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順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
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過去記事からのおすすめ
エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

今年1年を振り返る

2005年12月31日 | 未分類
前半はいつになく上り坂。大学の期末など試験が好結果。大学の演習やサークルにも希望に満ちていた。後半はいつになく下り坂。書くのはよそう。思えば7月から始めたこのブログは下り坂での自己確認と弁護のために書いていた。健康状態は一年を通じて良、風邪はひいていない。

ここで、これまでのブログの記事でいいと思ったものを特集。

まずメインである「日想」というカテゴリー。
太陽とスクランブル…なかなかいい例え話だと思う。後々使えそう。
テレパシー…ネット上の誹謗中傷への心構え。
臥薪嘗胆…後々使えそう。

続いて、日記系の記事。
選挙雑感…コメントないのが寂しかった。
レッドスター…また自転車で遠出しようかな。
賢い動物たち…ささやかだけど貴重な体験。

「ひとこと」はこれ。
晩夏の大合唱

紹介記事。これは個性を出すには思い出を交えることが必要。
「炭茶」…今でもときどき見かけます。
QUEEN…今では若年世代でもメジャーになったかな。
ドラゴンクエスト6…思い出も多かった。

トラックバック練習板の話題はあまりよく書けなかった。

来年もよろしくお願いいたします。
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学校と塾と

2005年12月30日 | essay
私が小学生のころ中学受験をしたのだが、幸運だったなと思うことがある。それは、小学校の同級生で同じ塾に通う人がいなかったことだ。片道370円かけて遠いところまで通っていたためである。このおかげで、塾での出来事と小学校での出来事を完全に切り離すことができた。塾で成績が良かろうと悪かろうと、小学校で気にすることはなかった。他の生徒は月曜日教室で前日の塾のテストが良かったとか悪かったとかが話になり、顔色を見て悪かったんだなとわかったりした。

私は中学・高校もクラスメイトが大勢通うところではない塾に行ったので、以前と同じ環境を享受できた。そのぶん普段手の内を見せないことになるのでどことなく怖いイメージがついてしまったかもしれないが、学校>塾という優先順位でやっていたに過ぎない。だから学校外でやっていることに自信がない。

こうして染み付いた習慣からか、大学では司法試験の話題を極端に避けているし、話題にすることが怖い。ブログでも滅多に書かない。「択一どうだった?」「論文受けるなら大学来てる場合じゃないんじゃない?」「論証パターン○番で質問があるのだけど」といった問いかけに対しては有耶無耶で答えにならない答えをしてしまっている。結果としては話題に困ることになり気まずくなることが多い。本来なら酒を飲みながら腹を割って話すべきことなのだろうけど、ここらへんの線引きが周囲と大きく異なるのでたびたび辛い思いをした。
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生活雑感

2005年12月29日 | 未分類
今月はブログ更新を頻繁に行っている。今年1年「草稿中」として公開をためらっていた記事を完成させて出しているので、キワドイ話題が少し目に付く。31日には総まとめでもしてみよう。論文試験後7月後半からはじめて記事は150件ほど。最初に書いたころのほうがやはり背後に気概を感じさせる。

他人からどうみられているのかよくわからないが(「無関心」が正解なのだが)こうして意見や雑感を文章にまとめてみる作業というのは、自分の個性を形作っていくことでもある。教科書に書いてあることというのは前提であって、どのように今の社会をみているかという生活雑感が新しい視点の材料となる。インターネットでは建前で装う以前のナマの感情が出ていることも多く、見るほうも書くほうも知らず知らずのうちに得ているものが大きい。

発信という面からすればコメントを受け付けなかったりカドが立つのを避けようと下手に出たりとある意味公共空間での責任をとらない姿勢があるのだが、これは知人も見ているため発言が実生活にも影響しかねないという事情があるためでもある。微妙なスタンスだが細々とこれからもやっていきたい。
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平和賞へのパフォーマンス

2005年12月28日 | 時事
一般的に、家では威張り散らしている父親も、仕事では自分を抑えて頭を下げ、必死になって働いている。プライドを殺してまで守るものは家族との生活いうわけで、こういう話は多くの人が体験する美談のひとつだ。父のメンツのために家族に死ねとは言えない。

竹島問題がある。事実関係はリンク先のwikipediaの記事を。厄介な問題だが、実効支配を許している点で日本に形勢不利と言えよう。時効に近いかたちで、歴史的正当性は言い出したらキリがないということで事実状態の継続が尊重されてしまう。領土問題はお互いの国のメンツがかかっているので両者とも一歩も引けない。民主主義で政府が国民に対して責任を負っている場合は尚更だ。「ズルズルと引きのばす」が解になるのだろう。

竹島の経済的価値は専ら漁業関係である。しかし韓国にしてみれば竹島を保持していることに目的が行っていて(独島は我が領土~とかね)漁業権を失ったとしても大して反対は起きない気がする。日本が実効支配を認めれば大喜びするだろう。一方、日本にしてみれば領有権はなくても漁業権が得られれば現状より多くの利益を得ることになる。日本のほうが現実思考が強いだろうから、一定の支持が得られるだろう。もし妥協するとしたらここが落としどころだろう。

このような厄介な問題でもし現状を打開しようとするならば、両国民を納得させる論理が必要だ。ここで冷めた現実的な論理が広範な支持を得にくいことは先の選挙でもわかることで、感情に訴えかける論理で偽装させなければならない。そのひとつとして、「危機」の状況が必要だと思う。緊張緩和は危機の後に生じやすく、キューバ危機後の米ソ関係や、スマトラ地震でアチェ独立闘争が休戦になっていることからも観察できる。危機下「国民の生命」との天秤をかけさせることで現実的な折り合いをつけることができるのではないか。もし成功させれば領土問題解決のモデルとなり両国とも国際的名声を高めることが出来そう…かな?首相・大統領はノーベル平和賞まっしぐらだ。

(勝手な想像)
18歳(実名を公表させないため)の日本人青年2人が竹島に無断上陸→韓国の警備隊が逮捕→日本政府、身柄の引渡しを求めるが韓国側が拒否→海上保安庁・海上自衛隊が出動し竹島近海で待機→韓国軍も出動準備→両国中大騒ぎ。ネットでは大舌戦勃発→両国首脳シンガポールで緊急会談→「国のメンツのために国民に死ねとは言えない」両国民の生命を守る・戦争回避を大上段に、日本は韓国の実効支配状態を尊重・韓国は日本の漁業利用の尊重を約束、日本人青年の身柄引き渡し→竹島に日韓友好の碑でも作る
 ↑
もちろんこれは事前から計画されていた出来レース、ということで。といっても世論を説得させるために考えたものであるから、実現させるためには両国政府が安定した政権基盤をもち政府間で信頼関係が築かれていなければならない。今はとてもそんな状態にありませんね。
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ローファーム―法律事務所

2005年12月27日 | 紹介




韓流ドラマ。いちばんいい紹介サイトはこちら

ジョン・ヨンウン(ソン・スンホン)
研修所では首席だったが、海兵隊出身で喧嘩が強く正義感のまま突っ走り、サラ金業者と腕っ節で渡り合って裁判にかけられることも。法律を無視する傾向あるが、人間面で色々な人に気に入られる。事務所を飛び出し個性的な仲間と「法村」なる合同事務所を立ち上げる。お金にならない仕事も引き受けてしまう。恋愛に関しては中学レベル。研修所時代の恋人が忘れられず事務所の同僚の好意に応えられない。

パク・ジョンア(キム・ジホ)
法律扶助公団で働いていた庶民派弁護士。借金苦の人にポケットマネーで供託資金を提供したり、路頭に迷う少女を家にかくまって事務員として採用するなどヨンウンの正義感と共通するところがある。面倒見のいい姉さん肌。法学部でもなかったがヨンウンに憧れて司法試験受験。恋愛に関しては中学レベル。ずっと想っていたのに何も言い出せない。ユン弁護士のあからさまな対抗意識を受け応じざるを得なくなっていく。

ユン・ジン(ソ・ジョン)
ライバルの韓国最大手の法律事務所代表の娘。研修終了後フラフラと遊んでいたがヨンウンの事務所立ち上げに際して参加する。恋愛に関しては怖い大人。ヨンウンへの好意とジョンアに対する敵意むきだしで事務所を引っ掻き回し雰囲気を悪くする。ヨンウンの親に取り入るなど計算高い。気分で二重スパイ的活動をする。

チェ・ジャングン(ソ・ジソプ)
若く有能でほとんど負けたことがないがカネが第一で生意気な弁護士。所属事務所に法外な報酬を要求し追い出されたところにヨンウンに誘われ参加。話が進むにつれ人間性に目覚めていく。ヤクザのボスとのやりとりは笑える。

ハン・トンニョン(ビョン・ウミン)
韓国一優しく韓国一無能な弁護士。法廷で弁論できないほど口下手。8回受験して弁護士になった。セクハラ訴訟で表に立つことになり、口下手を克服し自信を持つことが出来るか。事務長がよき理解者としてサポートしてくれる。

この個性的で若い5人がトラブル続きながらも事務所を軌道に乗せるために努力する姿が描かれる。失敗続きで財政が成り立つのか?といった突っ込みは置いておいて、韓国ドラマ定番の不治の病と交通事故がなく、設定が皆弁護士ということで良識をわきまえた行動をするので抵抗なく見れると思う。事務所の入り口にテミス像が飾ってあるところが乙。韓流ドラマは、みんな一人前の大人なのに恋愛に関しては素人ばかりなところが微笑ましい。

比較法においてはアメリカ・ドイツ・フランスをみていくのが通常だが、西洋法の継受のプロセスをみていくにはアジア諸国をみてみるのもいいかもしれない。現に行政法では韓国法・中国法との連携も図られているらしく、塩野教科書の巻末をみてみればこれらの国で翻訳が出ていることがわかる。
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ズッコケ3人組も中年になっていた

2005年12月26日 | 紹介
きょう書店に足を運んだのだが、こんな本をみつけた。あー懐かしい!私もズッコケ世代である。シリーズ中盤くらいの時期だろう。卒業式でシリーズが終了したとは知らなかった。そんな昔のズッコケ3人組で育った大人たち向けに書かれた本。値段も1千円と手ごろ。買おうと思ったが、穴馬にお金を使ったのでやめておいた。

ここで、私が読んだ中でのベスト3を勝手に挙げてみる。

1位:うわさのズッコケ株式会社
文庫版で購入した。周囲に店のない漁港で釣り人相手に飲食物を売ってみる、という企画を思いつきクラスの皆で「株式会社形式」で資金を集めて取り組んでみる。最後は学園祭でラーメンを出品。小学生が知恵を出し合ってひとつ事業をしてみよう、というのは微笑ましいし面白い。クラスの面々が多く登場するのでそこもよかった。

2位:謎のズッコケ海賊島
シリーズでいちばん最初に手にした作品。小学校の図書館で借りた。冒険モノ。これにひきこまれなかったらこのシリーズを読むことはなかったというわけで、貴重な一冊。

3位:ズッコケ3人組の未来報告
これは家族で書店に行ったとき(まだ府中駅が改装工事中だった)ハードカバーで購入した。3人とも30歳くらいになったときの夢をみて、クラスのみんなで同窓会をする。覆面アーティストとなっていた同級生との話がメイン。将来幼馴染の誰と結婚してるか、どんな仕事をしているか、小学生のころぼんやりと考えそうなことにマッチ。

小学生が読む本といえば、私のころではズッコケ、アガサクリスティや怪盗ルパン、あとは歴史マンガというのが相場だった。小学校の図書室に歴史以外で唯一おいてあったマンガが「はだしのゲン」で、マンガだから読むけど刺激が強いものだったのを思い出す。
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有馬記念

2005年12月25日 | 日記
盛り上がり方がクリスマスをしのぐ日本のお祭りなので、もっと面白くみようと初めて勝馬投票権なるものを買ってみた。三連単と三連複の違いとかわからない素人だが、ビギナーズラックというし、今日の夢で青帽子の青鹿毛の馬が優勝してるのが出てきたので正夢なるか、ということで。

テクテクと東京競馬場へ歩いていき、券売機へ。初めて競馬場に入ったが(20年も近くに住んでるのに…)、競馬博物館、子供の遊び場など整備が進んでいて、アルコールとタバコのイメージと違ってこざっぱりとした中身に驚いた。でも券売機のところは酷いね…タバコの煙が苦手な私には辛かった。

ということで、夢に出てきた通り4枠8番グラスボンバーを買ってみたのだが、結果はハーツクライ―ディプインパクトの妥当な着順。そういえば先週は大荒れだったから今週は荒れないか。
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おとなしいアメリカ人

2005年12月24日 | 紹介
手を抜いて以前HPで書いたものからサルベージ。2004年12月14日のもの。
グレアム・グリーン『おとなしいアメリカ人』早川書房

国際政治の授業で触れられたこの本を手にしてみた。舞台はインドシナ戦争。イギリス人の報道記者を語り手として物語は進む。実直そのもので(「フェアな」恋争いは笑わせる)著名な学者の主張を実践しようとするアメリカ経済使節団の若者。無邪気さが他人を傷つけることを実にシニカルに描きながらも、物語の中心はあくまでも「誰にも与しない」を貫く「reporter≠correspondent」の姿勢をとるイギリス人主人公の変化であると思う。時間を前後して書かれていて読みにくいな、と思いつつも第四部である種のどんでん返し(告白)があり、この構成に納得した。
これを思い出したのは、同じ先生の別の授業で再びこの小説が推薦されたことによる。背景に歴史的事実があり、エドワード・ランズデールをアメリカ人のモデルに用いている。本当によくできた小説というものは、時代の空気を読み取り斬新な視点で切って、その底にある人間的な奥深さも加味して、設定した架空の人物たちにそれを語らせる。この間接的な示唆は作るのも読み取るのも一筋縄ではいかない作業だ。自分でも生涯続く勉強の総まとめとしていつか作りたい。



(2006年3月28日追記)
PCを探ってたらまた別に書いた感想文をみつけたのでアップしておく。
国際政治の授業でこの小説は紹介されました。それは、アメリカ人が第二次世界大戦後の世界で発展途上国に対してどのように接していたかを感じるにはいい素材だ、ということでした。実際、amazonのカスタマーレヴューを見ても、いかにアメリカが無邪気に傲慢か、という内容が書かれています。
 物語の舞台はインドシナ戦争。イギリス人の報道記者ファラウアを語り手として物語は進みます。「おとなしいアメリカ人」とは、彼の「親友」であるアメリカ経済使節団の若者であるパイル。彼は実直そのものでヨーク・ハーディングという(架空の)著名な学者の主張をベトナムにおいて実践しようと活動します。無邪気さが他人を傷つけることが、実にシニカルに描かれています。パイルはファラウアの愛人フウオング(ベトナム人)に一目ぼれし、「フェアに」恋争いをすると宣言。パイルは、言葉が通じないのでファラウアに通訳してもらいながらフウオングにプロポーズをします。この情景はいかにも奇妙で笑ってしまうでしょう。パイルはファラウアを「親友」と呼びかけますがファラウアは心の中で冷笑しています。
 しかし、物語の中心はこのようなアメリカ批判ではないと自分は思いました。ただアメリカ人批判をするだけならば不必要と言える話が入っているように思います。ファラウアは「誰にも与しない」を貫き、reporterであってcorrespondentではない、との姿勢をとっていました。政府に操作された情報だろうと自分の主張なんて入れずにそのまま本社へ。ところが、「完全な中立なんてありえない。激情に駆られいつか必ずどちらかに与することになる」という作品中の言葉通り、結局彼はパイルの行動に対し激情を抱いてしまいます。このような主人公の変化が物語の中心だと思うのです。
 最初パイルの死から始まり、回想、捜査官とのやりとり、など時間を前後して話が展開。読みにくいと思っていましたが、最後にこの構成を納得させる衝撃的な展開が待っていて、感服しました。
 最後に、印象に残ったところを。「名前も知らないようなどこかの学者の話を展開することで相手に自分が傲慢に映っているのではないか、と心配する彼が気に入った」というファラウアの台詞。学歴にも共通するところがありますよね。ヘタに隠してもひけらかしても自分の価値観をさらけ出すことになり微妙で難しい問題です。
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なぎさMe公認

2005年12月23日 | 紹介
陸上競技を扱った青春マンガの部類かな、うん、中学生にはぴったりだね、というマンガ。教室に積んであったサンデーから読んでいた。在庫切れで最終巻を読んでいない状態。これだとやりきれないのでクピドの大ヒットをきっかけに再販だの文庫化だのしてほしい。以下記憶を頼りに少々ネタバレしつつ紹介。

1・2巻:死んだ兄の壁を超えるためのリレー
高校生、男主人公・雅斗には世紀の天才ランナーだった兄がいた。兄は交通事故で亡くなってしまったのだが、兄弟最後のレースは全中決勝のリレーで雅斗がバトンを落として失格、コンプレックスになってリレーを走れない状態だった。そこへ上京してきた超天然天才娘なぎさが、事情を知らず雅斗を無理やりリレーに出させてしまい、彼は兄のライバルだった黛などと摩擦を繰り返しながら最後は大会のリレーで勝利を収め、ひとつ克服する、という流れ。

3~8巻:高校1年夏の大会
雅斗は地区予選で敗退。コーチから兄とは違う種目へと転向を勧められる。一方なぎさはハチャメチャなレースで快進撃。コンディション管理など無縁で、雅斗と仲良くできれば調子がよくなるという単純構造。「1レース勝つごとにキスを1回」という恥ずかしい約束はこのころ(結局したのは1回だけ)。これは久米田マンガで散々ネタにされた。なぎさのライバルで、これまた優秀なランナーである兄をもつ宮里リエが、自分と境遇の似た雅斗に惹かれ、こちらの方面でもバトル。

9~12?巻:インターハイ後ロードレースまで
800メートルに転向した雅斗。合宿などで試行錯誤。一方才能だけでインターハイ優勝したなぎさが、自分が無邪気に走りすぎることで雅斗にプレッシャーを与えてしまっていないか、と感じてスランプに、走れなくなる。国体を辞退するに至ったが、県のロードレースで雅斗が態度をはっきりさせ、わだかまりが消える。

13?~:高校2年夏の大会・国体
なぎさは勝ちまくりで国際大会でも勝利。2人の仲もいい関係。雅斗も800メートルで結果を出すが、レースでの転倒の経験が身体に染み付いてしまい、ハンデを負ってしまう。一方なぎさの将来性を期待した学校が恋愛は不要と判断、ふたりを引き離そうとするが、なぎさは反発、国体を最後に陸上をやめると言い出すが…

この先は読んでない。ストーリーは王道。雑誌中での位置づけはいつ読んでもそれなりに面白い安定作品。当時はあの表紙のマンガを買うことすら恥ずかしいものだった(今買うにしても恥ずかしいけどね)。紹介される陸上の駆け引きテクニックは体育祭でも使いましたよしかも成功しましたよ(300Mのリレーだった)、そんな若い時代。ところでこのマンガのタイトルの元ネタは何なのだろう。
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そろそろ…

2005年12月21日 | essay
大学生といえば家庭教師や塾講師というのが定番アルバイトだが、私はこれに手を出す自信がなかった。自分が中高~大学受験と、1から積み上げるやり方をしておらず、試験前までは興味の向くまま関連する本を読んだり深く知りたいことを検討してみたりとなあなあで過ごし、最後に試験の問題形式に合わせて知識を整理しておく、という感じであった。集めた参考書も無秩序だし、英単語帳を貫徹したこともない。そのため、人に教えられることはないんじゃないか、と思っていた。

しかし「どうしても…」と頼まれ近所の中学生を何度かみたときは、大変満足してくれた。学生講師は1から100まで教えることは期待されておらず、一番期待されているのは年齢の近い存在で勉強の習慣など姿をみせることなのだ、ということを薄々感じた。また、話してみると記憶の彼方にあった解法などが懐かしいくらいに出てくるので、一通り考えたあとはやってみることが大事なのだな、と当たり前のことも感じる。

法学の勉強も、今は図書館で憲法学の方法なんちゃらと授業とは無縁の本を借りては眺めているのだが、そろそろ学部試験・司法試験も近くなってきて、それに向けて整理し、足りないところを補強していく時期になってきた。今日は無料の択一テストを受け、7ヶ月ぶりの択一を解き、来年度のスタートの位置を確認してみた。前と大して変わらなかった。ブランクが関係なかったというべきか、成長してないというべきか。
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ルールはルール

2005年12月20日 | 時事
きょうの話題は流動的な事実関係で認識に誤りがあるかもしれないので予めご了承を。

フィギュアスケート、浅田真央可愛い。無邪気なところとか、あれで内面は強かかもしれないけど、楽しさが観るほうにも伝わってくる。これが大事。安藤は失敗を恐れている感じで訴えかけるものがないように思う。

今、特例を認めるように働きかけるべきか否か、ということが盛んに議論されている。会長がイタリア選手をメダリストにしたいだとか、強化部長が自分の教え子だけを出させたいとか、スポンサーがついてる選手が出てもらわなくちゃ困るだとか、出来レースと言えそうなくらい様々な思惑が絡まっている。金と人気が集まる世界はこうもドロドロしているものか。これについて思うのは、仮にもスポーツを名乗るならガチンコの実力勝負だけで筋を通すべき、ということ。できないのならシナリオ付きのショーになったほうがいい。

今日は「アクセス」でもこの問題が取り上げられたようだ。ネットの意見投稿をざっとみると「働きかけなくていい」が過半数。理由は「真央も別に出場したがってない」「4年後を期待」、あとは「ルールはルール」というものだ。一度決めておいたものをひとりのために曲げるのはよくない、ルールじゃない、ということだろう。ここで捻くれ者の私が思うには「今から働きかけて臨時の理事会で変更が認められて特例が復活するようになれば出場できるかもしれない、というのがルール変更のルール」なんだよね。ならそのルールに則ってやってみりゃいいじゃない?

順法精神豊かなのも結構なことだが、法は守るものであると同時に作るものでもある。国際法の授業で、日本は経済力も大きく国際法を作るほうでも積極的に役割を果たしていくことが期待されているのに、どうも国際法を所与のものと捉える傾向が強い、ときいたのを思い出した。フィギュアだって、これだけ有力選手がいるのだから、もっとガツガツとルール作りに発言したっていいはずだ。世界から白い目で見られる、と思うかもしれないが、自国の利益をきちんと主張するのがむしろ世界標準だろう。ヨーロッパなど自国有利にどれだけルールをしれっと変更してきたことか(特にスキーのジャンプ・クロスカントリー)。何もしないと白人有利に改正されていくのを黙ってみてるだけになる。法と闘争は切っても切り離せない。
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太陽とスクランブル

2005年12月19日 | 時事
NHKの受信料未払いの家庭に対して放送スクランブルをかけて観れないようにする、ということが検討されているようだ。技術の進歩は目覚しい。

同じ天から降り注ぐものでも、電波と違って太陽の光は当分誰でも欲せば触れることができるだろう。例えば、太陽に向かって両手を挙げさせてみて、腕を組んだ人や後ろを向いた人、座り込んだ人がいたとしよう。両手を挙げた人は違う行動をした人に、お前は光に当たる資格はない、日陰にいろ、と言うかもしれない。でも太陽そのものは朝になれば決まって相手を選ぶことなく光を与え続けてくれるものだ。

ま、そんな太陽を国旗に描くぐらいなのだから、背を向ける人も包みますよ、といった寛容の精神の象徴にでもなって、それを誇りにしてくれればいいのにと思うのだが、実際は日向と日陰を作り出すために使われてきたようだ。
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笑い

2005年12月18日 | essay
「南の島のハメハメハ大王」の歌のパロディとして、こんなものがあった。引用してみる。
東の~島の設計士
その名も偉大なアネハネハ
メガ~ネチックなたるみあご
会う人会う人アネハネハ
誰でもかれでもアネハネハ
アネハネハ アネハネハ  アネハネハネハネハ~

東の~島のマンションは
どれでも名義がアネハネハ
コストやすいがややもろい
雨が降ったら雨漏りで
風が吹いたら崩れだす
アネハネハ アネハネハ  アネハネハネハネハ~

東の~島の住む人は
どいつもこいつもアネハネハ
責任取らない人ばかり
責任逃れ世界一
海外逃亡世界一
アネハネハ アネハネハ  アネハネハネハネハ~
面白い。もしかしたら「アネアネハ」が数時間頭から離れないかもしれない。

ここで思うのは、純粋な言葉遊びを除いては、大抵の場合、笑いの中に犠牲となるモノやヒトがいるということだ。上の歌の場合は姉歯元建築士。ハートフルドラマの典型たる「あいのうた」だって「飯塚さん」という常に軽くイジられイジメられるキャラクターがいた。漫才の場合はボケ役が自らその役を買って出ているし、昔の本を読めば道化がいる。

けれど姉歯さんがかわいそうだ!と言う人はいないだろうし、どれも許容範囲だと思うだろう。通常誰に対しても許される場面としては、笑いの中で犠牲となるのが、自分自身・政治家や大企業などいつも威張ってそうな人達・架空の人・悪いヤツというのが挙げられるだろう。ハードゲイの企画は許容範囲スレスレで微妙、眉をひそめる人がいるということになる。

以前「Numeri」という人気テキストサイトで、愛煙家の自分が肺ガンにでもなってヨロヨロになりながら更新するのも面白いと管理人さんが言って、病気をネタにするのはどうかという話になったことがある。このとき管理人さんが答えるには、ネタ化には犠牲が付き物で、気にしていたら何も書けなくなる、ということだった。サイト名物の「対決シリーズ」だって対決の相手からすればたまったものではないが、ただ相手が犯罪まがいのことをしてるから許容範囲になっているものと言える。

ここで許容範囲というのは感じ方も人それぞれだし、ネタを言う人によっても違ってくる。後者は専ら愛嬌の問題だ。綾小路きみまろの中高年ネタも、彼のキャラクターがあってこそ絶大な支持を得られるもので、間違っても若槻千夏が言えるものではない。

私が好きな笑いの系統は「植田まさし風」だ。かりあげクンを思い出してくれればわかるが、読者からすればニヤッとできる笑いで、害はないけど、最後のコマは上司や女子社員が白い目でみたり苦い顔をしたりしている、というものが多い。そして、外での私はこれが許されるような愛嬌をもっていないので、中高のころは愛嬌のある仲のいい人に「~やってみたら面白いかも」と持ちかけていた。大学に入ってその人と話す機会があって、道を歩いているときにふと思いついて同じように持ちかけたとき、「もう昔みたいに若くないからできないよ」と返答された。ここで納得した。立派な良識を備えた周囲の許容範囲は明らかに狭くなっているし、「~やってみたら」と持ちかけたら真顔で意見されたりする。
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労働環境ランキング

2005年12月17日 | 学習ノート
自分のモノをとられたとき、悪い噂を立てられたとき、貸したお金を踏み倒されたとき、このような中でどれが一番自分にとって「許せない!」と思うだろうか。このような問いで権利感覚の特徴をみることができる。最近では「住所や電話番号が悪用されたとき」など、個人情報・プライバシー侵害に対する意識が高まってきている。

『権利のための闘争』では、農民は土地所有権、軍人は名誉、商人は信用、というように身分ごとで権利感覚の強い場面が説明されている。この時代とは異なり、今では身分でこのような特徴を把握することはできない。人それぞれ、ということになっている。一方で現在においても言えることは、企業は信用・イメージが一番、ということだ。みずほ証券の事件で利益返還は、一時の利益を手放すよりも企業イメージを損なうことを嫌がった結果である。

きょうの労働法授業で、育児休業などの取り組みを評価する認定マーク制度について、マークをもらうために形式的な数あわせが行われている、との話があった。これ以外にも、損害賠償をとられることより判例集に企業名がついた事件として書かれることを嫌がって裁判沙汰にならないように努力している、という事情もあるようにみえる。

これに照らすと、企業への規制は、労働監督署が行政指導をするより、企業イメージを狙って行うのが最も効果的なのでは、と思った。その例としてランキングないしランクづけの制度をとり入れてみるのはどうだろう。労働環境を可視的にして企業イメージと直結させるのだ。例えば、行政指導回数・取り組みの策などを点数化して調整してランクをつける。そうすると採用活動で企業側は「うちの会社は労働環境についてAランクをもらっている」と効果的な宣伝をすることができるだろう。このランクが下がると言うことは人材確保の点で致命的である。企業は熱心に労働環境改善に取り組まないといけないことになる。

点数化・ランク付けが本当にできるか、には課題が残るが、大学ランキングができちゃうくらいだ、不可能ではないと思う。
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壮大に

2005年12月16日 | 回文
借金やミスも国が潰れるほど壮大にやれば誰かが助けざるを得なくなる。ダイエーやそごう、みずほ証券。
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