ルールに対する戦略
バンクーバーオリンピックのフィギュアスケートでは、採点基準に対しどのような戦略を立てるべきだったか、ということが盛んに話された。採点基準と競技スタイルが合っていたキム・ヨナやヤグディンは存分に生かして金メダルをとり、競技スタイルが必ずしも合致しなかった浅田真央とプルシェンコは銀メダルに終わった。銀メダルの二人は無理に採点基準に合わせようとせず自分のスタイルを貫く戦略をとり、結果として優勝できなかったので、この選択には批判もあった。しかし私は、これは仕方ないと思っている。仮に採点基準に合った戦略にしていたら、自分のよさも出せなくなる上にライバルの上に行くことは望めず、もっと差をつけられていたと思うからだ。
自分のスタイルをなかなか変えられない、というのは色々な場面で見ることができる。最近、海外に進出した日本企業が現地の労働意識等で苦労する話を読んだ(なぜ日系企業でストが起きるのか本当の理由を話します:日経ビジネスオンライン)。海外進出の動機は、生産コストや税金など、ドライな経済合理性や収益予測からされることが多いように見える。これと同様に経営手法や労務管理のやり方もドライに利益最大化ができるように国内のやり方にこだわらず柔軟にすればいいとも思えるが、ここはその企業の根幹というか、なかなか変えられない部分なのだろう。
もっとも、フィギュアスケートのようなスポーツの世界ではコンテストの過程も広く公開されているので、自分のスタイルを一心に貫く姿で多くの人を感動させ、メダルの色には収まらない成功を得ることができる。銀メダルの二人はそれを達成したであろう。しかし、そういう場面は珍しいほうで、結果が出なければ評価もつきにくく先に進めないことが多いだろう。企業の経済活動もそうだし、勉強や試験もそうである。自分のスタイルを確立し貫くというのはそれ自体充足感が得られ追求されるべきことであるが、結果を出すこととは必ずしも両立しないのである。
知識への距離感
私は大学から法学をやっている。法学は他分野から入ってくる人も多いところなのだが、理系から来る人が短期間で目覚しい成果を出すところをよく見る。かけた時間が長い自分が軽く追い越されてしまうのは情けない気持ちにもなるが、これには理由があるように思う。もともと基礎能力が高いこともあるだろうが、ひととおり学問経験を積んだあとに触れている、という点が大きいと考えている。
青春盛りの時期、人間形成とともに法学を学んできていると、個性の発露や自己実現を法学に過度に託してしまう。これが文学ならばそのまま突き進めるだろうが、法学、特に法律実務をやる際は、利害の所在や当事者の立場に合わせて主張の互換ができるように一歩引いた姿勢が必要になる。これがないと、勉強熱心で勉強時間も十分なのにもかかわらず成果を出せなかったり、勉強や論述のスタイルが個性的で目の前の試験が要求するものになかなか適応できなかったり(ギクッ)する。この点、他分野から入ると、自ずからこれまでに修めた学問分野と相対化しながら学習でき、適度な距離感をとりやすい。
この一歩引いた姿勢がとれないことは「知識への偏愛」と形容することができよう。知識を恋人に見立てれば、相手に依存をしたり、支配欲を前面に出したり、鏡に話しかけたりといった様子に映る。知識自体は拒絶の意思表示を出さないのでそのまま耽溺してしまう。個人的な偏見なのだが、これに陥る方には恋愛経験が乏しいんじゃないかという方が多い(ギクギクッ)。恋愛というのは、自己という感覚の一部分を他者と分け合うことだというのが私の持論である(※)。知識も消化して自分の一部となるが、上述のように突き放すことも必要である。自己を分け合う範囲についての感覚・他者との距離感の取り方というのは恋愛経験によってよりよく育まれるのではないかと思う。
以上をまとめると、自分のスタイルを作り上げる充足感を得ることと結果を出せることを両立するためには、対象について適度な距離感をとることが必要であり、その感覚を磨くためには恋愛は結構いいんじゃないか、ということになる。
【※】「桃色ノート」という短編小説でこのテーマを扱う予定です。2006年10月にアップするって言ったままずっとプロットのまま塩漬けになってる。はあ。
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バンクーバーオリンピックのフィギュアスケートでは、採点基準に対しどのような戦略を立てるべきだったか、ということが盛んに話された。採点基準と競技スタイルが合っていたキム・ヨナやヤグディンは存分に生かして金メダルをとり、競技スタイルが必ずしも合致しなかった浅田真央とプルシェンコは銀メダルに終わった。銀メダルの二人は無理に採点基準に合わせようとせず自分のスタイルを貫く戦略をとり、結果として優勝できなかったので、この選択には批判もあった。しかし私は、これは仕方ないと思っている。仮に採点基準に合った戦略にしていたら、自分のよさも出せなくなる上にライバルの上に行くことは望めず、もっと差をつけられていたと思うからだ。
自分のスタイルをなかなか変えられない、というのは色々な場面で見ることができる。最近、海外に進出した日本企業が現地の労働意識等で苦労する話を読んだ(なぜ日系企業でストが起きるのか本当の理由を話します:日経ビジネスオンライン)。海外進出の動機は、生産コストや税金など、ドライな経済合理性や収益予測からされることが多いように見える。これと同様に経営手法や労務管理のやり方もドライに利益最大化ができるように国内のやり方にこだわらず柔軟にすればいいとも思えるが、ここはその企業の根幹というか、なかなか変えられない部分なのだろう。
もっとも、フィギュアスケートのようなスポーツの世界ではコンテストの過程も広く公開されているので、自分のスタイルを一心に貫く姿で多くの人を感動させ、メダルの色には収まらない成功を得ることができる。銀メダルの二人はそれを達成したであろう。しかし、そういう場面は珍しいほうで、結果が出なければ評価もつきにくく先に進めないことが多いだろう。企業の経済活動もそうだし、勉強や試験もそうである。自分のスタイルを確立し貫くというのはそれ自体充足感が得られ追求されるべきことであるが、結果を出すこととは必ずしも両立しないのである。
知識への距離感
私は大学から法学をやっている。法学は他分野から入ってくる人も多いところなのだが、理系から来る人が短期間で目覚しい成果を出すところをよく見る。かけた時間が長い自分が軽く追い越されてしまうのは情けない気持ちにもなるが、これには理由があるように思う。もともと基礎能力が高いこともあるだろうが、ひととおり学問経験を積んだあとに触れている、という点が大きいと考えている。
青春盛りの時期、人間形成とともに法学を学んできていると、個性の発露や自己実現を法学に過度に託してしまう。これが文学ならばそのまま突き進めるだろうが、法学、特に法律実務をやる際は、利害の所在や当事者の立場に合わせて主張の互換ができるように一歩引いた姿勢が必要になる。これがないと、勉強熱心で勉強時間も十分なのにもかかわらず成果を出せなかったり、勉強や論述のスタイルが個性的で目の前の試験が要求するものになかなか適応できなかったり(ギクッ)する。この点、他分野から入ると、自ずからこれまでに修めた学問分野と相対化しながら学習でき、適度な距離感をとりやすい。
この一歩引いた姿勢がとれないことは「知識への偏愛」と形容することができよう。知識を恋人に見立てれば、相手に依存をしたり、支配欲を前面に出したり、鏡に話しかけたりといった様子に映る。知識自体は拒絶の意思表示を出さないのでそのまま耽溺してしまう。個人的な偏見なのだが、これに陥る方には恋愛経験が乏しいんじゃないかという方が多い(ギクギクッ)。恋愛というのは、自己という感覚の一部分を他者と分け合うことだというのが私の持論である(※)。知識も消化して自分の一部となるが、上述のように突き放すことも必要である。自己を分け合う範囲についての感覚・他者との距離感の取り方というのは恋愛経験によってよりよく育まれるのではないかと思う。
以上をまとめると、自分のスタイルを作り上げる充足感を得ることと結果を出せることを両立するためには、対象について適度な距離感をとることが必要であり、その感覚を磨くためには恋愛は結構いいんじゃないか、ということになる。
【※】「桃色ノート」という短編小説でこのテーマを扱う予定です。2006年10月にアップするって言ったままずっとプロットのまま塩漬けになってる。はあ。
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