順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

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法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
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第45回衆議院議員総選挙の感想

2009年08月31日 | 時事
いつも選挙後に感想を書いているので、今回も書くことにする。

バッファープレイヤーとアナウンスメント効果

大学の政治の授業では日本の有権者の投票行動として「バッファープレイヤー」という用語が使われていた。これは、野党第一党であった社会党に政権をもたせる気はさらさらないが、自民党が政策で失敗をすると懲らしめるつもりで与党の座を追われない程度に議席を減らそう、という行動をする有権者を表したものだ。1990年代から野党の中にも政権担当能力があることをアピールする政党が登場し、今回ようやく国民の期待を得て、政権交代という結末になった。与党にセカンドチョイスが生まれたことで、バッファープレイヤーは消失するだろう。小選挙区制の導入から打たれた布石が15年以上経って結実した。

アナウンスメント効果は、事前の情勢報道をみて投票行動に変化が生じることをいうものだ。今回は「民主党が300議席以上の大勝」が報じられた。揺り戻し―勝ちすぎを警戒した有権者が投票先を変える流れ―は起こらなかった。これは、政権交代という現状の変革を伴う初めての選択をする場合には勇気が出にくいものだが、情勢をみて「望んでるのは自分だけじゃない」と勇気づけられた結果だと思う。そして、民主党が良くも悪くも多様な政策志向を持つ人材を抱えていることから、政策が極端に偏る危険性はないだろう、という安心感があったのではないかと推測する。

今回自民と民主で約200議席が入れ替わったことで、「もし期待を裏切ったなら容赦なく落とすよ!」と言うことができるようになった。これは政権担当者へ緊張感をもたらすだろう。その一方で、政権与党は多数の議席で安定した政権運営をすることができる。個人的にはこれが健全なあり方だと思う。日本は権力に見合った責任が伴わない場面が多いのだが、政治の場面では一歩進んだ感じだ。


ボートマッチと政策選択選挙

過去の選挙と比較すれば、今回は政策志向が一番強い選挙だったと思う。テレビではマニフェストを比較する特集がよく行われていたし、バラマキに批判的な「みんなの党」が比例で予想外の大量得票を得ており、投票した人は政策を見て判断したと推測することができる。読売新聞や毎日新聞のサイトではボートマッチという、主要な政治争点について自分の立場を入力し、その争点についてどれほど重視するかも入力すると、政党が掲げる政策との親和度を表示してくれるサービスが提供されていた。他にも、ポリティカル・コンパスという、自分の政治的立ち位置をみるサービスもあった。

自分の考え方は「財政はスリム化・経済は自由化を基本とすべきだが、社会保障が国民に信頼されていないとうまく機能しないので建て直しが急務」「憲法9条には固執せず核武装もありうるが、反対の人の気持ちもわかるし特に重視しない」「個人の思想や私生活の自由は最大限尊重すべき」という感じで、ボートマッチで判定するとピッタリはないが民主や社民に近く、立ち位置は強めのリベラルと弱めの左派という感じになるようだ。選挙後でも利用できるようなので、試してない方がいたら毎日ボートマッチ(えらぼーと)をどうぞ。自分の投票を振り返ってみるのもいいだろう。


野党としての自民党

首相は衆議院解散の記者会見から民主党の政策を批判するのにかなりの時間を割き(自民党のマニフェストができてなかったこともあるが)、選挙期間中も多くの民主党批判があり、インターネット上でネガティブ・キャンペーンも展開した。本来なら与党が議論の土台となる政策を提示するものだが、まるっきり逆になってしまった。政権ではなく政策を、という自民党のキャッチフレーズがあったが、与党はこれまで政策を実践できる立場にあったのだから「今までの政策に不満だからこうなっているのに」と批判されるのではと思った。

政策と言えば、郵政選挙で「小さな政府」を支持して投票した有権者は麻生首相が掌を返したために離れてしまった。世論の空気を読んで選挙で掲げた根本的な事を改めて選挙をせずに覆すのは包括政党らしさが表れているが、前の選挙で地方の基盤が崩れており、どっちつかずになってしまった。終盤は国旗がどうとか保守的で理念的な問題で勝負をかけたが、これは熱狂的な支持者を得る反面、ゆるい一般的な支持は得にくいものだと思う。国旗を汚されたら気分はよくないものの、当事者を執拗に糾弾するのは行き過ぎじゃないか、という人が多いだろうし、政治課題の中で優先順位は高くないようにみえる。

さて、野党として自民党がどうなるか、保守色を強めるという方向が有力のようだ。小さな政府・構造改革路線継続を志向する議員は軒並み小選挙区で敗れて比例で復活という状態で、主導権をとるのは難しいだろう。そうなると経済・財政・社会保障・雇用という場面では明確な対立点を形成できず、安全保障面で民主党政権の行き過ぎを止める役割を担うのではないかと思う。しかしこれだけでは二大政党と言うには心許ないので、いずれ自由化路線で経済政策を掲げるようになって欲しいと個人的には思う。


投票について

小選挙区では民主党の候補者が圧倒的に強かったので選択の余地はなかった。比例では社民党の名簿1位の保坂展人氏にはこれからも議員を続けて欲しいと思ったので社民党にしたが、議席確保に至らなかった。小選挙区で10万票・比例でも20万票入っていて当選できないとは、少数政党は厳しいなと感じた。


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備えあれば、と言うけれど

2009年08月26日 | 時事
以前の記事で予防原則の問題点について書いた。そこでは因果関係を明らかにする努力なしに規制を推進してしまう危険性を指摘したのだが、別の問題点もある。効率を無視した帰結を導きやすいことだ。「備えあれば憂いなし」と言うが、北朝鮮のミサイルに備えて庭に防空壕を掘る人はいない。どこまで備えればいいのか、明確な線引きは難しい。そのために恣意的に使われてしまうのだ。

凍結国道、14路線建設再開へ 判断基準あいまいに(asahi.com)
凍結国道、17路線工事再開へ 国交省が基準を緩和(朝日新聞)
国道凍結解除 許されぬ基準の後出し(東京新聞・社説)

これらのニュースの経緯をまとめると、以下のようになる。

2008年秋、民主党が道路計画の需要予測が過大と指摘
→2009年3月、国交省が新しい基準を設定し18区間の計画を凍結
→2009年7月、監視委員会の下で再検討し、最終的に17区間は計画再開

1年も経たぬうちに計画がひっくり返ったり戻ったり。これは、ニュース記事の見出しにも現れているように、事業計画の評価基準が変わったために生じたものである。凍結の決定にあたっては、走行時間短縮等の便益を金銭的に評価し、これが予定の建設費を上回るかどうかで判断された。それが再検討にあたっては、建設費を削減してもクリアできない場合に災害時の交通確保などの「防災上の観点」を新たに加味して判断された。基準をいきなり変えたことや明確でない基準を加えたことに批判が起こっている。

確かに、道路がないよりあったほうが、道幅が狭いより広いほうが防災に資することは明らかである。しかし、現在問題となっているのは、国の財政が逼迫している中で全体の予算から如何様な配分をなすべきか、ということだ。必要なことでも、それが複数あれば優先順位を考えなくてはならない。特に社会保障制度は国民から信頼を失っており、「将来の生活への備え」について危機感が高まり、生活防衛的な消費行動で経済全体に影を落としている。

同じようにどこまで備えればいいのか考えさせられた出来事としては「住宅用火災報知器設置の義務化」がある。確かに高齢化が進めば早期に火事を認識すべき場合は増えるだろう。設置していたおかげで早く対処できましたという事例も出てくるだろう。しかし全住宅で、台所と寝室全てに設置する義務を課すというのは、ちとやりすぎじゃないかなと感じてしまう。でも、もし本当に火事が起こったらどうするんだと言われたら言い返せない。

設置義務には制裁規定はついておらず、設置しなくても罰せられたりということはない。しかし、事が起こったときにニュースで「この家では消防法の義務に反して火災報知器を設置していませんでした」とか一言加えられるようになったら大変だ。制裁がないが故に裁判所で過剰規制かどうか争う契機も少ない。一方で、この規制により非常に大きな市場が生まれた。薬のネット販売の規制でもそうだが、「安全」の背後で戦わされているビジネス上の争いが増えているように感じる。

安全をどこまで追求すべきか、何を優先すべきか。これらは数式で答えが出るようなものではなく、国民の決断に委ねられるものであり、一度考えてみる必要がありそうだ。安全の推進の裏に別の動機があるかもしれないと注意することも必要だろう。私の場合は、自分の将来に備えてやるべきことを考えるほうが先かもしれないが…。


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Last Night, Good Night

2009年08月09日 | ミュージック

曲情報はこちら→初音ミクwiki

ようやく夏らしくなってきたが、相変わらず雨が降ったりと不安定な天気が続き、夜も寝苦しい。特にここ数日は「アリガタバチ」に悩まされて、おちおち眠れない日が続いてしまっている(今日は一睡もしていない)。そこで今回紹介するのは、眠るときにピッタリの一曲だ。スローテンポの美しいリズムと旋律が神秘的な雰囲気を作っていて、夢の世界へと静かにいざなってくれる感じだ。歌詞に照らすとlast nightは「人生最後の夜」という意味のようだが、この曲聴きながら眠っても必ず再び起きるように。

このブログに来てくれる方はVocaloidに馴染みのない方が多いので、まずは人が歌ったものを貼り付けてみた。リツカさんの安定した高音の響きは感動する。大学生ということくらいしかわからないが、すっかりファンになってしまった。Vocaloidが歌う原曲はこちらのリンクを参照して欲しい。プロ活動もしている有名プロデューサーで、CDも何枚か発売しているとのこと(詳しくは作者のホームページを参照)。他にもたくさん名曲がみつかるだろう。

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ブログ運営についてですが、諸事情により8月25日まで更新をお休みします。「goo足あと」の訪問も控えめになってしまうかもしれません。「gooひとこと」は何度か更新するつもりです。ご了承お願いいたします。そして、再開後も順風ESSAYSをよろしくお願いします。


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隠れた価値観を問い直す

2009年08月05日 | 紹介
「普段どんな本を読んでいるの?」とよく訊かれる。いや、嘘、滅多に訊かれない。むしろ近頃はお喋り自体していない。ともあれ、仮に訊かれたとしたら、「まあ専門の法律関係は義務感から読むとして、他には心理学関係の本をよく読むね」と答える。さらには、マンガも読むね、と答える。連載では話が少しずつ進んでいき、読者が多くセリフ1つから批評が交わされているので、話の展開の仕方等の参考になる。もっとも最近は読んでいた雑誌が休刊してしまい、それ以来読む機会がない。

心理学関係の本は、人の心の動きについて分析することができ、それも科学的な根拠もあり納得できるものも多く、豊富な事例とともに参考になることが多い。専門でもないから、本の受け売りでいいやという気楽さもある。図書館に行っては面白そうな新書を借りて読むことが多い。先日も1冊借りたのだが、興味深い内容だった。

国分康孝著『「自己発見」の心理学』 (講談社現代新書)

この本はアルバート・エリスという米国の臨床心理学者が提唱した「論理療法」について著者が噛み砕いて紹介し、日常生活を送る上でのポイントごとに実践を試みているものである。19頁の例を参照すると、「大学を留年してしまった」としたら、「自分はダメな人間だ」と思うようになりがちだが、この事実と感情の間には

「大学を留年した」
→「大学は留年せずに卒業すべき」という自分の価値観に反してしまった
→「自分はダメな人間だ」

というように、価値観が存在している。この価値観を専門用語として「ビリーフ」と名づけ、貴方が抱くビリーフは合理的で絶対的なもの?と問いただすというのが論理療法だという。よくよく考えると、「留年はしないにこしたことはない」というくらいのもので、「残り単位も少ないし学生時代やりのこしたことをやろう、自分の好きな研究をしたりスキルを身につけたりして取り返してやろう」という前向きな考え方を導くことが可能である。

悩みをもたらしているのは事実ではなく抱いている価値観であることが多い。その価値観は真に受け入れるべきものだろうか、(1)事実に基づいているか、(2)論理的必然性があることか、(3)人を幸福にするようなものか、という観点からチェックすべきだという。中でも、「~でなければならない」「~べきである」といった価値観には疑うべき点が多いとされる。もっとも、価値観を変えれば何でもやっていけるわけでもなく、事実に立ち向かう決断をすべき場合もある。特に「自分は○○が苦手である」という場合には、機会をみて克服する決断をするほうがよいことが多い。

以上が自分なりに理解した概要である。本書では、「人生何事もいい線を行かなければならない」「他人を拒否すべきでない」「家庭は自分に憩いをもたらすものでなければならない」「職場や学校で窓際にされるような人間はダメな人間である」といったビリーフについて、本当にそう?そのために辛い思いをしていない?と著者の体験とともに異なる考え方が提示され、前向きになれるよう示唆されている。考えることが好きな人にとっては、ぴったりの悩み解決法かもしれない。

ところで、別に自分は「うつ」ではないが、ダイヤモンド・オンラインの「うつ」にまつわる24の誤解という精神科医の方が書いている連載は、なるほどと思うことが多い。そして、ここで指摘される誤解は、多くの人が知らず知らずに受け入れてしまっている価値観に起因しているものがあるようにみえる。いくつか紹介してみよう。

「昼夜逆転」現象のナゾ――なぜ「ウツ」の人は朝起きられなくなるのか?

その答えを簡単にまとめると、日中は他人が仕事などで忙しく動き回っており、そんな中で自分だけが自宅で休養していると何だか肩身の狭い思いをしてしまう、眠ってやり過ごしたい、夜中はそういう心配が浮かんでこないから過ごしやすい、そういう思いが積み重なって昼夜逆転が生まれるのだという。睡眠薬等で無理やり修正しないでいても、時間とともに自然と治っていくようだ。別に病気でない人でも、同じように平日の日中に家にいると落ち着かない気分になることはないだろうか。

このような現象の背景には、(a)「平日の日中は仕事や学業で動き回っていないと一人前の人間でない」といった価値観があり、それを裏切っていることへのプレッシャーが生じていると言える。その結果、(b)「早寝早起きの健全な生活リズムを維持すべきである」というまた別の価値観に反することにもなり、またプレッシャーが生じてしまっている。この両方の価値観は合理的であろうか。世界に目を向ければ多くの大人が堂々と長期休暇をとっていて、数ヶ月くらいの休みをとることはそれほど逸脱したことではない。また、昼夜逆転も何年も続くようなら健康に影響するが、一時的な感じならそこまで悪いことではないだろう。

したがって、(a)の価値観は不合理だと確信できたなら気にせず日中から活動できるようになるし、抗う勇気が出ないなら、(b)の価値観も絶対じゃないと言い聞かせて自然に身をゆだねるか、とりあえず一人前の人間と思える活動を日中に予定として入れてみることで解決できるだろう。せっかく得た平日の休み、肩身の狭い思いをしながら過ごすなんてモッタイナイよね。

“何もしない時間”は無駄なのか?――「ウツ」を引き起こす「有意義」という言葉

上で「有意義ではない」ではなく「モッタイナイ」という言葉を使ったのは、続いてこのテーマを取り上げるからだ。この記事では、端的に「時間は有意義に使わなければならない」という価値観が強迫的になっていることを指摘するものである。人間は常に有効に活動し続けるようにはできていない、行き過ぎると体から反動が出てくるものだという。ボンヤリと思い巡らせる自由な精神活動を再評価すべき、と括られている。「あー無駄に時間を過ごしたー」と嘆く人は多いだろうが、それが自然な欲求の発露としてなされたものであれば、その時間があるからこそ普段頑張れていると思ったほうがよい。

私自身、「休みの日って文字通り本当に休んでるんだよね、特に何かしてるってわけじゃない」と話すことがあり、「そんなダメ人間だとは思わなかった」と返されたことがある。でも仮にそんな生活じゃなかったら、このブログはできてないんじゃないかと思う。そしてこのブログがなかったら、そもそもダメ人間じゃないと思われていないかもしれない。インターネットとブログという発明は特に何もしない休日の過ごし方を有意義そうに見せるのに大きく役立っていて、実にありがたい。

そして、仮に「普段どんな本を読んでる?」とききたい方がいたら、何を読むかよりもその後ボンヤリとその本について反芻する時間をたくさんとるほうがいいかもね、ということも合わせて答えたい。先日取り上げた「フォト・リテラシー」は新書だけれど少なくとも大学の講義とゼミ1年分が詰め込まれたものであり、数十人の学生がテーマを小分けにして時間をかけて考え、発表して毎回1時間半議論する素材にもできるものだ。読んだ、終わり、ハイ次、という感じで量を競うのもいいが、1冊をどこまで深めることができるか探求してみると面白いし、何よりお金がかからない。

以上、知らず知らずに受け入れてしまっている価値観のために苦しんでいませんか?というテーマで色々と考えてみた。社会と経済は発展しても、なぜか人が精神的に楽になるための努力はあまりなされておらず、むしろ楽になることは断固として許さないという雰囲気である。そんな中、今回の記事で紹介した手法で個人的な事情を乗り切る出口を見出すことができたら幸いである。


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世界報道写真展2009

2009年08月03日 | 紹介


世界報道写真展、6月13日から開催=恵比寿・東京都写真美術館

東京・恵比寿の東京都写真美術館で世界報道写真展が開催される。この写真展は、オランダの世界報道写真財団が毎年行っているコンテストの入賞作品を集めたもので、本年は世界124カ国から9万点以上の作品の応募があり、その中から60点余りの作品が選ばれ、展示されている。

大賞は米国のアンソニー・スワウ氏の作品で、荒れた建物内を警官が銃を持ちながら見回る様子が写されている。一見途上国や紛争地帯の様子にみえるが、これが米国内であることに第一の衝撃、そして金融危機の影響によるローン未払いで手放された住宅であることに第二の衝撃が引き起こされる。昨年の金融危機が米国社会に与えた影響を象徴する作品である。

入賞作品では、四川大地震と北京オリンピックがあった中国を題材としたものが多く、写真家それぞれの目線で中国社会が表現されている。戦争写真はグルジア紛争を題材としたものがあるものの例年より控えめな印象であり、中米の殺人事件など治安問題に焦点を当てた作品が目を引いた。日常生活では目にしない、世界各国で生じている問題を知るいい機会を提供するイベントだ。

写真展は8月9日まで開催され、以後大阪・札幌・大分に会場を移す。入場料は大人700円。

http://www.syabi.com/details/wwp2009.html

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ニュース記事風に紹介してみた。観に行った際、主催の朝日新聞社のインターン生らしき人たちが取材に来ていて、おそらくその後記事を作ってみたのだろう。自分も試しにやってみたが、これは訓練しないと上手く書けそうにない。上記の通り6月13日から始まって観に行ったのは6月20日だから、ひぇー、1ヶ月以上経ってしまった。当初は買うつもりがなかったカタログを購入して先月金欠に悩まされたので、元をとろうと見直して感想を書くことにする。

前回観に行ったのは大学で写真の授業を履修していた年で、当時はイラク戦争が重大な関心事で、大賞もイラク戦争を題材としたものだった。上でも書いたが、選ばれた写真の題材に時代の移りかわりが反映されるのが興味深い。地域の紛争など、新聞等を見ているだけではあまり目に付かない問題について関心をもつきっかけにもなる。

それでは、以前の記事で予告したとおり、報道写真数点を取り上げて感想を書いてみよう。著作権の問題があり実物を紹介しないまま感想だけ書くためわかりづらいかもしれないが、ご容赦願いたい。取り上げる写真候補に付箋をつけていったら数多くついてしまって、記事が超長文になってしまうおそれがあるので絞りをかけた。コンテストは、部門ごとに単体写真と組写真に分かれてそれぞれ3位まで決められる。なお、カタログは写真展とは異なる並びだったり入れ替わっていたりするので注意が必要だ。

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日常生活の部・組写真第2位(カタログ10頁)

大賞に輝いた写真家が同時受賞。これも金融危機を題材としたもので、最初のパネルは3枚組みで、左にニューヨーク証券取引所の光景、右側上に政策責任者2人が事務所で話す様子、右側下に職業斡旋所で仕事を探す黒人男性、という組み合わせだ。証券取引所の写真は、正面奥に急激な右肩下がりの相場のグラフが表示され、取引に携わる人たちが不安そうな目で手前上にある情報を眺めている。中央の腕組みしている男性が象徴的で、普段からある床の上の紙くずが残骸のようにみえる。何が起こったのか、1枚で端的に表すことができる導入として最適な写真だろう。

右側の2枚については、仮に右上と右下の写真の配置を入れ替えたらどうなっただろうか、と考えてみた。いわゆる上の人と下の人の配置を逆転させてみれば、政策担当者達への抗議・批判といった意図を入れることができるように思う。こんな事態を招いた張本人たち!一般の人たちの苦労を見よ!という感じだ。しかし写真展でもカタログでもそういう組み合わせにはなっていない。これは、金融危機に政策側の人たちへの非難のムードが高まっていないことを表しているように感じる。もっとも、政策担当者も失業者も浮かない顔をしているが、失業者のほうがより余裕のない表情であるように見え、生活基盤が揺らいだ人々の辛さのほうが大きい、という印象を受ける。

次のパネルでは、左上に食糧配給への列、左下に空家街となった道路、右側にニューヨーク証券取引所の外で大きく手を挙げて嘆く男性の様子が写されている。最初のパネルから続いてすべて白黒の写真となっており、歴史的記録という性格を強める効果があるが、食糧配給と空家街の写真はカラーでないと状況がつかみづらく、訴求力に欠けると感じた。配給の列は自動車の中から写されていて、堂々と撮るのが憚られる雰囲気だったのかと想像をかきたてる。もっとも、真ん中の女性の真っ白な靴と流線型の自動車のせいで、いまいち深刻さは強調されない。空家街も中途半端に自動車が1台あって、閑散さが削がれているようにみえる。

右側の写真は真ん中下の嘆く男性がいなければ作品として成立しなかったであろう。でもこれ、やらせでもできるよね、と邪な勘繰りをしてしまった。スーツ姿だが荷物も持たず、頭頂部は少し薄くなっている。この世の終わりと言わんばかりの嘆きようなのだが、おそらくこの人は職業斡旋所で相談したり、配給の列に並んだり、サブプライムで家を追われるような人ではない。もっと辛い状況なのに、ある意味淡々と暮らしている左側の写真に写る人たちと対比できるように思った。

ところで、日本のバブル崩壊について象徴的な写真ってあまり記憶にないよね、という話を同行者とした。当時まだ自分が幼くて知らないだけか、報道写真が隆盛じゃなかったか、じわじわくるという経緯のため象徴的な写真が撮れなかったのか、色々考えられるが、「失われた10年」という若者のメンタリティーにも大きく影を落とした(私もど真ん中で、お金のかかる遊びを滅多にしない)時代について著名な特集がないというのは物寂しい感じがする。


日常生活の部・単写真第1位(カタログ20頁)

個人的ベストの写真、だがものすごく衝撃的。白昼、アスファルトではないがきれいに整備された道路、自動車はあまり通っていないようだが、道幅も広そうだ。そんな道路で、20代半ばくらいの若い女性が仰向けで倒れている。サンダルに、青の鮮やかなジーンズ、黒のタンクトップ姿で、パーマのかかった長めの黒髪。口は半開き、目は真上を見つめ、頭から血を流し、路上に流れ出す血はまだ乾いていない。その隣(写真では奥)に停車した1台のワゴン車。小学校の送迎用であろう、開けられた窓から何人もの子供たちが彼女の姿を見下ろしている。このワゴン車の色がジーンズに似た紺色で、さらに奥にある建物の壁が赤色。色の配置が皮肉にもピッタリ合っている。

説明文では、中米エルサルバドルで写されたこと、彼女の名前がペトローナ・リバスということ、この場所が小学校のそばであること、小学校に通わせる2人の子供がいたことが明かされている。さらに「死体」となっているが、血色もあまり変わっていないし、まだ救命可能性あるんじゃないの?と問いたくなるほど生々しい。日中にも関わらず救急車が駆けつけていたり、警察が調べていたり、通行人が応急処置をしたり、といったことは全くなく、暫く放置されていたようにみえる。この国では1日10件の殺人事件が起こっているとあり、警察等も迅速に駆けつける体制が整っていないのだろう。「日常生活の部」に投稿されているのも衝撃的で、珍しくないこと、ということなのか。

説明文ではこうした犯罪が多発する背景についても言及がある。アメリカ合衆国で犯罪を起こし強制送還されてきた人たちがストリート・ギャングを形成しているのだという。急に戻ってきても生活していく基盤がない、ということで犯罪に走るのであろうか。迷惑な人には帰ってもらう、ある意味当たり前のことであるが、その後どうなるか想像をめぐらすことは滅多にないであろう。仮に自分たちに責任はなくても、防げる悲劇があるならば防ぐよう努力しよう、という気持ちになる。送還に際して生活上の指導とか簡単にできないだろうか。この女性の悲劇を無駄にはしたくない、そう思わせる1枚である。これには、説明文で名前や境遇を合わせて書くことで被害者を身近に感じさせる効果が働いているだろう。


(1)一般ニュースの部・単写真第2位(カタログ56頁)
(2)スポーツフューチャーの部・組写真第1位(カタログ126頁)
(3)自然の部・組写真第2位(カタログ74頁)
(4)ポートレートの部・組写真第3位(カタログ118頁)

中国関係の写真をまとめて。(1)は数点あった四川大地震の写真のうちのベスト。地震で大破した住宅、屋根はなく、壁も崩れている。扉の枠だけがなんとか立っている。そんな中、キッチンに備え付けの大きな中華鍋は無事で、下で薪を焚いて料理をする若い夫婦の姿。着ている洋服は汚れておらず、白地にピンクのデザイン。強かに生きる人の姿は、勇気を与えるだろう。カタログでゆっくり見てみると、家の奥の畑の作物は変わらず元気な様子を見せており、住宅との対比で植物の逞しさも感じ取ることができた。

(2)は北京オリンピックを題材として中国社会を写し取った良作。オリンピック中継を映し出すテレビを色んな場所で撮影したものだ。(a)綺麗な高層ビル内での大型大画面液晶、(b)住宅の中、古風な曼荼羅のような布と並んだ古くて画像も粗いブラウン管テレビ、(c)古めのマンション内、ブラウン管テレビ自体は比較的新しいが、古い冷蔵庫の上に造作なく置かれ、周囲には古い扇風機が雑然と置かれている、(d)少し古めのテレビが、プラスチックのカゴ2つ重ねたうえに置かれている。周囲には空き瓶や倒れたペットボトル。経済発展の恩恵を受ける進度は人それぞれ、どのような境遇の下でオリンピックを迎えたか推し量ることができる。写真内に人は写っていないが、それでもわかる。

(3)は「四季」を表現したもの。撮影には最低1年程の時間がかかっているだろう。杭州にある西湖という湖のほとり、中央に桃の木が配置されている。花がひらきかける、満開、青々と茂る、葉が落ち雪をかぶる、そんな木の移り変わりと共に、手前の芝生、奥の湖面、両隣に配置されているベンチに座る人々の様子も移り変わっていく。観光地のようで、集団で写真を撮る姿も。地元の人が運動していたりもする。このような光景が、人を変え葉を変え花びらを買え、幾年も繰り返されていくのだろうと想像できる。カタログでは写真展で飾られていたものより写真数が減らされ配置も変更されているので注意が必要だ。

硫黄島の星条旗、タイムズスクエア勝利のキス、崩れ落ちる兵士、万里の長城で戦う八路軍、多くの人が知っている戦争写真、これらを人形(フィギュア)で再現したのが(4)である。撮影したのは中国の写真家。アイデアも面白いが、こうした演出写真が堂々と評価されていることが驚いた。最近gooブログで花の写真コンテストをやっていたが、枯れた花をもらってきてグチャグチャにした後、路上とかに雑然と置いて色んな場所で色んな背景で撮影したら面白いかな、なんて思っていたが、主催側にとっては想定外だろうし倫理的にも問題がなくはないのでやらなかった。

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他にも色々と感想はあるので、観に行った方で感想を話したい!ということがあれば、コメント宜しくお願いします。


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