"May I Help You?" これは,お店に入ったとき,店員が声をかける際に用いられる言葉だ。道に迷っていそうな人に声をかける際にも使われる。私はこの表現の仕方が好きだ。直訳すれば,「あなたを手助けできませんか?」というもので,声をかける側の意思として手助けしたいというニュアンスが含まれているように感じるからだ。日本語では,「何か(どこか)お探しですか?」「はい/いいえ」「それなら…/何かあったら訊いてください」となって,主体は相手方にある。
私が高校や大学のクラスの仲間と集まって話すとき,在学中のころから今に至るまで「お互いの具体的な勉強の仕方についての批評」「お互いの進路選択についての批評」は話題として出ない。相手の基本的なスタンスや大きな決断に関わることについて無闇に干渉することは避け,手助けは相手から求められたときにするもの,という感覚があるように思う。それぞれの能力と決断力・打開力への信頼,プライドの尊重を背景とする,暗黙のルールのようなものだ。
もっとも,最近ではこのように割り切るにも不安だと思うことが多くなった。経済情勢は厳しく,特に若い世代に荒波が訪れ,実際に相互に手助けが求められ出す場面というのが出てきているからだ。能力への信頼・プライドの尊重を確保しつつも,いざ手助けが必要になったときは力になるという安心感・信頼感を具体的に構築していくことが重要になってきていると感じる。
この構築に際しては,個人の特性の差に配慮する必要がある。他者に手助けを求めることに抵抗が少ない人もいれば,抵抗が大きくて抱え込みやすい人もいる。前者は広いネットワークがあり情報を入手しやすいし,後者は他の人がわからない未知の問題に自力で道筋を見出す力が養われやすい。両者がうまくつながることができれば望ましい。また,自分がいま手助けが必要な状況か判別をつける敏感さ,それを認めるプライドの持ち方のようなものも,個々人に差があるものだ。
そこで日常の心がけとしてどういうことをすればいいかと考えてみると,第一に,自身の動向・近況・体験談・考えていることを発信することがある。会った際の話でも,年賀状等の挨拶に触れてでも,またブログやSNSででも,適切な方法を使う。頼りにできそうか,手助けが必要じゃないかという判断材料を提供することになる。第二に,忙しそうにしすぎない,ということがある。あまりに忙しそうにしていると,遠慮を生んでしまう。本当に自分が忙しいときは,適切な人を紹介するという道もあるということを示すのがいいかもしれない。
第三に,力になれるときは力になりたい,という意思が伝わるようにしておく,ということがある。もっとも,この具体的な方法はよく考えが煮詰まっていない。どうも直接的に見返りのない・益のない行動については,直感的に不信感を生じさせてしまうように見えるからだ。基本は,自己が形成する世界の一部になっていて,その人の不安が自己の不安にもなるような感覚がある間柄でなくては,成立しにくいように思う。単純に,それが仕事にもなっているという人がいるといいのかもしれない。
以上のことは,これからの法律実務の世界でも考えられるかな,と思う。法律的アドバイスが必要・有用な場面であるという判別がついていないというのはとても多く観察されるし,弁護士は敷居が高いイメージも根強くあり状況が悪化するまで相談に行かないということもある。「こんな相談があります」といった感じで簡単な例を多く提示することがある。個人的には,額が大きい消費者契約を締結する段階で弁護士にアドバイスを受けたり立ち会ってもらう,というのもいいかな(紛争予防にもなるし),ということを話したことがある。
"May I Help You?"をもっと伝わりやすくすること,それが見通しが暗く不安が高まる社会において,安心を提供するひとつの方向性かな,と思ったのでした。
私が高校や大学のクラスの仲間と集まって話すとき,在学中のころから今に至るまで「お互いの具体的な勉強の仕方についての批評」「お互いの進路選択についての批評」は話題として出ない。相手の基本的なスタンスや大きな決断に関わることについて無闇に干渉することは避け,手助けは相手から求められたときにするもの,という感覚があるように思う。それぞれの能力と決断力・打開力への信頼,プライドの尊重を背景とする,暗黙のルールのようなものだ。
もっとも,最近ではこのように割り切るにも不安だと思うことが多くなった。経済情勢は厳しく,特に若い世代に荒波が訪れ,実際に相互に手助けが求められ出す場面というのが出てきているからだ。能力への信頼・プライドの尊重を確保しつつも,いざ手助けが必要になったときは力になるという安心感・信頼感を具体的に構築していくことが重要になってきていると感じる。
この構築に際しては,個人の特性の差に配慮する必要がある。他者に手助けを求めることに抵抗が少ない人もいれば,抵抗が大きくて抱え込みやすい人もいる。前者は広いネットワークがあり情報を入手しやすいし,後者は他の人がわからない未知の問題に自力で道筋を見出す力が養われやすい。両者がうまくつながることができれば望ましい。また,自分がいま手助けが必要な状況か判別をつける敏感さ,それを認めるプライドの持ち方のようなものも,個々人に差があるものだ。
そこで日常の心がけとしてどういうことをすればいいかと考えてみると,第一に,自身の動向・近況・体験談・考えていることを発信することがある。会った際の話でも,年賀状等の挨拶に触れてでも,またブログやSNSででも,適切な方法を使う。頼りにできそうか,手助けが必要じゃないかという判断材料を提供することになる。第二に,忙しそうにしすぎない,ということがある。あまりに忙しそうにしていると,遠慮を生んでしまう。本当に自分が忙しいときは,適切な人を紹介するという道もあるということを示すのがいいかもしれない。
第三に,力になれるときは力になりたい,という意思が伝わるようにしておく,ということがある。もっとも,この具体的な方法はよく考えが煮詰まっていない。どうも直接的に見返りのない・益のない行動については,直感的に不信感を生じさせてしまうように見えるからだ。基本は,自己が形成する世界の一部になっていて,その人の不安が自己の不安にもなるような感覚がある間柄でなくては,成立しにくいように思う。単純に,それが仕事にもなっているという人がいるといいのかもしれない。
以上のことは,これからの法律実務の世界でも考えられるかな,と思う。法律的アドバイスが必要・有用な場面であるという判別がついていないというのはとても多く観察されるし,弁護士は敷居が高いイメージも根強くあり状況が悪化するまで相談に行かないということもある。「こんな相談があります」といった感じで簡単な例を多く提示することがある。個人的には,額が大きい消費者契約を締結する段階で弁護士にアドバイスを受けたり立ち会ってもらう,というのもいいかな(紛争予防にもなるし),ということを話したことがある。
"May I Help You?"をもっと伝わりやすくすること,それが見通しが暗く不安が高まる社会において,安心を提供するひとつの方向性かな,と思ったのでした。