私にも周りを指導する役回りが来るようになってきたところ、最近職場の休み時間に雑談するうち、勉強術について何だか考えが整理されたように思ったので、簡単にまとめてみたい。
体験としての記憶
会議や聴取等を記録、整理して次の検討に進む作業は日常的にある。学生時代も講義をノートにとることがあった。当時ノートの取り方について別のブログで記事を書いたことがあるように、このような作業は得意なほうだと思っていて、実際、速さも含め驚かれることが多い。自分の手控えのメモを参考に渡してまとめてもらうことも多いのだが、私のメモには、最初から文章になっている、近辺に感想などが書かれている、という特徴がある。
最初から文章になっているというのは、話されたことを一字一句漏らさず書くというのではなく、話の趣旨や要旨をその場で考えながら記録するということである。これだと話を漏らしてしまうのではないかと思われるかもしれないが、聴くと同時に考えた体験として残っており、記載から当時聴いた状況を再現して想起しやすい。分かりにくかった部分はどういうことかと考えた過程、合わせて思ったことなど、感想を近辺に書くことは、この助けになる。このように情報の伝達の場ではなく、体験の場として捉えるのである。話題の事項にある程度の予備知識は必要であるが、むしろ最低限の事前準備の範囲を見当つけやすい。
私も高校時代までは英語のリーディング教材の文章をノートに丸写しするなど、暗記重視の勉強の仕方をすることがあった。しかし大学でこのようなやり方をしても大量の情報を捌ききれないし、創造性や価値判断を磨くなど最終的に求められる力との関係でもやり方を変える必要があると思い、変えていった。大学の講義では毎回座る席を変えており、これは毎回新鮮な体験として受け止めたいという一面があった。講義は静かな思考の場として貴重な時間であった。
脳の構造的にも子供の頃は丸暗記に適するが、だんだんエピソード記憶が優位になるという変化があるという。大学以降はこのような変化に対応するかがひとつの分岐点であるように思う。なまじっか高校までの成功体験があると、昔のように、と固執しやすい。年を重ねると出来なくなることも増えていくが、基本的に、昔を再現したいと考えるよりも、今を前提に将来に向けてできるだけ良くしていきたいと考える方が間違いがないように思う。
周辺まで興味を持つ
もうひとつ話題になったことに、参照すべき資料がすぐに出てくる、どこに何が書いてあるのか頭に入っているのか、と訊かれたことがあった。文献調査等も私の中では得意な方だと思っている。だが意識的に文献や資料を憶えようとすることはしていない。私が思い巡らせてるのは、ここでも「確か以前あのことを調べたとき、あんなことが書いてあったなぁ」という体験の積み重ねである。そして、このように体験として残りやすくするには、周辺の部分も目を通して、ここも関係しないか、役立てられないか、など考えを巡らすことが有用である。自分の仕事の周辺に興味を持つことは、周りの方の仕事にも目が行きやすくなり、組織やチームとして過誤防止にも役立つとの利点がある。
よくインプットとアウトプットという言葉をよく聞くが、正直に言って人を機械に見立てるやり方で嫌いである。人の作りに合わないから苦行となり、そこをモチベーションアップのため焚き付けるという作業を繰り返すことになる。脱落しなければ成果は得られようが、タイプとしては原則論に固まり柔軟性に欠ける感じにならないか、と思う。私の学生生活には、あのときの議論はここで使えないか、応用できないか、など図書館や書店で本を探索しつつ思いを巡らせ、仲間と話をする、そんないい思い出がある。
課題と克服
こんな風に簡単にまとめてみたが、私にもまだまだ足りない部分が多く、改善に取り組んでいる。そのひとつは、上で述べたことと引き換えの一面があるのだが、瞬発力で早く柔軟な対応を考えるにはいいが、長い期間を要するものを計画的かつ着実に進めることには苦労する部分が多い、ということだ。ふと着想したことに気が向いてしまいやすいし、苦行を乗り切るガッツを持ち続けにくい。学生時代も論文まで行けなかったし、趣味の創作も長編には苦労している。とにかく着手をすること、具体的で実現可能な目標を小分けに作っていくことなど解決策をもって取り組んでいる。だが根本的には、自分一人の人生でどこか執着に乏しいところから、家族の人生に責任を負い、またかけがえのない支えと思えるものを得ることが解決なのかなと思っている。
体験としての記憶
会議や聴取等を記録、整理して次の検討に進む作業は日常的にある。学生時代も講義をノートにとることがあった。当時ノートの取り方について別のブログで記事を書いたことがあるように、このような作業は得意なほうだと思っていて、実際、速さも含め驚かれることが多い。自分の手控えのメモを参考に渡してまとめてもらうことも多いのだが、私のメモには、最初から文章になっている、近辺に感想などが書かれている、という特徴がある。
最初から文章になっているというのは、話されたことを一字一句漏らさず書くというのではなく、話の趣旨や要旨をその場で考えながら記録するということである。これだと話を漏らしてしまうのではないかと思われるかもしれないが、聴くと同時に考えた体験として残っており、記載から当時聴いた状況を再現して想起しやすい。分かりにくかった部分はどういうことかと考えた過程、合わせて思ったことなど、感想を近辺に書くことは、この助けになる。このように情報の伝達の場ではなく、体験の場として捉えるのである。話題の事項にある程度の予備知識は必要であるが、むしろ最低限の事前準備の範囲を見当つけやすい。
私も高校時代までは英語のリーディング教材の文章をノートに丸写しするなど、暗記重視の勉強の仕方をすることがあった。しかし大学でこのようなやり方をしても大量の情報を捌ききれないし、創造性や価値判断を磨くなど最終的に求められる力との関係でもやり方を変える必要があると思い、変えていった。大学の講義では毎回座る席を変えており、これは毎回新鮮な体験として受け止めたいという一面があった。講義は静かな思考の場として貴重な時間であった。
脳の構造的にも子供の頃は丸暗記に適するが、だんだんエピソード記憶が優位になるという変化があるという。大学以降はこのような変化に対応するかがひとつの分岐点であるように思う。なまじっか高校までの成功体験があると、昔のように、と固執しやすい。年を重ねると出来なくなることも増えていくが、基本的に、昔を再現したいと考えるよりも、今を前提に将来に向けてできるだけ良くしていきたいと考える方が間違いがないように思う。
周辺まで興味を持つ
もうひとつ話題になったことに、参照すべき資料がすぐに出てくる、どこに何が書いてあるのか頭に入っているのか、と訊かれたことがあった。文献調査等も私の中では得意な方だと思っている。だが意識的に文献や資料を憶えようとすることはしていない。私が思い巡らせてるのは、ここでも「確か以前あのことを調べたとき、あんなことが書いてあったなぁ」という体験の積み重ねである。そして、このように体験として残りやすくするには、周辺の部分も目を通して、ここも関係しないか、役立てられないか、など考えを巡らすことが有用である。自分の仕事の周辺に興味を持つことは、周りの方の仕事にも目が行きやすくなり、組織やチームとして過誤防止にも役立つとの利点がある。
よくインプットとアウトプットという言葉をよく聞くが、正直に言って人を機械に見立てるやり方で嫌いである。人の作りに合わないから苦行となり、そこをモチベーションアップのため焚き付けるという作業を繰り返すことになる。脱落しなければ成果は得られようが、タイプとしては原則論に固まり柔軟性に欠ける感じにならないか、と思う。私の学生生活には、あのときの議論はここで使えないか、応用できないか、など図書館や書店で本を探索しつつ思いを巡らせ、仲間と話をする、そんないい思い出がある。
課題と克服
こんな風に簡単にまとめてみたが、私にもまだまだ足りない部分が多く、改善に取り組んでいる。そのひとつは、上で述べたことと引き換えの一面があるのだが、瞬発力で早く柔軟な対応を考えるにはいいが、長い期間を要するものを計画的かつ着実に進めることには苦労する部分が多い、ということだ。ふと着想したことに気が向いてしまいやすいし、苦行を乗り切るガッツを持ち続けにくい。学生時代も論文まで行けなかったし、趣味の創作も長編には苦労している。とにかく着手をすること、具体的で実現可能な目標を小分けに作っていくことなど解決策をもって取り組んでいる。だが根本的には、自分一人の人生でどこか執着に乏しいところから、家族の人生に責任を負い、またかけがえのない支えと思えるものを得ることが解決なのかなと思っている。
1.便乗値上げ禁止法
マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』早川書房・2010年
ベストセラーとなっているこの本、9月初めに入手したのだが、まだ最初の十数ページまでしか読んでいない。身辺が慌ただしくなったのもあるが、最初の便乗値上げ禁止の話から色々と考えてしまった、というのが理由になる。ひとまず考えたことをまとめて、次に読み進めていきたいと思う。
便乗値上げ禁止の話は、次のようなものだ。2004年にハリケーン被害が生じたとき、復旧や生活必需品の価格が跳ね上がり、売り手側への非難が高まり、便乗値上げ禁止法が執行された。しかしこれには経済学者から批判が出て、需要と供給により決まる高い価格に従うことによって商品やサービスを提供するインセンティブが増し、はるかに多くの利益をもたらすと主張がされた。法の執行者からは、良心に照らして不当である、正常な自由ではない、と再反論がなされた。
この問題についてサンデルは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進という3つの理念が中心になっていると整理する。執行者からの再反論が美徳をめぐる議論であるとし、売り手の強欲は悪徳であり、この悪徳を禁止するべき主張であると評価する。そして、美徳をめぐる議論は多くの人の感覚に合致するものではあるが、法律に入り込むとなると、公権力が美徳について価値判断をするため、懸念が生じるものだと説明がされる。
これについて、私は便乗値上げ禁止法賛成の立場を美徳の問題として位置付けることに違和感を覚えた。普段法学をやっていて、法レベルの秩序そのものの話ではないかと思ったからだ。どういうことかというと、便乗値上げに対する反感は応報感情の発露であり、美徳や道徳にとどまるものではなく法制度上にも組み込まれているものではないか、ということである。
2.応報の原理
2.1.応報とは
応報とは何であろうか。辞書的には、「善悪の行いに応じて吉兆・禍福の報いを受けること」(広辞苑)という。端的に言えば「行為の善悪と結果の善悪の結びつき」かみ砕いて言えば「よい行いにはよいことがあり、悪い行いには悪いことがある」ということである。私たちは普段の行動でこの観点から自己を統御しているだろうし、他人に対しても行動を決めている。心理学では好意の返報性、感情一致の原則というものがあるらしく、これは一対一の対人関係における応報の考え方の反映のように見える。無意識レベルでの心理傾向にまでなっていると言えるだろう。
個々の生命体の生死に全く配慮しない自然界の厳しい掟に、生物は立ち向かってきた。生存手段として群れを作った時点から、社会性がプログラムされる。群れの構成員どうし生存を確保するためにうまく協力するためには、秩序が必要となり、損得による動機づけが行われるようになる。このように秩序づけは社会の維持のためにあるが、個人にとっても偶然性に左右される不安を減じることができてメリットがある。こうして、よいことにはよいことで返し、悪いことには悪いことで返すという仕組みが作られていく。応報は秩序の根本であると言えるだろう。多くの宗教には、応報の仕組みがある。神や天国・地獄や前世・来世などの概念によって、現実の行動に秩序をもたらそうとしている。
2.2.応報の危機の四類型
この応報の仕組み通りにいかない、秩序感が危機になる場面としては、次の4つが考えられる。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。―これは、頑張りが必ずしも報われない、人生の辛さとして中心的に語られるものである。しかし、社会が誰にでも報いを用意できるほど豊かではないことは自覚されており、また、(2)で見るように、よいことをしなくてよいことがあるとは期待できないので、我慢強くよいことをしていこうという態度に到達することになる。仕方のないこととして、ほとんどの人は個人レベルでこの危機に対処している。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。―これは、偶然のこと、宝くじで大金を当てた人や、親の七光りなどでいいご身分になっている場面などが想起できる。このような場面における、他者からの転落劇への期待はすさまじいものがある。転落の話は好んで語られ、多くの人が転落に救いを差し伸べないという不作為によって転落に加担する。賭博は現行法でも違法であり、公的に管理されたもののみ認められている。判例は美風を害するといった点を規制の中心的な理由としているが、大きな反対論がある。この議論状況を見ても、自由の文脈からは応報をうまく取り込めないと言うことができる。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。―悪い行為の典型は犯罪である。刑法の目的の第一は応報であり、この事態を是正するため、刑罰という悪いことをもたらすものである。ときには悪いことをした人の命を奪ってでも(死刑)なくそうとする強い力が働いている。民事法においても、責任追及するかしないか相手方の意思にゆだねられているが、いざ追求するとしたときは、法は支えとなる。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。―これが本件で特に問題となる場面である。病気による苦痛は人の心を揺るがす最も大きなものである。差別の問題もあてはまる。便乗値上げ禁止法でいうと、ゆくゆくは全体の利益になると言っても、その過程のミクロレベルにおいて、悪いことをしていない被災者が通常より多くの金銭的負担という悪いことを強いられる事態を生じさせることが、許容されるべきでないということである。したがって、値上げする者の悪徳への攻撃と即断するべきではなく、被災者に不利益を与えてはならないという(4)の感覚がまず存在し、それを破る者に対して(3)の感情を掻き立てる、という構図であると考える。
(4)の事態を是正するために人類は多くの努力をしていて、医学が最たるものであるが、法の領域では社会保障政策が中心である。すべてを本人の責めに帰すことができないことで(自己責任に還元できないことで)、生活が脅かされるという不利益を生じさせることを是正するものである。病気に対しては健康保険制度があり、老齢の生活資金欠乏には年金制度がある。病気と老齢のリスクが個人での備えに任せられないとされているのである(この価値判断は国によって異なる;アメリカと健康保険)。障害への社会保障もある。生活保護については、生存権保障の観点から自己責任と評価されてしまう方にも保障が及ぶ場合があり、これに対する世間の反感には非常に強いものがある。
このように、是正のための方策として、(A)社会保障政策による対応があるが、ほかに(B)個人の生活基盤となる私法上の契約関係に直接介入する、という対応がありうる。便乗値上げ禁止の場面で言えば、被災者に購入資金を公的資金から援助することが(A)による対応であり、便乗値上げ禁止法が(B)による対応であると言える。この観点から現在の民事法を眺めてみると、(B)の現れと言える契約法理を見つけることができる。
3.契約法理への現れ(※過去記事の再論でもあります→労働契約の社会保障機能)
3.1.信頼関係の法理
家屋の賃貸借契約においては、相互の信頼関係を破壊するに至る程度の不正があるとは言えない場合には債務不履行解除権の行使が信義則上制限されるという信頼関係の法理というものが判例上確立している。この信頼関係の法理は、賃借人の債務不履行があっても信頼関係を破壊しない程度の不履行であれば解除できない、付随義務違反のような行為でも信頼関係が破壊される程度であれば解除できるという二つの側面があるとされている(内田・民法Ⅱ第2版231頁)。
信頼関係法理の根拠としては、賃貸借契約が信頼関係に基づいていること、及び、継続性があること、が挙げられている。ここで対比として企業と弁護士間の顧問契約を見てみると、信頼関係に基づき継続性もあると言えるが、賃貸借契約と同様の法理を適用する必要があるとは思われないであろう。これは、質のよい供給が十分にあること、関係が切れても企業として基盤が揺らぐわけではなく、依存関係がないことに因るだろう。こうみると、「信頼関係」「継続性」というワードは絶対的ではないと言えるだろう。継続性は、当事者の一方が生活の基盤として依存し、打ち切られれば大きな不利益を生む状況を生みやすいひとつの要素と言うことができる。
「信頼関係」についてみると、当事者の主観のみで考えれば、賃貸人が怒り心頭で訴訟に至っている時点で信頼関係はもはやなくなっている。法理においては、不履行の時点で賃借人にどの程度の不正があったのかを厳密に債務の本旨の内容にこだわらず、客観的に(外の視点から)検討する、という判断構造であると言える。これは、家屋を奪われて生活が破壊されるという「悪いこと」を賃借人に負わせていいほど悪いことをしたのか、を社会の目から見るという上記(4)の応報の原理の現れと位置づけることができる。「信頼関係」は、応報による判断を個人の合意という民法の原則に引き直すための概念と考えられる。
3.2.法理の射程、制度的契約
信頼関係の法理については、不動産賃貸借に限らず、特に、当事者間の経済的依存関係が強い場合において一般的な射程を有していると指摘されている(前掲・内田232頁)。フランチャイズ契約が代表格として挙げられている。個人的には、労働契約も当てはまり、特に整理解雇の法理は基盤を一にしていると考えている。経済的依存関係が強いからと言って法理が常に当てはまるわけではなく、経済状況・社会保障政策の状況から、打ち切られたあるいは大幅な減額をされた際に、社会秩序の感覚に触れる程度まで生活上の不利益が生じると言える場合に、契約関係に(4)の応報の原理が適用され、射程が及ぶことになると考えられる。これがあてはまる契約について、「社会保障機能のある(を負わされる)契約」と言えないだろうか、と個人的に考えている。
最近では、公共サービスの民営化に合わせて制度的契約という概念が提唱されている。個人間の個別合意がかえって望ましくない、という程度にまで達している契約とされている。保育所の契約関係など、供給側の都合での頻繁な変更・解消は子供の教育上大きな不利益と認識されるだろうし、企業年金契約も公的年金制度の補完としての位置づけであり高齢者の生活保障をしているものである。先ほど信頼関係の判断構造において(a)当初の合意内容から離れた判断がされている、(b)当事者間の主観があまり重視されない、を指摘したように、すでに個人間の合意から離れた判断が組み込まれている。これは契約が社会秩序の一部に取り込まれていることからくるものであって、制度的契約論もこの方向性のひとつとして考えられるのではないか、と思う。
※ここから解雇規制緩和や企業年金減額・打切りの事例を検討しようと思いましたが挫折しました。これじゃ新しいこと何もいってないじゃん。。
4.まとめ
以上をまとめてみよう。行為の善悪と結果の善悪を結びつける応報の仕組みは社会秩序の根本である。その中でも、「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態を防ぐことは社会秩序維持のために重要なことである。ある施策が最終的に全体の利益になるとしても、その過程でこの事態を生じさせてしまう場合には許容されにくい。これは美徳の問題にとどまるものではなく、法にも現実に反映されているものである。
「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態への対応策として社会保障政策と契約への介入の二種類がある。契約への介入がされた場合には、個人の合意で説明が尽くせない法理が発達することになる。それは社会保障政策としての役割を背負わされているからである。契約への介入がされるのは、経済・社会政策を含めてみたとき、契約の変更・解消により生じる不利益が看過できない程度であるときである。
5.おわりに
多分野をミックスした考察なので、まだ着想の段階、グダグダで恥ずかしい、今後突き詰めることが山ほどあると感じている。特に自由主義の理念との関係を考察してみたい。サンデルの正義の本を読み進めれば、自然と答えが出るかもしれない。「もう最後まで読んだ!こういうことだよ。」「自分はもっと詳しいぞ、ここが間違ってるぞ」「こんな本読んだらいいよ」「別の知識や体験を持ってる、こういう感じじゃないかな」といった感じで様々なご教示をいただけたら、と思っている。コメント欄、メルフォ、ツイッター等でよろしくお願いいたします。
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マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』早川書房・2010年
ベストセラーとなっているこの本、9月初めに入手したのだが、まだ最初の十数ページまでしか読んでいない。身辺が慌ただしくなったのもあるが、最初の便乗値上げ禁止の話から色々と考えてしまった、というのが理由になる。ひとまず考えたことをまとめて、次に読み進めていきたいと思う。
便乗値上げ禁止の話は、次のようなものだ。2004年にハリケーン被害が生じたとき、復旧や生活必需品の価格が跳ね上がり、売り手側への非難が高まり、便乗値上げ禁止法が執行された。しかしこれには経済学者から批判が出て、需要と供給により決まる高い価格に従うことによって商品やサービスを提供するインセンティブが増し、はるかに多くの利益をもたらすと主張がされた。法の執行者からは、良心に照らして不当である、正常な自由ではない、と再反論がなされた。
この問題についてサンデルは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進という3つの理念が中心になっていると整理する。執行者からの再反論が美徳をめぐる議論であるとし、売り手の強欲は悪徳であり、この悪徳を禁止するべき主張であると評価する。そして、美徳をめぐる議論は多くの人の感覚に合致するものではあるが、法律に入り込むとなると、公権力が美徳について価値判断をするため、懸念が生じるものだと説明がされる。
これについて、私は便乗値上げ禁止法賛成の立場を美徳の問題として位置付けることに違和感を覚えた。普段法学をやっていて、法レベルの秩序そのものの話ではないかと思ったからだ。どういうことかというと、便乗値上げに対する反感は応報感情の発露であり、美徳や道徳にとどまるものではなく法制度上にも組み込まれているものではないか、ということである。
2.応報の原理
2.1.応報とは
応報とは何であろうか。辞書的には、「善悪の行いに応じて吉兆・禍福の報いを受けること」(広辞苑)という。端的に言えば「行為の善悪と結果の善悪の結びつき」かみ砕いて言えば「よい行いにはよいことがあり、悪い行いには悪いことがある」ということである。私たちは普段の行動でこの観点から自己を統御しているだろうし、他人に対しても行動を決めている。心理学では好意の返報性、感情一致の原則というものがあるらしく、これは一対一の対人関係における応報の考え方の反映のように見える。無意識レベルでの心理傾向にまでなっていると言えるだろう。
個々の生命体の生死に全く配慮しない自然界の厳しい掟に、生物は立ち向かってきた。生存手段として群れを作った時点から、社会性がプログラムされる。群れの構成員どうし生存を確保するためにうまく協力するためには、秩序が必要となり、損得による動機づけが行われるようになる。このように秩序づけは社会の維持のためにあるが、個人にとっても偶然性に左右される不安を減じることができてメリットがある。こうして、よいことにはよいことで返し、悪いことには悪いことで返すという仕組みが作られていく。応報は秩序の根本であると言えるだろう。多くの宗教には、応報の仕組みがある。神や天国・地獄や前世・来世などの概念によって、現実の行動に秩序をもたらそうとしている。
2.2.応報の危機の四類型
この応報の仕組み通りにいかない、秩序感が危機になる場面としては、次の4つが考えられる。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。―これは、頑張りが必ずしも報われない、人生の辛さとして中心的に語られるものである。しかし、社会が誰にでも報いを用意できるほど豊かではないことは自覚されており、また、(2)で見るように、よいことをしなくてよいことがあるとは期待できないので、我慢強くよいことをしていこうという態度に到達することになる。仕方のないこととして、ほとんどの人は個人レベルでこの危機に対処している。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。―これは、偶然のこと、宝くじで大金を当てた人や、親の七光りなどでいいご身分になっている場面などが想起できる。このような場面における、他者からの転落劇への期待はすさまじいものがある。転落の話は好んで語られ、多くの人が転落に救いを差し伸べないという不作為によって転落に加担する。賭博は現行法でも違法であり、公的に管理されたもののみ認められている。判例は美風を害するといった点を規制の中心的な理由としているが、大きな反対論がある。この議論状況を見ても、自由の文脈からは応報をうまく取り込めないと言うことができる。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。―悪い行為の典型は犯罪である。刑法の目的の第一は応報であり、この事態を是正するため、刑罰という悪いことをもたらすものである。ときには悪いことをした人の命を奪ってでも(死刑)なくそうとする強い力が働いている。民事法においても、責任追及するかしないか相手方の意思にゆだねられているが、いざ追求するとしたときは、法は支えとなる。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。―これが本件で特に問題となる場面である。病気による苦痛は人の心を揺るがす最も大きなものである。差別の問題もあてはまる。便乗値上げ禁止法でいうと、ゆくゆくは全体の利益になると言っても、その過程のミクロレベルにおいて、悪いことをしていない被災者が通常より多くの金銭的負担という悪いことを強いられる事態を生じさせることが、許容されるべきでないということである。したがって、値上げする者の悪徳への攻撃と即断するべきではなく、被災者に不利益を与えてはならないという(4)の感覚がまず存在し、それを破る者に対して(3)の感情を掻き立てる、という構図であると考える。
(4)の事態を是正するために人類は多くの努力をしていて、医学が最たるものであるが、法の領域では社会保障政策が中心である。すべてを本人の責めに帰すことができないことで(自己責任に還元できないことで)、生活が脅かされるという不利益を生じさせることを是正するものである。病気に対しては健康保険制度があり、老齢の生活資金欠乏には年金制度がある。病気と老齢のリスクが個人での備えに任せられないとされているのである(この価値判断は国によって異なる;アメリカと健康保険)。障害への社会保障もある。生活保護については、生存権保障の観点から自己責任と評価されてしまう方にも保障が及ぶ場合があり、これに対する世間の反感には非常に強いものがある。
このように、是正のための方策として、(A)社会保障政策による対応があるが、ほかに(B)個人の生活基盤となる私法上の契約関係に直接介入する、という対応がありうる。便乗値上げ禁止の場面で言えば、被災者に購入資金を公的資金から援助することが(A)による対応であり、便乗値上げ禁止法が(B)による対応であると言える。この観点から現在の民事法を眺めてみると、(B)の現れと言える契約法理を見つけることができる。
3.契約法理への現れ(※過去記事の再論でもあります→労働契約の社会保障機能)
3.1.信頼関係の法理
家屋の賃貸借契約においては、相互の信頼関係を破壊するに至る程度の不正があるとは言えない場合には債務不履行解除権の行使が信義則上制限されるという信頼関係の法理というものが判例上確立している。この信頼関係の法理は、賃借人の債務不履行があっても信頼関係を破壊しない程度の不履行であれば解除できない、付随義務違反のような行為でも信頼関係が破壊される程度であれば解除できるという二つの側面があるとされている(内田・民法Ⅱ第2版231頁)。
信頼関係法理の根拠としては、賃貸借契約が信頼関係に基づいていること、及び、継続性があること、が挙げられている。ここで対比として企業と弁護士間の顧問契約を見てみると、信頼関係に基づき継続性もあると言えるが、賃貸借契約と同様の法理を適用する必要があるとは思われないであろう。これは、質のよい供給が十分にあること、関係が切れても企業として基盤が揺らぐわけではなく、依存関係がないことに因るだろう。こうみると、「信頼関係」「継続性」というワードは絶対的ではないと言えるだろう。継続性は、当事者の一方が生活の基盤として依存し、打ち切られれば大きな不利益を生む状況を生みやすいひとつの要素と言うことができる。
「信頼関係」についてみると、当事者の主観のみで考えれば、賃貸人が怒り心頭で訴訟に至っている時点で信頼関係はもはやなくなっている。法理においては、不履行の時点で賃借人にどの程度の不正があったのかを厳密に債務の本旨の内容にこだわらず、客観的に(外の視点から)検討する、という判断構造であると言える。これは、家屋を奪われて生活が破壊されるという「悪いこと」を賃借人に負わせていいほど悪いことをしたのか、を社会の目から見るという上記(4)の応報の原理の現れと位置づけることができる。「信頼関係」は、応報による判断を個人の合意という民法の原則に引き直すための概念と考えられる。
3.2.法理の射程、制度的契約
信頼関係の法理については、不動産賃貸借に限らず、特に、当事者間の経済的依存関係が強い場合において一般的な射程を有していると指摘されている(前掲・内田232頁)。フランチャイズ契約が代表格として挙げられている。個人的には、労働契約も当てはまり、特に整理解雇の法理は基盤を一にしていると考えている。経済的依存関係が強いからと言って法理が常に当てはまるわけではなく、経済状況・社会保障政策の状況から、打ち切られたあるいは大幅な減額をされた際に、社会秩序の感覚に触れる程度まで生活上の不利益が生じると言える場合に、契約関係に(4)の応報の原理が適用され、射程が及ぶことになると考えられる。これがあてはまる契約について、「社会保障機能のある(を負わされる)契約」と言えないだろうか、と個人的に考えている。
最近では、公共サービスの民営化に合わせて制度的契約という概念が提唱されている。個人間の個別合意がかえって望ましくない、という程度にまで達している契約とされている。保育所の契約関係など、供給側の都合での頻繁な変更・解消は子供の教育上大きな不利益と認識されるだろうし、企業年金契約も公的年金制度の補完としての位置づけであり高齢者の生活保障をしているものである。先ほど信頼関係の判断構造において(a)当初の合意内容から離れた判断がされている、(b)当事者間の主観があまり重視されない、を指摘したように、すでに個人間の合意から離れた判断が組み込まれている。これは契約が社会秩序の一部に取り込まれていることからくるものであって、制度的契約論もこの方向性のひとつとして考えられるのではないか、と思う。
※ここから解雇規制緩和や企業年金減額・打切りの事例を検討しようと思いましたが挫折しました。これじゃ新しいこと何もいってないじゃん。。
4.まとめ
以上をまとめてみよう。行為の善悪と結果の善悪を結びつける応報の仕組みは社会秩序の根本である。その中でも、「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態を防ぐことは社会秩序維持のために重要なことである。ある施策が最終的に全体の利益になるとしても、その過程でこの事態を生じさせてしまう場合には許容されにくい。これは美徳の問題にとどまるものではなく、法にも現実に反映されているものである。
「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態への対応策として社会保障政策と契約への介入の二種類がある。契約への介入がされた場合には、個人の合意で説明が尽くせない法理が発達することになる。それは社会保障政策としての役割を背負わされているからである。契約への介入がされるのは、経済・社会政策を含めてみたとき、契約の変更・解消により生じる不利益が看過できない程度であるときである。
5.おわりに
多分野をミックスした考察なので、まだ着想の段階、グダグダで恥ずかしい、今後突き詰めることが山ほどあると感じている。特に自由主義の理念との関係を考察してみたい。サンデルの正義の本を読み進めれば、自然と答えが出るかもしれない。「もう最後まで読んだ!こういうことだよ。」「自分はもっと詳しいぞ、ここが間違ってるぞ」「こんな本読んだらいいよ」「別の知識や体験を持ってる、こういう感じじゃないかな」といった感じで様々なご教示をいただけたら、と思っている。コメント欄、メルフォ、ツイッター等でよろしくお願いいたします。
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「悪影響」ということ
昨年から創作表現に対する規制の是非が頻繁に話題となっている。規制の結論ありきの動きで規制する理由が不分明であるが、Wikipediaを参照する限りでは、「児童に対する性的搾取につながる」という現実の犯罪への悪影響と、「性差別意識を助長する」という人々の意識への悪影響という点が挙げられていると把握することができる。今回はこの「悪影響」ということについて考察をしてみたいと思う。
ある表現がそれを鑑賞する人に対し何らかの影響を与えるということは、少なからず認められる。しかしここで注意すべきは、表現からもたらされる影響は作品のメッセージと必ずしも一致するわけではないということである。犯罪等を非難する作品であっても、それが犯罪を助長する影響を与えることもあるし、逆に一見肯定的な表現であっても、受け取る側はそれはよくないことだと否定的な意見をもつようになることだってある。
例えば、反戦モノとして個人的に一番印象に残っているのは、「戦場のピアニスト」で、ユダヤ人が特に理由もなく一列に並べられて地面にうつぶせに寝かされ、ドイツの兵士が順に頭を撃ち抜いていくというシーンである。これは全体の中ではそれほど大きな位置づけを与えられているシーンではないが、衝撃的であるため強く憶えている。この場面からは当然人倫を踏み外す行為への非難が生まれ、これが作品としての意図でもある。しかし可能性としては、兵士の側に感情移入して、人倫を踏み外す極限的な緊張感、人の命を弄ぶ神や悪魔のようになった万能感に浸ることも十分に考えられる。似たような非道が歴史的に実際に行われたということは、そのような感覚を現実に持ちうることを表している。
また、性的虐待のようなシーンで被害者が順応して享楽的になってしまうような話の筋になっていたとしても、読む側としては、その流れがあまりに不合理で説明がつかず、その非人間的な姿にゾッとしてこういうことはいけないとの思いを抱くことが十分に考えられる。現実でも、人を傷つけ、そのことでその人の性格を悪くするなど人格に悪影響を与えてしまったら大きな後悔を抱き、反省するだろう。極限的な帰結を見ることで、その代替的な経験となることもあるのである。
こうした表現の意図と影響の不一致は、目に見える犯罪誘発効果がテレビのニュースとワイドショーにあることからも明らかである。犯罪を取り上げるテレビは皆犯人を責め、被害者感情を思いやり、強い処罰を望むような内容である。それにもかかわらず模倣犯と呼ばれる者が登場する。また、文芸評論の観点からも、このことは以前紹介したテクスト論からの当然の帰結である。みんな表現物で作者の意図を自然に真に受けているというのなら、国語の問題でわざわざ作者の意図はどうかなんて訊かれることもないし、感想文でそれぞれの意見を書く必要もないのである。重要なのは、テクストたる表現を受け取る側のバックグラウンドなのである。
アディショナル・スピーチ規制の提案
賛美と批判に関係なく、社会的に望ましい方向にも望ましくない方向にも影響があるということになると、望ましくない影響を与えうる表現の一切を規制してしまうのがよいということにもなりかねない。しかし、犯罪報道がなされないことは社会を運営する上で有り得ないことで、清濁飲み込んだ自律した人間になるためにも完全に遠ざけるというのは考えられないことである。また、人間の差別感情は本質的に備わっていて、教育で差別はよくないこととの認識を作ることが必要であるとも言われている。何も知らないままであれば、子ども特有の残酷で思慮の浅い状態のまま、大人の力を持つようになってしまう。『日本の殺人』(ちくま新書)で描かれているような、犯罪への取り組みを一部の公務員の献身的な努力に頼りそ知らぬ顔で暮らす社会のままがいいというのなら別であるが、成熟した社会になるためにはそういうわけにもいかないだろう。
ということで、必要なことは、社会的に悪影響な行動・意識につながりかねないテーマが描かれている場合に、その問題を熟慮させる機会を設けさせ、受け取る側に慎重な判断を促すことである。ここで参考になるのは、タバコの警告表示である。タバコは健康を害するという側面があり、パッケージに具体的にどのような病気のリスクが高まるのか記載がされている。これは、広告について商品の魅力を伝えさせるだけではなく、悪い面も同時に買い手に伝えさせ、十分な判断をしたうえでの購入を促すものである。金融商品等にも同様の規制がある。このように表現を追加させる規制について何か用語があったと思うのだが忘れてしまったので、勝手に「アディショナル・スピーチ規制」と名付けることにする。
創作表現においても、現在成人指定マーク等の警告表示が任意の取り組みで行われているが、これはタバコの警告表示と同様、「購入するか否か」という時点での判断を促すものである。ここでは、さらに発展させて、購入した後の時点において、その表現から形成されうる考え方について慎重な判断を促すことを提案するものである。具体的には、犯罪被害・差別被害の実態、国際的な統計、社会全体で被害をなくすことに取り組むべきこと、等の情報を冒頭や結末に掲載させたり、小さい啓発冊子を同梱させるというものが考えられる。インターネット上での非商業的活動でも、リンクや注意書き等の取り組みをさせることが考えられる。
このような規制方法は、作者にとって作品の中身自体に介入されないというプラスの側面がある。冊子でフォローする以上好きに作れるわけである。セリフひとつひとつ言葉狩りに遭う必要もなくなるだろう。また、この規制はビジネス的にも美味しいものであると思う。制作側の追加のコストはそこまで高いものではないし、冊子を日本ユニセフが作って納入すれば、ぼろ儲け児童の権利擁護のための活動の大きな力となるからである。児童の人身売買は貧困が原因であることが多く、経済的にある程度の豊かさが保障されれば、被害を減らすことが可能であろう。このように経済的な要因と結びついている問題において、活動資金が十分に得られることは非常に大事なことである。
このような規制に対しては、効果として不十分でないか、という疑問があるだろう。ページは読み飛ばすことができるし、冊子も捨てることができる、誰も真面目に受け取らない、といった感じである。個人的には人間の判断力はそこまで劣っているとは思っていない。しかし仮に結果として不十分になったとしても、今の時点では実際どうなるかは予測はできないから、規制においてより制限的でない手段が考えられる以上それをまず試してみるべきである。表現を発信すること自体、それを保有していること自体を規制するというのはとても強い規制であって、副作用も考えられることから、マイルドな手段が探求されるべき必要性が高い。特に日本は、道徳を堕落させるから規制なんてことは有り得ず、宗教的バイアスが少ない国であり、合理的な規制方法を探究し提案していくことが国際社会における役割であると思われるのである。
まとめ
・規制の理由付けが不分明だと議論そのものがしにくいよ。
・作品のメッセージと受け取る側の影響は一致しない。
・しかしだからといって全てを規制するというわけにはいかない。
・重要なのは「熟慮させる機会」を作ることで、そのことを促す冊子やページを同時に発信させればいいのではないか。
・これなら作者は自由に書ける、日本ユニセフがもうかる、国際的な取り組みに貢献する、といいことばかり。
・規制としてはマイルドなものから実験していくべき。
・安易な追従ではなく、合理的な規制を提案するのが日本の役割である。
【6月26日追記】「スピーチ・プラス」は行動を伴う表現という意味で使われているので、「アディショナル・スピーチ(Additional Speech)」という意味にしました。Add(追加する)だとAd(広告)と重なりますので微妙。いやはや不勉強で。
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昨年から創作表現に対する規制の是非が頻繁に話題となっている。規制の結論ありきの動きで規制する理由が不分明であるが、Wikipediaを参照する限りでは、「児童に対する性的搾取につながる」という現実の犯罪への悪影響と、「性差別意識を助長する」という人々の意識への悪影響という点が挙げられていると把握することができる。今回はこの「悪影響」ということについて考察をしてみたいと思う。
ある表現がそれを鑑賞する人に対し何らかの影響を与えるということは、少なからず認められる。しかしここで注意すべきは、表現からもたらされる影響は作品のメッセージと必ずしも一致するわけではないということである。犯罪等を非難する作品であっても、それが犯罪を助長する影響を与えることもあるし、逆に一見肯定的な表現であっても、受け取る側はそれはよくないことだと否定的な意見をもつようになることだってある。
例えば、反戦モノとして個人的に一番印象に残っているのは、「戦場のピアニスト」で、ユダヤ人が特に理由もなく一列に並べられて地面にうつぶせに寝かされ、ドイツの兵士が順に頭を撃ち抜いていくというシーンである。これは全体の中ではそれほど大きな位置づけを与えられているシーンではないが、衝撃的であるため強く憶えている。この場面からは当然人倫を踏み外す行為への非難が生まれ、これが作品としての意図でもある。しかし可能性としては、兵士の側に感情移入して、人倫を踏み外す極限的な緊張感、人の命を弄ぶ神や悪魔のようになった万能感に浸ることも十分に考えられる。似たような非道が歴史的に実際に行われたということは、そのような感覚を現実に持ちうることを表している。
また、性的虐待のようなシーンで被害者が順応して享楽的になってしまうような話の筋になっていたとしても、読む側としては、その流れがあまりに不合理で説明がつかず、その非人間的な姿にゾッとしてこういうことはいけないとの思いを抱くことが十分に考えられる。現実でも、人を傷つけ、そのことでその人の性格を悪くするなど人格に悪影響を与えてしまったら大きな後悔を抱き、反省するだろう。極限的な帰結を見ることで、その代替的な経験となることもあるのである。
こうした表現の意図と影響の不一致は、目に見える犯罪誘発効果がテレビのニュースとワイドショーにあることからも明らかである。犯罪を取り上げるテレビは皆犯人を責め、被害者感情を思いやり、強い処罰を望むような内容である。それにもかかわらず模倣犯と呼ばれる者が登場する。また、文芸評論の観点からも、このことは以前紹介したテクスト論からの当然の帰結である。みんな表現物で作者の意図を自然に真に受けているというのなら、国語の問題でわざわざ作者の意図はどうかなんて訊かれることもないし、感想文でそれぞれの意見を書く必要もないのである。重要なのは、テクストたる表現を受け取る側のバックグラウンドなのである。
アディショナル・スピーチ規制の提案
賛美と批判に関係なく、社会的に望ましい方向にも望ましくない方向にも影響があるということになると、望ましくない影響を与えうる表現の一切を規制してしまうのがよいということにもなりかねない。しかし、犯罪報道がなされないことは社会を運営する上で有り得ないことで、清濁飲み込んだ自律した人間になるためにも完全に遠ざけるというのは考えられないことである。また、人間の差別感情は本質的に備わっていて、教育で差別はよくないこととの認識を作ることが必要であるとも言われている。何も知らないままであれば、子ども特有の残酷で思慮の浅い状態のまま、大人の力を持つようになってしまう。『日本の殺人』(ちくま新書)で描かれているような、犯罪への取り組みを一部の公務員の献身的な努力に頼りそ知らぬ顔で暮らす社会のままがいいというのなら別であるが、成熟した社会になるためにはそういうわけにもいかないだろう。
ということで、必要なことは、社会的に悪影響な行動・意識につながりかねないテーマが描かれている場合に、その問題を熟慮させる機会を設けさせ、受け取る側に慎重な判断を促すことである。ここで参考になるのは、タバコの警告表示である。タバコは健康を害するという側面があり、パッケージに具体的にどのような病気のリスクが高まるのか記載がされている。これは、広告について商品の魅力を伝えさせるだけではなく、悪い面も同時に買い手に伝えさせ、十分な判断をしたうえでの購入を促すものである。金融商品等にも同様の規制がある。このように表現を追加させる規制について何か用語があったと思うのだが忘れてしまったので、勝手に「アディショナル・スピーチ規制」と名付けることにする。
創作表現においても、現在成人指定マーク等の警告表示が任意の取り組みで行われているが、これはタバコの警告表示と同様、「購入するか否か」という時点での判断を促すものである。ここでは、さらに発展させて、購入した後の時点において、その表現から形成されうる考え方について慎重な判断を促すことを提案するものである。具体的には、犯罪被害・差別被害の実態、国際的な統計、社会全体で被害をなくすことに取り組むべきこと、等の情報を冒頭や結末に掲載させたり、小さい啓発冊子を同梱させるというものが考えられる。インターネット上での非商業的活動でも、リンクや注意書き等の取り組みをさせることが考えられる。
このような規制方法は、作者にとって作品の中身自体に介入されないというプラスの側面がある。冊子でフォローする以上好きに作れるわけである。セリフひとつひとつ言葉狩りに遭う必要もなくなるだろう。また、この規制はビジネス的にも美味しいものであると思う。制作側の追加のコストはそこまで高いものではないし、冊子を日本ユニセフが作って納入すれば、
このような規制に対しては、効果として不十分でないか、という疑問があるだろう。ページは読み飛ばすことができるし、冊子も捨てることができる、誰も真面目に受け取らない、といった感じである。個人的には人間の判断力はそこまで劣っているとは思っていない。しかし仮に結果として不十分になったとしても、今の時点では実際どうなるかは予測はできないから、規制においてより制限的でない手段が考えられる以上それをまず試してみるべきである。表現を発信すること自体、それを保有していること自体を規制するというのはとても強い規制であって、副作用も考えられることから、マイルドな手段が探求されるべき必要性が高い。特に日本は、道徳を堕落させるから規制なんてことは有り得ず、宗教的バイアスが少ない国であり、合理的な規制方法を探究し提案していくことが国際社会における役割であると思われるのである。
まとめ
・規制の理由付けが不分明だと議論そのものがしにくいよ。
・作品のメッセージと受け取る側の影響は一致しない。
・しかしだからといって全てを規制するというわけにはいかない。
・重要なのは「熟慮させる機会」を作ることで、そのことを促す冊子やページを同時に発信させればいいのではないか。
・これなら作者は自由に書ける、日本ユニセフがもうかる、国際的な取り組みに貢献する、といいことばかり。
・規制としてはマイルドなものから実験していくべき。
・安易な追従ではなく、合理的な規制を提案するのが日本の役割である。
【6月26日追記】「スピーチ・プラス」は行動を伴う表現という意味で使われているので、「アディショナル・スピーチ(Additional Speech)」という意味にしました。Add(追加する)だとAd(広告)と重なりますので微妙。いやはや不勉強で。
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【概要】憲法学にいう二重の基準論の根拠についての議論を振り返る。その上で、根拠の一つとして挙げられる民主的政治過程論について、公共圏の観点から具体化し、文化的・芸術的表現にも強く妥当することを主張する。また、その理由づけから他の問題についても考え方の指針が得られないか検討する。
1 二重の基準論の実質的根拠
1.1 二重の基準論とは
日本の憲法学では、「二重の基準論」という理論がある。ある法令等が憲法に違反しないか検討するにあたり、いかなる基準により憲法違反になるか判断するか、という違憲審査基準論が問題となる。その違憲審査基準論を考える上での指針として、精神的自由(表現の自由・思想良心の自由等)を規制するものに対しては、経済的自由(職業の自由・財産権等)の場合よりもより厳格な審査基準が必要である、というものがある。これが二重の基準論である。
二重の基準論は一般論としては判例・実務でも承認されているが、その根拠が何であるかについては議論が確立したとは言えない。そのために必ずしも二重の基準論が十分に反映されたとは言えない事件の解決が見られる。根拠としては、経済的自由の判断は立法府が適しているといった裁判所の審査能力を理由とする機能的なものと、精神的自由には本質的に優越性があるという実質的なものに分けられる。ここでは、後者の実質的根拠について検討をする。そして、精神的自由の中でも議論の主戦場となっている表現の自由を想定して進める。
1.2 自己実現と自己統治
実質的根拠として広く言われているのは、表現の自由は(1)自己実現の価値を有する(2)自己統治の価値を有する、ということである。(1)を具体化すると、個人が人格を発展させ自律的に生きるためには、自ら意見を自由に表明し、多様な考え方に接する必要があり、個人の自己実現や自律に奉仕している、というものである。この根拠に対しては、表現の自由が自己実現につながるのは確かであるが、職業の自由といった経済的自由にも自己実現に資する面があり、とりわけ表現の自由を厚く保護することにはならないのではないか、という批判がある。
(2)自己統治の価値とは、民主的政治過程の維持とも言われる。表現の自由が侵害されると、政治についてよりよく判断するための情報が奪われることとなり、民主的な政治過程で回復することが困難になる。対して経済的自由の規制においては、たとえ不合理な規制がされても民主的な政治過程で回復が可能であり、そのことが望ましいとも言える。この根拠に対しては、民主的政治過程の維持に照らすと政治的な表現の自由しか保護されず、表現の自由やその他精神的自由の保護の根拠としては不十分であるという批判がある。また、経済的自由も表現の自由を実質化するために必要であり、表現の自由のみ厚く保護するという帰結は知識人特有の偏見であるという批判もある。
1.3 思想の自由市場論・国家の疑わしい動機
このような批判を受け、以上の2つの根拠では不十分と考える学説は、他の根拠を持ち出す。代表的なものは(3)思想の自由市場論である。真理に到達するためには真実か誤りか問うことなく自由な競争をさせることが必要であり、表現の自由に対する規制は忌避されるべき、というものである。これは学問的な表現について優越性を根拠付け、(2)民主的政治過程論では不十分とされた領域を捕捉する意義がある。もっとも、この根拠に対しては、市場経済の類推を持ち込んでいるが、市場経済は独占禁止法等の規制が当然に伴うものであり、同様に、例えば私人が他人の思想を抑圧するような行為をすれば国家がそれを防止するため介入することを正当化するのではないか、という疑問がある。
また、(4)国家の疑わしい動機という根拠も出されている。表現の自由を規制する国家の側に着目し、歴史的経験上、表現の自由を規制しようとする国家の動機は批判を抑圧し体制を維持するためのものであり、そのような疑わしい動機がないか厳格な審査が必要である、というものである。これに対しては、動機が疑わしいことは審査の「慎重さ」を要求すれど「厳格さ」を必然的に求めるわけではないのではないか、という疑問を個人的に抱いている。立法事実の慎重な審査でも裁判所をすり抜ける危険があるから、予防原則に則って厳格な基準が必要であるというステップが必要である。しかし立法事実の偽装は各種距離制限規定など経済的自由で華やかであり、裁判所の審査をすり抜けた例も観察できる。これは裁判所の審査能力が経済的自由のほうが低いからであって、むしろ経済的自由に予防的に厳格審査を要求するのが適しているように見える。それでも精神的自由の規制に予防が必要と言うのなら、別の根拠を援用する必要があるのではないか(そして民主的政治過程論に行き着くように思う)。
1.4 民主的政治過程論の再評価
以上のように議論の状況を自分なりにまとめてみたが、今回私が主張したいのは、(2)民主的政治過程論で十分じゃないのか、ということである。特に、民主的政治過程論では政治的表現以外の自由を基礎付けるには不十分というが、文化的・芸術的表現の自由であっても民主的政治過程論で理由付けが可能ということである。その理由を一言で言えば、「文化的表現は複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供しており、そこで形成される人間関係が個人の政治的認識を高める作用をしていて、民主的政治過程の不可欠な基盤を作っている」ということである。折しも現在は民主的政治過程論の再評価という方向のようであり(大河内・ジュリスト1400号60頁以下参照)、今回の主張は、自己実現の価値のある表現と民主的政治過程とは密接に連関し、政治的表現以外の表現でも同じく保障されるべきという指摘(芦部『憲法学Ⅱ』222頁)の具体化を試みるものと位置づけることができる。
2 文化的表現と民主的政治過程論
2.1 文芸的公共圏・政治的公共圏
基本的なアイデアは、社会学の定番で出てくるハーバーマス『公共性の構造転換』である。ここでは、18世紀から19世紀初頭にかけてのイギリス・フランス・ドイツで起こった出来事として、「文芸的公共圏」から「政治的公共圏」へと成長していき、教会と君主が支配する封建社会から市民社会へと移行したことが指摘されている。
「文芸的公共圏」とは、文学作品を共通の関心事として語り合う空間のことを言う。この文学作品をめぐって交わされる言論においては、(1)平等性―社会的地位を度外視して対等な議論が行われるべき、(2)自律性―教会や国家の権威による解釈の独占を排除し、相互理解の下で自立的・合理的に解釈をする、(3)公開性―文学作品を入手する財産と議論するための教養がありさえすれば、全ての私人が公衆として参加できる、というルールが形成される。このようなルールの下では、身分を超えた自由な議論が多く交わされることになる。それはやがて政治の話題を議論する場になり、公権力に対する批判も行う公論形成の空間としての政治的公共圏へと成長するのである。
2.2 日常生活へのリアリスティックな認識
以上のような文芸に関する言論が政治的言論の基盤を作るという過程は、現代の日本社会における日常生活を見ていても大いに観察することができる。「政治と宗教の話はするな」という言葉があるように、政治の話題というのは個々人の譲れない信条と絡み合い、相互理解ができていない人間関係の上で話題となれば場を壊し、関係の存続を難しくするという性質がある。日常生活において他人と政治の話題を語るとすれば、本・音楽・スポーツ等文化活動を通して気のおけない関係となっている場合に、生活体験やいつもの本・音楽・スポーツ等の話題から入り、そこからニュース等の話題を経て感想や意見を論じる、という順序をとることが多いであろう。最初から最後まで政治の話題しかしない人間関係や集団というのは、明らかに異質である。文化的な基礎をなくして政治的な認識を高めることは通常想定できないと言える。
そして、文化活動を通して得られる人間関係というのは、年齢も職業も様々で多様性をもたらす可能性を秘めている。これは、文芸的公共圏が平等性・自律性・公開性をもたらしたことと共通している。音楽や演劇の公演会場で出会う人は、職業生活では出会うことのない人であろう。このブログに検索で辿り着いた方も、私とは全く違う仕事や専門をもっていることであろう。こうして多様な人と触れるということは、民主主義を実質化するためには非常に重要であり、個人の政治認識を高めることに大きく貢献するものである。
このように、文化・芸術の極めて重要な機能として、「同一の興味」の下で多様な個人を接着させ充実した人間関係を作ることが挙げられる。芸術表現については、「魂の避難所となる」「過酷な競争において息をつぐ機会を提供する」といった意義が指摘されているが(駒村「国家助成と自由」『論点探求憲法』168頁以下)、あまりに孤独で消極的な感じがする。仮に日本において市民社会が未成熟であるとすれば、長時間労働により多くの人にとって文化・芸術が逃げ場になるにとどまり、それ以上の個人間の評論・議論の場の形成という機能に参加できていないという点に理由を求めることができるであろう。
以上のように個人を接着させるという機能に着目すると、文化的・芸術的表現が規制・侵害されるとそれによって個人間の親密な人間関係の形成の機会が奪われることとなり、個人が政治認識を高めることができなくなる。そして、このことは国民が規制を政治過程で修正する力自体を奪うものであって、政治過程による回復が困難であると言える。かくして、文化的・芸術的表現は、民主的政治過程論そのものが妥当する領域であると考えられるのである。
3 展開と射程
3.1 経済的自由との区別の正当化
以上の議論では「政治的表現以外の表現が射程から外れる」という民主的政治過程論への批判に対する再反論が完了したことになる。続いて、経済的自由も同様に民主的政治過程に貢献しているという批判に対しても再反論できないかを検討してみよう。この部分については十分に考えが練られてはいないが、経済的自由からもたらされる個人の接着は第一に経済的利害に基づくものであって容易に政治的公共圏に昇華するものではないこと、文芸的公共圏ないし文化活動に参加するための財産の取得は生存権の問題として位置づけることが可能であることが指摘できる。このことからすれば、民主的政治過程の基盤としての性質には自ずから差があり、審査基準として差を設けてもよいと考えられよう。
これらの中間領域としての営利的表現の自由ついても考えてみよう。文化活動であっても、大規模・高い質・継続性を備えようとすれば経済活動としても成り立たせる必要が出てくる。そのために広告等営利的表現を行うことは避けられないことであり、この場合文化的表現と営利的表現の区別は困難になる。もっとも、この場合でも経済活動としての側面がある以上、財の取引のルールが妥当し、誤った情報を与えて判断を誤らせてはいけない等の制約は当然に伴うと言える。区別の困難性から表現の自由として厚い保障の領域に一旦は属するが、経済活動の側面から一定の制約は免れず基準が一段階落ちることも正当化されると考えられる。
3.2 スポーツ等文化活動の自由
文化的表現の性質として「複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供すること」があり、これが民主的政治過程の基盤をなしていると論じてきた。このような性質はスポーツのような文化活動の自由についても認められる。先の論述で「スポーツ等の話題」としたのはこうした理由である。スポーツをする自由というのは、13条の幸福追求権の一貫として保障がされ、施設の必要性は社会権の領域として認識されるのが通常であろう。この場合、保護の強さとしてはあまり期待できない。そこで、文化的表現と同様の機能を有していることにより、強い権利保障を基礎付けることが考えられる。
しかし、スポーツをする自由は侵害の危険に晒されることは少ないと言える。昔は強い兵隊の獲得のため、今では国民の健康確保のため、歴史的経験として、運動をする・スポーツをするということが奨励されど抑圧されることはあまりなかった。この観点から表現の自由一般よりも保護の度合いが落ちる可能性がある。歴史的経験が解釈論における理由付けとして意味をもつことは、憲法21条2項「検閲」の最高裁の解釈や、憲法14条1項後段列挙自由の限定列挙説の理由付けや、憲法31条以下の権利の重要性を語る上で用いられていることからも明らかである。もっとも、戦時において敵国発祥のスポーツを禁止するような事態は生じうる。この場合は民主的政治過程論との関係から強い保護を主張することが要請されよう。
4 おわりに
他にも射程論として近時制約が強まっている性表現の自由についても検討したかったが、議論が分散してしまうおそれがあるので、またの機会に論じることとしたい。
以上の問題について認識をさらに深めるべく、この記事を読んで、批判や足りないところがあると感じれば、アドバイスをいただきたい。また、憲法学では既に同様の指摘がなされているといった情報があれば、参照すべき文献等をぜひともご教示いただきたい。コメント欄あるいは右上のメールフォーム(「メッセージを送る」をクリックすると登場する)、さらにtwitterのアカウントも試しに作ってみたので、活用していただけたら、と思う。
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1 二重の基準論の実質的根拠
1.1 二重の基準論とは
日本の憲法学では、「二重の基準論」という理論がある。ある法令等が憲法に違反しないか検討するにあたり、いかなる基準により憲法違反になるか判断するか、という違憲審査基準論が問題となる。その違憲審査基準論を考える上での指針として、精神的自由(表現の自由・思想良心の自由等)を規制するものに対しては、経済的自由(職業の自由・財産権等)の場合よりもより厳格な審査基準が必要である、というものがある。これが二重の基準論である。
二重の基準論は一般論としては判例・実務でも承認されているが、その根拠が何であるかについては議論が確立したとは言えない。そのために必ずしも二重の基準論が十分に反映されたとは言えない事件の解決が見られる。根拠としては、経済的自由の判断は立法府が適しているといった裁判所の審査能力を理由とする機能的なものと、精神的自由には本質的に優越性があるという実質的なものに分けられる。ここでは、後者の実質的根拠について検討をする。そして、精神的自由の中でも議論の主戦場となっている表現の自由を想定して進める。
1.2 自己実現と自己統治
実質的根拠として広く言われているのは、表現の自由は(1)自己実現の価値を有する(2)自己統治の価値を有する、ということである。(1)を具体化すると、個人が人格を発展させ自律的に生きるためには、自ら意見を自由に表明し、多様な考え方に接する必要があり、個人の自己実現や自律に奉仕している、というものである。この根拠に対しては、表現の自由が自己実現につながるのは確かであるが、職業の自由といった経済的自由にも自己実現に資する面があり、とりわけ表現の自由を厚く保護することにはならないのではないか、という批判がある。
(2)自己統治の価値とは、民主的政治過程の維持とも言われる。表現の自由が侵害されると、政治についてよりよく判断するための情報が奪われることとなり、民主的な政治過程で回復することが困難になる。対して経済的自由の規制においては、たとえ不合理な規制がされても民主的な政治過程で回復が可能であり、そのことが望ましいとも言える。この根拠に対しては、民主的政治過程の維持に照らすと政治的な表現の自由しか保護されず、表現の自由やその他精神的自由の保護の根拠としては不十分であるという批判がある。また、経済的自由も表現の自由を実質化するために必要であり、表現の自由のみ厚く保護するという帰結は知識人特有の偏見であるという批判もある。
1.3 思想の自由市場論・国家の疑わしい動機
このような批判を受け、以上の2つの根拠では不十分と考える学説は、他の根拠を持ち出す。代表的なものは(3)思想の自由市場論である。真理に到達するためには真実か誤りか問うことなく自由な競争をさせることが必要であり、表現の自由に対する規制は忌避されるべき、というものである。これは学問的な表現について優越性を根拠付け、(2)民主的政治過程論では不十分とされた領域を捕捉する意義がある。もっとも、この根拠に対しては、市場経済の類推を持ち込んでいるが、市場経済は独占禁止法等の規制が当然に伴うものであり、同様に、例えば私人が他人の思想を抑圧するような行為をすれば国家がそれを防止するため介入することを正当化するのではないか、という疑問がある。
また、(4)国家の疑わしい動機という根拠も出されている。表現の自由を規制する国家の側に着目し、歴史的経験上、表現の自由を規制しようとする国家の動機は批判を抑圧し体制を維持するためのものであり、そのような疑わしい動機がないか厳格な審査が必要である、というものである。これに対しては、動機が疑わしいことは審査の「慎重さ」を要求すれど「厳格さ」を必然的に求めるわけではないのではないか、という疑問を個人的に抱いている。立法事実の慎重な審査でも裁判所をすり抜ける危険があるから、予防原則に則って厳格な基準が必要であるというステップが必要である。しかし立法事実の偽装は各種距離制限規定など経済的自由で華やかであり、裁判所の審査をすり抜けた例も観察できる。これは裁判所の審査能力が経済的自由のほうが低いからであって、むしろ経済的自由に予防的に厳格審査を要求するのが適しているように見える。それでも精神的自由の規制に予防が必要と言うのなら、別の根拠を援用する必要があるのではないか(そして民主的政治過程論に行き着くように思う)。
1.4 民主的政治過程論の再評価
以上のように議論の状況を自分なりにまとめてみたが、今回私が主張したいのは、(2)民主的政治過程論で十分じゃないのか、ということである。特に、民主的政治過程論では政治的表現以外の自由を基礎付けるには不十分というが、文化的・芸術的表現の自由であっても民主的政治過程論で理由付けが可能ということである。その理由を一言で言えば、「文化的表現は複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供しており、そこで形成される人間関係が個人の政治的認識を高める作用をしていて、民主的政治過程の不可欠な基盤を作っている」ということである。折しも現在は民主的政治過程論の再評価という方向のようであり(大河内・ジュリスト1400号60頁以下参照)、今回の主張は、自己実現の価値のある表現と民主的政治過程とは密接に連関し、政治的表現以外の表現でも同じく保障されるべきという指摘(芦部『憲法学Ⅱ』222頁)の具体化を試みるものと位置づけることができる。
2 文化的表現と民主的政治過程論
2.1 文芸的公共圏・政治的公共圏
基本的なアイデアは、社会学の定番で出てくるハーバーマス『公共性の構造転換』である。ここでは、18世紀から19世紀初頭にかけてのイギリス・フランス・ドイツで起こった出来事として、「文芸的公共圏」から「政治的公共圏」へと成長していき、教会と君主が支配する封建社会から市民社会へと移行したことが指摘されている。
「文芸的公共圏」とは、文学作品を共通の関心事として語り合う空間のことを言う。この文学作品をめぐって交わされる言論においては、(1)平等性―社会的地位を度外視して対等な議論が行われるべき、(2)自律性―教会や国家の権威による解釈の独占を排除し、相互理解の下で自立的・合理的に解釈をする、(3)公開性―文学作品を入手する財産と議論するための教養がありさえすれば、全ての私人が公衆として参加できる、というルールが形成される。このようなルールの下では、身分を超えた自由な議論が多く交わされることになる。それはやがて政治の話題を議論する場になり、公権力に対する批判も行う公論形成の空間としての政治的公共圏へと成長するのである。
2.2 日常生活へのリアリスティックな認識
以上のような文芸に関する言論が政治的言論の基盤を作るという過程は、現代の日本社会における日常生活を見ていても大いに観察することができる。「政治と宗教の話はするな」という言葉があるように、政治の話題というのは個々人の譲れない信条と絡み合い、相互理解ができていない人間関係の上で話題となれば場を壊し、関係の存続を難しくするという性質がある。日常生活において他人と政治の話題を語るとすれば、本・音楽・スポーツ等文化活動を通して気のおけない関係となっている場合に、生活体験やいつもの本・音楽・スポーツ等の話題から入り、そこからニュース等の話題を経て感想や意見を論じる、という順序をとることが多いであろう。最初から最後まで政治の話題しかしない人間関係や集団というのは、明らかに異質である。文化的な基礎をなくして政治的な認識を高めることは通常想定できないと言える。
そして、文化活動を通して得られる人間関係というのは、年齢も職業も様々で多様性をもたらす可能性を秘めている。これは、文芸的公共圏が平等性・自律性・公開性をもたらしたことと共通している。音楽や演劇の公演会場で出会う人は、職業生活では出会うことのない人であろう。このブログに検索で辿り着いた方も、私とは全く違う仕事や専門をもっていることであろう。こうして多様な人と触れるということは、民主主義を実質化するためには非常に重要であり、個人の政治認識を高めることに大きく貢献するものである。
このように、文化・芸術の極めて重要な機能として、「同一の興味」の下で多様な個人を接着させ充実した人間関係を作ることが挙げられる。芸術表現については、「魂の避難所となる」「過酷な競争において息をつぐ機会を提供する」といった意義が指摘されているが(駒村「国家助成と自由」『論点探求憲法』168頁以下)、あまりに孤独で消極的な感じがする。仮に日本において市民社会が未成熟であるとすれば、長時間労働により多くの人にとって文化・芸術が逃げ場になるにとどまり、それ以上の個人間の評論・議論の場の形成という機能に参加できていないという点に理由を求めることができるであろう。
以上のように個人を接着させるという機能に着目すると、文化的・芸術的表現が規制・侵害されるとそれによって個人間の親密な人間関係の形成の機会が奪われることとなり、個人が政治認識を高めることができなくなる。そして、このことは国民が規制を政治過程で修正する力自体を奪うものであって、政治過程による回復が困難であると言える。かくして、文化的・芸術的表現は、民主的政治過程論そのものが妥当する領域であると考えられるのである。
3 展開と射程
3.1 経済的自由との区別の正当化
以上の議論では「政治的表現以外の表現が射程から外れる」という民主的政治過程論への批判に対する再反論が完了したことになる。続いて、経済的自由も同様に民主的政治過程に貢献しているという批判に対しても再反論できないかを検討してみよう。この部分については十分に考えが練られてはいないが、経済的自由からもたらされる個人の接着は第一に経済的利害に基づくものであって容易に政治的公共圏に昇華するものではないこと、文芸的公共圏ないし文化活動に参加するための財産の取得は生存権の問題として位置づけることが可能であることが指摘できる。このことからすれば、民主的政治過程の基盤としての性質には自ずから差があり、審査基準として差を設けてもよいと考えられよう。
これらの中間領域としての営利的表現の自由ついても考えてみよう。文化活動であっても、大規模・高い質・継続性を備えようとすれば経済活動としても成り立たせる必要が出てくる。そのために広告等営利的表現を行うことは避けられないことであり、この場合文化的表現と営利的表現の区別は困難になる。もっとも、この場合でも経済活動としての側面がある以上、財の取引のルールが妥当し、誤った情報を与えて判断を誤らせてはいけない等の制約は当然に伴うと言える。区別の困難性から表現の自由として厚い保障の領域に一旦は属するが、経済活動の側面から一定の制約は免れず基準が一段階落ちることも正当化されると考えられる。
3.2 スポーツ等文化活動の自由
文化的表現の性質として「複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供すること」があり、これが民主的政治過程の基盤をなしていると論じてきた。このような性質はスポーツのような文化活動の自由についても認められる。先の論述で「スポーツ等の話題」としたのはこうした理由である。スポーツをする自由というのは、13条の幸福追求権の一貫として保障がされ、施設の必要性は社会権の領域として認識されるのが通常であろう。この場合、保護の強さとしてはあまり期待できない。そこで、文化的表現と同様の機能を有していることにより、強い権利保障を基礎付けることが考えられる。
しかし、スポーツをする自由は侵害の危険に晒されることは少ないと言える。昔は強い兵隊の獲得のため、今では国民の健康確保のため、歴史的経験として、運動をする・スポーツをするということが奨励されど抑圧されることはあまりなかった。この観点から表現の自由一般よりも保護の度合いが落ちる可能性がある。歴史的経験が解釈論における理由付けとして意味をもつことは、憲法21条2項「検閲」の最高裁の解釈や、憲法14条1項後段列挙自由の限定列挙説の理由付けや、憲法31条以下の権利の重要性を語る上で用いられていることからも明らかである。もっとも、戦時において敵国発祥のスポーツを禁止するような事態は生じうる。この場合は民主的政治過程論との関係から強い保護を主張することが要請されよう。
4 おわりに
他にも射程論として近時制約が強まっている性表現の自由についても検討したかったが、議論が分散してしまうおそれがあるので、またの機会に論じることとしたい。
以上の問題について認識をさらに深めるべく、この記事を読んで、批判や足りないところがあると感じれば、アドバイスをいただきたい。また、憲法学では既に同様の指摘がなされているといった情報があれば、参照すべき文献等をぜひともご教示いただきたい。コメント欄あるいは右上のメールフォーム(「メッセージを送る」をクリックすると登場する)、さらにtwitterのアカウントも試しに作ってみたので、活用していただけたら、と思う。
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このブログは色々なことを書いているが、感想系の記事も多い。感想文を書くのは教養学部時代の学修で自分なりのやり方を作ったので、まとめてみようと思う。最初「予備知識ゼロで感想文を書く方法」とタイトルをつけようとしたのだが、大仰過ぎるので抑え目にした。
1.「要約力」
まず大事なことは、感想を書く対象について概要をまとめることだ。これはあくまで感想文の導入になるので、長すぎてはいけない。口頭で話すなら一言二言、文章にするなら1~2パラグラフに収めることが必要だ。短くまとめることは意外と難しい。対象について全体の構造を把握しないといけない。文章であったら、どこが主題でどこが例示なのか、など性質づけをしながら精読する必要がある。母国語だとなまじっか字面が追えてしまうために読解力がつきにくいので、要約を目的として精読する機会を作ることが大切だ。
こうした要約する力は、学力の基礎を作るので、取り組んで損はない。報告するにしても、大量の資料を添付して量で圧倒して悦に入る発展途上形では、議論が盛り上がらない。資料を自分の中で消化してどこまでコンパクトにまとめられるかが重要になってくる。具体的な要約の練習方法を考えてみると、私が小学生の頃通っていた四谷大塚という塾で、天声人語の要約と感想を書かせる宿題を出されたことを思い出す。今振り返ってみると、社説や天声人語は内容が面白くない上、小学生には荷が重い。年齢相応の説明文を用いるのがいい。中学高校になれば、専門家が書いたオピニオン欄を題材にするのがお勧めだ。専門論文を書ける人が一般読者に向かって意見を表明しているので、文章のレベルも高いし内容も面白いからだ。
大学以降の練習方法としては、講義を聴くことの大切さを強調したい。よく「教科書読めばいいでしょ」と言って講義に出ない人がいるが、勿体ないと思う。教科書に論文に資料集に様々なところに散らばっている専門知識について、講義では時間内に収めて説明できるよう、要約の作業が行われている。その上で学生は、試験の答案で書く或いは現実で活用するために、さらにもう一段の要約をする必要がある。そのとき講義で要約のお手本を見ていると、スムーズにいきやすい。しかし講義に出ないと、自力で最初から作業を行わないといけなくなり、大変だ。教科書読んでみたらうまく理解できない→入門書を買って読むという行動を繰り返すと、作業量がさらに増えて収拾がつかなくなる。
2.テクスト論
続いて感想の中身に入るが、小中学校の読書感想文では、「思ったことをありのまま自由に書きなさい」と指導されることが多いだろう。この考え方の基礎には、テクスト論があるように思う。テクスト論とは何であろうか。いい用語解説があったので引用する。なお、テクスト論を基礎として、他にも「コード」「脱構築」などテクスト分析の道具がある。教養学部での授業では、石原千秋他著『読むための理論』(世織書房)というのが教科書だったのだけど、amazonで見たら今は絶版になっているようだ。
「読み手としての自分」―「文章そのもの」―「作り手としての作者」の3つを平等に置く。作り手にも読み手にも一定の時代性と経験が背後にあるのであり、異なる背景を持つ者が文章そのものに取り掛かれば、異なる読み方が出てくるのは当然ということになる。そして、読み手としても固有の感覚を基にした読み方を追求するのがよい、という感じになる。これにより、読み方に正解がないか気にすることなく、思ったことを自由に書いたほうがよい、という考えが生まれるだろう。そして、このようなアプローチだと、作品に対する予備知識を特別に必要としなくなる。巻末の解説のような、作者の事情を探求する方向でアプローチし始めると、他の作品を読んだり当時の時代状況について調べたり研究者のようなことをしないとマトモなことが書けなくなってしまうし、テクストからも離れすぎてしまう。
3.漠然と思ったことを深める方法
もっとも、日頃から様々なことに意識的に問題関心を寄せていなければ、思ったことを書けと言われても、漠然と「楽しかった」「面白かった」「興味深かった」「つまらなかった」程度しか出てこない。これではあまりに単調すぎるので、「○○が面白かった」「××のところが楽しかった」など、具体的な箇所を示して体裁を整える。多くの場合、これで終わりにしてしまうが、これを出発点としてさらに深めることが可能である。箇所の選択は適当に選んだのかもしれないが、自分の目に付いた箇所であることには変わりはない。「なぜここが自分の目に付いたのか」をちょっと考えてみるのである。
例えば、ある問題について登場人物がある行動をとった部分を箇所として選んだとする。それが楽しいと感じたならば、似た経験をしたことがあってそのときの自分のとった行動に似ていた、あの時こうしてればよかったと感じた、さらには自分は経験したことないが同じようなことができたらと思っている、などの理由が出てくる。一方、つまらないと感じたならば、もし自分だったらその行動をとらないし納得できない、自分が経験することが到底考えられない場面なので想像もできない、といった理由が出てくる。こうして「なぜ」を自分に問いかけることで、普段意識していなかった問題関心を発見することができる。
さらに一歩進めようとするとき、参考になるのは巻末の解説である。解説の多くは、作者の経歴や他の作品との関係でどのような特徴があるか、等が書かれている。作り手の時代性と経験についての情報が載っているのだ。この情報をもとに、自分の時代性と経験と共通している部分や違う部分がわかる。そして、同調したり違和感を感じたりした理由について一定の結論を得ることができる。例えば、この思考は昔だからこそのもので、今ではこのように時代状況が変わったからつまらないと感じたのだ、といったものである。そして、この中で自己の経験を「時代代表」「世代代表」「日本人代表」といった感じで抽象化して意味づけると、単なる自分語りから社会論に近づいていって、ある程度客観性を持った批評に近いものが出来てくるだろう。
4.「間違い」も貴重な材料
他の科目の正答を得るための完璧主義が染み付いていると、素直な感覚に自信が持てないかもしれない。しかし、間違えても感想文として成立するのだ。とある少人数授業、ある人が報告の中でビル群を上空から写した写真について触れた。その人はアメリカ合衆国の都市の写真として語ろうとしたところ、説明文に中南米の都市の写真と書いてあるとの指摘が入った。報告者は間違いに気がつき、それまでの話を撤回しようとした。しかし先生は「アメリカ合衆国の都市の写真ということにして、進めたらどうか」と助言をした。結局報告者は撤回してしまったのだが、非常に興味深い体験であった。この間違いを題材に、ひとつ感想文が作れるのではないか。
説明文なしにその写真を見ると、報告者自身が間違えたように、アメリカ合衆国だと説明されても違和感がない。だが一方で、日本の都市と言う人はいないだろうし、ヨーロッパの都市にも見えない。アラブの都市にも見えない。ここで、同じ現代建築、無機質なビル群ですら地域によって性格が違うということを認識する。日本人が持っているイメージとして、アメリカ合衆国のそれに合致するのだ。中南米の都市には、アメリカ合衆国と共通するものがあるのかもしれない。写真をよく見てみると、都市の背後に開けた大地と空が広がっていることに気がつく。ビル群の周りには開放感がある。開拓地としての性格が共通していて、写真にも表現されているのだとわかる。しかしビル群の情景から中南米がイメージされることはまずない。日本にいる者として、中南米の「いま」を全然知らず、昔ながらの認識しかないことを思い知る。
こうした現実と認識の不一致の原因として、交流が少ないことが挙げられる。この交流を考えると、映画やドラマといった映像コンテンツの影響力が非常に強いことを感じたことがあった。以前の韓流ブームで、(韓国の方には申し訳ないが)知り合いには「これまで韓国というと騒擾と日の丸燃やすイメージしかなかったんだけど、ドラマで見て発展していると知って驚いた」と言う方がいたのだ。こうして進んでいるというイメージが一般にできると、他の場面にも影響が出てくる。例えば、韓国は法科大学院制度を日本に追って導入したが、その運用と成果に興味も出てくる。こういったことは国際政治の授業で学ぶソフトパワーの話につながるだろう。写真の解釈の間違いは、中南米のソフトパワーが日本まで十分に及んでいない一例とも言える。それとともに、世界にはまだ十分に知られていないけれども、もしかしたら胸を躍らせる映画やドラマが沢山眠っているのかもしれない、と認識させられる。
以上のように、ひとつの写真の「誤読」から様々な問題関心へと繋ぐことができた。作者の意図や写真の技術的なことなど一切出てきていないものの、ある程度客観的で、日本で生まれ育ってきて以前の韓流ブームにちょっと関心を持ったという、その人の個性が反映されたものになった。丁寧に書いて字数を増やせば、大学の教養科目でのレポートまでならある程度評価が来るのではなかろうか。
5.じゃまをする教養
このような方法で感想を思い描いたりそれを書き留めることについて、課題への対応ばかりでなく日常の楽しみとする場合を考えてみよう。これにはメリットもあればデメリットもある。メリットは、「エコ」な生活を送ることができることだ。写真ひとつ本一冊で読み込むのにも感想を練るのにも多くの時間をかけることになる。そうなると必然的に文化コンテンツを購入するペースは遅くなるし、少量で十分となる。それでいて劣等感が生まれることは少ない。草食系と言われる人には合っているように思う。
一方でデメリットは、教養の部類としては「じゃまをする教養」となり、社会に出てから役に立たない、そればかりかマイナスになることだ。多くの人は文化コンテンツに全く価値を見出していないか、大量消費社会ように文化の消費者として振舞っている。そういう人たちから見ると、「マイペースでフワフワしている奴」という印象を与えてしまう。人それぞれの突っ込んだ感想をききたい人はほとんどいない。話題に合わせるためにそれなりの情報を得て対応していても、心から乗り気でないと表に出てしまうもので、お互い違和感を感じてしまう。
ということで、学校で出される課題へのハウツーの限りで身につけるのがベストである。けれども個人的には、日常の楽しみとしても定着し、少しでも似た価値観の人が増えてくれたらいいな、と思っている。
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1.「要約力」
まず大事なことは、感想を書く対象について概要をまとめることだ。これはあくまで感想文の導入になるので、長すぎてはいけない。口頭で話すなら一言二言、文章にするなら1~2パラグラフに収めることが必要だ。短くまとめることは意外と難しい。対象について全体の構造を把握しないといけない。文章であったら、どこが主題でどこが例示なのか、など性質づけをしながら精読する必要がある。母国語だとなまじっか字面が追えてしまうために読解力がつきにくいので、要約を目的として精読する機会を作ることが大切だ。
こうした要約する力は、学力の基礎を作るので、取り組んで損はない。報告するにしても、大量の資料を添付して量で圧倒して悦に入る発展途上形では、議論が盛り上がらない。資料を自分の中で消化してどこまでコンパクトにまとめられるかが重要になってくる。具体的な要約の練習方法を考えてみると、私が小学生の頃通っていた四谷大塚という塾で、天声人語の要約と感想を書かせる宿題を出されたことを思い出す。今振り返ってみると、社説や天声人語は内容が面白くない上、小学生には荷が重い。年齢相応の説明文を用いるのがいい。中学高校になれば、専門家が書いたオピニオン欄を題材にするのがお勧めだ。専門論文を書ける人が一般読者に向かって意見を表明しているので、文章のレベルも高いし内容も面白いからだ。
大学以降の練習方法としては、講義を聴くことの大切さを強調したい。よく「教科書読めばいいでしょ」と言って講義に出ない人がいるが、勿体ないと思う。教科書に論文に資料集に様々なところに散らばっている専門知識について、講義では時間内に収めて説明できるよう、要約の作業が行われている。その上で学生は、試験の答案で書く或いは現実で活用するために、さらにもう一段の要約をする必要がある。そのとき講義で要約のお手本を見ていると、スムーズにいきやすい。しかし講義に出ないと、自力で最初から作業を行わないといけなくなり、大変だ。教科書読んでみたらうまく理解できない→入門書を買って読むという行動を繰り返すと、作業量がさらに増えて収拾がつかなくなる。
2.テクスト論
続いて感想の中身に入るが、小中学校の読書感想文では、「思ったことをありのまま自由に書きなさい」と指導されることが多いだろう。この考え方の基礎には、テクスト論があるように思う。テクスト論とは何であろうか。いい用語解説があったので引用する。なお、テクスト論を基礎として、他にも「コード」「脱構築」などテクスト分析の道具がある。教養学部での授業では、石原千秋他著『読むための理論』(世織書房)というのが教科書だったのだけど、amazonで見たら今は絶版になっているようだ。
テクスト論とは - コトバンクより引用:文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。
「読み手としての自分」―「文章そのもの」―「作り手としての作者」の3つを平等に置く。作り手にも読み手にも一定の時代性と経験が背後にあるのであり、異なる背景を持つ者が文章そのものに取り掛かれば、異なる読み方が出てくるのは当然ということになる。そして、読み手としても固有の感覚を基にした読み方を追求するのがよい、という感じになる。これにより、読み方に正解がないか気にすることなく、思ったことを自由に書いたほうがよい、という考えが生まれるだろう。そして、このようなアプローチだと、作品に対する予備知識を特別に必要としなくなる。巻末の解説のような、作者の事情を探求する方向でアプローチし始めると、他の作品を読んだり当時の時代状況について調べたり研究者のようなことをしないとマトモなことが書けなくなってしまうし、テクストからも離れすぎてしまう。
3.漠然と思ったことを深める方法
もっとも、日頃から様々なことに意識的に問題関心を寄せていなければ、思ったことを書けと言われても、漠然と「楽しかった」「面白かった」「興味深かった」「つまらなかった」程度しか出てこない。これではあまりに単調すぎるので、「○○が面白かった」「××のところが楽しかった」など、具体的な箇所を示して体裁を整える。多くの場合、これで終わりにしてしまうが、これを出発点としてさらに深めることが可能である。箇所の選択は適当に選んだのかもしれないが、自分の目に付いた箇所であることには変わりはない。「なぜここが自分の目に付いたのか」をちょっと考えてみるのである。
例えば、ある問題について登場人物がある行動をとった部分を箇所として選んだとする。それが楽しいと感じたならば、似た経験をしたことがあってそのときの自分のとった行動に似ていた、あの時こうしてればよかったと感じた、さらには自分は経験したことないが同じようなことができたらと思っている、などの理由が出てくる。一方、つまらないと感じたならば、もし自分だったらその行動をとらないし納得できない、自分が経験することが到底考えられない場面なので想像もできない、といった理由が出てくる。こうして「なぜ」を自分に問いかけることで、普段意識していなかった問題関心を発見することができる。
さらに一歩進めようとするとき、参考になるのは巻末の解説である。解説の多くは、作者の経歴や他の作品との関係でどのような特徴があるか、等が書かれている。作り手の時代性と経験についての情報が載っているのだ。この情報をもとに、自分の時代性と経験と共通している部分や違う部分がわかる。そして、同調したり違和感を感じたりした理由について一定の結論を得ることができる。例えば、この思考は昔だからこそのもので、今ではこのように時代状況が変わったからつまらないと感じたのだ、といったものである。そして、この中で自己の経験を「時代代表」「世代代表」「日本人代表」といった感じで抽象化して意味づけると、単なる自分語りから社会論に近づいていって、ある程度客観性を持った批評に近いものが出来てくるだろう。
4.「間違い」も貴重な材料
他の科目の正答を得るための完璧主義が染み付いていると、素直な感覚に自信が持てないかもしれない。しかし、間違えても感想文として成立するのだ。とある少人数授業、ある人が報告の中でビル群を上空から写した写真について触れた。その人はアメリカ合衆国の都市の写真として語ろうとしたところ、説明文に中南米の都市の写真と書いてあるとの指摘が入った。報告者は間違いに気がつき、それまでの話を撤回しようとした。しかし先生は「アメリカ合衆国の都市の写真ということにして、進めたらどうか」と助言をした。結局報告者は撤回してしまったのだが、非常に興味深い体験であった。この間違いを題材に、ひとつ感想文が作れるのではないか。
説明文なしにその写真を見ると、報告者自身が間違えたように、アメリカ合衆国だと説明されても違和感がない。だが一方で、日本の都市と言う人はいないだろうし、ヨーロッパの都市にも見えない。アラブの都市にも見えない。ここで、同じ現代建築、無機質なビル群ですら地域によって性格が違うということを認識する。日本人が持っているイメージとして、アメリカ合衆国のそれに合致するのだ。中南米の都市には、アメリカ合衆国と共通するものがあるのかもしれない。写真をよく見てみると、都市の背後に開けた大地と空が広がっていることに気がつく。ビル群の周りには開放感がある。開拓地としての性格が共通していて、写真にも表現されているのだとわかる。しかしビル群の情景から中南米がイメージされることはまずない。日本にいる者として、中南米の「いま」を全然知らず、昔ながらの認識しかないことを思い知る。
こうした現実と認識の不一致の原因として、交流が少ないことが挙げられる。この交流を考えると、映画やドラマといった映像コンテンツの影響力が非常に強いことを感じたことがあった。以前の韓流ブームで、(韓国の方には申し訳ないが)知り合いには「これまで韓国というと騒擾と日の丸燃やすイメージしかなかったんだけど、ドラマで見て発展していると知って驚いた」と言う方がいたのだ。こうして進んでいるというイメージが一般にできると、他の場面にも影響が出てくる。例えば、韓国は法科大学院制度を日本に追って導入したが、その運用と成果に興味も出てくる。こういったことは国際政治の授業で学ぶソフトパワーの話につながるだろう。写真の解釈の間違いは、中南米のソフトパワーが日本まで十分に及んでいない一例とも言える。それとともに、世界にはまだ十分に知られていないけれども、もしかしたら胸を躍らせる映画やドラマが沢山眠っているのかもしれない、と認識させられる。
以上のように、ひとつの写真の「誤読」から様々な問題関心へと繋ぐことができた。作者の意図や写真の技術的なことなど一切出てきていないものの、ある程度客観的で、日本で生まれ育ってきて以前の韓流ブームにちょっと関心を持ったという、その人の個性が反映されたものになった。丁寧に書いて字数を増やせば、大学の教養科目でのレポートまでならある程度評価が来るのではなかろうか。
5.じゃまをする教養
このような方法で感想を思い描いたりそれを書き留めることについて、課題への対応ばかりでなく日常の楽しみとする場合を考えてみよう。これにはメリットもあればデメリットもある。メリットは、「エコ」な生活を送ることができることだ。写真ひとつ本一冊で読み込むのにも感想を練るのにも多くの時間をかけることになる。そうなると必然的に文化コンテンツを購入するペースは遅くなるし、少量で十分となる。それでいて劣等感が生まれることは少ない。草食系と言われる人には合っているように思う。
一方でデメリットは、教養の部類としては「じゃまをする教養」となり、社会に出てから役に立たない、そればかりかマイナスになることだ。多くの人は文化コンテンツに全く価値を見出していないか、大量消費社会ように文化の消費者として振舞っている。そういう人たちから見ると、「マイペースでフワフワしている奴」という印象を与えてしまう。人それぞれの突っ込んだ感想をききたい人はほとんどいない。話題に合わせるためにそれなりの情報を得て対応していても、心から乗り気でないと表に出てしまうもので、お互い違和感を感じてしまう。
ということで、学校で出される課題へのハウツーの限りで身につけるのがベストである。けれども個人的には、日常の楽しみとしても定着し、少しでも似た価値観の人が増えてくれたらいいな、と思っている。
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高齢者の解雇法制について
高齢者(定年後、年金を受給しながら働く人を想定する)の雇用については、近い将来重要な課題になることが見込まれるが、通常の労働者と解雇権濫用法理の適用を等しくするべきか、という問題がある。この点について、横浜地判平成11年5月31日労判769号44頁(大京ライフ事件)は、①労働者が年金等を受給していること、②高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の努力義務を超えていることを理由に解雇権濫用法理の適用を緩和して判断を行っている。この判例に対しては、濫用法理の適用を緩和する理由が正当か疑問が出されている(小畑史子[判批]労働基準53巻4号26頁)。また、東京地判平成16年8月6日労判881号62頁(ユタカサービス事件)では使用者側が同様の主張をしたものの、裁判所はこの主張を考慮することなく判断を下しており、高齢者だから解雇が緩やかに認められるという規範は確立していない。
そこで緩和の理由、中でも①労働者が年金等を受給していることが正当と言えるかどうか検討する。そもそもなぜ解約の自由のうち解雇の自由が多くの国で規制されているかというと、解雇が経済的耐久力のない労働者に与える打撃の大きさを考慮したものだとされる(菅野和夫『労働法』第8版・444頁)。このような経済的打撃の大小という観点は、整理解雇の4要件(要素)のひとつ「人選の合理性」の中で、若年者は転職が比較的容易であり経済的打撃が低い、あるいは高年者は早期退職の退職金等で生活資金が豊富で年金の受給も近いため経済的打撃が低い、といったことが論じられており、具体的場面でも判断の材料として使われている。このことからすれば、高齢者の生活保障を目的とした老齢年金を受給していることから解雇制限の緩和を導いたとしても的外れというわけではない。もっとも、年金の受給水準が生活維持のために十分でないと言える場合には、緩和を導くことは難しいであろう。
しかし一方で、単純に「経済的打撃の大小」を問題とするなら、若くても保有資産が多い人は労働しても解雇されやすくなるのか、という疑問が出てこよう。保有資産の大小で解雇のしやすさが変わるというのは妥当でない。これと年金受給の場面はどのように違うかというと、「経済的打撃を和らげるものを国家が提供しているかどうか」という点を指摘することができよう。労働契約は本来契約自由の原則が妥当する私法上の契約ではあるが、現実として国民の生活保障という公共政策の一部を担わせられ、種々の規制がかかっているとみることができる。そして、社会保障制度との役割分担という観点から規制の強弱が変わってくるのであり、国家から十分に提供される場合には労働契約上の規制を及ぼす必要性は少なくなると言うことができるようになる。
日本の生活維持に関わる社会保障制度をみるにあたっては、(a)雇用のネット、(b)社会保険のネット、(c)生活保護のネットの三層構造になっているという整理が参考になる(湯浅誠『反貧困』(岩波新書・2008年)19頁)。(a)雇用のネットを既存の雇用の維持という方法で実現し、(b)もそれなりに用意するが、(c)は疎か、というのが日本のやり方ということになるだろう。アメリカは、(a)雇用のネットを自由な転職というかたちで機能させ、(c)生活保護のネットを用意するやり方をとっていると言える。高齢者の解雇の場面に話を戻すと、①年金等を受けていることは(b)社会保険のネットが働いているということであり、現にある労働契約に生活保障を担わせる必要性が低い、と言うことができる。こうなると、解雇制限の緩和は的外れではないと言うに止まらず積極的な評価が可能になる。【追記】仮にこれに反論するとすれば、年金は現役時代の払込みの対価であることを強調し、自己資産と同様にみるべきと主張することになるだろう。
労働契約の社会保障機能
労働契約が国民の生活保障という公共政策の一部を担わせられていることは「労働契約は社会保障機能をもつ」という言葉でまとめることができる。同様の機能をもつ私法上の契約として、他に不動産賃貸借契約を挙げることができる。不動産賃貸借契約の解除には信頼関係の法理が判例上確立しており、その理由として賃貸借契約が①継続的契約であること、②当事者の信頼を基礎とする契約であることを挙げることができる。しかし、弁護士の顧問契約も継続性と信頼性を兼ね備えたものであるが、解約に制限をつける必要性は考えられない。生活の基盤となる住居や事業所の維持が国民の生活保障に資する点に鑑み、公共政策の一部を担わせられているから、と説明するのが適切であろう。これは定期借地権の導入の議論にあたり「貸主が社会保障を国の代わりにやっている」と従来の法制への批判があったことからも見出される。【追記】また、公営住宅にも信頼関係の法理が適用されるとする最判昭和59年12月13日民集38巻12号1411頁も説明しやすいであろう。
なお、民法学では「官から民へ」の政策が進められるにあたり公共性をもつ契約として「制度的契約」という視点が提供され、自社年金契約が制度的契約であると松下年金裁判で意見書として出されるなど、さらに広い視点からの性格付けが議論されているが、詳細を整理できていないので立ち入らない(詳細は内田貴「制度的契約と関係的契約」新堂・内田編『継続的契約と商事法務』1頁、同氏のジュリストの連載等を参照)。
労働契約が社会保障機能をもち三層構造の一部をなしていることを意識することにより、労働法制や解釈論を考える場面において有益な指針を導くことができると考えられる。第一には、上で論じたように経済的打撃の大小といった「合理性」の判断枠組の中の視点を体系化・理論化することができる。第二には、「派遣切り」の問題がある。派遣労働は雇用調整が容易であるということに特性をもった労働契約形態であり、従来の(a)雇用のネットを崩すに等しい。したがって、日本国総体として生活保障の水準を維持するためには、転職のコストを下げるといった(a)雇用のネット内での対応に加え、(b)社会保険のネットあるいは(c)生活保護のネットを充実させることが必須であったが対応は乏しかった。このため現実に雇用調整が進められた場合に適切な生活保障のネットがないという事態に陥り、重大な社会問題になったと言うことができる。
第三には、労働時間の問題を挙げることができる。労働時間規制の目的としては、労働者の身体の保護、余暇の保障、ワークシェアリング、柔軟性・効率性等が挙げられている。このうち、社会保障機能との関係で注目すべきはワークシェアリングである。すなわち、一人の労働時間を短縮することにより、他者の労働の機会を増加させるということである。仮にこれを当否は別として社会保障政策として推進していくとすれば、(a)雇用のネットを充実させるという公益的理由から労働時間規制をかけることになるだろう。この際、労働契約が国民の生活保障という公共政策の一部を担わせられていることを重視すれば、より強力な形で推進することが可能となる。
従来、労働契約の特殊性と言えば、一般的には、①交渉力の不均衡(労働者は使用者より交渉力において弱い立場にある)、②継続性(状況の変化により変更が必要になる)、③集団性(秩序維持・公平性の観点が働く)、④白地性(契約は枠を提供するもので、具体的な労働の内容は決められていない)、⑤労務と人の不可分性(労働者の人格を保護する必要性がある)、が挙げられている。 社会保障機能は、このうち労務と人の不可分性の中のひとつですでに考慮されてきたものではあるが、独立して論じることにより、より明確になると考えられる。この社会保障機能は、解雇制限のように労働者自身に働く場面と、労働時間規制のように他の労働者との関係で働く場面とがある。後者の場面は経済規模の拡大が容易には見込めない現在の状況に照らすと、今後重要性を増していくと予想される。
【注意】以上の記述は一学生の試論であり、思考の材料としてではなく現実の事件に参考にするのは避けてください。
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高齢者(定年後、年金を受給しながら働く人を想定する)の雇用については、近い将来重要な課題になることが見込まれるが、通常の労働者と解雇権濫用法理の適用を等しくするべきか、という問題がある。この点について、横浜地判平成11年5月31日労判769号44頁(大京ライフ事件)は、①労働者が年金等を受給していること、②高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の努力義務を超えていることを理由に解雇権濫用法理の適用を緩和して判断を行っている。この判例に対しては、濫用法理の適用を緩和する理由が正当か疑問が出されている(小畑史子[判批]労働基準53巻4号26頁)。また、東京地判平成16年8月6日労判881号62頁(ユタカサービス事件)では使用者側が同様の主張をしたものの、裁判所はこの主張を考慮することなく判断を下しており、高齢者だから解雇が緩やかに認められるという規範は確立していない。
そこで緩和の理由、中でも①労働者が年金等を受給していることが正当と言えるかどうか検討する。そもそもなぜ解約の自由のうち解雇の自由が多くの国で規制されているかというと、解雇が経済的耐久力のない労働者に与える打撃の大きさを考慮したものだとされる(菅野和夫『労働法』第8版・444頁)。このような経済的打撃の大小という観点は、整理解雇の4要件(要素)のひとつ「人選の合理性」の中で、若年者は転職が比較的容易であり経済的打撃が低い、あるいは高年者は早期退職の退職金等で生活資金が豊富で年金の受給も近いため経済的打撃が低い、といったことが論じられており、具体的場面でも判断の材料として使われている。このことからすれば、高齢者の生活保障を目的とした老齢年金を受給していることから解雇制限の緩和を導いたとしても的外れというわけではない。もっとも、年金の受給水準が生活維持のために十分でないと言える場合には、緩和を導くことは難しいであろう。
しかし一方で、単純に「経済的打撃の大小」を問題とするなら、若くても保有資産が多い人は労働しても解雇されやすくなるのか、という疑問が出てこよう。保有資産の大小で解雇のしやすさが変わるというのは妥当でない。これと年金受給の場面はどのように違うかというと、「経済的打撃を和らげるものを国家が提供しているかどうか」という点を指摘することができよう。労働契約は本来契約自由の原則が妥当する私法上の契約ではあるが、現実として国民の生活保障という公共政策の一部を担わせられ、種々の規制がかかっているとみることができる。そして、社会保障制度との役割分担という観点から規制の強弱が変わってくるのであり、国家から十分に提供される場合には労働契約上の規制を及ぼす必要性は少なくなると言うことができるようになる。
日本の生活維持に関わる社会保障制度をみるにあたっては、(a)雇用のネット、(b)社会保険のネット、(c)生活保護のネットの三層構造になっているという整理が参考になる(湯浅誠『反貧困』(岩波新書・2008年)19頁)。(a)雇用のネットを既存の雇用の維持という方法で実現し、(b)もそれなりに用意するが、(c)は疎か、というのが日本のやり方ということになるだろう。アメリカは、(a)雇用のネットを自由な転職というかたちで機能させ、(c)生活保護のネットを用意するやり方をとっていると言える。高齢者の解雇の場面に話を戻すと、①年金等を受けていることは(b)社会保険のネットが働いているということであり、現にある労働契約に生活保障を担わせる必要性が低い、と言うことができる。こうなると、解雇制限の緩和は的外れではないと言うに止まらず積極的な評価が可能になる。【追記】仮にこれに反論するとすれば、年金は現役時代の払込みの対価であることを強調し、自己資産と同様にみるべきと主張することになるだろう。
労働契約の社会保障機能
労働契約が国民の生活保障という公共政策の一部を担わせられていることは「労働契約は社会保障機能をもつ」という言葉でまとめることができる。同様の機能をもつ私法上の契約として、他に不動産賃貸借契約を挙げることができる。不動産賃貸借契約の解除には信頼関係の法理が判例上確立しており、その理由として賃貸借契約が①継続的契約であること、②当事者の信頼を基礎とする契約であることを挙げることができる。しかし、弁護士の顧問契約も継続性と信頼性を兼ね備えたものであるが、解約に制限をつける必要性は考えられない。生活の基盤となる住居や事業所の維持が国民の生活保障に資する点に鑑み、公共政策の一部を担わせられているから、と説明するのが適切であろう。これは定期借地権の導入の議論にあたり「貸主が社会保障を国の代わりにやっている」と従来の法制への批判があったことからも見出される。【追記】また、公営住宅にも信頼関係の法理が適用されるとする最判昭和59年12月13日民集38巻12号1411頁も説明しやすいであろう。
なお、民法学では「官から民へ」の政策が進められるにあたり公共性をもつ契約として「制度的契約」という視点が提供され、自社年金契約が制度的契約であると松下年金裁判で意見書として出されるなど、さらに広い視点からの性格付けが議論されているが、詳細を整理できていないので立ち入らない(詳細は内田貴「制度的契約と関係的契約」新堂・内田編『継続的契約と商事法務』1頁、同氏のジュリストの連載等を参照)。
労働契約が社会保障機能をもち三層構造の一部をなしていることを意識することにより、労働法制や解釈論を考える場面において有益な指針を導くことができると考えられる。第一には、上で論じたように経済的打撃の大小といった「合理性」の判断枠組の中の視点を体系化・理論化することができる。第二には、「派遣切り」の問題がある。派遣労働は雇用調整が容易であるということに特性をもった労働契約形態であり、従来の(a)雇用のネットを崩すに等しい。したがって、日本国総体として生活保障の水準を維持するためには、転職のコストを下げるといった(a)雇用のネット内での対応に加え、(b)社会保険のネットあるいは(c)生活保護のネットを充実させることが必須であったが対応は乏しかった。このため現実に雇用調整が進められた場合に適切な生活保障のネットがないという事態に陥り、重大な社会問題になったと言うことができる。
第三には、労働時間の問題を挙げることができる。労働時間規制の目的としては、労働者の身体の保護、余暇の保障、ワークシェアリング、柔軟性・効率性等が挙げられている。このうち、社会保障機能との関係で注目すべきはワークシェアリングである。すなわち、一人の労働時間を短縮することにより、他者の労働の機会を増加させるということである。仮にこれを当否は別として社会保障政策として推進していくとすれば、(a)雇用のネットを充実させるという公益的理由から労働時間規制をかけることになるだろう。この際、労働契約が国民の生活保障という公共政策の一部を担わせられていることを重視すれば、より強力な形で推進することが可能となる。
従来、労働契約の特殊性と言えば、一般的には、①交渉力の不均衡(労働者は使用者より交渉力において弱い立場にある)、②継続性(状況の変化により変更が必要になる)、③集団性(秩序維持・公平性の観点が働く)、④白地性(契約は枠を提供するもので、具体的な労働の内容は決められていない)、⑤労務と人の不可分性(労働者の人格を保護する必要性がある)、が挙げられている。 社会保障機能は、このうち労務と人の不可分性の中のひとつですでに考慮されてきたものではあるが、独立して論じることにより、より明確になると考えられる。この社会保障機能は、解雇制限のように労働者自身に働く場面と、労働時間規制のように他の労働者との関係で働く場面とがある。後者の場面は経済規模の拡大が容易には見込めない現在の状況に照らすと、今後重要性を増していくと予想される。
【注意】以上の記述は一学生の試論であり、思考の材料としてではなく現実の事件に参考にするのは避けてください。
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今日の法務省の発表で労働問題が「関心対象」から「自分に切迫したこと」になってきたのだが、先日書いた『新しい労働社会』を紹介した記事になんと著者ご本人からコメントをいただくことができた。
「順風ESSAYS」さんに書評をいただきました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/essays-e2eb.html
まず、導入部分の記述について、次のような言葉をいただいた(部分的に引用しています)。
>「知的誠実さ」があるかどうか。それだけです。
>「分際」なんて言葉はやめましょう。
>「無礼」ということばをそういうときに用いるべきではありません。
自分の自信のなさは、実生活で将来が見えていないことに由来している側面があるのだが、こういうことを気にしていること自体が、知的誠実さに欠け属性に依存してしまっていて、仮に自分が「よき属性」を得てしまった場合に他者を見下す言動をしてしまう危険をもっているのではないかと気付かされた。このブログは極力属性を消して書いているが、逆にこれが属性志向の証左なのかもしれない。知的誠実さを忘れずに取り組んでいこうと思った。
次に、メンバーシップからの説明の新鮮さを紹介する部分については、次のようなコメントをいただいた。
>そうですね。序章で言ってることはすべて既存の議論で指摘されていることですが、メンバーシップ型雇用契約をいわば公理の地位において、そこからもろもろの特性をコロラリーとして導き出すという説明の仕方をここまで明確にとった例はあまりないかも知れません。
学部や法科大学院での労働法の授業では、解雇規制をまず扱い、その後に就業規則、賃金、という流れになることが多く、このことによって頭の中の整理として解雇規制を出発点に考えてしまいがちになるのだろう。例えば、就業規則の場面では、「柔軟性」の議論が出てきて、解雇規制とのバランスを考えれば現行法制のあり方も納得できる、というかたちの説明がよくされる。
「労働契約の白地性」の他にも「日本の就職の実質は就社だ」といった表現は以前からよく語られてきたもので、他の方の書評で議論されている「メンバーシップという概念がいつ語られ始めたか」というのは重要ではなく、それがどのように現実の法制に影響を与えているかを整理している点において、法学部等で労働法を学ぶ人にとって新しい視点を与えるものだと思う。
最後に、本書で提示する解決策について抱いた感想については、次のようなコメントをいただいた。
>そうですね。ただ、その「一般向けの訴求力」の「一般」というのは、当事者じゃない野次馬的観客でしょう。彼らには地味な改革よりも抜本的な革命が「ウケ」る。しかし、現実にはそんなことはほとんど不可能なので、それは「革命を夢見て畳で寝そべる」だけになりがちです。一方で、私も議論がいささか「玄人ウケ」に走りすぎていないか、反省すべき点もあるのでしょう。「リアルな改革」の世間へのウリ方が今後の検討課題かも知れません。
この部分は、自分自身が解決策の部分のまとめに難儀してしまい、予備知識に乏しい方にとってはさらに難しくなるのではないかと感じたことから記述に至ったものだ。明快な序章のペースで読むとこういう事態に陥るかもしれない。本書では106頁周辺が全体の議論の大枠をつかむ手がかりになるので、同様に難儀してしまった方は参考にするといいと思う。
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「順風ESSAYS」さんに書評をいただきました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/essays-e2eb.html
まず、導入部分の記述について、次のような言葉をいただいた(部分的に引用しています)。
>「知的誠実さ」があるかどうか。それだけです。
>「分際」なんて言葉はやめましょう。
>「無礼」ということばをそういうときに用いるべきではありません。
自分の自信のなさは、実生活で将来が見えていないことに由来している側面があるのだが、こういうことを気にしていること自体が、知的誠実さに欠け属性に依存してしまっていて、仮に自分が「よき属性」を得てしまった場合に他者を見下す言動をしてしまう危険をもっているのではないかと気付かされた。このブログは極力属性を消して書いているが、逆にこれが属性志向の証左なのかもしれない。知的誠実さを忘れずに取り組んでいこうと思った。
次に、メンバーシップからの説明の新鮮さを紹介する部分については、次のようなコメントをいただいた。
>そうですね。序章で言ってることはすべて既存の議論で指摘されていることですが、メンバーシップ型雇用契約をいわば公理の地位において、そこからもろもろの特性をコロラリーとして導き出すという説明の仕方をここまで明確にとった例はあまりないかも知れません。
学部や法科大学院での労働法の授業では、解雇規制をまず扱い、その後に就業規則、賃金、という流れになることが多く、このことによって頭の中の整理として解雇規制を出発点に考えてしまいがちになるのだろう。例えば、就業規則の場面では、「柔軟性」の議論が出てきて、解雇規制とのバランスを考えれば現行法制のあり方も納得できる、というかたちの説明がよくされる。
「労働契約の白地性」の他にも「日本の就職の実質は就社だ」といった表現は以前からよく語られてきたもので、他の方の書評で議論されている「メンバーシップという概念がいつ語られ始めたか」というのは重要ではなく、それがどのように現実の法制に影響を与えているかを整理している点において、法学部等で労働法を学ぶ人にとって新しい視点を与えるものだと思う。
最後に、本書で提示する解決策について抱いた感想については、次のようなコメントをいただいた。
>そうですね。ただ、その「一般向けの訴求力」の「一般」というのは、当事者じゃない野次馬的観客でしょう。彼らには地味な改革よりも抜本的な革命が「ウケ」る。しかし、現実にはそんなことはほとんど不可能なので、それは「革命を夢見て畳で寝そべる」だけになりがちです。一方で、私も議論がいささか「玄人ウケ」に走りすぎていないか、反省すべき点もあるのでしょう。「リアルな改革」の世間へのウリ方が今後の検討課題かも知れません。
この部分は、自分自身が解決策の部分のまとめに難儀してしまい、予備知識に乏しい方にとってはさらに難しくなるのではないかと感じたことから記述に至ったものだ。明快な序章のペースで読むとこういう事態に陥るかもしれない。本書では106頁周辺が全体の議論の大枠をつかむ手がかりになるので、同様に難儀してしまった方は参考にするといいと思う。
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濱口桂一郎著『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』岩波新書・2009年
学生の分際で先生方の文献を分類するのは無礼なことであるが、資料集めのとき著者の文献は「信頼できる」カテゴリに入れる。著者はヨーロッパの政策に通暁し、ブログで一般向けにも積極的に情報発信しており、時に他のブログ(池田信夫氏)とケンカしている。先日、飲み会の前にふと本屋に立ち寄った際にこの本を見つけて、序章を読んで買うことを即決した。序章では日本の雇用システムの特徴を述べているのだが、この記述が見事に整理されていたからだ。
これまで私は、解雇規制を出発点として挙げ、これと整合的にするために他の部分(配転や労働時間・労働条件変更)を犠牲にする仕組みで、戦時中から高度経済成長期にかけて歴史的に確立していった、という感じで説明することにしていた。これに対し本書では、欧米の「ジョブ型」と対比して日本の雇用は「メンバーシップ型」であると位置づけ、その帰結として各種の特徴を導き出す。「メンバーシップ型」というのは、具体的にどういう職務をするのか明らかでないまま労働者は使用者に言われたことを何でもやることを約束するというもので、「労働契約の白地性」として指摘されてきたものだ。これがどのように働くか、いくつかの点について整理すると次のようになるだろう。
日本の雇用は会社へのメンバーシップの獲得である
→1:職務がなくなっても異動の可能性がある限り解雇できない(解雇制限)
→2:職務が特定されていないから職務を賃金の基準にできない(年功賃金)
→3:職務が明確でないから産業別で条件を揃えるのが難しい(企業別組合)
→4:労働者は頻繁に職務を変えるので専門性が身につかず転職しにくくなる
→5:労働者個人の職務の範囲が無限となり長時間労働になる
→6:メンバーでない非正規・女性労働者の待遇は著しく低い
解雇規制からスタートするとこれを緩和すれば他の部分も変わっていくという発想になりやすいが、メンバーシップの観点から説明するとそう容易い問題ではないと気付かされる。以上のことを前提として、第1章は正社員の長時間労働、第2章は非正規労働者の待遇、第3章は賃金体系と社会保障制度、第4章は労使協議のあり方・立法協議のあり方という現在の労働社会の大きな問題点を整理し、解決策の提案がされている。
各種解決策の特徴としては、実現性を重視して、抜本的な変更というより現状の修正という性格が強いことが指摘できる。例えば、正規と非正規の格差是正について「同一労働同一賃金」を目指すといっても日本では「同一労働」の物差しが作りにくい、それでは勤続期間をひとつの指標にしてはどうか、という主張や、労働者代表組織について非自発的結社・使用者からの独立性等の性質をもつ組織が必要としながら、企業別組合の存在に照らすと非正規労働者を包括した企業別組合が唯一の可能性である、といった主張が挙げられる。そのために、進むべき方向性を明快な一言で表すことが難しく、各論ごとに丁寧にみていく必要がある。専門的議論としては実に適切なことだが、一般向けの訴求力という点においてはあまり強くないのでは、と感じた。
ジョブ型雇用契約の並行導入
以上が本の紹介で、上手にまとめきれず忸怩たる思いなのだが、日本の労働問題について関心があったらぜひとも手にとって、一度字面を追うだけでなく精読を試みてほしい。以下では、本書を読んで個人的に考えてみた方策を書いてみることにする。その概要は、日本の雇用の本質はメンバーシップ型であるという点に鑑み、その対置として欧米式の職務を基準としたジョブ型雇用契約に適合した法制を並行して敷き、企業によって方式を選択できるようにし、雇用に関する異なる契約形態で制度間競争をしてみよう、というものだ。ジョブ型、すなわち職務を明確にしその範囲でのみ労働者が義務を負う形態での法制としては、次のようなものが考えられる。
・採用における年齢差別及び性差別禁止の厳格化
・同一労働同一賃金の徹底
・配転について労働者個別の同意が必要
・労働時間規制の厳格化(逆に柔軟化?)
・職務がなくなったことによる解雇は正当な理由として認める
・子ども手当・住宅手当等の公的な生活支援の(追加)支給対象とする
・公的な職業訓練との連携を強化/教育訓練給付制度の強化
・労使委員会の形成義務・産業間のつながり
・メンバーシップ型からの移行に際しては賃金後払い分の清算金を支払う必要あり
このような方策を考えた理由としては、第一に、メンバーシップ型という基本を堅持する以上、非正規で長期間働いてきた人が正規雇用のルートに乗ることは非常に難しく、均衡処遇によって賃金格差が少し是正されるくらいで、絶望の境遇は根本的には変わらないのではないかと思ったからである。ジョブ型だと企業にとっては採用して一生面倒をみることは求められないから、必要な職務を遂行できるかどうかという観点で人材を集めることができ、労働者にとっても年齢に関わらず、職業訓練を積んで能力を得れば採用にこぎつけることができるようになる。
第二に、いわゆる高学歴難民のミスマッチとして専門性を生かす具体的な職務を求める希望に答えるものが日本型の採用方式では用意されていないということもある。第三には、若年者にとって定年まで会社が存続していると期待するには心もとない競争環境があり(少なくとも再編が何度かあり会社名も変わるだろう)、長期雇用の下で賃金を後から取り返す仕組みではモチベーションが上がっていない、ということがある。自ら他でも通用する能力を養っていくほうが若年者の希望に応えるのではないか。また、職務の範囲を明確化することで労働時間の長時間化も防ぎやすくなり、ワークライフバランスが図られ、若年者のライフスタイルにも合致しよう。その一方で賃金では生活保障の性格が薄くなるため公的な補助が必要となるし、不況時の失業も出やすくなるのでその際の生活保障も公的な仕組みで用意する必要がある。
具体化しようとすると困難は非常に多い。解雇規制の緩和は魅力的で、新しく日本に参入する外資系企業にとっては自国の流儀が多く通用するということで採用するかもしれないが、いわゆる「日本的雇用」の根本を異にするので反発も多いだろう。どちらがより高い生産性を挙げることができるかは制度間競争で試すことになるが、同一労働の基準や産業別の合意を図るための労使協議の基盤形成では、最初の段階で多くの企業が採用するに至らないと、基本的な部分が確立できないことになる。行政や司法が代わりの役割を一時的にでも果たすことができるかは不明である。
簡単な思いつきから色々と考えを進めていってしまった。こういう場合、難題にぶつかっておじゃんになるのが常で、今回もそういう感じになってしまっているのだが(mixiで友人向けに議論提起してみたほうがよかったかも)、偶々これを読んでくれた方が鮮やかな発想で何か新しいものを生んでくれたらいいな、ということで記事をアップすることにした。
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学生の分際で先生方の文献を分類するのは無礼なことであるが、資料集めのとき著者の文献は「信頼できる」カテゴリに入れる。著者はヨーロッパの政策に通暁し、ブログで一般向けにも積極的に情報発信しており、時に他のブログ(池田信夫氏)とケンカしている。先日、飲み会の前にふと本屋に立ち寄った際にこの本を見つけて、序章を読んで買うことを即決した。序章では日本の雇用システムの特徴を述べているのだが、この記述が見事に整理されていたからだ。
これまで私は、解雇規制を出発点として挙げ、これと整合的にするために他の部分(配転や労働時間・労働条件変更)を犠牲にする仕組みで、戦時中から高度経済成長期にかけて歴史的に確立していった、という感じで説明することにしていた。これに対し本書では、欧米の「ジョブ型」と対比して日本の雇用は「メンバーシップ型」であると位置づけ、その帰結として各種の特徴を導き出す。「メンバーシップ型」というのは、具体的にどういう職務をするのか明らかでないまま労働者は使用者に言われたことを何でもやることを約束するというもので、「労働契約の白地性」として指摘されてきたものだ。これがどのように働くか、いくつかの点について整理すると次のようになるだろう。
日本の雇用は会社へのメンバーシップの獲得である
→1:職務がなくなっても異動の可能性がある限り解雇できない(解雇制限)
→2:職務が特定されていないから職務を賃金の基準にできない(年功賃金)
→3:職務が明確でないから産業別で条件を揃えるのが難しい(企業別組合)
→4:労働者は頻繁に職務を変えるので専門性が身につかず転職しにくくなる
→5:労働者個人の職務の範囲が無限となり長時間労働になる
→6:メンバーでない非正規・女性労働者の待遇は著しく低い
解雇規制からスタートするとこれを緩和すれば他の部分も変わっていくという発想になりやすいが、メンバーシップの観点から説明するとそう容易い問題ではないと気付かされる。以上のことを前提として、第1章は正社員の長時間労働、第2章は非正規労働者の待遇、第3章は賃金体系と社会保障制度、第4章は労使協議のあり方・立法協議のあり方という現在の労働社会の大きな問題点を整理し、解決策の提案がされている。
各種解決策の特徴としては、実現性を重視して、抜本的な変更というより現状の修正という性格が強いことが指摘できる。例えば、正規と非正規の格差是正について「同一労働同一賃金」を目指すといっても日本では「同一労働」の物差しが作りにくい、それでは勤続期間をひとつの指標にしてはどうか、という主張や、労働者代表組織について非自発的結社・使用者からの独立性等の性質をもつ組織が必要としながら、企業別組合の存在に照らすと非正規労働者を包括した企業別組合が唯一の可能性である、といった主張が挙げられる。そのために、進むべき方向性を明快な一言で表すことが難しく、各論ごとに丁寧にみていく必要がある。専門的議論としては実に適切なことだが、一般向けの訴求力という点においてはあまり強くないのでは、と感じた。
ジョブ型雇用契約の並行導入
以上が本の紹介で、上手にまとめきれず忸怩たる思いなのだが、日本の労働問題について関心があったらぜひとも手にとって、一度字面を追うだけでなく精読を試みてほしい。以下では、本書を読んで個人的に考えてみた方策を書いてみることにする。その概要は、日本の雇用の本質はメンバーシップ型であるという点に鑑み、その対置として欧米式の職務を基準としたジョブ型雇用契約に適合した法制を並行して敷き、企業によって方式を選択できるようにし、雇用に関する異なる契約形態で制度間競争をしてみよう、というものだ。ジョブ型、すなわち職務を明確にしその範囲でのみ労働者が義務を負う形態での法制としては、次のようなものが考えられる。
・採用における年齢差別及び性差別禁止の厳格化
・同一労働同一賃金の徹底
・配転について労働者個別の同意が必要
・労働時間規制の厳格化(逆に柔軟化?)
・職務がなくなったことによる解雇は正当な理由として認める
・子ども手当・住宅手当等の公的な生活支援の(追加)支給対象とする
・公的な職業訓練との連携を強化/教育訓練給付制度の強化
・労使委員会の形成義務・産業間のつながり
・メンバーシップ型からの移行に際しては賃金後払い分の清算金を支払う必要あり
このような方策を考えた理由としては、第一に、メンバーシップ型という基本を堅持する以上、非正規で長期間働いてきた人が正規雇用のルートに乗ることは非常に難しく、均衡処遇によって賃金格差が少し是正されるくらいで、絶望の境遇は根本的には変わらないのではないかと思ったからである。ジョブ型だと企業にとっては採用して一生面倒をみることは求められないから、必要な職務を遂行できるかどうかという観点で人材を集めることができ、労働者にとっても年齢に関わらず、職業訓練を積んで能力を得れば採用にこぎつけることができるようになる。
第二に、いわゆる高学歴難民のミスマッチとして専門性を生かす具体的な職務を求める希望に答えるものが日本型の採用方式では用意されていないということもある。第三には、若年者にとって定年まで会社が存続していると期待するには心もとない競争環境があり(少なくとも再編が何度かあり会社名も変わるだろう)、長期雇用の下で賃金を後から取り返す仕組みではモチベーションが上がっていない、ということがある。自ら他でも通用する能力を養っていくほうが若年者の希望に応えるのではないか。また、職務の範囲を明確化することで労働時間の長時間化も防ぎやすくなり、ワークライフバランスが図られ、若年者のライフスタイルにも合致しよう。その一方で賃金では生活保障の性格が薄くなるため公的な補助が必要となるし、不況時の失業も出やすくなるのでその際の生活保障も公的な仕組みで用意する必要がある。
具体化しようとすると困難は非常に多い。解雇規制の緩和は魅力的で、新しく日本に参入する外資系企業にとっては自国の流儀が多く通用するということで採用するかもしれないが、いわゆる「日本的雇用」の根本を異にするので反発も多いだろう。どちらがより高い生産性を挙げることができるかは制度間競争で試すことになるが、同一労働の基準や産業別の合意を図るための労使協議の基盤形成では、最初の段階で多くの企業が採用するに至らないと、基本的な部分が確立できないことになる。行政や司法が代わりの役割を一時的にでも果たすことができるかは不明である。
簡単な思いつきから色々と考えを進めていってしまった。こういう場合、難題にぶつかっておじゃんになるのが常で、今回もそういう感じになってしまっているのだが(mixiで友人向けに議論提起してみたほうがよかったかも)、偶々これを読んでくれた方が鮮やかな発想で何か新しいものを生んでくれたらいいな、ということで記事をアップすることにした。
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今橋映子著『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 』(中公新書・2008年)
「フォト・リテラシー」という言葉は何だか聞き慣れない。これについては、次のような意味をもつと整理できる(8頁参照)。
(1)写真(とくに報道写真)を芸術的・社会的文脈で分析・評価できる力
(2)分析・評価の知識や倫理をもって問題への認識を高める力
より広い概念である「メディア・リテラシー」は(1)のうち社会的文脈での分析力を言うことが多い。写真は芸術性を兼ね備えているため、芸術的という視角が加えられている。また、(2)は情報の送り手だけでなく受け手の側の倫理性の問題で、あまり強調されないがメディア・リテラシーの概念に当初より含まれているとのことだ。
そして、本書は(1)に対応するものとして第1部・第2部(第1章~第6章)が充てられており、構造主義的ではなく歴史的な観点から様々な問題が取り上げられている。「写真が事実をありのままに映している」という思い込みに対して、報道写真成立史から「制作物」としての側面があることを示す。また、日本の報道写真雑誌や写真集の歴史を丁寧にみていくことで、芸術と報道をはっきりと分けることができないということを指摘する。
続いて(2)に対応するものとして第3部(第7章~第9章)が割り当てられており、大きく3つのテーマを扱っている。第7章は主に撮る側の倫理の問題を、報道写真の大家の作品にオリエンタリズムがないのか、ヒューマニズムを標榜する作品にアメリカ的普遍主義の宣伝が含まれていないか、後の写真史の展開とともに考えさせる。第8章は見る側の倫理の問題として、衝撃的な写真を見て見る側は何か行動するのか、しないとして写真は無意味なのか、とソンタグのサルガド評を題材に考えさせる。第9章は写真が写しきれていない事柄をどのように表現するのか、ホロコーストの表現の仕方を題材に考えさせる。
以上のような本書の本筋を離れても、紹介される写真家の様々な試みは非常に興味深い。例えば、パリからヴェネツィアまで面識のない男性の後を尾行して後姿を淡々と撮影した写真集があるらしい。文字で見るだけでもスリルを感じる。個人的には、防犯カメラの映像を組み合わせてある男女の恋の成就の過程を描写する作品があったら監視社会というテーマも入って面白いな、と何年も前から思っているのだが(締めの言葉は「大丈夫、カメラはあなたの大切な思い出を記録しています」なんて)、実際に同様の作品は出ているのだろうか。
実は私、教養課程時代に著者の講義等を履修し、この本の生成過程の一部を目撃している。当時の配布物等を改めてみると、本書で紹介されているテーマや具体例を豊富に見つけることができる。浅学非才な私はそれらを体系的に理解することができず、この本を読むことでようやく復習をなすに至る。ということで、これからの記述は、数年遅れの簡素で出来の悪いレポートのようなものである。
報道写真の構図
まず(1)写真の分析・評価について、自己流の鑑賞の仕方をまとめることにする。本来ならテクスト論とか勉強してから専門的に論じたいが、法学の方角に進んでしまったため一般人の感想にとどまる。とりあえず下の画像は、全体像を図に表したものだ。
まず、「報道」写真という特性として、写真を制作するのは被写体自らでなく中間者(編集者+撮影者)であるという点がある。見る者は基本的に中間者が撮った写真を通してしか、被写体について情報を得ることができない。また、被写体も自らの意図を中間者の意図より強く反映させることができない。とりわけ「決定的瞬間」を謳う作品では被写体はポーズをとる権利すら与えられていない。横を通る大きな矢印はこのことを表現したものだ。
そして中間者の意図が反映する要素として主なものを挙げると、次のようになる。
構図と対象選択:例えば、戦争で兵士と市民のどちらを見るか
色合い:ポジティブな印象を与えるか、逆か
カラーかモノクロか:事実を強調するか普遍的なテーマを求めるか
キャプション(説明文):写真の中のどの部分を注目してもらいたいか等
組写真での配置:時系列やテーマの流れの中で読んでもらう
記事:報道の雑誌では記事の主張が主体となり写真は従属的
中間者には撮影者と編集者があり、力関係が媒体によって異なってくる。個展は基本的に撮影者の意図を大きく反映させることができるが、媒体力の強い新聞や雑誌は編集者の意図がほとんどである。写真集は撮影者が主体となれるが、編集者の力も強い。本書でも、ユージン・スミスの名作「スペインの村」が撮影者の政治的意図を編集者が骨抜きにして写真の選択や配置を変更し、撮影者が「失敗作」と述べていると紹介されている。
編集者による作為は予想以上に大きいもので、誤りも導いている。『戦争広告代理店』では、ユーゴ紛争でナチスを模した収容所・民族浄化の証拠として用いられた写真はスクープ欲しさにあまり関係ない写真を新聞が大きく取り上げた、ということが指摘されているし、本書でも、ウクライナでの処刑場に連行される人たちの写真がポーランドのナチスの収容所のガス室に連れて行かれる写真として扱われているなど、途方もない間違いの指摘が紹介されている。
以上が撮影者と編集者からの写真への矢印の構図である。これに本書で紹介される写真史的な知識を加えてみれば、一応完成されるだろう。以上のような「制作物」としての作為性を見る者がすべて見抜き、真の正解に辿り着くというのは不可能である。ではこういう分析は無意味かというと、「証拠写真」として安易に飛びつく態度を避け、慎重さをもって視線を投げかけるというだけでも十分な意義があるだろう。この構図を念頭に置くと、鑑賞の手助けにもなる。先日何年かぶりに世界報道写真展に行ったので、別記事で実際の報道写真を素材として感想を書いてみたいと思っている(【追記】感想記事はこちら)。
戦争への視線
続いて、(2)倫理の側面として、第8章のソンタグのサルガド評から戦争写真のあり方について考えてみたい。サルガドは、有名な報道写真家であり(作品例:googleイメージ検索)、大規模な写真プロジェクトを立ち上げ、圧倒的なスペクタクルと目を背けたくなる悲惨な現実を共に伝えるような表現をしている。一方、ソンタグはアメリカの女性批評家で、『写真論』といった写真に関する著作で有名であった(故人である)。
ソンタグはサルガドの作品について、「人間家族」といった神聖めいたテーマの下で原因も種類も異なる数多の悲惨をひと括りにし、見る人の関心を引くかもしれないが壮大すぎて何をしても状況を変えることができないという無力感を与え、抽象的な印象にしかならない、と批判する(196頁)。その現われとして、作品のキャプションで被写体となった者の名前を付さない点を鋭く指摘する(ちなみに、被写体に密着取材し被写体の名前もよく記す写真家としては長倉洋海氏がいる)。私もサルガドの「ESSAYS」展に足を運び、モノトーンで濃淡を操作して制作している点に普遍性を強調したい意図があるのでは、といったレポートを書いた憶えがある。
普遍性と壮大なスケールを強調する写真はかえって見る者に働きかける力が弱いのではないか、この指摘には納得できる部分が多いだろう。例えば、太平洋戦争での原爆被害の衝撃が大きく兵器を悪とし戦争を絶対悪とする日本的な考え方は、あまりにも大きな相手を設定するので(兵器の廃絶は、自発性に委ねると囚人のジレンマで正直に放棄した者がつけこまれる状況にあり、全ての国が同時に放棄する以外には「刀狩り」をするしかない)、かえって戦後生じた様々な戦争に対する抑止・防止のための具体的な行動が諸外国ほど活発でなかった(特にイラク戦争)、と言うことができないだろうか。
現在は、巨大な国民国家同士が存亡を賭けて争う戦争は起こっておらず、市街地への無差別な絨毯爆撃も行われることがない。ホロコーストの教訓は宥和政策でこの悲惨な状況を放置したことへの反省であり、正義の戦争をかきたてるものであるとの理解も十分でない(参考:藤原帰一『戦争を記憶する』)。正義の戦争がありうるとした上で実利のために大義を捏造する人たちがいるという問題、テロという非国家組織を相手にしないといけないという問題、こうした現代特有の個別の問題点が捨象されてしまっているように思える。
このような状況に照らせば、個別具体的に戦争や紛争の原因や背景を丹念に調べ上げ、解決策を想起させるような表現方法のほうが有効だと考えられる。もっとも、サルガドのような普遍的なスペクタクルは完全に無意味と言うわけではない。本書でも紹介される池澤氏による評で、美しいが故に深く記憶に残るのではないか、という指摘がある(200頁)。深く残る記憶は、人々に関心を向けた上で永久的に留める力をもつというのだ。
この点について、私は、スペクタクル写真にはより強い力が秘められていると思う。深く胸に突き刺さった悲惨な光景は、解決を探り具体的な行動をしていて壁に突き当たったとき、心を折らず、諦めずにもう少し頑張ろう、と駆り立てる力を提供する。一度取り掛かった人類の大仕事を成し遂げる心の支えとなるのだ。その意味で、サルガドの写真には、無意味ではないと消極的な評価にとどまらず、やはり積極的な評価を与えてよいだろう。そして、具体性を追求する作品と協力し合えるものだと言えよう。
ということで、本書から一歩進めた指摘まで辿り着いたところで筆を置くとしよう。これは本書が扱った倫理的問題のひとつであり、他にも考える材料がたくさん含まれているので、興味があったら書店で手にとって、色々と思考を巡らせてみて欲しい。アフェリエイト始めたほうがいいかな?
※ないとは思いますが、くれぐれも不出来な先輩の感想文をレポートで丸写しなんてことはしないでね。
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「フォト・リテラシー」という言葉は何だか聞き慣れない。これについては、次のような意味をもつと整理できる(8頁参照)。
(1)写真(とくに報道写真)を芸術的・社会的文脈で分析・評価できる力
(2)分析・評価の知識や倫理をもって問題への認識を高める力
より広い概念である「メディア・リテラシー」は(1)のうち社会的文脈での分析力を言うことが多い。写真は芸術性を兼ね備えているため、芸術的という視角が加えられている。また、(2)は情報の送り手だけでなく受け手の側の倫理性の問題で、あまり強調されないがメディア・リテラシーの概念に当初より含まれているとのことだ。
そして、本書は(1)に対応するものとして第1部・第2部(第1章~第6章)が充てられており、構造主義的ではなく歴史的な観点から様々な問題が取り上げられている。「写真が事実をありのままに映している」という思い込みに対して、報道写真成立史から「制作物」としての側面があることを示す。また、日本の報道写真雑誌や写真集の歴史を丁寧にみていくことで、芸術と報道をはっきりと分けることができないということを指摘する。
続いて(2)に対応するものとして第3部(第7章~第9章)が割り当てられており、大きく3つのテーマを扱っている。第7章は主に撮る側の倫理の問題を、報道写真の大家の作品にオリエンタリズムがないのか、ヒューマニズムを標榜する作品にアメリカ的普遍主義の宣伝が含まれていないか、後の写真史の展開とともに考えさせる。第8章は見る側の倫理の問題として、衝撃的な写真を見て見る側は何か行動するのか、しないとして写真は無意味なのか、とソンタグのサルガド評を題材に考えさせる。第9章は写真が写しきれていない事柄をどのように表現するのか、ホロコーストの表現の仕方を題材に考えさせる。
以上のような本書の本筋を離れても、紹介される写真家の様々な試みは非常に興味深い。例えば、パリからヴェネツィアまで面識のない男性の後を尾行して後姿を淡々と撮影した写真集があるらしい。文字で見るだけでもスリルを感じる。個人的には、防犯カメラの映像を組み合わせてある男女の恋の成就の過程を描写する作品があったら監視社会というテーマも入って面白いな、と何年も前から思っているのだが(締めの言葉は「大丈夫、カメラはあなたの大切な思い出を記録しています」なんて)、実際に同様の作品は出ているのだろうか。
実は私、教養課程時代に著者の講義等を履修し、この本の生成過程の一部を目撃している。当時の配布物等を改めてみると、本書で紹介されているテーマや具体例を豊富に見つけることができる。浅学非才な私はそれらを体系的に理解することができず、この本を読むことでようやく復習をなすに至る。ということで、これからの記述は、数年遅れの簡素で出来の悪いレポートのようなものである。
報道写真の構図
まず(1)写真の分析・評価について、自己流の鑑賞の仕方をまとめることにする。本来ならテクスト論とか勉強してから専門的に論じたいが、法学の方角に進んでしまったため一般人の感想にとどまる。とりあえず下の画像は、全体像を図に表したものだ。
まず、「報道」写真という特性として、写真を制作するのは被写体自らでなく中間者(編集者+撮影者)であるという点がある。見る者は基本的に中間者が撮った写真を通してしか、被写体について情報を得ることができない。また、被写体も自らの意図を中間者の意図より強く反映させることができない。とりわけ「決定的瞬間」を謳う作品では被写体はポーズをとる権利すら与えられていない。横を通る大きな矢印はこのことを表現したものだ。
そして中間者の意図が反映する要素として主なものを挙げると、次のようになる。
構図と対象選択:例えば、戦争で兵士と市民のどちらを見るか
色合い:ポジティブな印象を与えるか、逆か
カラーかモノクロか:事実を強調するか普遍的なテーマを求めるか
キャプション(説明文):写真の中のどの部分を注目してもらいたいか等
組写真での配置:時系列やテーマの流れの中で読んでもらう
記事:報道の雑誌では記事の主張が主体となり写真は従属的
中間者には撮影者と編集者があり、力関係が媒体によって異なってくる。個展は基本的に撮影者の意図を大きく反映させることができるが、媒体力の強い新聞や雑誌は編集者の意図がほとんどである。写真集は撮影者が主体となれるが、編集者の力も強い。本書でも、ユージン・スミスの名作「スペインの村」が撮影者の政治的意図を編集者が骨抜きにして写真の選択や配置を変更し、撮影者が「失敗作」と述べていると紹介されている。
編集者による作為は予想以上に大きいもので、誤りも導いている。『戦争広告代理店』では、ユーゴ紛争でナチスを模した収容所・民族浄化の証拠として用いられた写真はスクープ欲しさにあまり関係ない写真を新聞が大きく取り上げた、ということが指摘されているし、本書でも、ウクライナでの処刑場に連行される人たちの写真がポーランドのナチスの収容所のガス室に連れて行かれる写真として扱われているなど、途方もない間違いの指摘が紹介されている。
以上が撮影者と編集者からの写真への矢印の構図である。これに本書で紹介される写真史的な知識を加えてみれば、一応完成されるだろう。以上のような「制作物」としての作為性を見る者がすべて見抜き、真の正解に辿り着くというのは不可能である。ではこういう分析は無意味かというと、「証拠写真」として安易に飛びつく態度を避け、慎重さをもって視線を投げかけるというだけでも十分な意義があるだろう。この構図を念頭に置くと、鑑賞の手助けにもなる。先日何年かぶりに世界報道写真展に行ったので、別記事で実際の報道写真を素材として感想を書いてみたいと思っている(【追記】感想記事はこちら)。
戦争への視線
続いて、(2)倫理の側面として、第8章のソンタグのサルガド評から戦争写真のあり方について考えてみたい。サルガドは、有名な報道写真家であり(作品例:googleイメージ検索)、大規模な写真プロジェクトを立ち上げ、圧倒的なスペクタクルと目を背けたくなる悲惨な現実を共に伝えるような表現をしている。一方、ソンタグはアメリカの女性批評家で、『写真論』といった写真に関する著作で有名であった(故人である)。
ソンタグはサルガドの作品について、「人間家族」といった神聖めいたテーマの下で原因も種類も異なる数多の悲惨をひと括りにし、見る人の関心を引くかもしれないが壮大すぎて何をしても状況を変えることができないという無力感を与え、抽象的な印象にしかならない、と批判する(196頁)。その現われとして、作品のキャプションで被写体となった者の名前を付さない点を鋭く指摘する(ちなみに、被写体に密着取材し被写体の名前もよく記す写真家としては長倉洋海氏がいる)。私もサルガドの「ESSAYS」展に足を運び、モノトーンで濃淡を操作して制作している点に普遍性を強調したい意図があるのでは、といったレポートを書いた憶えがある。
普遍性と壮大なスケールを強調する写真はかえって見る者に働きかける力が弱いのではないか、この指摘には納得できる部分が多いだろう。例えば、太平洋戦争での原爆被害の衝撃が大きく兵器を悪とし戦争を絶対悪とする日本的な考え方は、あまりにも大きな相手を設定するので(兵器の廃絶は、自発性に委ねると囚人のジレンマで正直に放棄した者がつけこまれる状況にあり、全ての国が同時に放棄する以外には「刀狩り」をするしかない)、かえって戦後生じた様々な戦争に対する抑止・防止のための具体的な行動が諸外国ほど活発でなかった(特にイラク戦争)、と言うことができないだろうか。
現在は、巨大な国民国家同士が存亡を賭けて争う戦争は起こっておらず、市街地への無差別な絨毯爆撃も行われることがない。ホロコーストの教訓は宥和政策でこの悲惨な状況を放置したことへの反省であり、正義の戦争をかきたてるものであるとの理解も十分でない(参考:藤原帰一『戦争を記憶する』)。正義の戦争がありうるとした上で実利のために大義を捏造する人たちがいるという問題、テロという非国家組織を相手にしないといけないという問題、こうした現代特有の個別の問題点が捨象されてしまっているように思える。
このような状況に照らせば、個別具体的に戦争や紛争の原因や背景を丹念に調べ上げ、解決策を想起させるような表現方法のほうが有効だと考えられる。もっとも、サルガドのような普遍的なスペクタクルは完全に無意味と言うわけではない。本書でも紹介される池澤氏による評で、美しいが故に深く記憶に残るのではないか、という指摘がある(200頁)。深く残る記憶は、人々に関心を向けた上で永久的に留める力をもつというのだ。
この点について、私は、スペクタクル写真にはより強い力が秘められていると思う。深く胸に突き刺さった悲惨な光景は、解決を探り具体的な行動をしていて壁に突き当たったとき、心を折らず、諦めずにもう少し頑張ろう、と駆り立てる力を提供する。一度取り掛かった人類の大仕事を成し遂げる心の支えとなるのだ。その意味で、サルガドの写真には、無意味ではないと消極的な評価にとどまらず、やはり積極的な評価を与えてよいだろう。そして、具体性を追求する作品と協力し合えるものだと言えよう。
ということで、本書から一歩進めた指摘まで辿り着いたところで筆を置くとしよう。これは本書が扱った倫理的問題のひとつであり、他にも考える材料がたくさん含まれているので、興味があったら書店で手にとって、色々と思考を巡らせてみて欲しい。アフェリエイト始めたほうがいいかな?
※ないとは思いますが、くれぐれも不出来な先輩の感想文をレポートで丸写しなんてことはしないでね。
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裁判員制度が21日から始まった。私自身はこれまであまり大きな関心を抱いてはいなかったが、時間に余裕も出来たので、裁判員制度を批判する記事を素材に考えてみることにする。
「算数の出来ない人が作った裁判員制度」
ここで語られる批判は多岐にわたっているが、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ない、(2)経験できる国民の数が少ない、(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、(4)アメリカの陪審制も国民に信頼されていない、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、(6)弁護士の演技力が判決を左右することになる、(7)事前の実験がされていない、という点に整理することができよう。このうち、いくつかの点について検討してみる。
裁判員法の趣旨
批判記事は、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ないという指摘の前提として、審議会の意見書を持ち出して国民主権・民主主義の理念を非常に重視しているが、最終的に出来上がった裁判員法の1条は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」というのを趣旨として掲げており、国民主権・民主主義というのは挙げられていない。それもそのはず、人権というのは多数者の意思でも覆せない権利があることを内容とするものであり、人権を守り時に民主主義と対決する判断も示す司法においては、民主主義を直接の目的にすることはできないのである。
国民の司法参加の民主主義的意義は、国民自身が最終決定をするというものではなく、司法判断に正統性を与えるものである。裁判所が単独では批判にさらされる恐れのあるような事件、政治的問題に関わる事件について積極的に判断するかどうかは、民主主義的基盤の有無により大いに変わってくる(もっとも、民主主義的基盤確保の手段として司法参加ではなく裁判官の選挙制度を採用すべきという議論はある)。裁判員制度は、行政による事前規制から司法による事後規制へという「小さな政府」を目指す流れの中で、その足がかりとなる意義を有しているといえよう。
しかし批判記事は、民主主義の意義を誤解あるいは過度に重きを置いた前提のためか、裁判員に過大な要求をしているきらいがある。裁判員は職業裁判官と協力して裁判をする者であって、代わりになるわけではない。代わりというならば突き詰めれば司法試験に合格する程度の能力が必要だし、憲法上の裁判官の規定が適用されなければならない。100人はいないと平均化できないといった議論は、そのような多数の参加者を採用している国が皆無であることからも的を得ていないことがわかる。むしろ基本的人権の保障と真実の発見という刑事裁判の二大目的を実現するには慎重な審議が必要であり、そのためには集団の規模を制限する必要がある。
その反面で選ばれた者の適正な判断を確保する必要があるが、批判記事では、裁判員の選定において判断力を客観的にチェックする仕組みがないとされている。しかし、裁判員法36条は被告人・検察官双方から理由なく不選任を請求できる旨の規定を置いている。これは偏りをなくすために機能しうるものであり、アメリカでも採用されている制度である。これについては、日本では社会の同質性が高く人種等の深刻な差別問題が顕著でないことから、過剰な制度ではないかとの疑問が出されているくらいである。批判記事は、この制度について触れていない。選定以外の場面においても、一人でも職業裁判官の賛成がなければ評決が成立しないこと(67条1項)、判決書で判断の理由が明らかにされること、といった適正な判断を確保するための制度が用意されている。
一方、国民の理解と信頼は裁判員法1条に掲げられている直接的な法の目的である。批判記事では、この点について、(2)経験できる国民の数が少ない、また、守秘義務のせいで期待できないと指摘している。しかし、模擬裁判を経験した人へのアンケートで「やってみてよかった、勉強になった」という回答が非常に多かった、という報道が流れているが、この報道があるかどうかで裁判所に対する関心や印象は大きく変わるものであろう。守秘義務というのも何でもかんでも適用されるものではなく、こうした参加した感想が語られるだけでも意味はあるように思う。
量刑のバラツキは刑法を手直しするのが筋
(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、という指摘について、批判記事では、裁判にとって最も大切なことは同じような犯罪に同じような刑が科せられること、ということが出発点となっている。これは法律を学んでいる人にとっては違和感があるもので、「事件に同じものなどひとつもない」というのが原則であり、バラツキがあまりにも大きいと不公平なので量刑の目安を作る、というのが思考の流れになる(アメリカでは量刑ガイドラインが作られた)。
例えば、同じ飲酒運転でも社会問題になった後で重い量刑が課されるようになっているが、格別問題視されていない。社会の関心事となるか否かでは「同じような事件」ではないというのかもしれない。では、同じ窃盗でも多発地域でなされたものかどうかは影響するのか、事故で指が使えなくなった被害者の職業がピアニストかどうかは影響するのか、問い始めたらキリがない。また、事実が同じであっても、農民は所有権を、軍人は名誉を、商人は信用を最も大事にするとイェーリングの著作の中にあるように、その評価は変わってくるものである。日本広し県民性も異なるのであって、東京と大阪の裁判所で判断の傾向に違いがあるというのもよく知られた話である。刑罰は応報・一般予防・特別予防の見地からその時の(地域)社会にとって妥当と言えるものを決して行くものであり、何が正しいと言い切れるものではない。
量刑のバラツキの問題は、刑法などの刑事実体法の定め方の問題であるように思う。現在は、職業裁判官の専門判断を想定してかなり量刑を幅広く設けている。殺人は刑法199条の一条でほぼ全ての殺人を包摂しているが(厳密に言えば240条とかあるけど)、アメリカでは一級殺人、二級殺人といった段階ごとに量刑が分けられている。裁判をする者の能力に信頼ができないなら、法律で量刑の範囲を段階的に決めておくのが筋である。「量刑相場」というのは、なぜその量刑なのかを突き詰めていくと特に理由はない。「このくらいが妥当かな」という判断がなされてきて、以後その空気を読んで決めていくようなものである。公平性を最優先に確保するというのなら、法的拘束力のある基準が必要になるだろう。
裁判員の判断力について
(6)弁護士の演技力が判決を左右することになるという指摘について、シンプソン事件という有名な事件が一件だけ取り上げられているが、アメリカにおいて弁護士の巧拙によって評決が左右されたと推測されるのは全体の0.25%であるとされる(浅香『現代アメリカの司法』30頁)。シンプソン事件の刑事事件は人種差別という問題が絡んだ特殊な側面を有しており、この一件だけを取り出して危険を誇張するのは公平な論じ方ではないであろうし、数字を無視したものである。演技に注心するというのは、単に事実を言うだけではなく、裁判員の正義感にも訴えかけなければ説得することが出来ない、というプラス要素が必要になることから生まれたものであり、無から有を生み出すようなものではないであろう。従前のような書面のやりとりで大部分を済ます裁判と較べてどちらが望ましいかは、各人の判断次第である。
また、アメリカの実証研究において、集団としての陪審が職業裁判官よりも事実認定能力において劣っているとは示されない、という結果が出ている(同)。一人が感情的になっても、合議において説得させることができなければ多数を構成することは出来ない。また、日本ではアメリカのように評決について理由を付さなくていいわけではなく、裁判官による判決書が作成されることから、判断を下すには説得的な理由を考えなければならないし、被告人は判断において不合理な点を吟味して上訴して争うことが十分に可能であると考えられる。これは、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、という問題への対応策として働いている。もっとも、運用において判決書の記載が簡略化される可能性があり、運用を注視する必要があるだろう。
最後に
個人的には、裁判員制度は反省を踏まえて手直しされていくだろうが、全体的には上手くいくだろうと楽観視している。日本は他の司法参加の制度がある国と比較しても国民の教育程度が高水準にあるにもかかわらず、個々人の能力についての信頼が全くないように見える。これは、日本社会がムラ集団の縛りによって秩序を保っていて他人への信頼度が低いという社会心理学の知見を如実に表しているように思う。しかし一方で、ムラ集団の「恥の文化」の下では、いったん選ばれて合議に顔を出すことになれば、恥をかかないために皆必死に取り組むことであろう。
ところで、読者の注目を集めるためか、「算数の出来ない人が作った」と刺激的なタイトルがついている。導入部分で数学嫌いが法学部を選択するという話があるが、基本的に法学系は経済学系より入試において難関であり、数学が苦手という消極的な理由で文学系ならまだしも法学系に挑戦する人ってそんなにいるのだろうか。法学系の人たちの傾向として理念が先行してコスト意識が足りない、というのはあるかと思うけれど。裁判員制度も目的の割に結構コストがかかる制度と言えるだろう。
【6月6日追記】文章のつながり等を修正して、参照元の記事にトラックバックを送りました。
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「算数の出来ない人が作った裁判員制度」
ここで語られる批判は多岐にわたっているが、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ない、(2)経験できる国民の数が少ない、(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、(4)アメリカの陪審制も国民に信頼されていない、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、(6)弁護士の演技力が判決を左右することになる、(7)事前の実験がされていない、という点に整理することができよう。このうち、いくつかの点について検討してみる。
裁判員法の趣旨
批判記事は、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ないという指摘の前提として、審議会の意見書を持ち出して国民主権・民主主義の理念を非常に重視しているが、最終的に出来上がった裁判員法の1条は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」というのを趣旨として掲げており、国民主権・民主主義というのは挙げられていない。それもそのはず、人権というのは多数者の意思でも覆せない権利があることを内容とするものであり、人権を守り時に民主主義と対決する判断も示す司法においては、民主主義を直接の目的にすることはできないのである。
国民の司法参加の民主主義的意義は、国民自身が最終決定をするというものではなく、司法判断に正統性を与えるものである。裁判所が単独では批判にさらされる恐れのあるような事件、政治的問題に関わる事件について積極的に判断するかどうかは、民主主義的基盤の有無により大いに変わってくる(もっとも、民主主義的基盤確保の手段として司法参加ではなく裁判官の選挙制度を採用すべきという議論はある)。裁判員制度は、行政による事前規制から司法による事後規制へという「小さな政府」を目指す流れの中で、その足がかりとなる意義を有しているといえよう。
しかし批判記事は、民主主義の意義を誤解あるいは過度に重きを置いた前提のためか、裁判員に過大な要求をしているきらいがある。裁判員は職業裁判官と協力して裁判をする者であって、代わりになるわけではない。代わりというならば突き詰めれば司法試験に合格する程度の能力が必要だし、憲法上の裁判官の規定が適用されなければならない。100人はいないと平均化できないといった議論は、そのような多数の参加者を採用している国が皆無であることからも的を得ていないことがわかる。むしろ基本的人権の保障と真実の発見という刑事裁判の二大目的を実現するには慎重な審議が必要であり、そのためには集団の規模を制限する必要がある。
その反面で選ばれた者の適正な判断を確保する必要があるが、批判記事では、裁判員の選定において判断力を客観的にチェックする仕組みがないとされている。しかし、裁判員法36条は被告人・検察官双方から理由なく不選任を請求できる旨の規定を置いている。これは偏りをなくすために機能しうるものであり、アメリカでも採用されている制度である。これについては、日本では社会の同質性が高く人種等の深刻な差別問題が顕著でないことから、過剰な制度ではないかとの疑問が出されているくらいである。批判記事は、この制度について触れていない。選定以外の場面においても、一人でも職業裁判官の賛成がなければ評決が成立しないこと(67条1項)、判決書で判断の理由が明らかにされること、といった適正な判断を確保するための制度が用意されている。
一方、国民の理解と信頼は裁判員法1条に掲げられている直接的な法の目的である。批判記事では、この点について、(2)経験できる国民の数が少ない、また、守秘義務のせいで期待できないと指摘している。しかし、模擬裁判を経験した人へのアンケートで「やってみてよかった、勉強になった」という回答が非常に多かった、という報道が流れているが、この報道があるかどうかで裁判所に対する関心や印象は大きく変わるものであろう。守秘義務というのも何でもかんでも適用されるものではなく、こうした参加した感想が語られるだけでも意味はあるように思う。
量刑のバラツキは刑法を手直しするのが筋
(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、という指摘について、批判記事では、裁判にとって最も大切なことは同じような犯罪に同じような刑が科せられること、ということが出発点となっている。これは法律を学んでいる人にとっては違和感があるもので、「事件に同じものなどひとつもない」というのが原則であり、バラツキがあまりにも大きいと不公平なので量刑の目安を作る、というのが思考の流れになる(アメリカでは量刑ガイドラインが作られた)。
例えば、同じ飲酒運転でも社会問題になった後で重い量刑が課されるようになっているが、格別問題視されていない。社会の関心事となるか否かでは「同じような事件」ではないというのかもしれない。では、同じ窃盗でも多発地域でなされたものかどうかは影響するのか、事故で指が使えなくなった被害者の職業がピアニストかどうかは影響するのか、問い始めたらキリがない。また、事実が同じであっても、農民は所有権を、軍人は名誉を、商人は信用を最も大事にするとイェーリングの著作の中にあるように、その評価は変わってくるものである。日本広し県民性も異なるのであって、東京と大阪の裁判所で判断の傾向に違いがあるというのもよく知られた話である。刑罰は応報・一般予防・特別予防の見地からその時の(地域)社会にとって妥当と言えるものを決して行くものであり、何が正しいと言い切れるものではない。
量刑のバラツキの問題は、刑法などの刑事実体法の定め方の問題であるように思う。現在は、職業裁判官の専門判断を想定してかなり量刑を幅広く設けている。殺人は刑法199条の一条でほぼ全ての殺人を包摂しているが(厳密に言えば240条とかあるけど)、アメリカでは一級殺人、二級殺人といった段階ごとに量刑が分けられている。裁判をする者の能力に信頼ができないなら、法律で量刑の範囲を段階的に決めておくのが筋である。「量刑相場」というのは、なぜその量刑なのかを突き詰めていくと特に理由はない。「このくらいが妥当かな」という判断がなされてきて、以後その空気を読んで決めていくようなものである。公平性を最優先に確保するというのなら、法的拘束力のある基準が必要になるだろう。
裁判員の判断力について
(6)弁護士の演技力が判決を左右することになるという指摘について、シンプソン事件という有名な事件が一件だけ取り上げられているが、アメリカにおいて弁護士の巧拙によって評決が左右されたと推測されるのは全体の0.25%であるとされる(浅香『現代アメリカの司法』30頁)。シンプソン事件の刑事事件は人種差別という問題が絡んだ特殊な側面を有しており、この一件だけを取り出して危険を誇張するのは公平な論じ方ではないであろうし、数字を無視したものである。演技に注心するというのは、単に事実を言うだけではなく、裁判員の正義感にも訴えかけなければ説得することが出来ない、というプラス要素が必要になることから生まれたものであり、無から有を生み出すようなものではないであろう。従前のような書面のやりとりで大部分を済ます裁判と較べてどちらが望ましいかは、各人の判断次第である。
また、アメリカの実証研究において、集団としての陪審が職業裁判官よりも事実認定能力において劣っているとは示されない、という結果が出ている(同)。一人が感情的になっても、合議において説得させることができなければ多数を構成することは出来ない。また、日本ではアメリカのように評決について理由を付さなくていいわけではなく、裁判官による判決書が作成されることから、判断を下すには説得的な理由を考えなければならないし、被告人は判断において不合理な点を吟味して上訴して争うことが十分に可能であると考えられる。これは、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、という問題への対応策として働いている。もっとも、運用において判決書の記載が簡略化される可能性があり、運用を注視する必要があるだろう。
最後に
個人的には、裁判員制度は反省を踏まえて手直しされていくだろうが、全体的には上手くいくだろうと楽観視している。日本は他の司法参加の制度がある国と比較しても国民の教育程度が高水準にあるにもかかわらず、個々人の能力についての信頼が全くないように見える。これは、日本社会がムラ集団の縛りによって秩序を保っていて他人への信頼度が低いという社会心理学の知見を如実に表しているように思う。しかし一方で、ムラ集団の「恥の文化」の下では、いったん選ばれて合議に顔を出すことになれば、恥をかかないために皆必死に取り組むことであろう。
ところで、読者の注目を集めるためか、「算数の出来ない人が作った」と刺激的なタイトルがついている。導入部分で数学嫌いが法学部を選択するという話があるが、基本的に法学系は経済学系より入試において難関であり、数学が苦手という消極的な理由で文学系ならまだしも法学系に挑戦する人ってそんなにいるのだろうか。法学系の人たちの傾向として理念が先行してコスト意識が足りない、というのはあるかと思うけれど。裁判員制度も目的の割に結構コストがかかる制度と言えるだろう。
【6月6日追記】文章のつながり等を修正して、参照元の記事にトラックバックを送りました。
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いつもこの曜日は帰りが遅いのだが、今日は新宿に立ち寄る余裕もあって早く家に帰ることが出来た。というのも、今学期の通常授業が今週で終わるので、いつものサブゼミ(ゼミの準備のための話し合い・情報交換の集まり)がもうないのだ。今学期私は社会保障法のゼミを履修した。憲法の社会権から生活保護法、労災保険法、社会福祉諸法、公的年金法などの分野が内容だ。少し気分を変えるつもりで申し込んだのだが、成功だったと思う。まだ施設見学や合宿が残っているのだが、一息ついたところで昨年のゼミと比較して演習のやり方について少し書いてみたい。
ゼミのやり方のひとつには、昨年のゼミのように、発表形式があるだろう。ひとり、もしくは複数人のグループで準備をして、発表して、他のメンバーから質問を受けて議論、先生のコメント、という感じだ。対して今学期のゼミは、ロースクールの教材を使ったケースメソッドであった。素材となる判例や論文にレベル別の設問があって、予習をしてくる。ゼミの構成員で情報交換をし合って、本番に備える。先生からどのような質問(設問に直接関係ないことも聞かれる)があるのか勘ぐりながら時間の限り調べて準備してくる。
まず、構成員同士の関係という点。前者だと発表を一緒にする人とは緊密な関係が築かれるが、他のメンバーとは希薄になりがちだ。議論には叩き合いの側面もあるので感情的な遺恨も残るかもしれない。長い期間をとって発表を様々な組み合わせで何度もすればよいが、不幸にしてそのような時間はない。以前「イタリア戦争」と形容して友人も同意してくれたのだが、すなわち、各々中心部を城壁で固めた都市国家たちが互いに牽制しあって、教皇にとりいって離さない国もあれば、遠くで距離をおいて眺めている国もある。時にはドイツから皇帝がコメントをする。独立した個人どうしの関係と言えばその通りであるが…。対して後者では、法律行為的に言えば合同行為が行われ、共同作業する時間も長く、全体としての協力関係を築きやすい。
次に発言について。ケースメソッドでは、準備の段階でお互いの状況を把握して予め自分の考えも伝えてあるので、躊躇せず言えるようになる。また、設問がはっきりしているので問題状況も把握しやすい。発表形式では、発表者が設定する問題はいくぶん不明確であるし、出される質問も予めわからないので、何を議論しているのかを整理する作業が時たま必要になる。昨年のゼミで私は自分の考えたことを如何にして議論に乗せることが出来るかを専ら考えていて黙っていることが多かったが、今年のゼミでは積極的に発言できた。ヘタすれば「暗い人」と周囲のイメージが出来上がって自己定義してしまうところであったが、今回積極的な一面を出せて非常に気持ちがいい。
最後に達成感について。発表形式はひとつ発表という大イベントがあってレジュメなどが残るので大きいものがあるだろう。対してケースメソッドでは、毎回準備して答えての繰り返しであり、満遍なく力を注ぐのでルーティン消化のような感じで発表ほど大きい感覚はないだろう。これを見越してか、今学期のゼミの最後、先生がレポートを課そうかと提案して、みんなの必死の抵抗によりとりやめになった。一般論としては、感想やまとめ程度ならあってもいいかもしれない。このような違いに対応して、負担という点でも、前者では自分の発表があるときとないときで負担に差が大きくあるが、後者では途切れなくやや重い負担が継続してかかってくる。
ロースクールを目指す身としてみれば、ケースメソッドの予行練習ができて幸いであった。ただ、準備の負担が大きいという点で、今学期1科目でかなり大変だったので、これがすべての科目で行われるとなれば途方もない感じがする。法律の勉強に際して完璧主義は最大の敵である。
ゼミのやり方のひとつには、昨年のゼミのように、発表形式があるだろう。ひとり、もしくは複数人のグループで準備をして、発表して、他のメンバーから質問を受けて議論、先生のコメント、という感じだ。対して今学期のゼミは、ロースクールの教材を使ったケースメソッドであった。素材となる判例や論文にレベル別の設問があって、予習をしてくる。ゼミの構成員で情報交換をし合って、本番に備える。先生からどのような質問(設問に直接関係ないことも聞かれる)があるのか勘ぐりながら時間の限り調べて準備してくる。
まず、構成員同士の関係という点。前者だと発表を一緒にする人とは緊密な関係が築かれるが、他のメンバーとは希薄になりがちだ。議論には叩き合いの側面もあるので感情的な遺恨も残るかもしれない。長い期間をとって発表を様々な組み合わせで何度もすればよいが、不幸にしてそのような時間はない。以前「イタリア戦争」と形容して友人も同意してくれたのだが、すなわち、各々中心部を城壁で固めた都市国家たちが互いに牽制しあって、教皇にとりいって離さない国もあれば、遠くで距離をおいて眺めている国もある。時にはドイツから皇帝がコメントをする。独立した個人どうしの関係と言えばその通りであるが…。対して後者では、法律行為的に言えば合同行為が行われ、共同作業する時間も長く、全体としての協力関係を築きやすい。
次に発言について。ケースメソッドでは、準備の段階でお互いの状況を把握して予め自分の考えも伝えてあるので、躊躇せず言えるようになる。また、設問がはっきりしているので問題状況も把握しやすい。発表形式では、発表者が設定する問題はいくぶん不明確であるし、出される質問も予めわからないので、何を議論しているのかを整理する作業が時たま必要になる。昨年のゼミで私は自分の考えたことを如何にして議論に乗せることが出来るかを専ら考えていて黙っていることが多かったが、今年のゼミでは積極的に発言できた。ヘタすれば「暗い人」と周囲のイメージが出来上がって自己定義してしまうところであったが、今回積極的な一面を出せて非常に気持ちがいい。
最後に達成感について。発表形式はひとつ発表という大イベントがあってレジュメなどが残るので大きいものがあるだろう。対してケースメソッドでは、毎回準備して答えての繰り返しであり、満遍なく力を注ぐのでルーティン消化のような感じで発表ほど大きい感覚はないだろう。これを見越してか、今学期のゼミの最後、先生がレポートを課そうかと提案して、みんなの必死の抵抗によりとりやめになった。一般論としては、感想やまとめ程度ならあってもいいかもしれない。このような違いに対応して、負担という点でも、前者では自分の発表があるときとないときで負担に差が大きくあるが、後者では途切れなくやや重い負担が継続してかかってくる。
ロースクールを目指す身としてみれば、ケースメソッドの予行練習ができて幸いであった。ただ、準備の負担が大きいという点で、今学期1科目でかなり大変だったので、これがすべての科目で行われるとなれば途方もない感じがする。法律の勉強に際して完璧主義は最大の敵である。
田中英夫著『アメリカの社会と法』(東京大学出版会、1972年)
「印象記的スケッチ」という副題がついているこの本は、学問的な叙述ではなく話し言葉で、アメリカ社会の雰囲気を個人的な体験をもとに書いたものである。著者は英米法を学ぶ際には必ず手にする『英米法総論』の著者でもある大変高名な方で、研究生活の中で「社会の雰囲気」も非常に大事だと思うに至ってこの本の執筆を始めたという。すなわち、法は一国の文化の所産であり、思想や社会のあり方と密接に結びついている、ある国の法を正しく理解するにはこれら社会的背景に着目する必要がある、ということだ。実際、私もちょうど英米法の講義を受けていて、様々紹介される制度についてすっきり頭に入ってこないものが結構あったが、この本を読んで合点のいくことが何度もあった。ここでは、数ある中から二つについて簡単に紹介する。
まず一つ目は、ジャクスニアン・デモクラシーを代表とする平民主義的な文化である。1829年に大統領になったジャクスンは西部出身の最初の大統領であり、大学教育を受けていない最初の大統領であった。この時代に民主主義的な制度が次々と導入され、州の裁判官・書記官まで選挙で選ばれることになる。授業中これをきいて首をひねった方も多いはずだ。この背景には、開拓民からなる西部の社会の特質がある。土地もみんな同じ面積を同じ値段で政府から購入したもので、生活も楽なものではない。基本的に貧富の差もなく、教育の差もなく、家柄の差もない。このように条件的に均質な人々からなる社会では、誰が統治の仕事を担ってもあまり結果は違わない。そして、ある地位に一人の人間を長くつけておくよりも一定期間で交替させた方がよい。こうなると、多くの公職に就く者を選挙で選ぼうということになる。
二つ目は、地方自治の仕組みである。州は国家とみるほうが適切というのは周知のことであるが、その州の中での地方制度は通例カウンティと市町村の二段階になっている。ここでカウンティは日本と同じように行政区画としての性格をもっているが、市町村は違う。この本によると、町の入り口にはその町の名前と人口・そして何年にincorporateされたか、ということが書いてある看板があり、時にはunincorporatedと書いてあることもある。これは、市町村というものが住民が集まって法人を設立してできたことをあらわしており、まだ法人格を取得していない集落もあれば取得して何年にもなる集落もあるし、市町村に属しない土地もたくさんある、ということなのだ。
このように、平易な叙述の中でハッとさせられることが多くある。判例法主義・陪審制など法律的な話も簡単に解説がなされていて、英米法の知識を確認するにも役立つだろう。学者らしく公平な視点で、アメリカは進んでいる、日本は遅れているといった話にはならないように、そのアメリカ社会の特色がもついい部分と悪い部分を客観的に説明している。問題があるとすれば、1972年に書かれたということで、最近の社会の動きについてカバーされていないことであろう。しかし、近年の―特に911以後の動き―に着目すると変化の面ばかりが強調され過ぎてしまうので、それ以前伝統的にアメリカ社会がどのようであったかを知ることには今なお意義があるだろう。
最後に、この本は総合図書館で借りたのだが、鉛筆・赤鉛筆・青鉛筆で丁寧に書き込みが施されていた。通常他人の書き込みは読む上で不快になるものだが、実際のところ、さらに読みやすくなっていた。名も知らぬ先輩にお礼を言いたい。
「印象記的スケッチ」という副題がついているこの本は、学問的な叙述ではなく話し言葉で、アメリカ社会の雰囲気を個人的な体験をもとに書いたものである。著者は英米法を学ぶ際には必ず手にする『英米法総論』の著者でもある大変高名な方で、研究生活の中で「社会の雰囲気」も非常に大事だと思うに至ってこの本の執筆を始めたという。すなわち、法は一国の文化の所産であり、思想や社会のあり方と密接に結びついている、ある国の法を正しく理解するにはこれら社会的背景に着目する必要がある、ということだ。実際、私もちょうど英米法の講義を受けていて、様々紹介される制度についてすっきり頭に入ってこないものが結構あったが、この本を読んで合点のいくことが何度もあった。ここでは、数ある中から二つについて簡単に紹介する。
まず一つ目は、ジャクスニアン・デモクラシーを代表とする平民主義的な文化である。1829年に大統領になったジャクスンは西部出身の最初の大統領であり、大学教育を受けていない最初の大統領であった。この時代に民主主義的な制度が次々と導入され、州の裁判官・書記官まで選挙で選ばれることになる。授業中これをきいて首をひねった方も多いはずだ。この背景には、開拓民からなる西部の社会の特質がある。土地もみんな同じ面積を同じ値段で政府から購入したもので、生活も楽なものではない。基本的に貧富の差もなく、教育の差もなく、家柄の差もない。このように条件的に均質な人々からなる社会では、誰が統治の仕事を担ってもあまり結果は違わない。そして、ある地位に一人の人間を長くつけておくよりも一定期間で交替させた方がよい。こうなると、多くの公職に就く者を選挙で選ぼうということになる。
二つ目は、地方自治の仕組みである。州は国家とみるほうが適切というのは周知のことであるが、その州の中での地方制度は通例カウンティと市町村の二段階になっている。ここでカウンティは日本と同じように行政区画としての性格をもっているが、市町村は違う。この本によると、町の入り口にはその町の名前と人口・そして何年にincorporateされたか、ということが書いてある看板があり、時にはunincorporatedと書いてあることもある。これは、市町村というものが住民が集まって法人を設立してできたことをあらわしており、まだ法人格を取得していない集落もあれば取得して何年にもなる集落もあるし、市町村に属しない土地もたくさんある、ということなのだ。
このように、平易な叙述の中でハッとさせられることが多くある。判例法主義・陪審制など法律的な話も簡単に解説がなされていて、英米法の知識を確認するにも役立つだろう。学者らしく公平な視点で、アメリカは進んでいる、日本は遅れているといった話にはならないように、そのアメリカ社会の特色がもついい部分と悪い部分を客観的に説明している。問題があるとすれば、1972年に書かれたということで、最近の社会の動きについてカバーされていないことであろう。しかし、近年の―特に911以後の動き―に着目すると変化の面ばかりが強調され過ぎてしまうので、それ以前伝統的にアメリカ社会がどのようであったかを知ることには今なお意義があるだろう。
最後に、この本は総合図書館で借りたのだが、鉛筆・赤鉛筆・青鉛筆で丁寧に書き込みが施されていた。通常他人の書き込みは読む上で不快になるものだが、実際のところ、さらに読みやすくなっていた。名も知らぬ先輩にお礼を言いたい。
自分のモノをとられたとき、悪い噂を立てられたとき、貸したお金を踏み倒されたとき、このような中でどれが一番自分にとって「許せない!」と思うだろうか。このような問いで権利感覚の特徴をみることができる。最近では「住所や電話番号が悪用されたとき」など、個人情報・プライバシー侵害に対する意識が高まってきている。
『権利のための闘争』では、農民は土地所有権、軍人は名誉、商人は信用、というように身分ごとで権利感覚の強い場面が説明されている。この時代とは異なり、今では身分でこのような特徴を把握することはできない。人それぞれ、ということになっている。一方で現在においても言えることは、企業は信用・イメージが一番、ということだ。みずほ証券の事件で利益返還は、一時の利益を手放すよりも企業イメージを損なうことを嫌がった結果である。
きょうの労働法授業で、育児休業などの取り組みを評価する認定マーク制度について、マークをもらうために形式的な数あわせが行われている、との話があった。これ以外にも、損害賠償をとられることより判例集に企業名がついた事件として書かれることを嫌がって裁判沙汰にならないように努力している、という事情もあるようにみえる。
これに照らすと、企業への規制は、労働監督署が行政指導をするより、企業イメージを狙って行うのが最も効果的なのでは、と思った。その例としてランキングないしランクづけの制度をとり入れてみるのはどうだろう。労働環境を可視的にして企業イメージと直結させるのだ。例えば、行政指導回数・取り組みの策などを点数化して調整してランクをつける。そうすると採用活動で企業側は「うちの会社は労働環境についてAランクをもらっている」と効果的な宣伝をすることができるだろう。このランクが下がると言うことは人材確保の点で致命的である。企業は熱心に労働環境改善に取り組まないといけないことになる。
点数化・ランク付けが本当にできるか、には課題が残るが、大学ランキングができちゃうくらいだ、不可能ではないと思う。
『権利のための闘争』では、農民は土地所有権、軍人は名誉、商人は信用、というように身分ごとで権利感覚の強い場面が説明されている。この時代とは異なり、今では身分でこのような特徴を把握することはできない。人それぞれ、ということになっている。一方で現在においても言えることは、企業は信用・イメージが一番、ということだ。みずほ証券の事件で利益返還は、一時の利益を手放すよりも企業イメージを損なうことを嫌がった結果である。
きょうの労働法授業で、育児休業などの取り組みを評価する認定マーク制度について、マークをもらうために形式的な数あわせが行われている、との話があった。これ以外にも、損害賠償をとられることより判例集に企業名がついた事件として書かれることを嫌がって裁判沙汰にならないように努力している、という事情もあるようにみえる。
これに照らすと、企業への規制は、労働監督署が行政指導をするより、企業イメージを狙って行うのが最も効果的なのでは、と思った。その例としてランキングないしランクづけの制度をとり入れてみるのはどうだろう。労働環境を可視的にして企業イメージと直結させるのだ。例えば、行政指導回数・取り組みの策などを点数化して調整してランクをつける。そうすると採用活動で企業側は「うちの会社は労働環境についてAランクをもらっている」と効果的な宣伝をすることができるだろう。このランクが下がると言うことは人材確保の点で致命的である。企業は熱心に労働環境改善に取り組まないといけないことになる。
点数化・ランク付けが本当にできるか、には課題が残るが、大学ランキングができちゃうくらいだ、不可能ではないと思う。