順風ESSAYS

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法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
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役割について

2012年08月31日 | essay
最近,自分が「面白いこと」「他者を笑わせること」を考えたり探したりすることが少ないなあ,と感じている。

人にとって「役割」というのは大事である。成長過程で担った役割が,その人自身の性質として意識されるようになることもあるだろう。私は末っ子に生まれたので,家族を和ませるというか,笑顔を提供するといった役割にあったように思う。テレビのお笑い番組はあまり見ない家庭で,自分も大騒ぎするような性質ではなかったので,言葉遊びや静かないたずら,イメージとしては植田まさし作品(コボちゃん,かりあげ君)みたいな面白さを追求するところがあった。学校や部活でも同じような役割でいるのが居心地がよかったので追求し,その反面で好成績を取り続けるなどして舐められないようにしないと,と考えることもあったように思う。

翻って現在では,仕事では一年目とはいえ法律の専門家として責任ある判断をして事務のスタッフも先導していく立場である。私生活でも,一人暮らしの生活では,面白いことを追求し他者を笑わせることが期待される役割がない。こういう生活状態に慣れて,普段の考えも変わってきてしまっている。

盛り上げ役にならないというだけでは大きな問題はないが,普段の人間関係について自らの役割を作っていこうとする姿勢までなくなっているように思う。相手に合わせて自分がどう行動すべきかという反応的な思考ばかりで,自分がどういうことを求めていくのか,ということを明確に意識できていない。人間関係は相互作用,求めるものが明確でなければ,こちらが出方を待った相手のほうも最初の出方に戸惑うであろう。

何事も最初が肝心,特に新たな環境に入る場合は自分の役割についても十分なイメージや準備が必要である。個人的な心残りとして,法科大学院入学に際して直前他の用でバタバタしたためにあまり心の準備ができず,積極的な役回りはせず成り行きに任せてしまった,というのがある。仕事を始めるにあたっては準備をしていったが,夏を挟みちょうど振り返ってみるいい時期である。一人暮らしは自由である反面,役割意識自体がなくなってしまいがちだが,充実させる鍵はここにあるように思う。公私にわたり,自分が望む役割を具体的にイメージし,積極的に得ていくための行動をする,さらに理想的には身構えずに自然にできるようになる,そういうことも意識して過ごしていきたい。


雑感をいくつか

2012年08月12日 | essay
かなり間が空いてしまいました。気負って大作を書こうと思わず,つぶやきの延長線という感じでつらつら書いていきたいと思います。



久しぶりに図書館に行った。学生時代から,無目的に書店や図書館に行き,好奇心が向くテーマの書棚を眺めたりぺージをパラパラめくったりということをしてきたが,こういう習慣が調査力や発想力という点から自身の力を支えているんだろうなと感じる。特に法律の分野は社会のあらゆる事象について問題となりうるので,必ずどこかで活きるだろう,それはどういう場面かなと考える楽しさもある。

こうした好奇心は大事なものであるが,自分の興味があまり外国に向かわないのは何故かなあと考えることもある。思春期の頃,どもり癖があったことから,対人関係の苦手意識が残っているのかもしれない。しかし見知らぬ人と交流するのは多かれ少なかれ誰でもストレスがあるもので,事後的にどうケアすればいいか準備ができさえすれば,積極的にできるかもしれないなぁと考えている。事前規制から事後救済へ,という標語の下に多くの人が司法の分野に進んだ私の世代,私生活においても同じように挑戦してみるのもいいだろう。



図書館で「技術の倫理学」という本を借りた。私が教養課程のとき,ちょうどこの○○の倫理学というシリーズが次々と刊行されていく頃であった。最近でも,NHKBSで「意図的な老朽化」というテーマの特集が非常に興味を引いたし(訴訟例もあるらしい),TBSで脱原発に関連してドイツの政治家が「倫理的な観点から」という話をしていたのも印象に残った。

倫理的な観点をどこまで拘束力のあるルールに反映してよいのか,という点には慎重さが必要であるが,合理的であることを第一に,それが帰結として倫理的な観点からも支持されるのは大事なことだ。専門家は,その分野について社会から判断を委託されるという側面を持っている。ある専門的な分野について法的な問題が生じたとき,法律家としてその判断を委託されるということを留意しつつ,考えを深めていきたい。



「競争」というのは私にとって非常に大きなテーマなのだが,ふとネットで親が公務員だと負け組になるという話題を見つけて興味を引かれた。どうやら性格的には「いい人」だけれども,胆力や競争心という点で負けてしまいがちということらしい。私自身,親が若いころ激しい競争環境から「このままだと早死にする」とそうでないところへ転職した経緯もあり,ゆっくり落ち着いて育てられた感がある。真剣さ,誠実さといったことがモットーであるが,好戦的でなく,ガツガツした競争は性格的にちょっと敬遠しがちだ。

それでありながら,中学受験から競争を重ね,今まで何とか残ってきた。時には,みんな自分と同程度に穏やかであれば社会は平和になるだろうに,無闇に競争を煽られ不足感や劣等感を刺激されて心をかき乱されることもないのに,と思ったこともあった。しかし,平和の維持実現にはそれを支える物質的な豊かさも重要であり,その観点からは,自由な競争環境を大原則とすることが最善であるということが歴史的経験上決着がついていると言える。好むものも好まないものも相互に支え合っている面があり,上手い付き合い方,ケアの仕方という方向で考えを向けるのが適切かもしれない。