バレエなるものを観にいったので記憶が新しいうちに感想を書くことにする。
公演の基本的な情報は→ ttp://blog.livedoor.jp/masamifc/archives/1417699.html
1.コンチェルト
ショスタコービッチ作曲ピアノ協奏曲第2番に振付が加えられたもの。特に明確なストーリーはつけられていない、抽象的な作品である。この公演独自の美術だろうか、大きな部屋の中という場面が与えられている。部屋には大きな窓が配置してあり、青い海や空を思わせる印象派的な光景が奥に広がっている。説明では窓の外についてnaturalistic world(自然界)を意識しているとのことだ。このような示唆に加えて、ダンサーたちの衣装が色調を様々に変えた青で統一されているのを見ていて、各楽章について次のようなストーリーが思い浮かんできた。
第1楽章(楽曲を聴く→YouTube)
賑やかなお昼の海、魚たちが軽快に波と戯れている。
第2楽章(楽曲を聴く→YouTube)
静かな夜の海、月の光が水面に映り、揺れている。
第3楽章(楽曲を聴く→YouTube)
翌朝、気の早い魚が戯れ始める。他の魚も加わってくる。
しかし波が激しくなっていく。翻弄されていく魚たち。波と魚が見分けがつかなくなっていく。
最初ダンサーたちが手を大きく広げ羽ばたくような仕草をするので空に舞う鳥と風と見立てることができそうだったが、全体的な「動」と「静」の配分として風というイメージよりも海の動きに近く、群舞の手の動きも波を思わせるものだったので、魚と波(海面)というイメージと見立てた次第である。休憩時間に近くにいた人が波を想起したと話していて、同様の印象を受けたようだった。
第1楽章と第3楽章の前半はソリスト=魚、群舞=波と位置づけられる感じであったが、第2楽章は水面そのものという印象を受けた。夜の静かな海に生き物は似合わない。ソロと群舞の動きも同じものが多かったというのもある。月が海面に映り、水の動きにあわせて揺れる光景と重なった。ソロの男女がこの部分を表現し、衣装の青野濃淡が異なっているために、明るさの違う部分で恋模様が描かれているようにも感じた。
「月明かり 恋紡がれる 水面(みなも)かな」なんてね。
第3楽章は一足先に魚が遊び始めるようなソリストの踊りから始まるが、まもなく音の厚みが増し、多くのダンサーが登場してくる。息をつく間もなく次から次へとフレーズが現れ、踊りも間断なく続いていく。もうここでは、どれが波でどれが魚かなんて見立てる余裕もない。全体がひとつのまとまりとして、圧倒的な存在感を発したまま終わる。
ここで、作品のテーマとして「自然界の秩序」というものが浮かんできた。自然界は原理は物理法則であるが、あまりに複雑で幾何学のように整然としたものではない。波の色も高さもひとつとして同じものはない。また、自然の動きは豪快でそこにいる生物の死を厭うこともしない。生も死も愛も恨みも悲喜劇も全て飲み込んでくる。
プロのハイレベルな踊りであってもよくよく見れば個々人の差異がある。波を表現する手の動きも、高さやタイミングはほんの少し異なる。この違いこそが自然なのである。そして、そんな細かい「粗探し」もできなくなるような勢いで圧倒されて終わるのである。
また、窓には大きな間仕切りがあり、舞台が部屋の中という人間の空間であるとはっきりとしている。それでも、その人間の空間においても、同じものが繰り広げられている。人間も自然の一部になるときがある、ということを意識させられる。同化の感覚。これは、先日の屋久島旅行で同様のことを感じたから、だけかもしれないけれど。
2.チェックメイト
チェスを題材にした作品。作品が成立した1930年代後半のイギリスとドイツを想起すれば話の展開を整理できそうである。
「赤」はイギリス。キングは老齢・虚弱で判断の思い切りがない。クイーンは宥和をしようとするがあえなく失敗してご退場。ナイトは命令を受けたわけでもなく自発的に守りに奮闘。相手のクイーンを追い詰めるもキングが慈悲をかけようと止め、その間にやられる。ナイトの死にも悠長に荘厳な葬式をする。残ったのはキング一人。
「黒」はドイツ。キングがいない(君主が退いた時代)。ビショップもいない(ナチス下、キリスト教の影響力低下の時代)。統率はクイーンが行う。自ら剣を持ち、ナイトにビシビシ命令する。トップダウン。組織的で統率がとれている。相手の善意の行動には全て裏切る。圧倒的勝利を収める。
イギリスの作品でありながらイギリスが負ける結末になっている。このままではやばいよ!という時代の雰囲気だったのだろう。「赤」に救いはない。神様が見ていてバチが当たる、因果応報を主体とする日本人の宗教観からは納得がいかないかもしれない。
これに加え、個人的な視点として、日本の将棋と比較してどうかな、なんてことも思いながら鑑賞してみた。まず最初に指摘できることは、将棋にはクイーンのような女性がいないということだ。基本的に男性のみの編隊が想定されているだろう。愛の物語を描くのは難しそうである。脱線するが、将棋の駒を二次元美少女/美男子擬人化すれば当たると個人的に思っている。アイデアに著作権はないので誰か試してみてね。
次は、駒は自己判断ではなく王の命令で動くが、やられても相手に寝返ってまた登場することが指摘できる。駒のぶつかり合いは生死をかけた殺し合いというより、生け捕りに近いものがあるだろう。命をかけているのは王だけ、実に牧歌的だ。駒は命令に忠実に従うけれども、自分の意思というよりやらされている感で、相手側に身柄が渡ればそこでまた同じように振舞う、という感じだろうか。なんとなく坂口安吾「続堕落論」を思い出した。
こうしてチェスと将棋のルール等から文化の違いを見出そうとすると、他にも色々と考えられるだろう。日本的な話の筋として、善と悪の陣に分けることはなく、角や飛車といった大駒を歩の集団が打ち負かしたり、劣勢を覆して勝利とか、そういう感じになるだろう。文化の対照を意識した作品ができたら面白いな、なんて思った。
3.パキータ
パキータは古典作品で、これぞクラシックという感じの演目だ。20世紀の比較的新しい抽象的作品・ストーリー物の作品と続け、そして最後に古典を持ってくることで、バレエの様々な可能性を提示しているように見える。古典モノで特にストーリーや意味づけを詮索したりはしなかった。純粋に舞台を見るというのも大切だ。
幕が開いてまず目を引くのが衣装と舞台美術の豪華さである。"gorgeous"と"noble"は当然には両立しない。両方を感じさせるために色使いや形の工夫がたくさんなされたんだろうなあ、と思った。踊りは、ソリストの方たちの音との合わせ方が見事であったし、主役の二人は立ち姿のプロポーションからまず完成されていて、手も長く、技術的にも素晴らしいと感じた。特に男性が舞台を大きく回りながら一周するところで、ひとつのサイクルごとに途切れを感じさせることなく、流れるように回っていったところに思わず唸った。
ということで、自己流っぽいけれど、とてもよく楽しめました。
にほんブログ村
公演の基本的な情報は→ ttp://blog.livedoor.jp/masamifc/archives/1417699.html
1.コンチェルト
ショスタコービッチ作曲ピアノ協奏曲第2番に振付が加えられたもの。特に明確なストーリーはつけられていない、抽象的な作品である。この公演独自の美術だろうか、大きな部屋の中という場面が与えられている。部屋には大きな窓が配置してあり、青い海や空を思わせる印象派的な光景が奥に広がっている。説明では窓の外についてnaturalistic world(自然界)を意識しているとのことだ。このような示唆に加えて、ダンサーたちの衣装が色調を様々に変えた青で統一されているのを見ていて、各楽章について次のようなストーリーが思い浮かんできた。
第1楽章(楽曲を聴く→YouTube)
賑やかなお昼の海、魚たちが軽快に波と戯れている。
第2楽章(楽曲を聴く→YouTube)
静かな夜の海、月の光が水面に映り、揺れている。
第3楽章(楽曲を聴く→YouTube)
翌朝、気の早い魚が戯れ始める。他の魚も加わってくる。
しかし波が激しくなっていく。翻弄されていく魚たち。波と魚が見分けがつかなくなっていく。
最初ダンサーたちが手を大きく広げ羽ばたくような仕草をするので空に舞う鳥と風と見立てることができそうだったが、全体的な「動」と「静」の配分として風というイメージよりも海の動きに近く、群舞の手の動きも波を思わせるものだったので、魚と波(海面)というイメージと見立てた次第である。休憩時間に近くにいた人が波を想起したと話していて、同様の印象を受けたようだった。
第1楽章と第3楽章の前半はソリスト=魚、群舞=波と位置づけられる感じであったが、第2楽章は水面そのものという印象を受けた。夜の静かな海に生き物は似合わない。ソロと群舞の動きも同じものが多かったというのもある。月が海面に映り、水の動きにあわせて揺れる光景と重なった。ソロの男女がこの部分を表現し、衣装の青野濃淡が異なっているために、明るさの違う部分で恋模様が描かれているようにも感じた。
「月明かり 恋紡がれる 水面(みなも)かな」なんてね。
第3楽章は一足先に魚が遊び始めるようなソリストの踊りから始まるが、まもなく音の厚みが増し、多くのダンサーが登場してくる。息をつく間もなく次から次へとフレーズが現れ、踊りも間断なく続いていく。もうここでは、どれが波でどれが魚かなんて見立てる余裕もない。全体がひとつのまとまりとして、圧倒的な存在感を発したまま終わる。
ここで、作品のテーマとして「自然界の秩序」というものが浮かんできた。自然界は原理は物理法則であるが、あまりに複雑で幾何学のように整然としたものではない。波の色も高さもひとつとして同じものはない。また、自然の動きは豪快でそこにいる生物の死を厭うこともしない。生も死も愛も恨みも悲喜劇も全て飲み込んでくる。
プロのハイレベルな踊りであってもよくよく見れば個々人の差異がある。波を表現する手の動きも、高さやタイミングはほんの少し異なる。この違いこそが自然なのである。そして、そんな細かい「粗探し」もできなくなるような勢いで圧倒されて終わるのである。
また、窓には大きな間仕切りがあり、舞台が部屋の中という人間の空間であるとはっきりとしている。それでも、その人間の空間においても、同じものが繰り広げられている。人間も自然の一部になるときがある、ということを意識させられる。同化の感覚。これは、先日の屋久島旅行で同様のことを感じたから、だけかもしれないけれど。
2.チェックメイト
チェスを題材にした作品。作品が成立した1930年代後半のイギリスとドイツを想起すれば話の展開を整理できそうである。
「赤」はイギリス。キングは老齢・虚弱で判断の思い切りがない。クイーンは宥和をしようとするがあえなく失敗してご退場。ナイトは命令を受けたわけでもなく自発的に守りに奮闘。相手のクイーンを追い詰めるもキングが慈悲をかけようと止め、その間にやられる。ナイトの死にも悠長に荘厳な葬式をする。残ったのはキング一人。
「黒」はドイツ。キングがいない(君主が退いた時代)。ビショップもいない(ナチス下、キリスト教の影響力低下の時代)。統率はクイーンが行う。自ら剣を持ち、ナイトにビシビシ命令する。トップダウン。組織的で統率がとれている。相手の善意の行動には全て裏切る。圧倒的勝利を収める。
イギリスの作品でありながらイギリスが負ける結末になっている。このままではやばいよ!という時代の雰囲気だったのだろう。「赤」に救いはない。神様が見ていてバチが当たる、因果応報を主体とする日本人の宗教観からは納得がいかないかもしれない。
これに加え、個人的な視点として、日本の将棋と比較してどうかな、なんてことも思いながら鑑賞してみた。まず最初に指摘できることは、将棋にはクイーンのような女性がいないということだ。基本的に男性のみの編隊が想定されているだろう。愛の物語を描くのは難しそうである。脱線するが、将棋の駒を二次元美少女/美男子擬人化すれば当たると個人的に思っている。アイデアに著作権はないので誰か試してみてね。
次は、駒は自己判断ではなく王の命令で動くが、やられても相手に寝返ってまた登場することが指摘できる。駒のぶつかり合いは生死をかけた殺し合いというより、生け捕りに近いものがあるだろう。命をかけているのは王だけ、実に牧歌的だ。駒は命令に忠実に従うけれども、自分の意思というよりやらされている感で、相手側に身柄が渡ればそこでまた同じように振舞う、という感じだろうか。なんとなく坂口安吾「続堕落論」を思い出した。
こうしてチェスと将棋のルール等から文化の違いを見出そうとすると、他にも色々と考えられるだろう。日本的な話の筋として、善と悪の陣に分けることはなく、角や飛車といった大駒を歩の集団が打ち負かしたり、劣勢を覆して勝利とか、そういう感じになるだろう。文化の対照を意識した作品ができたら面白いな、なんて思った。
3.パキータ
パキータは古典作品で、これぞクラシックという感じの演目だ。20世紀の比較的新しい抽象的作品・ストーリー物の作品と続け、そして最後に古典を持ってくることで、バレエの様々な可能性を提示しているように見える。古典モノで特にストーリーや意味づけを詮索したりはしなかった。純粋に舞台を見るというのも大切だ。
幕が開いてまず目を引くのが衣装と舞台美術の豪華さである。"gorgeous"と"noble"は当然には両立しない。両方を感じさせるために色使いや形の工夫がたくさんなされたんだろうなあ、と思った。踊りは、ソリストの方たちの音との合わせ方が見事であったし、主役の二人は立ち姿のプロポーションからまず完成されていて、手も長く、技術的にも素晴らしいと感じた。特に男性が舞台を大きく回りながら一周するところで、ひとつのサイクルごとに途切れを感じさせることなく、流れるように回っていったところに思わず唸った。
ということで、自己流っぽいけれど、とてもよく楽しめました。
にほんブログ村
公式サイト/昨年の感想
忘れることは人間の強みである。一日の体験の中で重要なものとそうでないものを自然に振り分け、一昨日の夕食といった情報を記憶の隅へ追いやっていく。しかし、忘れすぎるのも困りものである。時々「おいおい数年前の流れは何だったんだ」みたいなことがある。日々ニュース等の情報を浴びていても、長く記憶にとどまっているものは少ない。話を合わせる・大人としての義務感を果たすといった個人的な必要性はなくなっても、国民という政治の当事者として記憶しておくべきことがあるだろう。週休二日のうち、土曜日は一週間を振り返り、日曜日は一年前・三年前・五年前といった少し前の普通のニュースを振り返り、時代の空気を思い出すことに使う。そういう番組があったらいいな、なんて話をする。
世界報道写真展は、昨年一年間に撮影された報道写真のコンテストの入賞作品を集めたもので、世界で何があったかを思い出す機会になるだろう。また、単に思い出すだけではなく、文字だけでしか知らなかったことに現実味を与える、あるいは見落としていたことを知る機会としてもよい体験ができる。例えば、「ジンバブエでは経済が破綻している」ことはよく知られている。「仕方ないので人々は自給自足生活をしている」という情報は少し興味がある人は見たことがあるだろう。今回の写真展では、ジンバブエの人たちが大きなゾウを狩って群がり、解体をして食べて残りの骨が残っているという様子が描かれている作品があった。「自給自足」とはこういうことなのか、文字だけでは到底想像できないものである。
全体について
今年は政治暴動・紛争・戦争といった、人と人との間で生じる流血事が多く取り上げられている印象を受けた。昨年は金融危機や地震といった人外の災難に立ち向かうものや比較的スケールの小さい国内の治安問題といった「争い」から離れたものが多かった。これと比べると様変わりという感じで、たった一年違うだけで注視される問題が大きく変わることに驚いた。
そうした入賞作品の中で、現在ではもう行われなくなったと思うことが未だに行われているんだ、といった現代の常識を覆されるような感覚を抱くものが多かった。パレスチナ紛争の写真では、学校の校舎・バスケットゴールのある運動場に爆弾が降り注いでいて一般市民が逃げる光景を写したものがあり、市民生活の真っ只中で戦争が行われていることは衝撃だった。また、ソマリアの「石打ちの刑」の始まりから最後まで写した写真も、現代とは思えない出来事が起こっていることをリアルに認識させられた。
今回はカタログは購入しなかったのだが、「作品リスト」なる紙を受付でもうらうことができ、後で思い出すことが容易になり有難かった。他にも、冒頭で大賞の選考や写真展についての審査員のコメントがあるなど、鑑賞者にとって助けになる工夫が凝らされていてよかった。カタログについては、東京都写真美術館の1階のショップで立ち読みすれば、無料でどんな作品が入賞したのか全部わかっちゃうなあ、なんてことを思った。もちろん、大きなパネルでじっくり見るほうが十分に鑑賞できる。
大賞について
大賞は公式サイトのトップにも出されているように、イランの大統領選挙後の抗議の様子として、夜の屋上で叫ぶ女性たちを写した写真である。高感度カメラの撮影のようで、空は薄暗いといった程度の暗さなので一瞬撮影の時間帯がいつなのか戸惑う。下の窓の明かりが煌々と灯っているところから、夜ということがわかる。カメラの目は人間の目とは違うものも写し、時には肉眼では見えない様子も写すということを認識させられる。
次に意識が向くのは、技術的にはよくわからないが、中央の3人の人にピントが合わせられていないようだ、ということである。特に会場の大きなパネルで見ると人物はぼやけて見える。特定されないための配慮なのか。同一の撮影者で同じテーマの写真が他にも2枚あるのだが、それも人物の顔が見えないようになっていた。しかし、人物がぼやけるかわりに引き立つのが、建物とその上にある機器類である。建物としてはそこまで新しくない、数十年はあるだろうという感じのものである。その上には、エアコンの室外機が数台置かれている。そして、背後の建物群では、テレビのUHFアンテナが何個も立っているのがわかる。
このアンテナが声をあげる人たちとの対比となっていて、これは他の2枚と合わせると一層鮮明になる。パラボラアンテナに左右囲まれて叫ぶ男性の姿を写した写真があるのだ。アンテナと人の対比は、情報の受信力と発信力の格差を思い起こさせる。法学でも「表現の送り手と受け手の分離」ということが議論される。イランに住む人は情報を受ける分には宇宙を経由して受信が可能な機器を持っているが、いざ自らが発そうとすると夕闇に紛れて届かぬ声をあげるくらいしか手段がないのである。今回はイタリア人カメラマンの高感度カメラの目によって世界に届けることができたが、偶然が重なる上に1年の時間がかかることとなった。
日本ではインターネットも発達して多くの人が情報発信できるようになったが、発信力の格差は依然として残っている。今回の写真展でスポットニュースの部組写真1位となったマダガスカルの暴動は、世界で十分に知られなかった問題に目を向ける意味があると審査員のコメントが入っていた。このマダガスカルの事件は、検索してみると日本のニュースでもブログでもリアルタイムにいくつか取り上げられていたものの、多くの人に知られるには至っていなかっただろう。「届く力をもって発する」というのが今後表現を考える上で課題になるだろう。このブログも実生活の顔を隠す「夜の闇」の中で、届かぬ生身の声をあげているようなものである。しかし、痴漢冤罪で息子を亡くした母親が地道な活動により多くの人に認知されるに至った先日のニュースをみると(参照・毎日jp)、生身の声で発し続けることは大切なことだと考えさせられる。
その他印象に残った写真について
一般ニュースの部単写真第1位の「砲弾で天井に穴」は唸らされるものがあった。パレスチナ紛争を取り上げた写真である。写真内には人物は一人も写っていない。飾りっ気のない部屋に、おそらくガラスもない大きな窓と、天井の真上に大きな丸い穴とむき出しになった鉄筋コンクリートの鉄筋が曲がっている様子が写されている。この部屋の主は砲弾を受けて亡くなったそうである。戦争の悲惨さを残虐で目も当てられないシーンではなく静かな喪失感のあるシーンで表現する、素晴らしいものだと思う。
今回の報道写真展では、日本を撮影したものがひとつ入賞している。それは、東京の通勤電車で窓に顔を押し付け浮かぬ顔をしている女性を写した写真である。東京在住の方には世界デビューするチャンスがあったのだ。こんな何十年前からある日常的な風景が入賞するというのはやるせない気分になる。というのも、アメリカからはオバマ大統領の就任式を写したモノクロでエピック的な組写真が入賞しているのだ。昨年は日本も政権交代で大きな一歩を踏み出した・・・はずである。そんな年に通勤電車の疲れた表情が選ばれるというのは皮肉なことだ。昨年でも金融危機の象徴的な写真が日本にはないという話をしたが、今回の政治の転換点でも、名演説もなければ象徴的なシーンもなければ国民の熱狂もない。静かな日常が続いていく日本。「実感のない社会」というのが似合っているだろう。
"The English At Leisure"という題の2枚の写真も興味深かった。日本語タイトルでは「英国流余暇の過ごし方」とあった。1枚は海水浴、1枚は競馬場。その様子はイギリスらしい皮肉たっぷりである。海水浴は人はまばら、空は曇り、楽しさいっぱいという感じからはかけ離れているのである。昨年ポーランドのバルト海沿岸の海水浴場を空撮した組写真が入賞していたが、そこでは人はたくさん、色はカラフルで思い思いの楽しい時間を過ごしていることが伝わってくるものであった。それへの対抗と考えると実に面白い。競馬場については、レディースデーで女性たちが多く楽しんでいる様子なのだが、足元がひどい。捨てられたゴミの山なのである。他人に犠牲や苦しみを強いて汚れた地面の上に成り立ってる楽しみですよ、という感じである。こういうのをイギリス人カメラマン自ら撮影するところも、皮肉がきいている。
一連のニュース現場で腕立伏せをする様子を自ら写した中国の写真家は、何だよこの発想!という感じである。昨年も人形で名シーンを再現する中国の写真家がいたが、中国の発想の奇抜さはものすごい。最後は、家畜の場の写真も目を引いた。世界に出て行って知られていない現実を明らかにする!というのもいいが、実はほんの身近に「見ないこととされている」ものがあるということに気づかされた。
写真展は8月8日まで恵比寿の東京都写真美術館で開催され、その後大阪・京都・大分・滋賀でも開催される。感想を共有したいといったことがあれば、コメントやtwitterでお気軽にコンタクトをしていただけたら、と思う。
にほんブログ村
忘れることは人間の強みである。一日の体験の中で重要なものとそうでないものを自然に振り分け、一昨日の夕食といった情報を記憶の隅へ追いやっていく。しかし、忘れすぎるのも困りものである。時々「おいおい数年前の流れは何だったんだ」みたいなことがある。日々ニュース等の情報を浴びていても、長く記憶にとどまっているものは少ない。話を合わせる・大人としての義務感を果たすといった個人的な必要性はなくなっても、国民という政治の当事者として記憶しておくべきことがあるだろう。週休二日のうち、土曜日は一週間を振り返り、日曜日は一年前・三年前・五年前といった少し前の普通のニュースを振り返り、時代の空気を思い出すことに使う。そういう番組があったらいいな、なんて話をする。
世界報道写真展は、昨年一年間に撮影された報道写真のコンテストの入賞作品を集めたもので、世界で何があったかを思い出す機会になるだろう。また、単に思い出すだけではなく、文字だけでしか知らなかったことに現実味を与える、あるいは見落としていたことを知る機会としてもよい体験ができる。例えば、「ジンバブエでは経済が破綻している」ことはよく知られている。「仕方ないので人々は自給自足生活をしている」という情報は少し興味がある人は見たことがあるだろう。今回の写真展では、ジンバブエの人たちが大きなゾウを狩って群がり、解体をして食べて残りの骨が残っているという様子が描かれている作品があった。「自給自足」とはこういうことなのか、文字だけでは到底想像できないものである。
全体について
今年は政治暴動・紛争・戦争といった、人と人との間で生じる流血事が多く取り上げられている印象を受けた。昨年は金融危機や地震といった人外の災難に立ち向かうものや比較的スケールの小さい国内の治安問題といった「争い」から離れたものが多かった。これと比べると様変わりという感じで、たった一年違うだけで注視される問題が大きく変わることに驚いた。
そうした入賞作品の中で、現在ではもう行われなくなったと思うことが未だに行われているんだ、といった現代の常識を覆されるような感覚を抱くものが多かった。パレスチナ紛争の写真では、学校の校舎・バスケットゴールのある運動場に爆弾が降り注いでいて一般市民が逃げる光景を写したものがあり、市民生活の真っ只中で戦争が行われていることは衝撃だった。また、ソマリアの「石打ちの刑」の始まりから最後まで写した写真も、現代とは思えない出来事が起こっていることをリアルに認識させられた。
今回はカタログは購入しなかったのだが、「作品リスト」なる紙を受付でもうらうことができ、後で思い出すことが容易になり有難かった。他にも、冒頭で大賞の選考や写真展についての審査員のコメントがあるなど、鑑賞者にとって助けになる工夫が凝らされていてよかった。カタログについては、東京都写真美術館の1階のショップで立ち読みすれば、無料でどんな作品が入賞したのか全部わかっちゃうなあ、なんてことを思った。もちろん、大きなパネルでじっくり見るほうが十分に鑑賞できる。
大賞について
大賞は公式サイトのトップにも出されているように、イランの大統領選挙後の抗議の様子として、夜の屋上で叫ぶ女性たちを写した写真である。高感度カメラの撮影のようで、空は薄暗いといった程度の暗さなので一瞬撮影の時間帯がいつなのか戸惑う。下の窓の明かりが煌々と灯っているところから、夜ということがわかる。カメラの目は人間の目とは違うものも写し、時には肉眼では見えない様子も写すということを認識させられる。
次に意識が向くのは、技術的にはよくわからないが、中央の3人の人にピントが合わせられていないようだ、ということである。特に会場の大きなパネルで見ると人物はぼやけて見える。特定されないための配慮なのか。同一の撮影者で同じテーマの写真が他にも2枚あるのだが、それも人物の顔が見えないようになっていた。しかし、人物がぼやけるかわりに引き立つのが、建物とその上にある機器類である。建物としてはそこまで新しくない、数十年はあるだろうという感じのものである。その上には、エアコンの室外機が数台置かれている。そして、背後の建物群では、テレビのUHFアンテナが何個も立っているのがわかる。
このアンテナが声をあげる人たちとの対比となっていて、これは他の2枚と合わせると一層鮮明になる。パラボラアンテナに左右囲まれて叫ぶ男性の姿を写した写真があるのだ。アンテナと人の対比は、情報の受信力と発信力の格差を思い起こさせる。法学でも「表現の送り手と受け手の分離」ということが議論される。イランに住む人は情報を受ける分には宇宙を経由して受信が可能な機器を持っているが、いざ自らが発そうとすると夕闇に紛れて届かぬ声をあげるくらいしか手段がないのである。今回はイタリア人カメラマンの高感度カメラの目によって世界に届けることができたが、偶然が重なる上に1年の時間がかかることとなった。
日本ではインターネットも発達して多くの人が情報発信できるようになったが、発信力の格差は依然として残っている。今回の写真展でスポットニュースの部組写真1位となったマダガスカルの暴動は、世界で十分に知られなかった問題に目を向ける意味があると審査員のコメントが入っていた。このマダガスカルの事件は、検索してみると日本のニュースでもブログでもリアルタイムにいくつか取り上げられていたものの、多くの人に知られるには至っていなかっただろう。「届く力をもって発する」というのが今後表現を考える上で課題になるだろう。このブログも実生活の顔を隠す「夜の闇」の中で、届かぬ生身の声をあげているようなものである。しかし、痴漢冤罪で息子を亡くした母親が地道な活動により多くの人に認知されるに至った先日のニュースをみると(参照・毎日jp)、生身の声で発し続けることは大切なことだと考えさせられる。
その他印象に残った写真について
一般ニュースの部単写真第1位の「砲弾で天井に穴」は唸らされるものがあった。パレスチナ紛争を取り上げた写真である。写真内には人物は一人も写っていない。飾りっ気のない部屋に、おそらくガラスもない大きな窓と、天井の真上に大きな丸い穴とむき出しになった鉄筋コンクリートの鉄筋が曲がっている様子が写されている。この部屋の主は砲弾を受けて亡くなったそうである。戦争の悲惨さを残虐で目も当てられないシーンではなく静かな喪失感のあるシーンで表現する、素晴らしいものだと思う。
今回の報道写真展では、日本を撮影したものがひとつ入賞している。それは、東京の通勤電車で窓に顔を押し付け浮かぬ顔をしている女性を写した写真である。東京在住の方には世界デビューするチャンスがあったのだ。こんな何十年前からある日常的な風景が入賞するというのはやるせない気分になる。というのも、アメリカからはオバマ大統領の就任式を写したモノクロでエピック的な組写真が入賞しているのだ。昨年は日本も政権交代で大きな一歩を踏み出した・・・はずである。そんな年に通勤電車の疲れた表情が選ばれるというのは皮肉なことだ。昨年でも金融危機の象徴的な写真が日本にはないという話をしたが、今回の政治の転換点でも、名演説もなければ象徴的なシーンもなければ国民の熱狂もない。静かな日常が続いていく日本。「実感のない社会」というのが似合っているだろう。
"The English At Leisure"という題の2枚の写真も興味深かった。日本語タイトルでは「英国流余暇の過ごし方」とあった。1枚は海水浴、1枚は競馬場。その様子はイギリスらしい皮肉たっぷりである。海水浴は人はまばら、空は曇り、楽しさいっぱいという感じからはかけ離れているのである。昨年ポーランドのバルト海沿岸の海水浴場を空撮した組写真が入賞していたが、そこでは人はたくさん、色はカラフルで思い思いの楽しい時間を過ごしていることが伝わってくるものであった。それへの対抗と考えると実に面白い。競馬場については、レディースデーで女性たちが多く楽しんでいる様子なのだが、足元がひどい。捨てられたゴミの山なのである。他人に犠牲や苦しみを強いて汚れた地面の上に成り立ってる楽しみですよ、という感じである。こういうのをイギリス人カメラマン自ら撮影するところも、皮肉がきいている。
一連のニュース現場で腕立伏せをする様子を自ら写した中国の写真家は、何だよこの発想!という感じである。昨年も人形で名シーンを再現する中国の写真家がいたが、中国の発想の奇抜さはものすごい。最後は、家畜の場の写真も目を引いた。世界に出て行って知られていない現実を明らかにする!というのもいいが、実はほんの身近に「見ないこととされている」ものがあるということに気づかされた。
写真展は8月8日まで恵比寿の東京都写真美術館で開催され、その後大阪・京都・大分・滋賀でも開催される。感想を共有したいといったことがあれば、コメントやtwitterでお気軽にコンタクトをしていただけたら、と思う。
にほんブログ村
概要/作者ホームページ/昨年の感想
今年も行く予定で、案内が来たので作品についてちょっと考えてみた。作品のタイトルは「適応」である。適応というのは自己を周囲の環境に合わせていくことを言うので、左から、<内に秘めた自己>―<外に出す自己>―<外の環境>という構図に分けることができるだろう。それぞれの領域について検討してみよう。なお、あくまで私自身の勝手な感想である。
内に秘めた自己の領域
内に秘めた自己は、適応前の状態で、「本当の自分」とよく表現されるものだ。他者との関係性から抑えつけている部分を除外して、内から湧き上がる欲求を中心とする。理性の象徴である頭がなく、「すべき」と抑えつける声がない状態と見ることができる。これは若者が自分探しをして見つけ出そうとするくらいであるから、希望に満ちたものであってよいはずだが、そのような印象は受けない。生命力に溢れる活発さはなく、一人が手に持っている地球が崩れかけているようにも見える。また、本当の自分の場所に一人ではなく複数の人がいることも注目できる。
本当の自分は他者との関係性を除外すると出てくると述べたが、他者と完全に隔絶した自分というものが成り立ちうるのか、という疑問がある。私はピアノを弾くが、何かしら聴き手というのを想定している。聴いている人が現実にいなくても、外で飛ぶ鳥や霊的なものを想定して、それに聴かせようと思っていることが多い。完全な孤立状態で強い欲求が湧き上がるだろうか。そこでは自分の世界を構築することはできず、ボロボロ崩れていってしまう。自分の世界を作り上げるには、それを見守る他者が必要である。損得勘定で計算する頭はなく、打算では動かない者でなくてはならない。本当の自分の中には、心から理解し見守ってくれる存在が泰然と立っている。
そうすると、破片となって崩れて行っているように見える地球が、反対に、地面から力を吸い上げて形を作っていく様子にも見えるようになる。自分の世界は崩れていくのか、それとも作られていくのか、どちらであろう。内に秘めた自己の強さが問われているように感じる。
外の環境の領域
ここに立っている者には頭がある。利害関係の損得勘定をし、それで動く。また、その頭は先端が尖っており、少し前に傾けられている。「我々から逸脱したら攻撃してやる!」そんな声が聞こえそうだ。一番奥にいる者は適応例としてあるべき姿を提示する。「本を読んで真面目に頑張るんだ!」というメッセージだろうか。
しかし、この本の開き具合をみると、開いている人には本の中身は読めないであろう。フリだけである。馬鹿にされないために、あるいは知的と思われたいがために本を手に取る。中身を自分のものとして消化できたかなんて関係ない。ショーペンハウエルは読書は物事を他人に考えてもらう行為だと言う。他人の考えも知らなければ自分の世界を構築することはできないが、自分の世界を構築する行為のほうが目的で、読書はその手段となるべきである。適応例には倒錯があるように見える。
外に出す自己
このような内に秘めた自己と外の環境に挟まれて、外に出す自己としてはどのように振舞っているのだろうか。姿勢としては、環境の側を向いている。「適応しなければならない!」と頭がついて理性が命令するからだろうか。身体を引っ張るように、右側の人たちより頭がより前に出ている。外の環境に背を向けて、内面に閉じこもってしまうよりかは、望ましい状態だろう。
足元には破片が落ちている。適応の過程ですり減らした精神のカケラであろうか。しかし、内面の消耗は左側の地球の崩れで見るべきであろう。地球は下側が崩れている一方、身体には崩れた部分がない。適応の過程で身が削られるほどにはなっていなさそうだ。ここで注目できるのは、頭が丸くはなく尖っていることである。自己も他人を攻撃できるのである。自己の内面を守るために攻撃し、その際に出た相手の身のカケラとも言えるだろう。自分の世界は崩れつつあるか、まだ形成途上である。内に秘めた自己が確固としていない、その不全感が攻撃性を助長する。無用な攻撃性を抑えるのは、新たな攻撃性ではなく、自己の充足である。充足されない者どうし攻撃しあうのは終わりにしたいものだ。丸い頭をもち、まっすぐに立てるようになるのが理想の適応のあり方であろう。
~~
個展では、この絵が部屋一杯に立体化されていて、作品世界の中に身を置くことができる。訪問してからまた何か感じることがあれば書き留めておきたい。
東京:2月15日~20日
福岡:3月13日~22日
にほんブログ村
「普段どんな本を読んでいるの?」とよく訊かれる。いや、嘘、滅多に訊かれない。むしろ近頃はお喋り自体していない。ともあれ、仮に訊かれたとしたら、「まあ専門の法律関係は義務感から読むとして、他には心理学関係の本をよく読むね」と答える。さらには、マンガも読むね、と答える。連載では話が少しずつ進んでいき、読者が多くセリフ1つから批評が交わされているので、話の展開の仕方等の参考になる。もっとも最近は読んでいた雑誌が休刊してしまい、それ以来読む機会がない。
心理学関係の本は、人の心の動きについて分析することができ、それも科学的な根拠もあり納得できるものも多く、豊富な事例とともに参考になることが多い。専門でもないから、本の受け売りでいいやという気楽さもある。図書館に行っては面白そうな新書を借りて読むことが多い。先日も1冊借りたのだが、興味深い内容だった。
国分康孝著『「自己発見」の心理学』 (講談社現代新書)
この本はアルバート・エリスという米国の臨床心理学者が提唱した「論理療法」について著者が噛み砕いて紹介し、日常生活を送る上でのポイントごとに実践を試みているものである。19頁の例を参照すると、「大学を留年してしまった」としたら、「自分はダメな人間だ」と思うようになりがちだが、この事実と感情の間には
「大学を留年した」
→「大学は留年せずに卒業すべき」という自分の価値観に反してしまった
→「自分はダメな人間だ」
というように、価値観が存在している。この価値観を専門用語として「ビリーフ」と名づけ、貴方が抱くビリーフは合理的で絶対的なもの?と問いただすというのが論理療法だという。よくよく考えると、「留年はしないにこしたことはない」というくらいのもので、「残り単位も少ないし学生時代やりのこしたことをやろう、自分の好きな研究をしたりスキルを身につけたりして取り返してやろう」という前向きな考え方を導くことが可能である。
悩みをもたらしているのは事実ではなく抱いている価値観であることが多い。その価値観は真に受け入れるべきものだろうか、(1)事実に基づいているか、(2)論理的必然性があることか、(3)人を幸福にするようなものか、という観点からチェックすべきだという。中でも、「~でなければならない」「~べきである」といった価値観には疑うべき点が多いとされる。もっとも、価値観を変えれば何でもやっていけるわけでもなく、事実に立ち向かう決断をすべき場合もある。特に「自分は○○が苦手である」という場合には、機会をみて克服する決断をするほうがよいことが多い。
以上が自分なりに理解した概要である。本書では、「人生何事もいい線を行かなければならない」「他人を拒否すべきでない」「家庭は自分に憩いをもたらすものでなければならない」「職場や学校で窓際にされるような人間はダメな人間である」といったビリーフについて、本当にそう?そのために辛い思いをしていない?と著者の体験とともに異なる考え方が提示され、前向きになれるよう示唆されている。考えることが好きな人にとっては、ぴったりの悩み解決法かもしれない。
ところで、別に自分は「うつ」ではないが、ダイヤモンド・オンラインの「うつ」にまつわる24の誤解という精神科医の方が書いている連載は、なるほどと思うことが多い。そして、ここで指摘される誤解は、多くの人が知らず知らずに受け入れてしまっている価値観に起因しているものがあるようにみえる。いくつか紹介してみよう。
「昼夜逆転」現象のナゾ――なぜ「ウツ」の人は朝起きられなくなるのか?
その答えを簡単にまとめると、日中は他人が仕事などで忙しく動き回っており、そんな中で自分だけが自宅で休養していると何だか肩身の狭い思いをしてしまう、眠ってやり過ごしたい、夜中はそういう心配が浮かんでこないから過ごしやすい、そういう思いが積み重なって昼夜逆転が生まれるのだという。睡眠薬等で無理やり修正しないでいても、時間とともに自然と治っていくようだ。別に病気でない人でも、同じように平日の日中に家にいると落ち着かない気分になることはないだろうか。
このような現象の背景には、(a)「平日の日中は仕事や学業で動き回っていないと一人前の人間でない」といった価値観があり、それを裏切っていることへのプレッシャーが生じていると言える。その結果、(b)「早寝早起きの健全な生活リズムを維持すべきである」というまた別の価値観に反することにもなり、またプレッシャーが生じてしまっている。この両方の価値観は合理的であろうか。世界に目を向ければ多くの大人が堂々と長期休暇をとっていて、数ヶ月くらいの休みをとることはそれほど逸脱したことではない。また、昼夜逆転も何年も続くようなら健康に影響するが、一時的な感じならそこまで悪いことではないだろう。
したがって、(a)の価値観は不合理だと確信できたなら気にせず日中から活動できるようになるし、抗う勇気が出ないなら、(b)の価値観も絶対じゃないと言い聞かせて自然に身をゆだねるか、とりあえず一人前の人間と思える活動を日中に予定として入れてみることで解決できるだろう。せっかく得た平日の休み、肩身の狭い思いをしながら過ごすなんてモッタイナイよね。
“何もしない時間”は無駄なのか?――「ウツ」を引き起こす「有意義」という言葉
上で「有意義ではない」ではなく「モッタイナイ」という言葉を使ったのは、続いてこのテーマを取り上げるからだ。この記事では、端的に「時間は有意義に使わなければならない」という価値観が強迫的になっていることを指摘するものである。人間は常に有効に活動し続けるようにはできていない、行き過ぎると体から反動が出てくるものだという。ボンヤリと思い巡らせる自由な精神活動を再評価すべき、と括られている。「あー無駄に時間を過ごしたー」と嘆く人は多いだろうが、それが自然な欲求の発露としてなされたものであれば、その時間があるからこそ普段頑張れていると思ったほうがよい。
私自身、「休みの日って文字通り本当に休んでるんだよね、特に何かしてるってわけじゃない」と話すことがあり、「そんなダメ人間だとは思わなかった」と返されたことがある。でも仮にそんな生活じゃなかったら、このブログはできてないんじゃないかと思う。そしてこのブログがなかったら、そもそもダメ人間じゃないと思われていないかもしれない。インターネットとブログという発明は特に何もしない休日の過ごし方を有意義そうに見せるのに大きく役立っていて、実にありがたい。
そして、仮に「普段どんな本を読んでる?」とききたい方がいたら、何を読むかよりもその後ボンヤリとその本について反芻する時間をたくさんとるほうがいいかもね、ということも合わせて答えたい。先日取り上げた「フォト・リテラシー」は新書だけれど少なくとも大学の講義とゼミ1年分が詰め込まれたものであり、数十人の学生がテーマを小分けにして時間をかけて考え、発表して毎回1時間半議論する素材にもできるものだ。読んだ、終わり、ハイ次、という感じで量を競うのもいいが、1冊をどこまで深めることができるか探求してみると面白いし、何よりお金がかからない。
以上、知らず知らずに受け入れてしまっている価値観のために苦しんでいませんか?というテーマで色々と考えてみた。社会と経済は発展しても、なぜか人が精神的に楽になるための努力はあまりなされておらず、むしろ楽になることは断固として許さないという雰囲気である。そんな中、今回の記事で紹介した手法で個人的な事情を乗り切る出口を見出すことができたら幸いである。
にほんブログ村
心理学関係の本は、人の心の動きについて分析することができ、それも科学的な根拠もあり納得できるものも多く、豊富な事例とともに参考になることが多い。専門でもないから、本の受け売りでいいやという気楽さもある。図書館に行っては面白そうな新書を借りて読むことが多い。先日も1冊借りたのだが、興味深い内容だった。
国分康孝著『「自己発見」の心理学』 (講談社現代新書)
この本はアルバート・エリスという米国の臨床心理学者が提唱した「論理療法」について著者が噛み砕いて紹介し、日常生活を送る上でのポイントごとに実践を試みているものである。19頁の例を参照すると、「大学を留年してしまった」としたら、「自分はダメな人間だ」と思うようになりがちだが、この事実と感情の間には
「大学を留年した」
→「大学は留年せずに卒業すべき」という自分の価値観に反してしまった
→「自分はダメな人間だ」
というように、価値観が存在している。この価値観を専門用語として「ビリーフ」と名づけ、貴方が抱くビリーフは合理的で絶対的なもの?と問いただすというのが論理療法だという。よくよく考えると、「留年はしないにこしたことはない」というくらいのもので、「残り単位も少ないし学生時代やりのこしたことをやろう、自分の好きな研究をしたりスキルを身につけたりして取り返してやろう」という前向きな考え方を導くことが可能である。
悩みをもたらしているのは事実ではなく抱いている価値観であることが多い。その価値観は真に受け入れるべきものだろうか、(1)事実に基づいているか、(2)論理的必然性があることか、(3)人を幸福にするようなものか、という観点からチェックすべきだという。中でも、「~でなければならない」「~べきである」といった価値観には疑うべき点が多いとされる。もっとも、価値観を変えれば何でもやっていけるわけでもなく、事実に立ち向かう決断をすべき場合もある。特に「自分は○○が苦手である」という場合には、機会をみて克服する決断をするほうがよいことが多い。
以上が自分なりに理解した概要である。本書では、「人生何事もいい線を行かなければならない」「他人を拒否すべきでない」「家庭は自分に憩いをもたらすものでなければならない」「職場や学校で窓際にされるような人間はダメな人間である」といったビリーフについて、本当にそう?そのために辛い思いをしていない?と著者の体験とともに異なる考え方が提示され、前向きになれるよう示唆されている。考えることが好きな人にとっては、ぴったりの悩み解決法かもしれない。
ところで、別に自分は「うつ」ではないが、ダイヤモンド・オンラインの「うつ」にまつわる24の誤解という精神科医の方が書いている連載は、なるほどと思うことが多い。そして、ここで指摘される誤解は、多くの人が知らず知らずに受け入れてしまっている価値観に起因しているものがあるようにみえる。いくつか紹介してみよう。
「昼夜逆転」現象のナゾ――なぜ「ウツ」の人は朝起きられなくなるのか?
その答えを簡単にまとめると、日中は他人が仕事などで忙しく動き回っており、そんな中で自分だけが自宅で休養していると何だか肩身の狭い思いをしてしまう、眠ってやり過ごしたい、夜中はそういう心配が浮かんでこないから過ごしやすい、そういう思いが積み重なって昼夜逆転が生まれるのだという。睡眠薬等で無理やり修正しないでいても、時間とともに自然と治っていくようだ。別に病気でない人でも、同じように平日の日中に家にいると落ち着かない気分になることはないだろうか。
このような現象の背景には、(a)「平日の日中は仕事や学業で動き回っていないと一人前の人間でない」といった価値観があり、それを裏切っていることへのプレッシャーが生じていると言える。その結果、(b)「早寝早起きの健全な生活リズムを維持すべきである」というまた別の価値観に反することにもなり、またプレッシャーが生じてしまっている。この両方の価値観は合理的であろうか。世界に目を向ければ多くの大人が堂々と長期休暇をとっていて、数ヶ月くらいの休みをとることはそれほど逸脱したことではない。また、昼夜逆転も何年も続くようなら健康に影響するが、一時的な感じならそこまで悪いことではないだろう。
したがって、(a)の価値観は不合理だと確信できたなら気にせず日中から活動できるようになるし、抗う勇気が出ないなら、(b)の価値観も絶対じゃないと言い聞かせて自然に身をゆだねるか、とりあえず一人前の人間と思える活動を日中に予定として入れてみることで解決できるだろう。せっかく得た平日の休み、肩身の狭い思いをしながら過ごすなんてモッタイナイよね。
“何もしない時間”は無駄なのか?――「ウツ」を引き起こす「有意義」という言葉
上で「有意義ではない」ではなく「モッタイナイ」という言葉を使ったのは、続いてこのテーマを取り上げるからだ。この記事では、端的に「時間は有意義に使わなければならない」という価値観が強迫的になっていることを指摘するものである。人間は常に有効に活動し続けるようにはできていない、行き過ぎると体から反動が出てくるものだという。ボンヤリと思い巡らせる自由な精神活動を再評価すべき、と括られている。「あー無駄に時間を過ごしたー」と嘆く人は多いだろうが、それが自然な欲求の発露としてなされたものであれば、その時間があるからこそ普段頑張れていると思ったほうがよい。
私自身、「休みの日って文字通り本当に休んでるんだよね、特に何かしてるってわけじゃない」と話すことがあり、「そんなダメ人間だとは思わなかった」と返されたことがある。でも仮にそんな生活じゃなかったら、このブログはできてないんじゃないかと思う。そしてこのブログがなかったら、そもそもダメ人間じゃないと思われていないかもしれない。インターネットとブログという発明は特に何もしない休日の過ごし方を有意義そうに見せるのに大きく役立っていて、実にありがたい。
そして、仮に「普段どんな本を読んでる?」とききたい方がいたら、何を読むかよりもその後ボンヤリとその本について反芻する時間をたくさんとるほうがいいかもね、ということも合わせて答えたい。先日取り上げた「フォト・リテラシー」は新書だけれど少なくとも大学の講義とゼミ1年分が詰め込まれたものであり、数十人の学生がテーマを小分けにして時間をかけて考え、発表して毎回1時間半議論する素材にもできるものだ。読んだ、終わり、ハイ次、という感じで量を競うのもいいが、1冊をどこまで深めることができるか探求してみると面白いし、何よりお金がかからない。
以上、知らず知らずに受け入れてしまっている価値観のために苦しんでいませんか?というテーマで色々と考えてみた。社会と経済は発展しても、なぜか人が精神的に楽になるための努力はあまりなされておらず、むしろ楽になることは断固として許さないという雰囲気である。そんな中、今回の記事で紹介した手法で個人的な事情を乗り切る出口を見出すことができたら幸いである。
にほんブログ村
世界報道写真展、6月13日から開催=恵比寿・東京都写真美術館
東京・恵比寿の東京都写真美術館で世界報道写真展が開催される。この写真展は、オランダの世界報道写真財団が毎年行っているコンテストの入賞作品を集めたもので、本年は世界124カ国から9万点以上の作品の応募があり、その中から60点余りの作品が選ばれ、展示されている。
大賞は米国のアンソニー・スワウ氏の作品で、荒れた建物内を警官が銃を持ちながら見回る様子が写されている。一見途上国や紛争地帯の様子にみえるが、これが米国内であることに第一の衝撃、そして金融危機の影響によるローン未払いで手放された住宅であることに第二の衝撃が引き起こされる。昨年の金融危機が米国社会に与えた影響を象徴する作品である。
入賞作品では、四川大地震と北京オリンピックがあった中国を題材としたものが多く、写真家それぞれの目線で中国社会が表現されている。戦争写真はグルジア紛争を題材としたものがあるものの例年より控えめな印象であり、中米の殺人事件など治安問題に焦点を当てた作品が目を引いた。日常生活では目にしない、世界各国で生じている問題を知るいい機会を提供するイベントだ。
写真展は8月9日まで開催され、以後大阪・札幌・大分に会場を移す。入場料は大人700円。
http://www.syabi.com/details/wwp2009.html
~~~
ニュース記事風に紹介してみた。観に行った際、主催の朝日新聞社のインターン生らしき人たちが取材に来ていて、おそらくその後記事を作ってみたのだろう。自分も試しにやってみたが、これは訓練しないと上手く書けそうにない。上記の通り6月13日から始まって観に行ったのは6月20日だから、ひぇー、1ヶ月以上経ってしまった。当初は買うつもりがなかったカタログを購入して先月金欠に悩まされたので、元をとろうと見直して感想を書くことにする。
前回観に行ったのは大学で写真の授業を履修していた年で、当時はイラク戦争が重大な関心事で、大賞もイラク戦争を題材としたものだった。上でも書いたが、選ばれた写真の題材に時代の移りかわりが反映されるのが興味深い。地域の紛争など、新聞等を見ているだけではあまり目に付かない問題について関心をもつきっかけにもなる。
それでは、以前の記事で予告したとおり、報道写真数点を取り上げて感想を書いてみよう。著作権の問題があり実物を紹介しないまま感想だけ書くためわかりづらいかもしれないが、ご容赦願いたい。取り上げる写真候補に付箋をつけていったら数多くついてしまって、記事が超長文になってしまうおそれがあるので絞りをかけた。コンテストは、部門ごとに単体写真と組写真に分かれてそれぞれ3位まで決められる。なお、カタログは写真展とは異なる並びだったり入れ替わっていたりするので注意が必要だ。
~~~
日常生活の部・組写真第2位(カタログ10頁)
大賞に輝いた写真家が同時受賞。これも金融危機を題材としたもので、最初のパネルは3枚組みで、左にニューヨーク証券取引所の光景、右側上に政策責任者2人が事務所で話す様子、右側下に職業斡旋所で仕事を探す黒人男性、という組み合わせだ。証券取引所の写真は、正面奥に急激な右肩下がりの相場のグラフが表示され、取引に携わる人たちが不安そうな目で手前上にある情報を眺めている。中央の腕組みしている男性が象徴的で、普段からある床の上の紙くずが残骸のようにみえる。何が起こったのか、1枚で端的に表すことができる導入として最適な写真だろう。
右側の2枚については、仮に右上と右下の写真の配置を入れ替えたらどうなっただろうか、と考えてみた。いわゆる上の人と下の人の配置を逆転させてみれば、政策担当者達への抗議・批判といった意図を入れることができるように思う。こんな事態を招いた張本人たち!一般の人たちの苦労を見よ!という感じだ。しかし写真展でもカタログでもそういう組み合わせにはなっていない。これは、金融危機に政策側の人たちへの非難のムードが高まっていないことを表しているように感じる。もっとも、政策担当者も失業者も浮かない顔をしているが、失業者のほうがより余裕のない表情であるように見え、生活基盤が揺らいだ人々の辛さのほうが大きい、という印象を受ける。
次のパネルでは、左上に食糧配給への列、左下に空家街となった道路、右側にニューヨーク証券取引所の外で大きく手を挙げて嘆く男性の様子が写されている。最初のパネルから続いてすべて白黒の写真となっており、歴史的記録という性格を強める効果があるが、食糧配給と空家街の写真はカラーでないと状況がつかみづらく、訴求力に欠けると感じた。配給の列は自動車の中から写されていて、堂々と撮るのが憚られる雰囲気だったのかと想像をかきたてる。もっとも、真ん中の女性の真っ白な靴と流線型の自動車のせいで、いまいち深刻さは強調されない。空家街も中途半端に自動車が1台あって、閑散さが削がれているようにみえる。
右側の写真は真ん中下の嘆く男性がいなければ作品として成立しなかったであろう。でもこれ、やらせでもできるよね、と邪な勘繰りをしてしまった。スーツ姿だが荷物も持たず、頭頂部は少し薄くなっている。この世の終わりと言わんばかりの嘆きようなのだが、おそらくこの人は職業斡旋所で相談したり、配給の列に並んだり、サブプライムで家を追われるような人ではない。もっと辛い状況なのに、ある意味淡々と暮らしている左側の写真に写る人たちと対比できるように思った。
ところで、日本のバブル崩壊について象徴的な写真ってあまり記憶にないよね、という話を同行者とした。当時まだ自分が幼くて知らないだけか、報道写真が隆盛じゃなかったか、じわじわくるという経緯のため象徴的な写真が撮れなかったのか、色々考えられるが、「失われた10年」という若者のメンタリティーにも大きく影を落とした(私もど真ん中で、お金のかかる遊びを滅多にしない)時代について著名な特集がないというのは物寂しい感じがする。
日常生活の部・単写真第1位(カタログ20頁)
個人的ベストの写真、だがものすごく衝撃的。白昼、アスファルトではないがきれいに整備された道路、自動車はあまり通っていないようだが、道幅も広そうだ。そんな道路で、20代半ばくらいの若い女性が仰向けで倒れている。サンダルに、青の鮮やかなジーンズ、黒のタンクトップ姿で、パーマのかかった長めの黒髪。口は半開き、目は真上を見つめ、頭から血を流し、路上に流れ出す血はまだ乾いていない。その隣(写真では奥)に停車した1台のワゴン車。小学校の送迎用であろう、開けられた窓から何人もの子供たちが彼女の姿を見下ろしている。このワゴン車の色がジーンズに似た紺色で、さらに奥にある建物の壁が赤色。色の配置が皮肉にもピッタリ合っている。
説明文では、中米エルサルバドルで写されたこと、彼女の名前がペトローナ・リバスということ、この場所が小学校のそばであること、小学校に通わせる2人の子供がいたことが明かされている。さらに「死体」となっているが、血色もあまり変わっていないし、まだ救命可能性あるんじゃないの?と問いたくなるほど生々しい。日中にも関わらず救急車が駆けつけていたり、警察が調べていたり、通行人が応急処置をしたり、といったことは全くなく、暫く放置されていたようにみえる。この国では1日10件の殺人事件が起こっているとあり、警察等も迅速に駆けつける体制が整っていないのだろう。「日常生活の部」に投稿されているのも衝撃的で、珍しくないこと、ということなのか。
説明文ではこうした犯罪が多発する背景についても言及がある。アメリカ合衆国で犯罪を起こし強制送還されてきた人たちがストリート・ギャングを形成しているのだという。急に戻ってきても生活していく基盤がない、ということで犯罪に走るのであろうか。迷惑な人には帰ってもらう、ある意味当たり前のことであるが、その後どうなるか想像をめぐらすことは滅多にないであろう。仮に自分たちに責任はなくても、防げる悲劇があるならば防ぐよう努力しよう、という気持ちになる。送還に際して生活上の指導とか簡単にできないだろうか。この女性の悲劇を無駄にはしたくない、そう思わせる1枚である。これには、説明文で名前や境遇を合わせて書くことで被害者を身近に感じさせる効果が働いているだろう。
(1)一般ニュースの部・単写真第2位(カタログ56頁)
(2)スポーツフューチャーの部・組写真第1位(カタログ126頁)
(3)自然の部・組写真第2位(カタログ74頁)
(4)ポートレートの部・組写真第3位(カタログ118頁)
中国関係の写真をまとめて。(1)は数点あった四川大地震の写真のうちのベスト。地震で大破した住宅、屋根はなく、壁も崩れている。扉の枠だけがなんとか立っている。そんな中、キッチンに備え付けの大きな中華鍋は無事で、下で薪を焚いて料理をする若い夫婦の姿。着ている洋服は汚れておらず、白地にピンクのデザイン。強かに生きる人の姿は、勇気を与えるだろう。カタログでゆっくり見てみると、家の奥の畑の作物は変わらず元気な様子を見せており、住宅との対比で植物の逞しさも感じ取ることができた。
(2)は北京オリンピックを題材として中国社会を写し取った良作。オリンピック中継を映し出すテレビを色んな場所で撮影したものだ。(a)綺麗な高層ビル内での大型大画面液晶、(b)住宅の中、古風な曼荼羅のような布と並んだ古くて画像も粗いブラウン管テレビ、(c)古めのマンション内、ブラウン管テレビ自体は比較的新しいが、古い冷蔵庫の上に造作なく置かれ、周囲には古い扇風機が雑然と置かれている、(d)少し古めのテレビが、プラスチックのカゴ2つ重ねたうえに置かれている。周囲には空き瓶や倒れたペットボトル。経済発展の恩恵を受ける進度は人それぞれ、どのような境遇の下でオリンピックを迎えたか推し量ることができる。写真内に人は写っていないが、それでもわかる。
(3)は「四季」を表現したもの。撮影には最低1年程の時間がかかっているだろう。杭州にある西湖という湖のほとり、中央に桃の木が配置されている。花がひらきかける、満開、青々と茂る、葉が落ち雪をかぶる、そんな木の移り変わりと共に、手前の芝生、奥の湖面、両隣に配置されているベンチに座る人々の様子も移り変わっていく。観光地のようで、集団で写真を撮る姿も。地元の人が運動していたりもする。このような光景が、人を変え葉を変え花びらを買え、幾年も繰り返されていくのだろうと想像できる。カタログでは写真展で飾られていたものより写真数が減らされ配置も変更されているので注意が必要だ。
硫黄島の星条旗、タイムズスクエア勝利のキス、崩れ落ちる兵士、万里の長城で戦う八路軍、多くの人が知っている戦争写真、これらを人形(フィギュア)で再現したのが(4)である。撮影したのは中国の写真家。アイデアも面白いが、こうした演出写真が堂々と評価されていることが驚いた。最近gooブログで花の写真コンテストをやっていたが、枯れた花をもらってきてグチャグチャにした後、路上とかに雑然と置いて色んな場所で色んな背景で撮影したら面白いかな、なんて思っていたが、主催側にとっては想定外だろうし倫理的にも問題がなくはないのでやらなかった。
~~~
他にも色々と感想はあるので、観に行った方で感想を話したい!ということがあれば、コメント宜しくお願いします。
にほんブログ村
(画像は不都合があれば削除いたします)/概要はこちら/※2010年の感想はこちら
美術にはあまり馴染みがないが、ちょっとした縁で観に行ったので感想を記すことにする。
作品について
今回展示されるのは1作品で、上記画像の絵画と、それを部屋全体を使って立体的に表現したものである。赤い屋根の家、外に置かれる扉、外の光景として街とそれを破壊する抽象的な人物とテレビ塔が描かれている。作品の意味については概要のページに書かれており、簡単にまとめれば、人は自分の生活圏内とメディアに映る情報しか認知しておらず、その他の部分は認識しないままである、ということである。したがって、右下と左にある、外の世界を不自然に切り取る灰色一色の部分が、作品の意図を語る中心部分であると言えよう。
今回展示されている立体作品は、家と扉と街が直線的でシンメトリックに配置され、絵画が斜めの視点から描かれているのと較べ受ける印象が異なる。また、テレビの配置が扉と向かい合うかたちになっているという点も異なる。これにより、テレビを観ると扉と外の世界に対して背を向けていることになる。作者の意図としてはこれが本来の姿で、絵画での配置は平面に描く上での制約であったとのことだ。
大きさの対比
立体作品をみて私が思ったのは、家と扉と街の大きさの関係である。家と扉は2メートルほどの高さで、人がそのまま中に入っていける、ほぼ等身大の大きさである。そのために家の赤い屋根とアンテナは省略されている。対して外の町はテレビ塔が1メートルほどの高さで、比較的小さくなっている。
仮に街の大きさに比して家と扉を小さく作ったならば、日常生活の範囲が狭く外の世界が広大であることを表わすことができるように思う。しかし一方で、作品の配置だと、家の中の椅子からみて背後の扉で外の世界が全て隠れることになり、日常と外の世界との断絶が強調され、テレビで見る外の世界も実際より矮小化されたものだと感じることができる。両者を較べてみると、やはり現在の配置の方が効果的であろう。
テレビ塔は壊されるか
続いて思ったのは、外の世界がテレビ塔と怪物と破壊された街である必然性である。この怪物は街を破壊したあと、テレビ塔と対面している。テレビ塔は街の破壊を全国に向けて発信している。果たして怪物はこの次の行動として、テレビ塔を壊すだろうか。破壊されれば、家のアンテナは電波を受信できず、テレビは消えてしまう。
怪物はおそらく世間に注目されることもなければ、他者の日常生活とのかかわりも少ない「グレーゾーン」から来た者であろう。顔の表情もない無個性な存在である。いわば生きる証として、反社会的な行動をして社会の注目を一斉に浴びる。最近は「劇場型犯罪」という言葉が使われるが、これに駆り立てられた者の感情というのは如何なるものであろうか。自分の姿をもっと見てくれと願うだろうか。それとも自暴自棄で見苦しい自分の姿を隠したいと思うだろうか。どちらとも言いがたい。画中の怪物も逡巡しているように見える。
このように、自分の生活圏内・メディアに映る世界・その他の部分が絡まり合い、外の世界に映される世相を個人的に感じるに至った。
肖像権と表現
ギャラリーでの話で、私が法律を学んでいるということもあり、街の風景の写真を撮影する際に人が写りんだときの肖像権の話題が上った。法的には、肖像権は人格権の枠内で捉えられており、人格権はかなり強力な保護を受ける傾向にある。芸術的表現との調整には難しい問題があるだろう。このことを問題提起するために、仕込みにはなるが、穏やかな街の風景―写り込む全ての人が白いボードでカメラに向けて顔を隠している以外は―という作品を作ってみたら面白いのではないかと感じた。
この個展は1月31日まで行われている。
http://www.gallery-58.com/
にほんブログ村
山岸俊男著『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル、2008年)
きっかけは忘れてしまったが、大学4年の頃に社会心理学に興味を持った。大学教科書の定番である有斐閣アルマから取り掛かり、そこで紹介されていたダンバーの著作や山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(中公新書、1999年)を手に取った。とくに後者は、以前の都知事選で「安心」がスローガンにされていたこともあってブログで取り上げようと思っていた。しかし、深く読み込むことができないままの状態が続いていた。そんな中で出たのが本書で、影響力のあるブログでも取り上げられた。帯に「武士道・品格が日本をダメにする!!」と刺激的なことが書かれているが、内容は約10年前の前著と基本的なアイデアは同じで、いじめや企業の不祥事・インターネット社会といった現在の社会問題について考察を加えたものである。当然ながら、数学者の床屋談義よりも遥かに説得力に富む。
著者の議論で目を引いたものをひとつ紹介しよう。「原因帰属の基本的エラー」の説明である。これは、相手が何らかの行動をした場合に、その行動の原因を相手の性格や心に求めてしまう、というものである。私に身近な例に引きなおしてみると、大学生が勉強しないことについて「豊かな社会で育ったためにハングリー精神がなくなり、努力する気持ちがなくなったからだ」といった説明をすることである。私が思うところ一番の原因は、多くの大学生の目標=就職において大学での勉強の成果が重視されないことである。逆に勉強しすぎると「プライドが高くて扱いにくい」とマイナスになることさえある。将来的にプラスにならないことにわざわざ力を入れる人は少数であろう。
著者は、ある問題の原因を「心」ばかりに求めることは思考停止であり問題の根本的な解決には役立たないと言う。では「心」以外に何が原因として挙げられるか、それは「どういう行動がトクになるか」という適応を生み出す環境である。先の例で考えれば、大学の成績を評価しない企業の採用活動があり、さらにその背景には新卒採用→内部昇進という専門的能力に関係なく最初は皆一番下から始まるという仕組みがある。こうした仕組みからやや外れた、資格取得を目指す大学生は昔も今も熱心に勉強しているし、その勉強方法でも、法科大学院入試で大学の成績が重視されるようになって大学の授業の出席率が上がるといった変化がある。
他にも「臨界質量」といった社会心理学の知見をもとに、現在の様々な社会問題の原因を探り、解決方法を提案している。精神論は耳に心地よいかもしれないが、それだけで解決はできない。本書の分析は、私が本書にはない大学生の例で軽く応用してみたように、身の回りの出来事を違った角度から捉えるための大きな示唆を与えてくれる。ただ、最終章ではジェイコブス『市場の倫理・統治の倫理』が紹介され、統治の倫理に対応する「武士道」よりも市場の倫理に対応する「商人道」がこれからの社会では重要だと説明されているが、この章の記述は私の予備知識のなさもあってか、あまりに単純・大雑把な印象を受け、すっきり納得することができなかった。今後機会があれば紹介された著作に手を付けてみたい。
きっかけは忘れてしまったが、大学4年の頃に社会心理学に興味を持った。大学教科書の定番である有斐閣アルマから取り掛かり、そこで紹介されていたダンバーの著作や山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(中公新書、1999年)を手に取った。とくに後者は、以前の都知事選で「安心」がスローガンにされていたこともあってブログで取り上げようと思っていた。しかし、深く読み込むことができないままの状態が続いていた。そんな中で出たのが本書で、影響力のあるブログでも取り上げられた。帯に「武士道・品格が日本をダメにする!!」と刺激的なことが書かれているが、内容は約10年前の前著と基本的なアイデアは同じで、いじめや企業の不祥事・インターネット社会といった現在の社会問題について考察を加えたものである。当然ながら、数学者の床屋談義よりも遥かに説得力に富む。
著者の議論で目を引いたものをひとつ紹介しよう。「原因帰属の基本的エラー」の説明である。これは、相手が何らかの行動をした場合に、その行動の原因を相手の性格や心に求めてしまう、というものである。私に身近な例に引きなおしてみると、大学生が勉強しないことについて「豊かな社会で育ったためにハングリー精神がなくなり、努力する気持ちがなくなったからだ」といった説明をすることである。私が思うところ一番の原因は、多くの大学生の目標=就職において大学での勉強の成果が重視されないことである。逆に勉強しすぎると「プライドが高くて扱いにくい」とマイナスになることさえある。将来的にプラスにならないことにわざわざ力を入れる人は少数であろう。
著者は、ある問題の原因を「心」ばかりに求めることは思考停止であり問題の根本的な解決には役立たないと言う。では「心」以外に何が原因として挙げられるか、それは「どういう行動がトクになるか」という適応を生み出す環境である。先の例で考えれば、大学の成績を評価しない企業の採用活動があり、さらにその背景には新卒採用→内部昇進という専門的能力に関係なく最初は皆一番下から始まるという仕組みがある。こうした仕組みからやや外れた、資格取得を目指す大学生は昔も今も熱心に勉強しているし、その勉強方法でも、法科大学院入試で大学の成績が重視されるようになって大学の授業の出席率が上がるといった変化がある。
他にも「臨界質量」といった社会心理学の知見をもとに、現在の様々な社会問題の原因を探り、解決方法を提案している。精神論は耳に心地よいかもしれないが、それだけで解決はできない。本書の分析は、私が本書にはない大学生の例で軽く応用してみたように、身の回りの出来事を違った角度から捉えるための大きな示唆を与えてくれる。ただ、最終章ではジェイコブス『市場の倫理・統治の倫理』が紹介され、統治の倫理に対応する「武士道」よりも市場の倫理に対応する「商人道」がこれからの社会では重要だと説明されているが、この章の記述は私の予備知識のなさもあってか、あまりに単純・大雑把な印象を受け、すっきり納得することができなかった。今後機会があれば紹介された著作に手を付けてみたい。
一番クリックした国が優勝@wiki
newsingで最近知ったのだが、日本・台湾・ハンガリーの間でシンプルで壮絶なゲームが日夜繰り広げられている。台湾・ハンガリーではTVでも取り上げられるほどの盛り上がりだそうだ。私も少々手動でマウスをカチカチしてみたが、バトルははるか上の次元で行われている。かといってツールを使うには気がひけるので、自分のブログで宣伝してほんのわずか貢献をしてみる。現時点ではかなり劣勢なようで、闘争心に火がついた方は参戦してみては?
newsingで最近知ったのだが、日本・台湾・ハンガリーの間でシンプルで壮絶なゲームが日夜繰り広げられている。台湾・ハンガリーではTVでも取り上げられるほどの盛り上がりだそうだ。私も少々手動でマウスをカチカチしてみたが、バトルははるか上の次元で行われている。かといってツールを使うには気がひけるので、自分のブログで宣伝してほんのわずか貢献をしてみる。現時点ではかなり劣勢なようで、闘争心に火がついた方は参戦してみては?
僕に暇を与えないでくれ!
僕に命令を与えてくれ!
でないと頭がおかしくなりそうだ!
春休み、ふと立ち止まると自らの選択が正しかったのか不安にかられてくることが多いだろう。法学部生の中で法科大学院進学は非常に人気であるが、運良く進学の機会を得られた人でも、弁護士苦境のニュースに触れ先行きに不安を感じるだろう。社会人になる友人をみてOJTによる能力開発のほうがよかったのでは、なんて思ったりするだろう。
村上政博著『法律家のためのキャリア論』(PHP新書)
「法律家」には弁護士・裁判官・検事の法曹三者だけでなく、省庁のキャリア法律職・企業の法務担当者・学者も含まれる。弁護士・公取委員・学者と様々な仕事を経験してきた著者が、法律家それぞれの業界が現在どのようなものであるのか、そして今後どうかわっていくか、を概説する。amazonでは大仰なタイトルと内容が合っていない、といったレビューがついているが、そのとおり法律家を志すがいまいちどういう世界なのか情報が少ない学生に一番向いている内容である。
もちろん学生も自分の将来を案じ先輩の話をきいたり新聞記事に目を光らせたりと色々情報を集めていると思うが、巷で色々言われていることを整理したものが手近にあると便利である。特に「なんとなく」のイメージしかないまま方向性を決めようとしている方にとっては、一読の価値があると思う。
僕に命令を与えてくれ!
でないと頭がおかしくなりそうだ!
春休み、ふと立ち止まると自らの選択が正しかったのか不安にかられてくることが多いだろう。法学部生の中で法科大学院進学は非常に人気であるが、運良く進学の機会を得られた人でも、弁護士苦境のニュースに触れ先行きに不安を感じるだろう。社会人になる友人をみてOJTによる能力開発のほうがよかったのでは、なんて思ったりするだろう。
村上政博著『法律家のためのキャリア論』(PHP新書)
「法律家」には弁護士・裁判官・検事の法曹三者だけでなく、省庁のキャリア法律職・企業の法務担当者・学者も含まれる。弁護士・公取委員・学者と様々な仕事を経験してきた著者が、法律家それぞれの業界が現在どのようなものであるのか、そして今後どうかわっていくか、を概説する。amazonでは大仰なタイトルと内容が合っていない、といったレビューがついているが、そのとおり法律家を志すがいまいちどういう世界なのか情報が少ない学生に一番向いている内容である。
もちろん学生も自分の将来を案じ先輩の話をきいたり新聞記事に目を光らせたりと色々情報を集めていると思うが、巷で色々言われていることを整理したものが手近にあると便利である。特に「なんとなく」のイメージしかないまま方向性を決めようとしている方にとっては、一読の価値があると思う。
「教えて!goo」というサイトがあります。質問と回答・お礼とポイントという仕組みで、管理が厳しいこともあって荒れることが少ないところです。私も何度か回答を書き込んだことがあります。法律の初歩の部分など。ここの法律相談をみていると実務の状況を知らないと答えられないものも多く、修行が必要だと認識させられます。
他には・・・恋愛相談にもアドバイスを書き込んだことが。
教えてもらう立場だろ、お前!
というツッコミは重々承知なのですが、どうして回答を書き込みたくなってしまうかというと、セクシー心理学というサイトをよく閲覧するので、そこで書かれていたことを紹介したくなってしまうからです。このサイトは、キッズgooでは閲覧できないのですが、決していかがわしい内容というわけではなく、精神科医の2人が心理学を活かして恋愛・人間関係・進路・生活全般についてテクニックを紹介するところです。他にも、爆笑必至の日記・スーパーリアルRPG・パロディ漫画などなど息抜き企画が置いてあり非常によく楽しめます。何十万人のひとがここのメルマガに登録しているらしく、既に知っている方が多いかもしれません。
私もいつもこのサイトに楽しませていただいているのですが、ひとつ気になることが。実質的にサイトのほとんどの仕事をしている精神科医の方、恋愛テクニックなどに関する本もたくさん出しているのですが、サイトの中ではひたすらモテないキャラクターなのです。元ナンバーワンホストが恋愛術を指南!というように、そのテクニックで自分は成功しましたというわけではありません。笑いのセンスも文章力もあってお医者さんで、女性読者の多いサイトでオフ会もよくやっているようだし、実際はモテないわけがありません。なぜわざと説得力が低くなりそうな立場を演じて書いているのでしょう?察するに、説得力は「精神科医」という肩書きで十分であること、上から教える感じを避けること、テクニックが全てじゃないよと示唆していること、などがあるでしょう。
ということで、自分が恋愛相談のアドバイスをすることへの正当化をするつもりでしたが、私には肩書きすらないことに気がつきました。これからは止めておこう(といっても1・2回しか回答したことないんだけどね)。とりあえず、webサイト紹介ということで、興味のある方はご覧下さい。
他には・・・恋愛相談にもアドバイスを書き込んだことが。
教えてもらう立場だろ、お前!
というツッコミは重々承知なのですが、どうして回答を書き込みたくなってしまうかというと、セクシー心理学というサイトをよく閲覧するので、そこで書かれていたことを紹介したくなってしまうからです。このサイトは、キッズgooでは閲覧できないのですが、決していかがわしい内容というわけではなく、精神科医の2人が心理学を活かして恋愛・人間関係・進路・生活全般についてテクニックを紹介するところです。他にも、爆笑必至の日記・スーパーリアルRPG・パロディ漫画などなど息抜き企画が置いてあり非常によく楽しめます。何十万人のひとがここのメルマガに登録しているらしく、既に知っている方が多いかもしれません。
私もいつもこのサイトに楽しませていただいているのですが、ひとつ気になることが。実質的にサイトのほとんどの仕事をしている精神科医の方、恋愛テクニックなどに関する本もたくさん出しているのですが、サイトの中ではひたすらモテないキャラクターなのです。元ナンバーワンホストが恋愛術を指南!というように、そのテクニックで自分は成功しましたというわけではありません。笑いのセンスも文章力もあってお医者さんで、女性読者の多いサイトでオフ会もよくやっているようだし、実際はモテないわけがありません。なぜわざと説得力が低くなりそうな立場を演じて書いているのでしょう?察するに、説得力は「精神科医」という肩書きで十分であること、上から教える感じを避けること、テクニックが全てじゃないよと示唆していること、などがあるでしょう。
ということで、自分が恋愛相談のアドバイスをすることへの正当化をするつもりでしたが、私には肩書きすらないことに気がつきました。これからは止めておこう(といっても1・2回しか回答したことないんだけどね)。とりあえず、webサイト紹介ということで、興味のある方はご覧下さい。
最近コンビニに行くとかなりの頻度でこれを購入しています。メーカーサイトはここなんだけど、あまり情報がない。。。無糖の炭酸ということで、砂糖の過剰摂取が避けられそうで健康によさそうなイメージですが、実際どうなのでしょう?健康志向の今の流れに沿うもので、パッケージのデザインも爽快感が出ていてかなり良いと思います。以前TVでキリンレモンの新パッケージのデザイン現場が放映されていましたが同じデザイナーの方なのでしょうか(ミスチルのシフクノオトのジャケットも手がけたとのこと)。これに対し、最近みていて真逆路線なのがサントリー。炭酸ボンベというみるからに身体に悪そうな新製品。これ以前にもバブルマンという鮮やかな発色の炭酸飲料を出しています。
コンビニがお酒を扱うようになって、清涼飲料の棚が狭くなり、商品の入れ替えも激しくなったこのごろ。せっかく気に入ったものがあってもすぐ棚から消えて買えなくなることもしばしばです。無糖炭酸という新しいジャンルは定着することができるでしょうか。陰ながら応援しています。
コンビニがお酒を扱うようになって、清涼飲料の棚が狭くなり、商品の入れ替えも激しくなったこのごろ。せっかく気に入ったものがあってもすぐ棚から消えて買えなくなることもしばしばです。無糖炭酸という新しいジャンルは定着することができるでしょうか。陰ながら応援しています。
大学入試で世界史の問題を作るとしたら、こんな問題を作ってみたい。
皆さんはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をご存知だろうか。この作品が書かれたのは1872年であり、新聞紙上に連載され大好評を博したという。この背景には、現実として八十日間での世界一周が夢ではなくなってきた、ということがある。この時代背景は帝国主義の幕開け、世界の一体化と見ることができる。図は作品の中の主人公が通ったルートである。これを参考にして、1872年当時の世界像を15行以内で説明せよ。解答欄(イ)を使用し、指定された語句には下線を引け。
【レセップス セポイ 同治帝 江戸幕府 南北戦争 鉄道】
中学のとき簡略版の英語で読まされ、後に文庫で日本語訳を読み、高2で演奏会のテーマとして設定、と多くの思い出が詰まった小説です。映画はアカデミー賞を受賞したとのこと。参考リンク(amazon)
「ジョン…俺は燃え尽きたぜ…」
「マーク、試験はまだ1週間以上あるんだぞ…立つんだ!」
というわけでマークはコカコーラの人だったのですが(これもドリンクの景品ね)、コーラと言うと思い浮かぶのは、「一ヶ月間コーラ生活」という挑戦企画です。コーラと若干のサプリメントしか摂取しないまま現在4週目に入り、3週目終了時点で総計65リットルという膨大な量のコーラを飲んでいます。挑戦者が人気サイトの運営者なので、自殺行為だ・無茶だ・やめろといった心配の書き込みが相次ぎ、煽るのは幇助罪にあたるとか言い始める人がいて一体何罪の幇助なんだと小一時間問い詰めたくもなる殺伐としたコメントをROMってきました。まぁ、本人も大人なのだから限界くらい判断できるでしょう。他のサイトの1週間青汁生活も途中リタイアしていたことであるし。
ということでウェブサイトの紹介でした。
「ローファーム~法律事務所」に続く韓流紹介記事第2弾。これは有名な作品。ストーリーなどは検索すればたくさん出てくるはず。「冬のソナタ」も入れて主観的評価をまとめてみると次のような感じ。
話のスジ・テンポのよさ:「ローファーム」>「夏の香り」>「冬のソナタ」
映像・音楽の綺麗さ:「夏の香り」>「冬のソナタ」>「ローファーム」
時代の新しさ:「夏の香り」≒「ローファーム」>「冬のソナタ」
ということで、「冬のソナタ」が好きな人は「夏の香り」「ローファーム」でもっと満足してくれると思う。「冬のソナタ」「秋の童話」「夏の香り」は同じ監督の四季シリーズということで、冬のソナタと夏の香りは展開に似たところがある。けれど、夏の香りのほうが後に作ってあるからか、より設定が自然だし、最後のまとめ方がきれい。キャラクター設定も「夏の香り」のほうがみんな豊かな暮らしをしているので雰囲気が明るい。特にライバル役でリュ・ジン>>パク・ヨンハで、夏の香りではソン・スンホンに勝っているのではと思うほど背が高くいい男。
全18話の中、好きなのは第1話・第2話、山登りと茶畑で会うところ、オペラを見に行くところ。ヒロインが世間知らずというか初対面の男に警戒しまくり、お知り合いになりたいけど自分からは言い出せなくて戸惑うところが愛らしい。爪を噛むような仕草も気持ちがわかりやすい。日本で流通しているのは全20話を全18話に縮めたものらしい。正月、いろいろと時間がないので早送りをしながら一気にダーーっとみただけだから、時間がとれたときにゆっくり鑑賞したい。
韓流ドラマ。いちばんいい紹介サイトはこちら
ジョン・ヨンウン(ソン・スンホン)
研修所では首席だったが、海兵隊出身で喧嘩が強く正義感のまま突っ走り、サラ金業者と腕っ節で渡り合って裁判にかけられることも。法律を無視する傾向あるが、人間面で色々な人に気に入られる。事務所を飛び出し個性的な仲間と「法村」なる合同事務所を立ち上げる。お金にならない仕事も引き受けてしまう。恋愛に関しては中学レベル。研修所時代の恋人が忘れられず事務所の同僚の好意に応えられない。
パク・ジョンア(キム・ジホ)
法律扶助公団で働いていた庶民派弁護士。借金苦の人にポケットマネーで供託資金を提供したり、路頭に迷う少女を家にかくまって事務員として採用するなどヨンウンの正義感と共通するところがある。面倒見のいい姉さん肌。法学部でもなかったがヨンウンに憧れて司法試験受験。恋愛に関しては中学レベル。ずっと想っていたのに何も言い出せない。ユン弁護士のあからさまな対抗意識を受け応じざるを得なくなっていく。
ユン・ジン(ソ・ジョン)
ライバルの韓国最大手の法律事務所代表の娘。研修終了後フラフラと遊んでいたがヨンウンの事務所立ち上げに際して参加する。恋愛に関しては怖い大人。ヨンウンへの好意とジョンアに対する敵意むきだしで事務所を引っ掻き回し雰囲気を悪くする。ヨンウンの親に取り入るなど計算高い。気分で二重スパイ的活動をする。
チェ・ジャングン(ソ・ジソプ)
若く有能でほとんど負けたことがないがカネが第一で生意気な弁護士。所属事務所に法外な報酬を要求し追い出されたところにヨンウンに誘われ参加。話が進むにつれ人間性に目覚めていく。ヤクザのボスとのやりとりは笑える。
ハン・トンニョン(ビョン・ウミン)
韓国一優しく韓国一無能な弁護士。法廷で弁論できないほど口下手。8回受験して弁護士になった。セクハラ訴訟で表に立つことになり、口下手を克服し自信を持つことが出来るか。事務長がよき理解者としてサポートしてくれる。
この個性的で若い5人がトラブル続きながらも事務所を軌道に乗せるために努力する姿が描かれる。失敗続きで財政が成り立つのか?といった突っ込みは置いておいて、韓国ドラマ定番の不治の病と交通事故がなく、設定が皆弁護士ということで良識をわきまえた行動をするので抵抗なく見れると思う。事務所の入り口にテミス像が飾ってあるところが乙。韓流ドラマは、みんな一人前の大人なのに恋愛に関しては素人ばかりなところが微笑ましい。
比較法においてはアメリカ・ドイツ・フランスをみていくのが通常だが、西洋法の継受のプロセスをみていくにはアジア諸国をみてみるのもいいかもしれない。現に行政法では韓国法・中国法との連携も図られているらしく、塩野教科書の巻末をみてみればこれらの国で翻訳が出ていることがわかる。