goo blog サービス終了のお知らせ 

順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
最近の記事一覧はこちら 管理人へのメッセージ・お問合せはこちら
 
過去記事からのおすすめ
エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

個人と集団について

2012年10月27日 | 日記
お久しぶりです。更新しないとブログのデザインを強制的に変更されるとのことで、ラフな感じで更新です。

孤独な状態は淋しいというマイナスの感情とストレスをもたらすが、これは孤独が自己の生存にとって不利であるという本能的な感覚から来ているように思う。

そもそも生物が群れを作る最も大きな理由は、群れでいることが個体の生存可能性が高まるからであろう(小学生で読んだ「スイミー」がふと思い出される)。群れが大きくなれば序列を必要とし、個体は上位の序列を追求し確保することでさらに生存を万全にする。未来を予測する能力が発達しているヒトは、現在生きているというだけでは満足せず、将来の生存可能性に不安をもち豊かさを追求し富を蓄積しようとする。

このように集団の形成は個体の生存にとって有利な面があるが、その一方で、個体には自己の選好を抑えて集団に合わせるという別のストレスを抱えることになる。個人は集団との間で、離れると生存に不利になるストレスと、近づくと抑圧されるストレスの両面をもつことになる。

以上のようなイメージをもとに、私なりに個人主義、自由主義を定義すれば、「集団がその目的を達成する過程において、個人の抑圧が最小限で自由が最大限になることが望ましく、追求されるべきであるという価値観」のような感じになる。ここで集団の目的を生存可能性の向上に帰着すると、豊かさの追求を蔑ろにすることはできない。戦場のような極限状態や災害等での配給をイメージすれば、豊かさの欠乏が個人の選好の制約をもたらすとわかる。

ここで学校教育のことに話を移すが、私が通った中学高校は自由な校風で個性を追求する機会も提供され、それでいて学力的な成果も他と比べれば高いという感じであった。しかし他方で、「うちの常識は世間の非常識」という慣用句もあり、このままでは社会に適応できないよ、と言われていた。私個人としてはなんとか折り合いをつけたと思うが、上で述べた価値観からすれば、より望ましい環境であるのに少数派として不適応を招きやすいというのはどこか納得できず、同じような学校が増えて広がることもないことに軽い絶望を抱いている。

また少し離れた話で戦争について考えてみると、国民国家間の戦争は特に破滅的になるが、これは集団の存亡をかけた争いに個体も命を投げ打つという側面があるからだと思われる。上で述べた集団の機能からすると、個体が自己の生存を集団の存亡に懸けるのは、当該集団がなくなったら自己の生存が考えられないという関係が存在する場合と考えられる。とすれば、個人として複数の集団で生きてやっていけるという現実的な確信があれば、戦争に対して否定的になっていくように思われる。

私が大学に入った頃は「変化の時代」と言われていたが、現在は変化の方向が衰退であるとはっきりし、豊かさも現実として減っているように感じる。そんな中、どこまで個人と自由を確保できるか、様々な場面で考えていきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする