順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

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法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
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眼力検診

2008年11月30日 | essay
「世の中、下らない人間ばかり」と思っている人は少なからずいると思う。法学部だと、「司法試験や公務員試験に役立つかどうかしか考えず、高等教育を受けるに値しない人ばかり」なんて考えに至るかもしれない。でもちょっと待って、考えてみよう。そう結論付けるまでに自分が何をしたのか、を。

「英雄偉人といえども、召使の眼から見ればタダの人」という言葉がある。当たり前だ。タダの人である召使から見るから、タダの人でない人間までタダの人になってしまうのである。―――これは、塩野七生氏の著作の一節に登場する文章である。下らないと見えてしまうのは、見る眼が曇ってしまっていて、本質を理解していないからかもしれない。

自分の眼に映る人は、いくつかの選抜を乗り越え、数十年にわたり自分とは違う経験をし、言葉で表現できないかもしれないが一定の人生観や社会観を持っているものだ。自分が全てにおいて他人より先回りしていることは有り得ない。交流の中で引き出せていないだけではないだろうか。ある事項に思考力を使わないのは、別の人生のテーマや関心事があり、労力をかけたくないからかもしれない。普段の会話で試験以外のことを持ち出す機会がないだけで、その実大きなテーマに取り組んでいるのかもしれない。

自分の周囲にいる人は、きっと自分にはない輝く部分があるに違いない。輝く部分をみつける努力をしよう。こう思うことは、外に向かう好奇心を駆り立てる。積極的に振舞えるなら色々と話してみよう。シャイな性格なら注意深く観察してみよう。下らない世界に生きていると思うより、毎日が少し楽しくなるはずだ。

しかし男性の場合、本質的にある「競争心」が眼を曇らせ、無下に他人を見下す感情を起こしてしまうように思う。自分とは違った人生観に従って行動する人を見ると、自分の人生観が挑戦を受けたように感じ、揺らいでしまう。それに対する防衛として、端から下らないと言い聞かせて深い関わりを持たないようにする。これは生活のバランスをとるためにはある程度必要なことだが、行き過ぎると社会不信になってしまう。今のところ、これに対する処方箋は、「競争心」の仮面を脱ぐ相手である恋人に精神的な拠所を得ることしかないように思っている。


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ライフ・プラン

2008年11月11日 | essay
「イキガミ」というマンガと、それを映画化した作品がある。売れ行きは上々らしいが、個人的にはあまり好きではない。どうしても「設定がおよそ合理的じゃない」と思ってしまいストーリーに入っていけないのだ。その設定とは、次のようなものである。

国家繁栄維持法:この法律は平和な社会に暮らす国民に対し、「死」への恐怖感を植え付けることによって「生命の価値」を再認識させる事を目的としている。国民は、この法律によって誰にカプセルが注入されたかを知ることができない。国民はその時期(死亡予定の18~24歳の)が来るまで「自分は死ぬのでは」という危機感を常に持ちながら成長することになる。その「危機感」こそが「生命の価値」に対する国民の意識を高め、社会の生産性を向上させる。
(以上、Wikipediaより引用)

この世界の中学生・高校生に「勉強しなさい」「まじめに将来の進路を考えなさい」と言ってみよう。「はぁ?数年後に死んだら意味ないじゃん。今楽しいことをやるほうがいいよ。」と返されるのが必定だ。将来の進路選択として、修行期間が長く成果がすぐに出ない分野は回避される。24歳で死ぬかもしれないのに法曹や医者を目指すなんておよそ不合理な選択である。無為に遊びまわるか、芸能など若いうちに一発当てられる分野に人気が集中することであろう。実際、イキガミに登場する人たちには、ミュージシャン志望とか、街の落書きに精を出す人とか、クルマ狂いとか、社会的に堅実とみられる進路選択をしていない人が多い。社会の生産性を向上させるどころか、トータルで見てマイナスになるのではないか。

結局、若者が残された1日をどう生きるかというテーマが先行していて、十分練られた設定をしなかったのであろう。この不十分さが盗作騒動が起きるような隙を作っているように思う。そして、この未熟な設定の上に国家権力の強制への疑問という真面目で社会的・左翼的なメッセージを入れているために、違和感を感じずにはいられないのだ。仮に社会の生産性を上げるために人の生命に手を加えてよいとするならば、自分であったら次のような制度を提案する。イキガミの法案よりは目的達成のため合理的な手段であると言えるだろう。もっとも、「究極極限ドラマ」といったキャッチコピーをつけられるような物語は生まれそうにはない。

国家繁栄維持法改正案:国民の寿命を65歳に一律に設定する。不慮の事故や病気のリスクは残るが、大体の人は「65歳まで生きる」と明確に意識しながら人生を送ることになる。個人の人生設計としては、おそらくは50歳くらいまでで稼いで残りの15年間遊ぶという感じになる。高年者の雇用が若年者の雇用を圧迫することもなくなる。老後の不安がないから、貯蓄の必要性が減少し、消費が喚起され、国民経済が活性化する。また、老齢年金も介護保険も不要で、社会保障は生活保護と健康保険・障害者福祉に注心すればよいことになり、国家財政の負担も税の負担も激減する。さらに、婚期を遅らせる人は少なくなり、少子化対策にもなる。

不安は行動を萎縮させる。社会で最も大きい不安は老後の不安である。北欧諸国は手厚い社会保障で老後の不安を緩和しているが、上の案は財政に負担をかけずに同じことを行うものだ(もちろん、現実には人の生命を手段として用いることは許されない)。平成時代、自由が拡大し社会は流動化してきたが、それに伴って将来の不確実性も高まった。これが不安につながらないためには、「何はともあれ、きっとよいものになるだろう」と信じられる環境が必要だ。自由を真に享受するには希望がなくてはならない。いま、希望を抱いている人はどれだけいるのだろうか。


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