順風ESSAYS

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UNIQLOCK + FPM

2008年06月25日 | ミュージック





UNIQLOCKはユニクロのネットCMで、国際的な広告賞で多数グランプリを獲得するなど、高く評価されている。現在は第3弾で、以前のバージョンはこのページから閲覧することができる。第3弾の中身を少し説明すると、Tシャツがテーマで、図書館を舞台にしたものと、ホールを舞台にしたものの2種類が1時間おきに入れ替わる。毎時00分にはには特別映像が流れる(これは以前のバージョンのほうが凝った感じがする)。0時台には音楽も変わり、特別映像が続く(必見!)。ダンスと音楽は言葉の壁がなく、出演者も外国の方がいかにも好きそうな感じで、遊び心あり、実用性あり、ついつい長い時間眺めてしまう。「クールジャパン」という言葉にぴったりのコンテンツだと思う。存在は以前から知っていたが、きちんと見るのは最近のことで、すっかり気に入ってしまった。

雰囲気にぴったりな音楽は、Fantastic Plastic Machine(略してFPM)が作曲したものである。私がFPMを知ったきっかけは、m-flo、山本領平やHalcaliとコラボレーションしていて、「あのFPMが参加!」といった感じの書き方がされているので、大御所的な存在なのだろうということで興味がわいた、というものだ。オリジナルアルバムを集めてみたところ、どれもクオリティが高く、今でもよく聴いている。BGMに最適な、流れるような曲が多い。テレビを観ていると、FPMの曲が様々な場面で用いられているのがわかる。

オリジナルアルバムは、以下の5枚である。ベストアルバムとしては、beautiful.以降の曲を集めた「FPMB」という2枚組みのものがあるので、これから入るのがいいかもしれない。オリジナルアルバム以外にも「Sound Concierge」というタイトルで多数のミックスCDが出ているが、1枚レンタルしてみたところ、それ以上聴いてみたいと感じなかったので触れていない。

1. The Fantastic Plastic Machine (1997年)
2. LUXURY (1998年)
3. beautiful. (2001年)
4. too (2003年)
5. imaginations (2006年)

これらを好きな順に並び替えるとしたら、too > LUXURY > imaginations = beautiful. = The Fantastic Plastic Machineである。4枚目のアルバム「too」はm-floが参加している曲もある上、終盤のReaching for the Stars → Never Ever (Extra Vocal Mix) のつながりが最高に盛り上がる。「Days and Days」という曲もしっとりとしていてお気に入りだ。コピーコントロールCDなのが残念である。

5枚目のアルバム「imaginations」は最初の数曲が聴いていて非常に心地がよい。中盤から後半にかけての曲は少しガチャガチャした感じがして好き嫌いが分かれるように思う。3枚目のアルバム「beautiful.」は、同名の曲「beautiful.」が単体で非常によい曲で、何度も聴きたくなる。

UNIQLOCKとFPM、どちらもすでに十分に有名だったかもしれないが、まだ触れたことがない方には、生活への清涼剤としておすすめしたい。


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友情課題

2008年06月04日 | essay
「だって嫌だから…」

好き嫌いが説得力のある理由になるのなら、就職や入試で志望理由をどう書くか苦労することはない。納得のいく説明をするには、さらに「なぜ?」と問うてみて具体化してみる必要がある。

知人が自分のいないところで噂話をしているという事実を嫌う人がいる。今ではゼミの名簿を作るだけでも「プライバシーが…」と言う人がいるくらい自意識が高まっているから、まず自分のことを自分でコントロールできないという点で不愉快になるのだろう。また、自分を過大評価していることが通常だから、マイナスな評価が含まれていた場合、自己イメージが傷つけられ耐えられなくなるのだろう。

しかしそんな嫌がる人でも、他人の噂話をしない人はほとんどいない。ついさっきまで誰かの(時に厳しい)批評をしていたかと思えば、色々噂されて嫌だと嘆く。ただ自分と同じように皆振舞っているだけじゃないかと指摘すると、驚かれる。この相反する態度は、ラッセルも"One of the most universal forms of irrationality"と形容している。

なぜこの当然のことに気がつかないのか。それは多分、特に意識することなく自然と噂話をしてしまうからである。自分と社会関係のある人が敵か味方か判断しようとするのは本能的な行動である。「どういう人かわからない」という状態は警戒感を生み、四六時中警戒しながら暮らしていくのは耐えられないから、親近感を得るためにある程度の情報を集める必要がある。

ここで用いられるのが噂話で、社会秩序の維持にも使われる。そもそも「ゴシップを話すために人間は言語を獲得した」とする説があるくらいだ(ダンバー)。ヒトが毛づくろいではカバーしきれない大集団を形成するにあたって社会関係の維持の道具として発達させたのが言葉だ、ということで、専門外だが私も共感を覚える。だって、意識的に訓練しなかったら、論理的に言葉を操る能力は備わらないでしょう?軽い話題を話すためにあるとみるのが自然だろう。

誰もが噂話をする。基本的な部分は人間誰もが同じである。このことに気がつくと怒りが収まるのが普通だが、それでも許せないとしたら、(1)自分は悪評を立てられない特別な存在であると思っているか、(2)自分については全ての事情を知っているから大目にみるが、他者に対しては違う、ということであろう。これに対しては、先に挙げた嫌悪の原因、高い自意識と自己の過大評価を調節する必要があるだろう。思うに、体力的にも環境的にも自己の万能感が最高潮になるのは大学2年の頃だ。その後就職など将来を明確に意識し始めて調節されていく(もちろん、個人差は大いにある)。

私自身、以上のことに気がついたのは大学3年の秋であり(ブログの記事にしている)一応の整理をつけている。このためだろうか、日常生活は穏やかで、滅多に怒らず、人当たりもまあまあ良くなっている。しかし一方で、噂話を自然なことと思っているがため罪悪感をあまり抱いておらず、だんだん親しくなってきて、飲み会の席などで厳しい(と評価される)ことを言ってしまうこともままある。この二つの態度に以前紹介した「帰属の基本的エラー」(ある行動につき当人の心や性格のせいだと勘違いしてしまうこと)を代入すれば、「表面的には優しいけれど…」ということになってしまう。

「なぜ?」を問い一貫した価値観を作ってみたらとても誉められない状態になってしまう。現状では、まだ完成したとは言えない。


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