうなるかを考察してみよう。



1つめの例のギャルゲー。
べつにこれにハマりすぎたとしても問題ない。
わたしのように
「現物の姉ちゃんより絵に描いた姉ちゃんのほうが好きだ」
とか言いだして、日本の人口統計に悪影響を及ぼす程度のプチ愚か者が増産されるくらいがせいぜいだ。

2つめの例のレースゲーム。
これもハマりすぎたとしても問題ない。
わたしのように高いカネ出して燃費の悪いスポーツカー買ってしまう程度のプチ愚か者が増産されるくらいがいいとこだ。
もっとハマったとしても、サーキットに通うとか、峠にドライブに行くとか、せいぜいそんなもんだ。

回りまわって他人をまきこんだ交通事故が増えるのかもしれないが、きっと風がふけば桶屋がもうかるくらいの相関度だろうし、そんな直接的な因果関係もハッキリしないようなものまで憶測で管理べきではない。
飲酒運転の罰金を増額したほうがよっぽど交通事故を減らすのにやくにたつ。

3つめのガンシューティング。
ガンシューティングに限らず、ハリウッド系のガンアクションものも含む。
これは危惧するものがある。
これをやってサバゲーに興味を持つくらいなら問題ないし、だれかを打ち殺してみたいと思うようなバカはそうそういるものではない。
だが、そういうバカは0人にはならない。
バカは人を打ち殺したときの爽快感だけを憶えて帰る。

このまま野放しだったらどうなるか?
恐らく、殺人の手はずについてさらにリアルになっていく。
だが殺人のキモチワルイところは一切移植されない。
このままだと、そうとは知らずに子供の頃から殺人の手はずを学んでしまうことになる。
まあ分別ある大人が片手間に遊ぶには問題ない。
人体のどこを刺したら、どんなふうに血がでて、どんなふうに苦しんで死ぬか、それを子供が映像で仮想体験するのはいかがなものか。
人を撃ち殺して動かなくさせることがどれだけ爽快かを、ゲームや映画でとうとうと語られるのはいかがなものか。

ほとんどの人はそうではないのは間違いないところだが、ほとんどに含まれない人がいるかぎり、何かしら対策を講じたほうが良いのかもしれない。
とはいえ、単に血がでるシーンを無くせばいいとかそんなカンタンにやれそうな規制で高い効果を得られるとも思えないので、規制の方法はかなり議論の余地がある。
日本人には血を見たら興奮するという性癖の持ち主はかなり少ないと思うが、少なくとも年齢制限には大賛成だ。



ちょいと矛盾するかもしれないが・・・
わたしは年齢制限には大賛成だが、全面規制には大反対である。

血を見たら興奮する人たちにとって、ガンシューティングやハリウッド系のガンアクションものは良いガス抜きになっているかもしれないからだ。
たとえば風俗を規制しすぎたら性犯罪が増えるのと同じことである。
(だからわたしはエロゲ規制には反対だ。そもそも性犯罪率が劇的に低い日本に対し、性犯罪増長でどうのこうのとか因縁つけられる筋合いはない。そのように因縁つけて愛好者全員を人格否定した民主党副代表の円より子の意見には大反対。)

人間の欲求にはガマンして耐えることはできるが、発生しないように元から絶つことは決してできない。
だから何かを規制して犯罪に走るバカが自然発生するのを防止しようとしても、それは確実に失敗する。
そもそもアメリカの禁酒法が大失敗だったことを認めないひとはいないだろう。

ガンシューティングやハリウッド系のガンアクションものはバカを増産する手助けをしてもいる。
だがガンハッピーは潜在的にガンハッピーなので、それが無くなるといままで我慢していた人がホンモノの犯罪者に切り替わる。
仮にハリウッド映画にて誰かが殺されて血が滴り落ちるシーンを見てオ○ニーするひとがいたとしたら、ちょっとそんな人には近づきたくはないが、その人が犯罪に走るのを防止できているという点でハリウッド映画は存在する意義はあったのだ。

我々は自分から見たらイヤなものでも、どうにか折り合いをつけて生きていくしかないのである。

我々は現実のリアルさを超越した仮想現実の地平線の向こう側へたどり着き、そこで現実でおこるとマズいものをひたすらそこで消費させるよう、なおかつ現実でおこるとマズいことになる隠された事実もそこで同時に理解していけるよう、そのように造られているのが理想である。
決して現実に波及しそうだからといって仮想現実を全面撤廃するような対策では、それにより最も愚かな結果を招くであろう。



【※1 某blog】
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