順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
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過去記事からのおすすめ
エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

ペヤングだばあ

2009年06月30日 | ミュージック
Hatsune Miku ペヤングだばあ

※状況がよく分かる素敵な映像はこちら(ニコニコ動画のアカウントが必要です)

友達が言うに、北海道にはペヤングは存在しないらしい。自分の地域には普通に売っていて知っていたが、カップ焼きそばは食べたことはあるけれどペヤングは食べたことはなかった。ペヤングだばあ、どうやら湯切りのときにフタが外れて麺が外に出てしまうことが多いらしい。この素敵な曲を聴いて食べてみようかな、と思い、先日コンビニで買って作ってみた。

お湯を注ぎ、歌詞の通りソースをフタの上に載せて温めて待つ。「だばあ」しないように湯切りの穴を丹念に開く。フタがちゃんとしまっているか確認する。さあ、湯切りだ。気をつけたせいか、無事湯切りをすることができた。フタを開けてソースをかける。焼きそばらしい香りが漂ってくる。ここでふとあることに気が付いた。

かやくを入れてない…

かやくも麺と一緒にお湯でふやかさないとマトモに食べられない。「だばあ」しないようにと気をとられて不覚をとってしまった。ソースかけちゃったから復帰不可能。「湯切りの前にソースをかけてしまった」という失敗はよくあることだが、これは新しい失敗のパターン。仕方ないのでかやくも入れて麺の余熱でなんとかふやかそうと作戦。しばらく時間を置いて食べる。

ああ、キャベツがカタイよ…

あまりにみっともないので家族にも言わず何事もないように装って黙々と食べ終わった。途中で「かやくだけ別のお皿にあけてお湯で数分ふやかせばよかったんじゃね?」と頭に浮かんだのだが、考えるのをやめた。また今度リベンジしよう。

生歌だとリツカさんの「歌ってみた」があるのでどうぞ→(参照・YouTube動画)。この曲を聴いたあと「ミラクルペイント」を聴くと、最初の「シャバダバ」が変に聴こえてしまうね。

【7月5日追記】上の動画を差し替えました。


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ネット先進国だからこそ

2009年06月30日 | 時事
憲法を学べば必ず出てくる重要判例、麹町中学内申書事件(最判昭和63年7月15日判時1287号65頁)。この原告の中学生は、現在国会議員として活動している保坂展人氏である。国会議員歴は長く、郵政選挙では社民党なのに比例で自民党が枠を使い切ったために何故か当選となったことでも話題になった。保坂氏はgooブログで積極的に情報発信している(参照)。

保坂氏のブログでの最近の話題は、ネット上でも大きな関心を集めている、とある法律の改正論議である。与党案は民主党が指摘するように明らかな過剰規制であり、その他にも様々な疑問・問題点があり、保坂氏も表現の自由・内心の自由という観点から与党案に反対の立場を表明している。しかし、この態度決定をするにあたっては、大きな勇気が必要だったようである。

昨日の審議の前に意見を聞いたある友人は、「今回の単純所持規制は、明らかにもう大きな流れになっている。選挙前にこの流れに逆らうことはリスキーじゃないか。筋を通すのもいいけど、あまり少数の立場に傾かないでほしい」との忠告だった。「規制慎重派」という烙印を押されると、「この人は規制を邪魔しています」という攻撃対象となることを心配してのことだった。―マンガ太郎の「表現規制」暴走は、なぜ?

インターネット上では与党案のような規制には反対で、創作物への規制拡大はもってのほか!という意見が大多数であり、逆の意見を書こうものならば説得的な根拠を述べよと批判が集まるような雰囲気のように感じるのだが、法案を審議する世代の方たちにとっては慎重派が少数のようだ。関連する話題の記事はすべて、注意深く、最初に自分が子供の権利を守るための活動をずっとやってきたと前置きを置いてから論じられている。

従来ならば、保坂氏の心配はもっともなことであった。こういう道徳的に低いものと看做されている表現の規制については、多くの人にとっては大して関係のないことである上、下手に慎重論を唱えれば偏見をもたれてしまう恐れがある。憲法学ですら、今では猥褻規制は過度に広汎な規制であると堂々と教科書に書かれるようになっているが、最初規制に疑問を唱えた学者は偏見や揶揄に耐えねばならなかったようだ。こうした事情があるため、議会では合憲性について適切な考慮が果たされず、とかく過剰規制に陥りがちである。外国では、キリスト教の性のタブーの観念が強いという事情もあるだろうが(カナダでの罪名は「道徳を堕落させる罪」だって!びっくりするね!)、現に立法事実も曖昧なまま規制が進んでいる。

したがって、立法には到底期待できないので、裁判所が少数者の自由を守るために積極的に審査すべき分野だと思っていた。ところが現在、法案審議の段階でインターネット上で圧倒的に規制反対が叫ばれている。この事実は、インターネットという文明の機器が、人々の素朴な疑問を表に出す強力な力を持っていることを明らかにしたものだろう。既存のメディアは、おまけのように表現の自由に配慮が必要としながらも規制に賛成するのがお決まりである。従来だったらこれほど大きな議論にはならなかったはずだ。

もっとも、今回の大きな反対論には他の幸運も重なっている。日本文化の核たる創作表現への規制もセットで議論されていることは、反対の立場表明を容易にする。佐藤優氏の活躍・ライブドア事件・小沢一郎氏の秘書の逮捕で検察は恣意的であるとのイメージが広まったこと、足利事件で警察当局への信頼が揺らぎ今もなお当時の担当者が「謝罪の必要はない」と無反省な発言をしている(参照)ことで顰蹙を買っていることから、規制当局に権限を与えたくないという空気が広まっていることも、有利に働いているだろう。

ネット上では創作物への規制拡大について積極的な反対活動も行われるようになっている。先日の記事のコメント欄でネット上の署名活動が行われていることが紹介された(署名活動のURL)。その具体案は以下のようなものである。

1:架空創作表現の弾圧を一切行わないことを対外的に表明する
2:架空創作表現に対し、表現することへの規制を行ってはならない
3:表現規制を主張する団体に対しては即時解散を命令する
4:表現内容によるレイディング・ゾーニング等を徹底化する
5:成人向け作品には販売時年齢確認の徹底化を行う
6:メディアリテラシー教育の徹底化を行う
7:架空創作表現弾圧者監視委員会を設け、創作表現の過剰な規制が行われていないかを監視する

少しコメントすると、2は「前法は後法に劣後する」の原則に照らせば実効的ではないように思う。また、3と7は憲法が反憲法的活動の規制をしない立場をとっていることとの関係でも現実的でないように思う。むしろ、公的機関がちょっと懸念を示しただけで自主規制・私的検閲が行われるように規制手段が巧妙化しているのが問題であるので、「公務員は、その職務に関して、国民の自由な創作活動に不当な影響を与えることがないように努めなければならない」というような規定を含む創作表現擁護基本法といったかたちで具体化するのがいいのではないか。


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Will You Be There / マイケル・ジャクソン

2009年06月27日 | ミュージック
Michael Jackson - Will you be there (subtitulado)


マイケル・ジャクソンの訃報には、全世界で大きな反響が生じている。私は中学生のとき、姉からカセットテープに録音したアルバム"Dangerous"を貰って聴き、その圧倒的なクオリティの高さに大いに引き込まれた。何度も聴いたせいか、カセットテープは中の金具が外れて読みとれなくなってしまった。中でもゴスペル調の曲の迫力は圧巻であり、上に挙げた"Will You Be There"そしてそれに続く"Keep The Faith"が特にお気に入りだった。

"Will You Be There"は歌詞も琴線に触れる素晴らしいものだ。特に次のフレーズが好きだ。

But they told me
A man should be faithfull
And walk when not able
And fight 'til the end
But I'm only human

「強い個人でなくてはならない」「人格を確立しなければならない」「男たるもの身を立てなければならない」若い頃の自分はこういうことが当たり前だと思っていて、自分には何が足りない、今までの行動のどこが間違っていた、これから失敗しないだろうか、いつまでたっても自信がつかない等々模索と不安の日々が続いた。そんなとき、「僕は人間だ、弱いんだ」と正面から告白するこの歌詞は、文脈は違えど、胸に突き刺さるものがあった。

上の映像はMTVでのライブを基本に一部編集したもので、その場にいた人はおそらく一生心に残るであろう、荘厳で妥協のない舞台である。数年前最初にこの動画をみたとき、この瞬間に立ち会えることができたら、と惜しく思ったものだ。

【参考】この曲についての詳細・歌詞の日本語訳等はこのページがおすすめです。
【7月23日追記】Keep The Faithのリンク先を変更し、リンク切れに対応しました。


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ソーシャルブックマークの将来

2009年06月27日 | 時事
ソーシャルブックマークとは

ソーシャルブックマークは、オンライン上にwebページをブックマークできるサービスである。これを使えば、パソコンを複数台使い分けている場合にデータを移す必要がなくなる。また、何をブックマークしたか公開し、それが集計されることにより、いま何が注目を浴びているのかがわかる。ネットサーフィンの入り口としても機能することになる。さらに、ブックマークした人が簡単なコメントを残すことで読者の反応や議論の喚起にもつながる。様々な可能性を秘めたサービスである。

gooブログでも先日、各記事に各サービスに簡単にブックマークできるようなボタンが配置された。ソーシャルブックマークは、萌芽期を超え、ウェブサービスの1ジャンルとして確立してきた感がある。日本の代表的なサービスとして、はてなブックマーク、newsing、Yahoo!ブックマーク、gooブックマーク等がある。このうち、はてなブックマークが最も利用者が多く盛り上がっており、他のサービスは未だ独自の文化を形成するには至っていないように見える。

日本のウェブ言論は質が低い?

少し脇道にそれるが、日本のウェブ言論は質が低い、という主張をよくきく。何が「質が高い」かという議論は措いておくが、よく槍玉に挙げられるのは、はてなブックマークのコメント、Yahooニュースのコメント、2ちゃんねるである。しかし、これらはある話題について狭いスペースで即時的に簡単につけたコメントであり、「言論」の代表としてみること自体に問題があるだろう。youtubeの英語コメントでも日本関係は第二次大戦の話題が脈絡なく出てきて、外国でも大して質は高いとは言えない。

したがってニュースサイトやブログをウェブ言論の中心としてみるべきであるが、ブログはスパムも多いしミニブログ的な使われ方をしているので、しっかりとした立論のブログ記事に検索でたどり着くことが難しい。ソーシャルブックマークは質の高い記事を拾い上げる機能をもっているが、未だ十分とは言えないだろう。はてなブックマークでは質の高い記事が上位にも上がってくるが(例えば、この記事は素晴らしいと思う)、newsingでは、運営自らが低俗なネタばかりが上位にランキングされてしまうと嘆いている(参照)。

投稿をオープンにする以上、大衆的な話題が上位に来るのは避けては通れない。視聴率を競う民放のテレビが大衆的な番組に帰着するのと同じである。政治や専門の話題は限られた人としかしないが、こんにゃく娘などの笑い話はどんな人でも雑談など人間関係の潤滑油として用いることができる。日本に来たイギリス人の本で、「最初日本のテレビの質の低さに辟易していたが、何のことはない、数年後イギリスでもテレビが大衆化した結果同じようになった」という一節があった。はてなブックマークは黎明期の理系大学生の文化が残っているために、オープンのままでも一定のレベルの記事が好まれることになると推測される。

オフィシャルブックマーカーという可能性

頑張って書かれた質の高い記事が拾い上げられず、またはネタに埋もれてばっかりでは、頑張って書こうという動機が削がれる危険性がある。この点は、ソーシャルブックマークに少し工夫をすることで改善できるのではないかと思う。第一の工夫は、カテゴリ分けで、専門的な話題について独立したランキングをつくることで多くの人の目に触れる機会が得られる。はてなブックマークが最近リニューアルして導入しており、成果が上がっているように思う。

第二の工夫は、ピックアップ者の制限である。信頼できるピックアップ者のみでランキングを構成する、というものだ。2ちゃんねるでもいわゆる「糞スレ」を排除するためにスレッドを立てる権限に制限を課しているところもある。gooラボ内のgooソーシャルニュースは信頼できる特定のブログの記事しかピックアップされない仕組みを採用した。しかし、参加するブログが多数にならない限り気に入ったブログのRSSを登録したほうが使いやすいので定着しないであろう。それに、ピックアップ者の制限となるとソーシャルブックマークの本来の機能と対立する可能性がある。

そこで注目できるのは、gooブックマークの「目利きさん」の項目である。優れたブックマークをしている人へのリンクがトップページに表示されている。これを応用して、ある人が法律なら法律分野の専門的な話題について質の高い記事を探してブックマークをし、そのブックマークを参考に他の人がブックマークをつけていき、ブックマーク数順に並ぶようにする、という仕組みを作ってはどうか(○○さんの公開ブックマークで新着順と人気順のページを作る)。また、「このカテゴリの専門ブックマーカー」へのリンクを目に付くところに表示して誘導する。

そして、著名なブックマーカーに取り上げられると多くの人が見て多数のブックマークが集まり、上位に表示されやすくなるというサイクルが機能すれば、それを目指して記事を書く人が増えるであろうし、自薦や他薦の情報がブックマーカーに集まることになる。可能ならば、ブックマーカーがピックアップした理由と読解のために必要な知識や簡単な解説をコメントで付け加えるとよいだろう。このようなサイクルの結果として、ウェブ全体のコンテンツの充実度を上げ、ウェブ言論の向上につなげることができないだろうか。

はてなブックマークでは既にアルファブックマーカーと呼ばれる有名ブックマーカーが存在し、少なくない人が自分の感覚に合うアルファブックマーカーのRSSをもとに情報収集をしているという。もっとも、アルファブックマーカーへの記事の推薦といったサイクルは生まれていないようである。はてなのように既に多数の参加者と熱心なブックマーカーを集めているところは十分であろうが、後発のサービスや軌道修正をしたいサービスは、オフィシャルでブックマーカーを設けて、たくさん質の高い記事をブックマークをしてもらって、ネットサーフィンの入り口として有用であることをアピールしたらどうだろうか。

根本は「ボランティアの限界」

では、これが機能するにはどのような条件が必要だろうか。人材としては、まずは有名人がとっつきやすい。いわゆる高学歴難民、高い学位を得ておきながらマッチする仕事がない人たちも有望である。他には、メディア不況の下で提供先がなくなったジャーナリストやライターも有望であろう。前者は専門知識に基づいた判断ができ、後者は取材力や解説力が高いという特徴がある。

もっとも、この人たちの参加が実現し、さらに継続的に機能させるためには、(1)見合う報酬が得られること、(2)作業への社会的評価が高まること、が必要であると考えられる。これらはブックマーク作業だけではなく質の高い記事を書くインセンティブを高めるためにも重要な条件であるが、未だ確立しているとは言い難い。ボランティアでは、公平性の点では望ましいかもしれないが、やはり生活の糧を得る活動に劣後してしまい継続性が損なわれてしまう。

(1)については、最初はソーシャルブックマークサービスを提供している会社が支払う仕組みをとることになる。収益との釣り合いがとれるかという点では大きな疑問があるだろう。(2)については、ネットでは他人が作った記事を集めて紹介するだけのブログは批判されがちであるが、法学では裁判所が書いた判例を体系だてて並べただけの本も結構高額な値段で出版されているように、既存の情報を編集する作業はもっと評価されていい。ブックマーカー自身が、作業の中で根気強くブログ検索を続けて得た注目ニュースへの世間の反応を整理してまとめた記事を作ってもいいかもしれない。

次に信頼性の確保であるが、既に信頼されるブログを運営している人ならばネット上の人格で参加してもよいだろうが、そうでない場合は経歴等を明かし専門分野への知見があることを示さなければならないだろう。したがって、プロフィールページを作り、情報窓口とともに表示する必要があるだろう。ネット上の活動への社会の理解は未だ進んでいるとは言えず、匿名の排除はネックになるかもしれない。

ということで難点だらけであるが、自宅で勉強とネットサーフィンを続けて、その活動が言論の向上と社会の発展につながる、実生活との両立もできる。これが現実になったら、どんなに素晴らしいことだろう。


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充電+bpm

2009年06月22日 | ミュージック
ここ1ヶ月ほど物凄いペースでブログを更新してきたが、このままでは生活も破壊されてくるし、本も少し読みたいということで、少しペースを落とそうと思っている。そこで次の更新までの清涼剤として、VOCALOIDの名曲をひとつ紹介してみる。いや、数日後の更新までとはいわず、数週間はヘビーローテーションしてもいい曲である。本当はもっとたくさん紹介したいけれど、次にとっておく。

【初音ミク】bpm -full ver.-【PV】


心地よいリズムと初音ミクの声質にぴったりの爽快なメロディー、可愛らしい歌詞もさることながら、映像の美しさがさらに曲を魅力的なものにしている。淡い色使いにくっきりとした線、リズムにぴったりと合った細かい動き。これは作曲者とは別の方が特に依頼があったわけでもなく映像をつけたもので、ネット文化ならではの創作の輪である。

そして創作の輪は国境も超えている。この曲を気に入ったベネズエラの学生の方が、スペイン語に翻訳した上で自分で歌った動画をアップしている。翻訳した歌詞がぴったり曲にあっていることにも驚きがあるが、歌声もものすごく綺麗である。下のリンクを参照してほしい。

bpm(スペイン語・生歌・youtube動画)

VOCALOIDの声の機械っぽさがいまいち好きになれないという方は、「歌ってみた」というジャンルで日本全国の歌い手たちが歌声を入れて発表しているので、そちらを聴いてみるといい。個人的に好きな声質のものを下に挙げておくので、参照してほしい。

bpm(日本語・生歌・リツカさん・ニコニコ動画のアカウントが必要です)


【6月25日追記】Youtubeにもリツカさんの動画がありました→参照

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偏見の羅列

2009年06月18日 | essay
「偏見の羅列」です。内容に特に根拠はありません。居酒屋の席で交わされるような話題です。もし気分を悪くする人がいたらすみません。

1 男性が求めるもの

(A)競争心が強く自分に自信もある男性は、女性に見栄えを求める。
容姿・学歴等々スペックが高い女性が好まれる。自分本位な側面があり、情が薄くなりがち。

(B)競争心が強いが自分に自信がない男性は、女性に癒しを求める。
外で虚勢を張って疲れているから。求め方は対極的な2種類がある。

  (B-1)自分よりスペックが低く大人しい性格の女性を好むパターン。
  無力な女性を保護することで癒される。

  (B-2)母親の代わりになるような面倒見のよい女性を好むパターン。
  女性に子供のように甘えることで癒される。

  (B-1)か(B-2)かは、幼いころ親にかわいがられたかどうかが影響する。
  あんまりかわいがられていないと(B-2)になりやすい。
  いずれにせよ、亭主関白・かかあ殿下といったパートナー間での主従関係が生じる。

(C)競争心がさほど強くない男性は、女性に気楽さを求める。
さっぱり、サバサバした女性を好む。友達関係の延長のような関係を築く。

従来は(B)のタイプがほとんど、最近は(C)が増えているように思う。(A)はメディアによく登場するけど実際は少数。
(C)の草食系を攻略するには、友達関係を続けて、頃合を見て女性から唇を奪うのがベスト。

2 個性と裏表

たいていの人は、他人に知られてしまったら引かれてしまうのではないかという趣味や嗜好を持っている。マンガが好きだというだけでも時と場合によっては引かれることもあるくらいだし。こういうときに円滑に社会生活を続けるためにどのような態度をとるか、以下のように分類してみる。

(P)外では普通の人を装い、親密になるまで隠れた趣味や個性を出さないようにする。
通常はこれが選択される。プライバシーにうるさい。

(Q)仮面の使い分けでは心が落ち着かず、いつでもあるがままの自分でいたいと願う。
それでもなお周囲に受け入れられるための戦略として、対極的な2種類がある。

  (Q-1)周囲に文句を言わせない地位を獲得し、自分の個性を受け入れさせる。
  地位獲得のために強迫的な努力をする。環境が変わると地位も変わるので変化に弱い。

  (Q-2)子供のように幼く振舞うことで自分の個性を受け入れさせる。
  環境が変わっても通用する。甘え上手で付き合い上手。

(R)周囲の目線を気にしない、好きなようにする。孤立することも。でも気にならない。

傾向として、
(P)の人どうしが通常の友人関係。
(P)の人は(Q)の人と付き合っていけるが、
(Q-1)の人をとっつきにくい人、(Q-2)の人をちょっと変わった人と思っている。
(Q-1)の人どうしは張り合うので上手くいかない。
(Q-2)の人どうしは仲良くできる。
(Q-1)の人と(Q-2)の人は役割が合致して相性がいい。
(R)の人は(R)の人どうしで集まるか、(Q-2)の人と仲良くなる。(P)の人には引かれる。
(Q-1)の人は(R)の人を羨ましく思っている。

3 両者の関係

傾向として、
(A)→(R)
(B-1)→(P)(Q-1)
(B-2)→(Q-2)(R)
(C)→(P)
こんな感じかな。

ちなみに自分は、たぶん、本質的には(B-1)かつ(Q-1)だろう。でも(C)がいいなと思っている。


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天使たちのシーン

2009年06月16日 | ミュージック
小沢健二、私は彼の全盛期より少し後の世代で、知り合いにファンはいなかったのだが、姉の影響もあって中学時代によく聴きこんだ。その後しばらく離れていたが、受験を前にしてふと「天使たちのシーン」が聴きたくなり、CDを借りてこの曲だけ聴きに聴きまくった。行きの電車の中でも、休み時間にも。

天使たちのシーン(YouTube)
天使たちのシーン・歌詞(goo音楽)

フリッパーズ・ギター解散後の初アルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」の最後から2曲目、クライマックスを飾る。13分というJ-POPとしては非常に長い曲であるが、心地よいメロディーと透る声で決して飽きることはなく、あっという間に時間が過ぎる。夏から秋、秋から冬、最後は春に向かって、季節は移り変わり、一日も昼と夜を繰り返す。「僕」はその中で映る情景を、丁寧に描き出す。しかし、その情景は決して目新しいものではなく、どれも日常のふとした光景である。

いわゆるサビにあたる部分は、「 愛すべき生まれて育ってくサークル、君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則(ルール)」という歌詞が充てられている。自然も人間も、毎日毎週毎月毎年、ゆったりと同じような活動を繰り返す。この円環はどこからきているのだろう、何が背後で働いているのだろう、なんだか奇跡的で、畏敬の念がわいてくるものだ。そんな素敵な空間で生きる人たちは、天使と言ってもよいだろう。

しかし、 「本当の言葉を紡いでいる」のは「僕」であり、皆ではない。「本当の扉を開けよう」と呼びかけているのも、「僕」以外の人たちはまだそこまで辿り着いていないということだろう。また、「いつか誰もが花を愛し歌を歌い、返事じゃない言葉を喋りだすのなら」と将来の仮定としていることからも、まだ多くの人は、日常に埋没して、奇跡的な空間に包まれているという事実に気がつかないまま過ごしていると言える。自分が天使であると気づいていないのだ。

冬の情景では、夜が多く言及される。「冷たい夜」「暗い道」、これらは人が人生の中で辛い境遇にあることを重ねているだろう。そして、夏と秋とは異なり、「~しよう」という呼びかけがたくさん使われている。「僕」は雪を振り払う木の枝をみて生命力を感じることができるよ、辛そうにしている皆も感じてごらんよ、「カモン!」というメッセージが込められているだろう。そして、次の最も印象的なフレーズへとつながっていく。

「神様を信じる強さを僕に、生きることを諦めてしまわぬように」

この部分は曲としても頂点になるように構成されている。しかしこの言葉、単純にきくと違和感を感じるのではないか。日本では、神様を信じる、信仰心を持つということは、心の強さというより、心の弱さの現われとして受け取られるものではなかろうか。以前雑誌の記事で、日本に住む外国人の話として、「日本で信仰を持っていることは、心が弱いと受け取られ、肩身の狭い思いをすることがある」というのを読んだことがある。辛いことがあって宗教に頼るのは「逃げ」と考える人も多いことであろう。

それでは、神様を信じない人は心が強いのかというと、どうだろう。日本では失業率と同様に自殺者数の統計も実際より望ましい状態に見えるように操作されているのは周知のとおりで、WHO基準でいうと年間10万人程度の人が自殺し、1日に約300人が生きることを諦めていることになる。神社にお参りに行っても、人生は一度きり、死の先にあるのは無、とみんな薄々勘付いている。お金、家族、現実的な支えがなくなれば、絶望は早くやってくることだろう。そこで奇跡を信じ、希望を失わず、踏ん張ることができるだろうか。日常の小さな出来事から超自然的なものを感じることは容易いが、信じることは容易くない。信じることができるのは、強さではないだろうか。

幸いなことに、今までに私自身はそこまで追い詰められたことはないが、将来そうなる可能性はある。身近な事柄から素敵なことを導き出そうと、こうしてブログを書いたりしているが、「感じる」を超えて「信じる」強さがあるかといえば、おそらくないであろう。だけど、せめて、自然の法則に身を委ね、誰かと本当の言葉を紡ぐ、そんな瞬間を味わうことができたら、どんなに素晴らしいことだろう。そんなことを願いながら、自分の前途に思いを馳せる。


【2010.4.21追記】リンク先削除のため差替えました


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風穴の施しよう

2009年06月15日 | essay
最近、児童ポルノ法改正の話が喧しい。日本ユニセフ協会が、児童の性的な姿態や虐待などを描写したアニメ、漫画、ゲーム、18歳以上が児童を演じるアダルトビデオなどを「準児童ポルノ」と定義し、これらを違法化することを訴えているとのことである。アニメ、漫画、ゲーム(映画や小説が対象外なのは何故)は創作物であり、表現の自由への規制である。表現の自由への規制は公権力の疑わしき恣意が働くものであり、また単純所持違法化となれば個人の私生活・プライバシーの根幹に侵入するものであることから、合憲性審査は厳格でなければならないし、合憲性の推定はされず、立法事実(規制根拠事実)は規制側が証明しなければならない。

そして規制根拠は何かというと、どうやら「架空であっても児童を性的対象として描写すると、結果として実在の子どもが性的対象として見られることにつながり、ひいては児童に対する性的虐待等の犯罪につながる危険がある」ということらしい。では現実にどの程度の危険があるのかというと、よくわからない、調査も大してしていない、という感じのようだ。表現の自由をその内容に着目して規制する場合には「明白かつ現在の危険」が存在することが必要であると考えられ、この様子では合憲的に規制を課す見込みはないと言ってよい。

このような原則論に対しては、次のような反論がされるかもしれない――児童の性的虐待の被害は深刻で重大である。この重大さに鑑みれば、因果関係が十分に証明されてない場合であっても、万一の被害を防止するために規制は必要である。このような論法は、予防原則というもので、皆さまに馴染みのある領域で提唱されたものだ。そう、地球温暖化対策に代表される環境分野である。二酸化炭素犯人仮説は十分に立証されたものではない、しかし仮に正しいと考えたとき、対策せずに放置すれば結果は取り返しのつかないことになる、だから万一に備えて対策を今行う必要がある。こういう感じだ。

この予防原則は、理由があやふやであるにも関わらず重大な法制度設計を実現する論理として働くものである。そして、地球温暖化を風穴として、さらに別の領域に広がった。ブッシュドクトリン、先制攻撃論である。イラクは大量破壊兵器を持っている可能性があるが、明らかではない。しかし、仮に持っていた場合に何もしなければ深刻な被害が生じるおそれがある。だから先んじて対策を打つ必要がある。結果はご存知の通り、大量破壊兵器は現実には存在せず、中東情勢は混沌を増すことになった。続いて、今まさに表現の自由をあやふやな理由で規制する動きへと広がっているのである。

私が大学の教養課程で受けた授業で、「私は訴える(Ich klage an)」というドイツの映画が紹介されたことがあった。ストーリーは、立派な社会的地位のある男性医師の妻がアルツハイマーに冒され、妻の求めに応じて安楽死を行い、自殺幇助で裁判にかけられる。裁判で医師は自殺幇助を禁じる法を訴えると主張する、という感じである。どことなく「半落ち」に似た設定で、極限的状況で命を問い涙を誘う筋書きである。しかし実はこの映画、ナチスによる安楽死合法化のプロパガンダとして制作されたものだという。誰が見ても同情するような素材で安楽死の是非を考えさせる機会を提供する。見た人は「一定の場合には安楽死も認めていいのではないか」と考えることになるだろう。ここに風穴が開いたのだ。その行き着いた先は、周知の通りである。

風穴は一見全く関係ないところで開くものである。しかし、それが大きくなったとき、深刻な事態を引き起こす場合がある。思考様式・論法・理由付け、それらがどこからきてるのか、どのように応用されるのか、応用される場合に事案の性質の違いを慎重に考慮しているのか、不断に問い続ける必要がある。予防原則から広がった理由なき規制強化は目に余るものがある。本来国民の自由を制限するというのは大変重大なことであり、その正当化のための理由付けには、決して怠慢は許されない。「外国もそう」「学問的調査もないけど直感的に危険でしょ」なんていい加減すぎる。大衆操作やロビイングに精を出す前に、合理的理由をしっかりと固めて欲しい。


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働かざる者

2009年06月15日 | essay
「働かざる者食うべからず」という言葉がある。元はキリスト教の言葉で日本にはなかったものであるが、現在では当然のように通用している。働きたくても働けない人はどうするんだ、というと、それは仕方のないことなので、きちんと生活保障が施される。また、働けないし働きたくもない人はどうなるのかというと、内心はよくわからないし、働けない境遇が意欲を削いでる面もあり、やはり仕方のないことなので、生活保障が施される。

では働けるのに働かない人はどうなるのかというと、上の言葉の通り「食うな」ということになる。食うなというのは、飢えて死んでもいい、ということでもある。これは現代の文明社会において辛すぎるものでなかろうか。働けるのに働かず、犯罪でも犯して生活しようという人は、三食職業訓練付の待遇を得ることができるのである。ただ働けるのに働かない人は、社会に直接の害悪をもたらす行為をしていないという点でもそれよりマシである。それなのに、飢えて死ね、とは行き過ぎではなかろうか。

現代は、近代的な合理主義・理性万能主義は批判され、周囲の環境や条件から個人の意思は影響を受けている、というのが常識となっている。犯罪があれば、個人の問題だけでは片付けず、どのようなものが影響を与えていたのかが追求される。最近では、明確な因果関係がないにも関わらず特定ジャンルのゲームやアニメが性犯罪に影響しているとして規制が叫ばれる程になり、個人の自律性や理性は徹底的に馬鹿にされ軽視されている。しかしそうであるならば、働かないことについても個人の責任だけに帰着されるべき問題ではないことになる。たいがい生育過程で社会性が身につかなかったといった事情があり、青少年保護のような「優しい」目線を向けるべきであり、これだけ自己責任で死ねというのは明らかに不均衡である。

このような話への問題点としては、ワーキング・プアの存在、すなわち、働く意思もあり実際働いている人が食うや食わざるやの境遇に置かれていることとの均衡がある。確かにそんな人がいるのに生活保障をするのは納得いかない、ということになるだろう。しかし、仮に働かなくても食にはありつけるようになれば、非人間的な低劣な労働条件を提供する仕事に人が集まらなくなり、よりよい条件を出さざるを得ず、利益の労働者分配率が上がり、ワーキング・プア解消につながることにならないか。むしろ働いても食うや食わざるやなら尚更働く意味がない、という流れを生まないか。

現代社会は「働かなければ飢えて死ぬ」という生命維持の危険を煽るのでなくては発展できないものなのだろうか。何かしないと社会的に認められない、娯楽が味わえない、幸せな家庭を築けない、こんなことでは人を動かすには不十分なのだろうか。人生は辛いというのは古来からの大前提であるが、社会の目的として人生の辛さをなくすことが追求されていいのではないか。このことに人類の英知がつぎ込まれないのはなぜなのだろうか。せめて「働かざる者飾るべからず」「働かざる者贅沢するべからず」という感じでいいのではないだろうか。


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2009年、夏、ドコモ

2009年06月14日 | ケータイ談義
今年の夏モデルは5月19日に発表され、今では店頭にも多くの機種が並んでいる。少し時期を逸してしまったが、個人的な感想を書いてみることにする。

一番はP-07A

フルブラウザ・ワンセグが広く普及し、携帯は従来の縦長画面に加え横長画面も使えることが必要になってきた。各社さまざまな機構を採用しているが、Pシリーズの横オープン機構が最も使いやすいと思う。卓上に開いたままで置くのが様になる。そして、メールについても横画面で利用する需要があることがわかってきたためか、P-01Aからキーを横開きでも使いやすいかたちにした。P-07Aはその改良版であるが、1ボタンでメール画面に移動できる、メール作成に全画面を使うことができるなど、格段に操作性が向上した。デザインもよくなったと言える。P-01Aは大して値下がりしていないので、P-07Aを選ぶのがいいだろう。

Pはワンセグ・音楽・カメラ・電池の持続といった基本機能も高い。不満はフォントがカッコ悪いことで、この点はFが一番であると思う。構造上逆ヒンジが避けられず、逆ヒンジは縦開きのとき画面の大きさを享受できず嫌いな人も多いが、我慢できる程度であろう。

Nは大丈夫かな

携帯不況の中、唯一シェアを伸ばしたNシリーズ。といっても、牽引したのはN905iμからN-02Aまでの薄型端末で、最上スペックのN-01Aはいまいち人気を得ていないようである。N-06Aはその後継機で、回転して横画面に変える機構を採用している。どんどん改良していこうという途上であるが、F-09Aという似たような端末が投入され、強敵登場、という感じである。また、夏モデルのその他の機種はインターネット上の製品画像をみると、「え、こんなデザインで大丈夫?」と言いたくなる感じであり、一見する限りではちょっと不安になる。

まずN-06AとF-09Aを比較してみると、気がつくのは縦画面にしたときの重量バランスである。Nはちゃんとユーザーの声を反映して画面側が重くならないように改良してあるが、F-09AはF-03Aと同様に画面側に重心があり重量バランスが悪いままだ。NはN703iμ→N704iμやN905iμ→N906iμ→N-02Aでのボタン周りの改良をみるとユーザーの感想を次の機種に即座に生かしていて好感が持てるが、Fは折りたたみ機種の開く角度の中途半端さはずっと変わらないし対応が遅いようにみえる。N-06Aは音楽等基本機能も高いので、ここはNに軍配を上げたい。

N-04Aがヒットした薄型スライド端末は後継機としてN-07Aが出ることになっている。N702iDで成功した佐藤氏とのコラボであるが、多くのユーザーはN-04Aのほうを買い続けるだろうと思う。ソフトバンクに投入した薄水色の端末を入れればよかったのに、というのが個人的な感想である。一方、薄型折りたたみ端末は、706i→N-03A系統と906iμ→N-02A系統の最大の相違点だった液晶がQVGAかVGAかの違いが解消され、カジュアルなN-08Aと大人っぽい質感のN-09Aというラインナップになった。N-08Aは特に悪いところはなく、レスポンスの悪さが解消されていればヒットするであろうが、N-09Aが左右非対称のデザインを採用したのはちょっとなーと思う。

携帯業界について

iPhone投入以降、タッチパネルを採用する端末が増えているが、個人的にはあまり好きではない。キーを置かないならわかるが、テンキーで十分軽快に操作できるし、Pのように一貫して採用しないほうが気持ちいい。採用するにしても、どうせなら指だけではなくニンテンドーDSみたいにミニペンも付属するようにしたほうが操作性が上がっていいのではないか。

携帯キャリアの業績の指標のひとつに新規純増数やMNP移行数がよく用いられているが、携帯の新規需要は一回りしてしまったし、MNPの数も全体の関係から微々たるもので、あまり参考にならないと思う。これらの指標が過度に喧伝されてしまうために新規・MNPが異常な安値になり既存ユーザーが不満を抱くことになるので、別の指標を出したらいいのではないか。個人的には、新規・機種変更関わらず機種の販売台数の統計を用いるのがいいと思う。機種別に整理すれば、格安端末で稼いでるとか、高機能機種が順調に売れているとか、より参考になる資料になると思う。

昔はソニエリがパネルを交換できる端末を投入し、ソフトバンクはPantoneケータイで多色展開をし、auはre:で筐体交換をして多様なデザインを楽しみたいという需要に答えてきたが、単純に携帯の塗装を公式サービスにすればいいのでは、と前から思っている。N703iDみたいに塗装しやすい端末について1万円程度の料金で購入者が自由に配色を決めることができたりしたらいいだろう。飽きが来なくなり同一端末を長く使えることにもなるし、キャリアも塗装料金を得るから損はしないし。

また、ドコモとソフトバンクはSIMカードを気軽に入れ替えて複数の端末を使い分けることができるのだから、「今使っている機種が壊れたから買い換える」ではなく「魅力的な機種が出たから買い増して今の機種と使い分けよう」という動機で購入するように展開したらいいと思う。使い分け前提なら「機能全部入り」の必要もなく(不幸にも機能特化機種はsportioやXminiなどauに多い)、端末開発の幅も広がり格安の端末も投入することができるのではないか。この流れは先に述べた機種の販売台数による業績評価にも合致するものだろう。


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最近のこと

2009年06月09日 | 日記
最近、生活リズムが狂っている。夜、3時4時にならないと眠れなくて、その結果、起きるのが10時~11時くらいになってしまう。昨日とか11時からの用事に遅れそうになって冷や汗をかき、早く直さないといけないなあと思っている。1日早めに起きて、いい時間になるまで眠るのを耐えるというのを繰り返せばいいのだろう。

このブログはもうすぐ4周年になるが、一昨日の日曜日に開設後初めてアクセスipが3桁(105だった)になった。個人的には、初見の人が気に入ってくれたら過去ログを読んで数時間使えるくらいには内容は蓄積されてきたのではと思うのだが、まだまだ改良されるべき部分は大きいだろう。gooブログのテンプレの多くは標準の文字の大きさが小さく、色も薄くて長文が読みにくいかもしれない。左に文字を大きくできるメニューがあるので面倒かもしれないけど使っていただけたら幸いである。また、更新をお休みしていた間コメントを承認制、トラックバックを受け取らない設定をしていたが、今では管理の余裕があるので、コメント開放、トラックバック承認制に設定を変えた。スパムが来るようになるまではこのようにしておこうと思っている。


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newsclip 足利事件その他

2009年06月07日 | 時事
1 「足利事件」捜査の元県警幹部ブログが炎上 「謝罪しろ」コメント殺到(ITmedia/2009.6.5)
「足利事件」で無罪が確定的となった菅家利和さんが釈放された6月4日、事件当時に捜査を陣頭指揮した元栃木県警幹部(75)のブログに批判コメントが殺到し、「炎上」状態になった。元幹部は昨年、菅家さんの再審請求が棄却された際、「最善の捜査を尽くしたもので、誤りでないことを再確認していただいた」などとブログで感想を述べ、これに対し批判コメントが集まっていた。現在、ブログは削除されている。

炎上したブログは、元幹部が退職後の日々をつづる内容。昨年2月13日付けの記事で、足利事件の再審請求を宇都宮地裁が棄却したことに触れ、「捜査に携わった者として、感慨無量であります。当時として、最高、最善の捜査を尽くしたものであり、誤りでないことを再確認していただいたものと思っております」などと棄却を歓迎する感想を記し、新聞記事を複製した画像も掲載した。このブログ記事に対し、「謝罪すべきだ」「自白強要が最高最善の捜査なのか」「人の人生をメチャメチャにした責任を取れ」といったコメントが1000件以上殺到。現在、ブログは削除され、閲覧できない状態になっている。

今回の炎上事件は、司法関係者個人に対しても冤罪を生んだことへの社会の批判が強いということが明らかになったことで、司法に携わる者の意識を改めて正すきっかけになるのではないかと思う。公務員は国家賠償法上、直接請求の当事者になることもなく、法的な責任追及はされにくい存在であるが、社会の目線はそういうわけにはいかない。自分も模擬裁判で検察官役をやったことがあるが、勝ち負けの意識があり、弁護側に負けたくないという意識が強くなってしまった。裁判の目的は自分の勝ち負けではないということを忘れてはいけないと思う。事件の経緯をみると、第一審の弁護人も相当ひどい弁護活動をしている。自白事件ね、情状弁護ね、と安易に考えてはいけないと肝に命じなくてはならない。

ところで、炎上したブログはgooブログを利用していた。今回の経緯をみると、gooブログは炎上対策にはなかなか難しい感じがした。(1)はてなダイアリーのように一括してプライベートモードにすることはできず、各カテゴリの設定を非公開にする必要があること、(2)ブログを削除しても画像ファイルは当然には消えないこと、(3)メールアドレスのIDとブログIDが共通しており、ブログを削除してもアカウント削除しない限りブログID@mail.goo.ne.jp宛に批判コメントが続く可能性があること、が具体的に挙げられる。gooあしあとも相手のログを消せない仕様になっており、炎上を記録するブログである炎上blogにブログ主があしあとを残していて(参照・moririn317さん)、何だか涙を誘う。逃げずに真摯に対応することが一番の炎上対策というのが本当のところであろうが、しばらく間をおかないと冷静に判断できないものだ。

2 「米軍違憲」破棄へ圧力 砂川事件、公文書で判明(共同通信/2008.4.29)
米軍の旧立川基地の拡張計画に絡む「砂川事件」をめぐり、1959年3月に出された「米軍駐留は憲法違反」との東京地裁判決(伊達判決)に衝撃を受けたマッカーサー駐日米大使(当時、以下同)が、同判決の破棄を狙って藤山愛一郎外相に最高裁への「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談するなど露骨な介入を行っていたことが29日、機密指定を解除された米公文書から分かった。

「米軍駐留違憲判決」を受け、米政府が破棄へ向けた秘密工作を進めていた真相が初めて明らかになった。内政干渉の疑いが色濃く、当時のいびつな日米関係の内実を示している。最高裁はこの後、審理を行い、同年12月16日に1審判決を破棄、差し戻す判決を下した。公文書は日米関係史を長年研究する専門家の新原昭治氏が今月、米国立公文書館で発見した。

一年以上前の記事であるが、知らなかった自分へ反省を込めて取り上げる。司法権の独立が問題となった事例としては、浦和事件・平賀書簡事件が有名であるが、特殊な時代背景があったはいえ、砂川事件最高裁判決にもこのような事情があったということはもっと強調されてよいであろう。また、こういう重大な事実が日本からではなく外国から出てくるというのは少し情けない感じがする。

3 弱る太陽 活動200年ぶりの低水準(朝日新聞/2009.6.1)
太陽の活動が200年ぶりの低水準にまで落ち込んでいる。これまでのパターンだと再来年には活動の極大期を迎えるはずなのに、活発さの指標となる黒点がほとんど現れない。研究者も「このままだと地球はミニ氷河期に入る可能性がある」と慌て始めた。(中略)

太陽活動には数百年周期の変動も知られる。17~18世紀には約70年間、黒点がほぼ消え、欧州では英国のテムズ川が凍るなど「ミニ氷河期」に陥った。東京大宇宙線研究所の宮原ひろ子特任助教は「ここ1千年でも活動の極小期が5回あり、前回が1800年ごろ。歴史的には、そろそろ次の極小期に入ってもおかしくない」と指摘する。国立天文台の常田佐久教授は「X線や光も弱まっている。今後、再び黒点が増えても、従来のような活発さになると考える太陽研究者は少ない」と話す。

私は買い物に空のバッグを持っていきレジ袋を断ることもあるが、不必要なものを使うのは勿体ないなという感覚でしているだけで、地球温暖化について個人的には否定的な考えをもっている。といっても専門ではないので説得力のある理由はもっておらず、いまの4倍以上の二酸化炭素濃度だった時代でも恐竜が闊歩して生物が繁栄していたのだし、地球全部が海に覆われていたわけでもなし、という感じである。寒冷化は温暖化以上に人類に悪影響であり、とくに食糧危機が起こると日本にとって致命的である。

高校生のころ「沈黙の春」や「奪われし未来」に接して大学1年に環境系の授業を多くとったのだが、公害のような人体に直接害のある問題は解決の枠組みはほぼ完成されていてこの分野には将来性はないだろうなーと直感し、人に優しくするのが先だろうと労働や社会保障に興味をもった。今のところどちらも喫緊の政策課題になっているが、すでにIPCCの将来気温予測から実測値は大きく下回っており気温低下の傾向が当分続く根拠も見えているのだから、やっぱり人に優しくするほうがいいと思う。

【6月27日追記】「gooあしあと」は一度つけた足あとを後から消すことができるとのことです。訂正します。


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教えてgooで人生相談

2009年06月05日 | 創作
「今週妻が浮気します」という本やドラマが一時期話題になったが、これは教えてgooというインターネット上の質問コミュニティ上で実際相談されたものがメディア化されたものだ。自分はあまり利用していないのだが、日本全国の様々な経歴を持った方々がある相談事について考えてアドバイスをする、これは実用的な意味を超えて、新しい創作物の形成過程としても役立ちうるものだと思う。ある題材について一人で考えるよりも、より深みのあるものが出来上がる可能性があるからだ。

個人的には、以下のような架空の人生相談をしてみたいな、なんて思う。しかし教えてgooは現実の相談事を対象とするものであるし、真摯で丁寧な回答を勝手に創作に使うというのは不誠実極まりないことである。公式の企画として「もしこんな相談があったら、どうアドバイスしますか!?」みたいなものがあったらいいな、と思う。

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夫と昔の彼女。どうしたらいいのかわかりません。(長文です)

私は結婚して5年目になる専業主婦です。東京で暮らしています。夫とは職場で知り合いました。夫の仕事も順調で、4歳の男の子と2歳の女の子がいるのですが、積極的に育児にも参加してくれて、幸せだなーと感じながら毎日過ごしていました。

ところが先日、家計を確認していたところ、夫の通帳から決まって毎月3万円が引き出されているのを見つけてしまいました。小さくない額だし、用途に思い当たる節がなかったので、その日の夕食時、気軽に尋ねてみたところ、夫はなかなか答えてくれません。もしやキャバクラや風俗につぎ込んでいるのかもしれないと不審に思い、問い詰めました。すると、昔の彼女に仕送りをしていると教えてくれました。

詳しく話をきくと、夫とその彼女とは私が知り合う前、学生時代に付き合っていたのですが、大きな病気をして子供が産めなくなってしまったそうです。彼女は夫の将来のことを思って別れると申し出、夫は説得したのですが意志は固く、別れることになったそうです。その際、彼女が生活に困るようなことがあったら支えると約束したそうです。彼女は今も九州の実家で療養を続けていて、十分に働けないため生活が苦しいということで、毎月仕送りをしている、ということでした。

夫はたまに電話をするくらいで長いこと会ってはいないと言っていて、場所も離れていることですし、浮気ということはないと思います。仕送りの額も、格別私と子供の今の生活が苦しくなるというわけではありません。彼女のことは、結婚する前、夫の学生時代のサークルの集合写真で仲良さそうにしているところが写っているのをみて、ちょっと私に似た雰囲気があって、「こんなのがタイプなのねー」なんて笑ったことがありました。そのときはそんな事情があったとは全く知りませんでした。

夫は今までと変わりません。仕事で疲れていても子供と遊んでくれますし、私のこともよく気遣ってくれます。しかしこんな話をきいた後では、昔の彼女とのことがあったからこそ無理して家族を大事にしようとしているのではないか、私は子供が産めるというだけで昔の彼女の代用なんじゃないか、子供も私との子供じゃなくて昔の彼女との子供と思って接しているんじゃないか、とか変な考えが浮かんできてしまいます。また、夫のために身を引き苦しい生活をしてる彼女のことを考えるとやりきれない気持ちになります。家事が手につきません。どうやって気持ちの整理をしたらいいのでしょうか。

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現実にこういうことがあったら、心が痛みますね。


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靖国訴訟について

2009年06月02日 | 時事
小泉政権時代には、靖国参拝が外交問題として大きく取り上げられた。これは単に外交問題だけではなく、法律学においても憲法20条3項の政教分離違反ではないかが問題となるものである。実際に多数の訴訟が提起されている。しかし、請求を認めた裁判例は存在していない。

なぜ請求が認められないかというと、裁判所は原則として具体的な権利が侵害された場合でなければ救済を行わず、仮に違法行為があったとしても原告の権利が侵害されてないならば請求棄却となるからである。小泉参拝に関する最高裁判決(最判平成18年6月23日判時1940号122頁)も、「他人が特定の神社に参拝することによって、自己の信条ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益としてただちに損害賠償を求めることはできない」として、参拝行為が政教分離に違反するか検討することなく請求を棄却している。

下級審裁判例では、審理で争点になったことに鑑みて政教分離違反かどうか検討したものがあり、その中で違反であると明言したものもある。しかし、これは「傍論」として判決の結論には関わりがなく法的な意義としては薄いものとなる上、国の側は全部勝訴判決であるため不服申し立てをすることができず当該判断を更に争うチャンスがなく不公平な事態を招くものである。実際、大阪高裁で出された違憲判断について原告側は上訴せず当該判決を確定させ、「高裁判決を無視するのか」という利用の仕方をしていた。

このように法律的に複雑な問題があるのだが、仮に靖国参拝を地方自治体の長が行った場合、話が異なってくる。地方自治法上の制度として住民訴訟があり、権利侵害がなくとも争うことができるのである。最高裁も、愛媛県が靖国神社の例大祭に際して玉串料を支出した行為について明確に政教分離違反の判断をしている(最判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)。もっとも、住民訴訟は財務会計上の行為を争うものであり、公金支出がなければ用いることができず、万能ではない。石原東京都知事は毎年参拝をしているようであるが、私が調べる限り住民訴訟が提起されていないところをみると、争われないように公金支出をしていないと思われる(こういう点について明確にしたニュース記事がない)。

地方公務員なら裁判所で違法かどうか判断されるのに国家公務員なら判断されないといった状況はアンバランスのようにも思えるが、それが現在の制度の仕組みであり、その変更は容易くない。しかし現在の制度を前提として、地方レベルでならば争うことができる、と視点を変えて事件を作ることができるのではないだろうか。すなわち、どこかの自治体の長に「敬愛する○○首相に倣います!」と言って首相と全く同じ態様と方法で靖国参拝をしてもらうのである。過去に靖国参拝をした中曽根元首相は3万円の公金支出をしており、小泉元首相は公用車を利用していたというから、裁判所は憲法判断から逃げられないであろう。違憲判断が出れば、「自治体の長ですら違憲なのだから首相などなおさら」という批判ができる。参拝は信条に関わるもので容易に協力してくれる首長は現れないだろうし裁判所に対して不誠実であることは確かであり、現実に行われるということはないであろうが、裁判所がどのように判断するか興味がある。

靖国参拝というと、戦没者の慰霊の仕方や外交問題といった法律論とは別の議論が入ってきて錯綜してしまうのが常である。日本では習俗を超えて明確な宗教意識をもつ人は少なく政教分離の話について意義を見出しがたいようにもみえるが、国家が特定の宗教との係わり合いを断ち中立的になることで、それまで明け暮れていた宗教対立・紛争をひとまず措き、社会・経済の発展に寄与した世界史的な発明とも言える原則である。今でも宗教と政治権力が結びつき宗教を理由とした争いが絶えず停滞している国をみると、その重要さが見出されるように思う。また、多様な価値観をもつ人が社会を構成している中、少数になってしまう人でも肩身の狭い思いをせずその人らしく生きるためにも重要なものである。靖国訴訟のニュースをみるときは、裁判ではこういうことが争われているのだということを頭に留めておいてほしい。


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