順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
最近の記事一覧はこちら 管理人へのメッセージ・お問合せはこちら
 
過去記事からのおすすめ
エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

やっと再開

2006年07月25日 | 回文
酔いなくラッキィ!気ィよくいいかい?再開!行くよ!生き生き!辛くないよ!
(よいなくらつきいきいよくいいかいさいかいいくよいきいきつらくないよ)

ずっと駅にいたので気分は悪くなりませんでした。
立ち往生した車両は大変だったでしょう。

2006/07/25

2006年07月25日 | 回文
電車が人身事故。もう50分は止まっているので大きい事故なのだろう。バスの振替輸送になりそう。まぁ回文でも作って待っていよう。

活性酸素は損さ。異説か?
(かつせいさんそはそんさいせつか)

「遅いな。電車、怪しんでない?」「そお?」
(おそいなでんしやあやしんでないそお)

裏側からは何が見える

2006年07月23日 | 時事
最近通勤電車事情というブログが面白くてみているのだが、電車というのは多くの人の共通体験や考える素材を提供してくれるプチ社会のようなもので興味深い。先日のこと、大学から帰る際に隣に座った中3~高1くらいの女子生徒が、しばらく学校の図書館で借りたと思しき本を読んだあと、一息ついて眠り始めた。すごいのはその眠りっぷりで、90度といっていいほどの身体の傾きよう。私の肩に頭があたるのでたまらず隣に移動したのだが、うーん、身体が倒れきってしまわないのが不思議なくらいであった。正面に座っていた中年女性の二人も目を見張っていた。私を含め三人で終点に到着したときに起こすスタンバイをしていたのだが、これまた不思議なもので到着に合わせて目覚めるのだ。さらに、乗り換えて次に乗った電車では、今度は中1くらいの女子生徒が口をアパンとあけて上を向いて眠っていた。うーん、春の陽気と言うべきか、勉強のし過ぎと心配するべきか。

教養課程のときにドイツの雑誌記事で読んだのだが、こういう日本の居眠り文化は結構特殊なようで、四六時中仕事あるいは勉強に勤しむ代わりに睡眠を合間合間にとることになっているそうだ。眠るときは眠る、働くときは働くというメリハリをつけた生活はなかなか実現できない。私は睡眠を重視したい派だ。小学校のとき日記の宿題があって、小学生なんて大してアドベンチャーな生活をしておらずつまらないので、新聞記事を切り貼りして感想を書いたり自分で詩を作って書いたりしていたのだが、その中で「眠るときが一番幸せ」という題名の詩を書いたことがあった。そのくらい睡眠が好きだ。しかし社会の大勢はこういう人には冷たく、身を削っていくことを礼賛する雰囲気が充満している。

労働の分野に目を移すと、労働基準法により労働時間に制限がかかっている。ものの本をみてみると規制の目的は(1)労働者の肉体的・精神的疲労の回復を図り、労働意欲の向上と労働災害の予防に寄与する(2)労働者が余暇を社会的・文化的活動の参加に利用し、自己の能力を啓発し、ひいてはより人間らしく生きることを確保する、ということで、「8時間労働・8時間睡眠・8時間余暇」が目指された時期もあるらしい。しかし、現在では「サービス残業」が問題となっているように、労働時間制限は骨抜きの状態に近い。「労働時間法はコンプライアンスが最も欠如している領域」(ジュリスト1309号11頁)とまで言われている。このような骨抜きの状態は、規制が現実に見合わない厳しいものであるために違反が常態化することに原因のひとつがある。似たようなものに、憲法では9条がいくぶん非現実的であるために憲法全体を軽視する風潮があるとの話もある。

社会保障法の先生によると、一般に生存には一日5時間・疲れをとるには7時間の連続睡眠が必要で、さらに1日の完休日が必要らしい。しかしこれすら維持できない人は大勢いる。本来最低限守られるべきことすら守られない状態だ。ここはひとつ考え方を変えて、労働時間の規定の仕方を裏返しにしてはどうか。すなわち、「使用者は、労働者に最低一日7時間の連続睡眠と5時間の余暇、一日の完休を確保させなければならない」というような書き方をするのだ。そして、これと歩調を合わせて労災保険法のほうで、右の時間制限に対する違反の程度に対応して、労働災害のリスクが高まっているものと推定し、使用者の保険料負担を上げたらどうだろう。「保険料負担の上昇×発覚率>サービス残業により使用者が得る利益」に設定すれば、合理的に考えて規定遵守に向かうのではないか。

以前ラジオで所ジョージさんが、交通ルールで「○○優先」というのは優先された側が当然のように振舞うので優先しなきゃならない側が怒ってカドがたつ、それなら「○○遠慮」とすれば、「あ、どうも」「いや、いいんだよ」って感じになって上手くいくだろう、と言っていた。このように同じことを言うにしても言い方次第で変わることがあるとの発想で考えてみた。これを大学の友人に話してみたら、睡眠の必要の世代差・個人差を考慮すべきではないか、最低限の線すらお金で買われるかたちにならないか、俺は働きづめで早死にしたいがその権利もあるはず、などと疑問が出された。どうだろうか。

追記:ヨーロッパでは11時間の連続休息が義務付けられているとのこと。

題材について

2006年07月21日 | 未分類
最近はブログの1記事が文字数1000~1500字が目安になってきて、そのぶん1記事にかかる労力も時間も増えている。今月は何かとイベントが多くて、書く時間がなかなかとれていない。せっかく今日がブログ開設1周年なのだけど、これといった企画も考えていなかった。カテゴリをやり直したりログの整理をしたりしようか。

このように1記事の分量が増えたのは、創作方面の話題を解禁して好き勝手書くようになったからで、昨年こんなことを言っていたのが懐かしく可愛らしくなる。社会のタイムリーな話題とは無縁にわが道を行く更新が続いている。しかし、これでは本当に法学部生なのか、ちゃんと勉強しているのかと疑問をもたれてしまいかねない。そこで更新予定で挙げたように、大学で学んだ法律の話題を少しずつ入れていこうと画策している。英米法の本を紹介したころから始めようとしていたのだが、駆け込みで他の話題を入れていくうちに一月近く経ってしまった。

こうして引き延ばしてしまった理由のひとつには、自分が曲がりなりにも専門にしている分野についてはマトモなことを書かないと恥ずかしい、といった他の話題に比べて心構えが必要なことがある。あまり好き勝手は書けず責任感がつきまとう。一方で、エッセイとして書くと導入~本論~締めという流れを重視する結果、そこまで厚みのあることは書けなくなる。以前ゼミの先生が、自分がエッセイを書こうとすると1行目から注釈をつけたくなって上手くいかない、と仰っていた。注釈をつけるわけにもいかないし、その論点で挙げられている説を全部紹介するわけでもないし、結果的に中途半端になってしまう。

このような事情から、突発的に思いついた他の話題が割り込みでどんどん更新され、法律の話題は後回しになってしまった。これから少しずつ書いていくにあたり、「学習ノートから」という感じでエッセイ風にやっていくので、私の理解に間違いがあれば指摘をお願いしたい。

FIFA・WC雑感

2006年07月16日 | 時事
少し更新ペースを落としてしまいました。WBCのときも書いたので、少し話題的には過去のことだけどワールドカップについて書いてしまいます。今回は色々忙しかったので日本―クロアチア戦、イングランド―パラグアイ戦くらいしか中継で観ませんでした。どちらも煮え切らない試合で、運が悪かったです。昔少年サッカーやってたくらいで、そこまで詳しいわけではないけど、まぁ感想を書いていきます。


日本代表について:

始まる前、次のような予想を言っていました。あとだしジャンケンではありません。

日本 0-2 オーストラリア
日本 1-1 クロアチア
日本 1-2 ブラジル

結果は、ご存知の通り、

日本 1-3 オーストラリア
日本 0-0 クロアチア
日本 1-4 ブラジル

になりました。得点は予想外だったものの、1分け2敗というところは合っていました。今回は番狂わせがほとんどなかったので、現実的な予想そのままでした。個人的には「サムライ」とか言ってる時点で弱弱しいと感じていました。NHKで「功名功名」とエゴイスティックに走り回るサムライの姿に照らせば、屈強なパトリオットたちに歯が立ちそうにもありません。ジーコ監督の試合はいつもロスタイムにドラマがあって楽しみにしていましたが、負の方向にドラマが起こってしまって残念です。


全体について:

残念だったのは、チェコ。コラーが負傷するまでのわずかな時間だけ完成されたチームの素晴らしさをみせてくれました。負傷がなかったらもっと勝ち進んでいっただろうに。選手層が薄かったといえばそれまでだけど。それにしても、イングランドの試合はつまらなかったですね。クラウチに期待していたけれど、思うような活躍はできず。全体としては、レッドカード・イエローカードがたくさん出ましたね。日本―クロアチアで川口がDFに指示しに行って遅延行為でカードもらったときは苦笑が出ました。シムニッチがカード3枚もらうなど、奇妙な事態もありました。


印象に残った選手:

ロッベン(オランダ)―セルビア戦は一人舞台。ファンニステルロイの不調が残念。
リカルド(ポルトガル)―PK阻止率の高さに驚き。
ピルロ(イタリア)―ドイツ戦のラストパスが素晴らしかった。あのゴールが個人的ベスト。
クローゼ(ドイツ)―特にスウェーデン戦で動きが良かった。
選手じゃないけど、ドイツのクリンスマン監督がカッコいい!と思いました。
 

更新予定その2

2006年07月12日 | 未分類
気がついてみると3月15日以来水曜日の更新がないのですが、久しぶりに水曜日の更新です。記事を書くインセンティブをつけるためにまたテーマを前出しします。実際記事となるまで考えがまとまるかわかりませんが、だいたいこんな感じになるだろうと思ってください。

サッカー・ワールドカップ雑感
gooをひたすら褒め称える→いずれ
謙虚さについて→別記事に統合
ファイナルアンサー→書かないことにした
話題について・素人の強み
裏側からは何が見える
機会主義は合理的か→書かないことにした
傭車運転手の労働者性→いずれ
生活保護法・補足性の原則→いずれ
早い者が皆貰う→書かないことにした
わが街の風景→機会があれば
英語教育について
鉛筆削り
八月革命説の科学性→公開するレベルでない

毎日の環境学

2006年07月07日 | ミュージック
芸術家の行き着いた先が真っ白なキャンバスそのままだったり、無音の状態だったり、というのが時にあるみたいだ。私なりにこれをひとつ解釈してみれば、これまでの作品を通して自分の表現したいことはし尽くして理解されてきた、もう何も描かなくても、あるいは奏でなくても、きっと受け取ってくれる人はわかってくれるだろう、という感じであろう。恋愛でも、連れ添うことは言葉すら交わさないただ傍にいる時間も過ごすことであって、その時間が苦ではない、嬉しくなる、安心できる程のフィーリングの合致が必要だ。しかしお互い何も知らない状態からここまで通じ合うまで発展するには、万の言葉を重ねてお互いを知ってもらうことも必要である。言葉を不要にするために、饒舌に言葉を練って紡いでいく。

また、もうひとつ解釈してみれば、少ない情報で鑑賞する側の想像力をフルに働かせてもらいたい、という意図があるだろう。別に芸術に限らず、誰しも心がけ次第で身のまわりの小さな物事から想像力を膨らませることができる。私の小さな楽しみに「新規開設ブログ」をウォッチすることがあるのだが、開設したものの続かず放置したままのブログには何とも言えない趣がある。ブログのタイトルと説明文から、どんな文章を綴っていこうとしていたのか考えるだけでも楽しい。個人的なイチ押しはこのブログで、絵文字のカエルが、もう何とも言えない。このような面白さを応用して、「日々の気分」と題して毎日を一言で総括するブログを作ってみたら面白いかもしれない。例えば、「7月10日、カクテルに乗ったサクランボがベルのように鳴り響いた」みたいな感じ。

前置きが長くなったが、今回紹介するのは、小沢健二の最新アルバム「毎日の環境学」である。前作「eclectic」から4年半ぶりのアルバムとのことだ。


毎日の環境学/小沢健二

1993年から1998年まで華々しく活躍した後、ニューヨークに住み、メディアに全くといっていいほど露出せず、沈黙状態。今回のアルバムは「唱なし」である。全曲楽器のみ。アルバムを手にした人が知りうる情報は、各曲のタイトル、ジャケットの絵柄。少し調べれば「うさぎ」の絵とジャケットに引用した数行のメッセージが以前彼が発表した短い小説を示していること、「毎日の環境学」同名の海外の小説があることがわかる。少し聴いてみれば、2曲目で前作にも使われた旋律が用いられていることがわかる。わかることはせいぜいこの程度で、まさに少ない情報で楽しんでもらおうというタイプの作品だ。

これら少ない情報のから、表現者が何を意図していたのかという方向で考察するのもひとつの楽しみ方だし、もし知っていたら教えてほしい。しかし一方で、異なるバックボーンをもつ人が聴いて独自の印象を抱き自由な想像力が新たな方向を向く、というのもひとつの楽しみ方だ。教養課程のとき習った「テクスト論」も作者の意図を離れ、テクストそのものから出発して受け取る側の作用に着目した理論であったと記憶している。表現者にとっても、予想しない解釈を気付かされて、それが楽しみになるだろう。

そこで、私が感じたことを記すと、年代的にはタイムリーにオザケンの全盛期を知らず、姉の影響で後から聴き始めたので、当時の雰囲気との関連では何も言えない。通して聴いてみて全体から受けた印象は、「大都会の目抜き通り、午前4時から5時にかけてのBGM」といった感じであった。これは各々の曲のタイトルとはかけ離れた印象なのだが、ニューヨーク・テイストのリズムに加えて、前半はやや暗い曲が多く、後半にやや明るい曲が並ぶところから、夜明けの時間経過に対応した感覚が得られたからである。皆さんはどうでしょう。

演習のやり方について

2006年07月06日 | 学習ノート
いつもこの曜日は帰りが遅いのだが、今日は新宿に立ち寄る余裕もあって早く家に帰ることが出来た。というのも、今学期の通常授業が今週で終わるので、いつものサブゼミ(ゼミの準備のための話し合い・情報交換の集まり)がもうないのだ。今学期私は社会保障法のゼミを履修した。憲法の社会権から生活保護法、労災保険法、社会福祉諸法、公的年金法などの分野が内容だ。少し気分を変えるつもりで申し込んだのだが、成功だったと思う。まだ施設見学や合宿が残っているのだが、一息ついたところで昨年のゼミと比較して演習のやり方について少し書いてみたい。

ゼミのやり方のひとつには、昨年のゼミのように、発表形式があるだろう。ひとり、もしくは複数人のグループで準備をして、発表して、他のメンバーから質問を受けて議論、先生のコメント、という感じだ。対して今学期のゼミは、ロースクールの教材を使ったケースメソッドであった。素材となる判例や論文にレベル別の設問があって、予習をしてくる。ゼミの構成員で情報交換をし合って、本番に備える。先生からどのような質問(設問に直接関係ないことも聞かれる)があるのか勘ぐりながら時間の限り調べて準備してくる。

まず、構成員同士の関係という点。前者だと発表を一緒にする人とは緊密な関係が築かれるが、他のメンバーとは希薄になりがちだ。議論には叩き合いの側面もあるので感情的な遺恨も残るかもしれない。長い期間をとって発表を様々な組み合わせで何度もすればよいが、不幸にしてそのような時間はない。以前「イタリア戦争」と形容して友人も同意してくれたのだが、すなわち、各々中心部を城壁で固めた都市国家たちが互いに牽制しあって、教皇にとりいって離さない国もあれば、遠くで距離をおいて眺めている国もある。時にはドイツから皇帝がコメントをする。独立した個人どうしの関係と言えばその通りであるが…。対して後者では、法律行為的に言えば合同行為が行われ、共同作業する時間も長く、全体としての協力関係を築きやすい。

次に発言について。ケースメソッドでは、準備の段階でお互いの状況を把握して予め自分の考えも伝えてあるので、躊躇せず言えるようになる。また、設問がはっきりしているので問題状況も把握しやすい。発表形式では、発表者が設定する問題はいくぶん不明確であるし、出される質問も予めわからないので、何を議論しているのかを整理する作業が時たま必要になる。昨年のゼミで私は自分の考えたことを如何にして議論に乗せることが出来るかを専ら考えていて黙っていることが多かったが、今年のゼミでは積極的に発言できた。ヘタすれば「暗い人」と周囲のイメージが出来上がって自己定義してしまうところであったが、今回積極的な一面を出せて非常に気持ちがいい。

最後に達成感について。発表形式はひとつ発表という大イベントがあってレジュメなどが残るので大きいものがあるだろう。対してケースメソッドでは、毎回準備して答えての繰り返しであり、満遍なく力を注ぐのでルーティン消化のような感じで発表ほど大きい感覚はないだろう。これを見越してか、今学期のゼミの最後、先生がレポートを課そうかと提案して、みんなの必死の抵抗によりとりやめになった。一般論としては、感想やまとめ程度ならあってもいいかもしれない。このような違いに対応して、負担という点でも、前者では自分の発表があるときとないときで負担に差が大きくあるが、後者では途切れなくやや重い負担が継続してかかってくる。

ロースクールを目指す身としてみれば、ケースメソッドの予行練習ができて幸いであった。ただ、準備の負担が大きいという点で、今学期1科目でかなり大変だったので、これがすべての科目で行われるとなれば途方もない感じがする。法律の勉強に際して完璧主義は最大の敵である。

Who is Major Tom?

2006年07月04日 | 創作
先日高校の友人のオペラをみに行ったのだが、その後「感想求む」とメールがきて少し戸惑ってしまった。このブログでは色々と大胆なことを書いているけれども、いざ現実となると萎縮してしまう感じがする。音楽については語るほどの知識をもっていなくて恐縮なのだけど、昨日書いた記事が余りに意味不明なので(今になって反省)意図を説明しようと思う。言い訳みたいでみっともない…知らないことに無闇に手を出すのは控えておこう。

「トム少佐」はDavid Bowieの"Space Oddity"(1969)と"Ashes to Ashes"(1980)の2つの曲に登場するキャラクターだ。"Space Oddity"はボウイの最初のヒット曲で、ロケットがカウントダウンから打ち上げ成功、乗員であるトム少佐と地上管制塔でやりとりが行われる。そこで突然トム少佐は自ら軌道を外れ地球とのコンタクトを断つ、というストーリーである。これは、ボウイが自ら芸術家の道を進むことで世間から離れ孤独な人生を選んだことと重ね合わせたと解釈されている。

もうひとつの"Ashes to Ashes"でのトム少佐は、孤独に耐えられなくなって麻薬中毒になり、すぐに元の世界に戻りたいというメッセージを送っている。私の想像だと、1970年代ジギーにベルリン3部作に突っ走って成功を収めていって、80年代になって一息つく(停滞期と言われるのはこれより後のトゥナイト~ブラックタイホワイトノイズの時期か)。少し創作力の限界を感じてしまった、世間を捨てて勇ましく飛び出したものの辛くなって戻って来たい、振り返ってみればトム少佐は若気の至りと言えるような存在で恥ずかしくなってくる。そこで「灰は灰に」と葬儀の言葉で葬り去ってしまう。最後は母が子に「あんな人にかまっちゃいけない」と諭す。こうなっちゃいけないと。

参考までにリンクを紹介すると、"Space Oddity"(映像歌詞)"Ashes to Ashes"(映像歌詞)。映像がこんな出回ってていいのだろうか…時代を感じさせる面白い演出でしょう。以上のことを前提として、下の記事では次のような意図があった。

切符をひとついいですか
鉛筆をひとついいですか
短い話をつくりましょうか
ほんの数分の時間をお料理します
 ↓
ま、要するに色々ストーリーを考えるのが好きだということ。

水色の傘で待つ君の姿からは
みっつの話が浮かんできました
手が触れたなら
どれだけ話が生まれるでしょう
 ↓
「君」はずっと抽象的なもので、人とのふれあいはたくさんの話が浮かぶ宝島のようなものだ、ということ。

けれども君には話しませんよ
きっと君には退屈だからね
資格の足しにもならないからね
ヴィトンのバッグにも化けないからね
 ↓
けれども普通会話でこんな話はしませんよね。作った話は世間的には退屈で下らないもの。地位にも名誉にもつながらなければ、お金やブランドにも結びつかないものだから。胸にしまっておく事柄だ。

ここにはブリキの缶もないし
地上管制塔もない
あいにく頭もはっきりしている
だからトム少佐にはなれない
なぜそんなに自信満々なの
 ↓
宇宙船のような逃げ出す手段もないし、管制塔のような捨て台詞を吐く相手もいない。正気だから逸脱する衝動もない。だから金や地位や名誉といった世間のドライな価値観を振り払うことが出来ない。屈服するしかない。それにしても、なんで向こうは自分の価値観に疑問を持たないのかなあ。

surrender

2006年07月03日 | 創作
切符をひとついいですか
鉛筆をひとついいですか
短い話をつくりましょうか
ほんの数分の時間をお料理します

水色の傘で待つ君の姿からは
みっつの話が浮かんできました
手が触れたなら
どれだけ話が生まれるでしょう

けれども君には話しませんよ
きっと君には退屈だからね
資格の足しにもならないからね
ヴィトンのバッグにも化けないからね

ここにはブリキの缶もないし
地上管制塔もない
あいにく頭もはっきりしている
だからトム少佐にはなれない
なぜそんなに自信満々なの