順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
最近の記事一覧はこちら 管理人へのメッセージ・お問合せはこちら
 
過去記事からのおすすめ
エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

むしのはなし

2009年07月27日 | 日記
今日の記事は虫が嫌いな人は読まないほうがいいかもしれません。

ミツバチの呪い

数ヶ月前、ミツバチが激減して養蜂業が困っているというニュースがあった。ちょうどその頃、川辺をサイクリングしていてミツバチに刺されるという事件(?)に遭った。気分よく走っていたところ、頭に木の葉か何かが乗っかった感覚に襲われた。ふつうに手で髪を払う仕草をしたら、左手の薬指に激痛が走る。どうやらハチがとまっていたようだ。

指をみると、針が刺さっている。あああ。。素早く抜いて、口で傷口を吸う。ちょうどいいところに公園があって、水道で洗い流す。散歩する犬に見つめられる。こっちみんな。筋肉がひきつるような痛みなのだが、とりあえず、この処置でおさまってきた。後で調べると、カギ状の針が身体に残るのはミツバチ、応急処置は水で流すということで、適切だったようだ。

これで終わりという感じだったのだが、1週間程経って朝起きると、何だか同じ指がかゆい。夕方になって改めて見ると、左手薬指全体が蕁麻疹のような発疹で覆われていた。こわー。ちょっと焦って皮膚科に行く。結局原因はよく分からなかったが塗り薬をもらう。これを1週間くらいつけていたら、それも無事治った。

そして最近感じるのだが、虫に刺された部分が大きい。つい先日寝てる間に足のくるぶしのところを虫に刺されてしまったのだが、いま直径3センチの円くらい赤くなってる。温泉行ったら治るかなと思ったのだが、かわらない。勝手な推測なのだが、ミツバチに刺されて他の虫に刺されたときも過剰反応するようになってしまったのではないか。自分はあまりアレルギーとかないのだけど、もしそうだったら嫌だな。

蜘蛛取山(くもとりやま)

ずーっと前の記事でも書いたように、自分の家はクモが出る。小型のクモで、名前はたぶんアダンソンハエトリグモ。黒白のやつと茶色のやつがいてオスとメスらしい。クモは別に人間に害をもたらすわけではないので、処置に困る。クモがずっと生きているということはエサとなる他の虫が実は潜んでいるということで、それを退治してくれているならむしろありがたい。ということで、一時期見つけても殺さずに放っておいた。ところが暫くすると、大掃除でクモの卵の集団を見つけてしまったり、子供のクモがひょこっと出てくるのを見つけてしまったり、ということがあって、さすがにこれはマズイな…ということになった。

そこでふと思いついたのが、殺さずに住み分けを進めていく人道的撃退法。用意するのは、紙コップ(プラスチックコップのほうが中がわかってよい)と厚紙(使い終わったメモ用紙の台紙を使っている)。使い方は簡単、クモを見つけたら上からコップをかぶせる。コップにはそれなりの面積があるので逃げられることは滅多にない。かぶせたらコップを少し接地面と平行に動かしてみると、クモはコップの中に入っていく。そうしたらコップを離して厚紙をかぶせる。これで隔離成功。そしたらベランダか家の外に出て外の世界へ放つ。完璧だね!

今では机の脇にコップが置いてあり、クモ獲り名人の名をほしいままににしている(笑)。他には応用できないかというと、飛ぶ虫はよく壁や天井にとまる小さい虫ならいいが、そうでないものはなかなか難しい。蚊なんぞが入ってきた日には仇敵として叩き潰さなければならない。

【8月5日追記】虫刺されの原因がわかりました。体質のせいではないようです。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

刑法199条の2

2009年07月24日 | 創作
戦争だ。戦場だ。殺せ、殺せ、目の前の敵を殺せ。
そして言うんだ。「こいつは死んで当然だ!」疑問を持つな。何があっても豪語せよ!
―チャールズ・ワイルズ・英・1890-1965

チャールズ・ワイルズは、いま私が勝手に作った架空の人物であり、言葉も実在しない。気分を害したら、申し訳ない。以下の記述は、これと同様に創作であり、架空の国での出来事である。

官報というものがある。法令等の様々な情報が出される日刊の国の機関紙であるが、細かくチェックする人はほとんどいないだろう。しかし、この国ではある時期に限って数多くの人が入手に奔走する。次のような法律の条文があるからだ。
刑法第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

刑法第百九十九条の二 七月十五日に前条の罪を犯した者は、その刑を免除する。
2 前項の規定は、政令の定めるところにより同年の五月末日の官報で罪を犯すことを公告した場合に限り、適用する。

刑法の概説書を見ると、以下のような解説がある。この規定は、法で裁くことは不可能であるが個人にとって生存が脅かされるほど害悪をもたらす者又は重大な社会悪をもたらす者を排除する機会を設けることを趣旨とする。事前に公告をすることで同条の適用を受けるにふさわしいか地域社会及び行政が検討し、相当でないと認められた場合にはその者を説得又は事実上の監視・軟禁状態に置き犯罪の抑止にあたる。

「刑を免除する」とは上記の趣旨と文言の通り、処罰阻却事由を定めたものである(政策説)。したがって、共犯には通常どおりの刑が課せられる。論点として、犯罪の実行が日をまたぐ場合に適用があるかが問題となるが、立案担当者は、同条が一日だけ解禁するという極めて限定的な例外を定めたものであることから、実行の着手から終了までの全てが同日に行われなければならないと説明する。

同条の導入に当たっては、次のような喧伝がされた。法で裁くことができない悪は存在する。その対処にあたりデスノートという手段は、ノートの所持者の恣意が大きく働き、「新世界の神になる」などと妄言が出てきてしまうという問題がある。しかも、そもそもそんなノートは実在しない。そこで、実際に悪に直面している者に事実の告発を委ね、それを社会全体で吟味することで恣意が排除される。公告には当事者の名前等が記載され、余程の事情がない限り積極的に利用されることはないであろう…!

導入初年度には、パワハラで一人息子を自殺で失った両親が上司を標的に公告を行った。それまで民事裁判でも一貫して事実と責任を認めてこなかった上司であったが、これが大きく取り上げられるに至り、私生活での不満を部下の一人に発散していたと認め、謝罪し、解決に動いた。その後、飲酒運転事故の遺族による公告など犯罪被害者による利用が何度かなされたが、「裁判で決着すべきこと」と反対論が生じ、「それなら公告を利用しなくていいように裁判をより機能させるべき」という話になり、司法改革がさらに進むこととなった。

制度開始から5年が経ち、最終的に殺人まで至った例はなく、一方で刑法犯罪等が減少傾向に転じ、犯罪・紛争予防に一定の効果があることがわかってきた。最初は「非人道的」と非難していた外国からも、視察が行われるようになった。この制度を題材とした映画やアニメも盛んに作られるようになった。中でも、いじめを受けていた少年が決死の覚悟で制度を利用する作品は、思春期の若者の心情を繊細に表現していたという点も評価を受け、大きくヒットした。少年が繰り返し自分に言い聞かせる言葉、上記のチャールズ・ワイルズの言葉が広く知られるようになった。

とある郊外の邸宅、ホームシアターでこの作品を鑑賞し終えた男性がいた。この男性こそ、本制度導入を進めた中心人物であった。ワイングラスを机に置き、余韻を楽しみながら悦に入る。ふふん、死神にも頼らず、一人も殺さずに犯罪抑止を実現する、自分は学生時代勉強はできなかったが、夜神月以上かもしれないなー。そのとき、携帯電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。秘書からだ。今日はまる一日静かに休ませてくれといったのに、仕方がないな。

「大変です!今日の官報を見てください!先生に対して公告がされています!しかも数百人の連名ですよ!」

全身が震えるのを感じた。受話口に返す言葉も出てこない。なぜだ。自分が何をした。社会から重大犯罪を減らすのに貢献してきたのに。なぜなんだ。自分が理想として描いた社会は国民にとって不幸をもたらすのか。皆窮屈に生きているのか。彼は、走り出す。スーツも着崩れした状態で。消し忘れたホームシアターの画面には、誰も汚い言葉を使わない、上品なバラエティ番組が映っていた。

※続きません


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

ドラクエ9 メモ(2)

2009年07月17日 | ゲーム紹介


今は火山のふもとの村に着いたところ。
レベルは転職組が30前後、転職なし組が40前後。
パーティーは、魔法戦士(剣)武闘家(爪)パラディン(槍)僧侶(杖)。

画像は主人公のステータス画面。着せ替えは楽しい。
なぜ女性キャラに?って主人公に自分を重ね合わせる年齢でもないし。
名前はキャラ作ってから合うものを直感でつける。元ネタとかはない。

DSの画面撮るといつも汚くなって困っていたのだけど、
カメラのピントを画面外で合わせるときれいに撮影できることを知った。感動!
シャッターボタンを半押しにしてピントを固定した上で画面まで移動させる。

剣使いは魔法戦士が合ってると感じた。
ギガスラッシュがMP15消費するのに対して
バトルマスターは10ちょっとの最大MPしかないため。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

ドラクエ9 メモ

2009年07月14日 | ゲーム紹介
ついにドラクエ9が発売された。自分は買おうかどうか迷ってたのだが、ふと立ち寄ったTSUTAYAの棚に並んでて、数年前ドラクエ9をやるためにDSを買ったんだっけな、と思い直して購入に至った。今は船を入手したあたり。これまでの簡単な感想を箇条書きにしてみようと思う。だんだん追加されるかも。

  1. 一言で言えば、「セブンスドラゴンの1.67倍面白い」という感じ。普通に楽しめる。
  2. 全体的に対象年齢が低めに設定してあるかな?
  3. メニュー画面からパーティーの並び替えができないんだけど?
  4. ストーリーは基本となる筋が一本通っていて好感が持てる。
  5. 制作者の方の年齢のせいか、衣装やキャラクターに「オヤジの悪趣味」が所々出てきて、それが嫌な人(20~30代の男性に多いかも)は嫌いになると思う。
  6. もっとたくさんキャラクター作れたらよかった。
  7. 金策で装備アイテム悉く売ってたら後で錬金で必要になった。。。
  8. シンボルエンカウントになって戦いたくないとき避けられるようになって便利。
  9. すごろく場とカジノがないのは個人的には歓迎。リセット前提で偶然性に掛けて何度もやるのは面倒だから。
  10. ゲームバランスは良好。ボス戦は手に汗握る展開に。
  11. Bダッシュ不要なんだけど、癖で移動のときBボタンを押してしまう。

パーティーメイキングは、旅芸人(剣)・僧侶(杖)・武道家(爪)・戦士(槍)が現在のところ一軍だ。地味ながら堅いパーティー。戦士(槍)はしっぷう突きで素早さ補正できるという理由。魔法で気軽に敵を一掃できない点がちょっと面倒。旅芸人をバトルマスター(剣)、戦士をパラディン(槍)に転職させていこうと計画中。いずれにせよクエストとの関係で全部の職を万遍なく育てないといけないので、色々試してみる。

「ゲーム・ライフ・バランス」という言葉はないが、ネットゲームで廃人になるという話はよくきく。しかし一方でニンテンドーDSで廃人になるというのはきかない。画面が小さくて長時間する気にもなれないし、携帯機でどこでも遊べるというのが逆に腰を落ち着けてやる必要がないということで深みにはまりにくくなっているのではないか。ドラクエ9も街とダンジョンの組み合わせで1時間くらいの単位で進めることができて、現代人の生活に合っているように思う。

といっても、ゲームは熱中して当初の計画より何時間も多くやってしまうもの。日常生活とのバランスをとる工夫としては、ゲームを始める前に1時間後くらいにアラームをセットしておく!というのがいいだろう。アラームは時間の進み具合を体感できるアナログ時計で、途中で止めちゃわないように手元から離れたところに置いておくのがよい。アラームを止めるために一度ゲームを置くことになり、区切りをつけることができる。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

生協と生活保護

2009年07月12日 | 時事
日本の生活保護は、金銭交付が原則となっている。メインとなる生活扶助は、1ヶ月分ごと世帯主に金銭支払いがされる。このような方式の問題点として、1ヶ月分の金銭をギャンブルなどに浪費してしまう、切り詰めて貯蓄に回し資産を形成して後々問題になる(実際に裁判となった例がある)、といったことがある。

アメリカでは、フードスタンプ制度というものがあり、食料品に限定した交換ができる金券が配られる。フードスタンプは比較的要件が緩く受け取ることができるようで、これにより飢えを迫られる危険はある程度回避できる。最近では、利用範囲をコントロールしたクレジットカードを利用したらどうか、という議論もあるようだ。それでも日本が金銭給付の原則を堅持している理由は、受給者にどこで何を買うかという自由を与えることで、非受給者と同様の生活を行い、いち早い自立を進める、ということにあるらしい。

ところで、我が家はずっと昔から生協の宅配サービスを利用している。毎週決まった曜日に前の週に注文した生活用品・食料品が発泡スチロールの箱に入って運ばれてくる。先日も運ばれた物を家に入れて整理していたのだが、そこでふと生活保護にも活用できないかな、と思った。すなわち、世帯ごと毎月の利用限度額を決め(例えば1万円とする)、その範囲で普通に注文をしてもらう。超えたらそれ以降の注文はできなくなる。

このことのメリットとしては、次のようなものが挙げられる。
(1)買える商品を一定の枠に収めることができ、浪費を防止できる。生活に必要なものから転売の危険があるものを除いたような感じか。
(2)毎月リセットされるので貯金に回すということもない。
(3)宅配係の方が毎週様子を見ることができる。ついでに相談を受けたり、不正受給かどうかのチェックもできる。
(4)宅配係としての雇用が増える。運搬自体は工場で働いていてコミュニケーションが苦手な人でも対応できる。(3)のような追加的な役割を担うならば複数人体制になり、さらに増える。雇われるのは生協職員で、公務員が増えるわけではない。
一方、デメリットとしては次のようなものが挙げられる。
(1)生活の自己決定という観点からは後退する。クレジットカードより自由が少ない。生活用品を全て生協で調達させるのは現実的でない。
(2)制度の認知が広がると宅配=生活保護とのイメージがつき全体的に利用が敬遠されかねない。
(3)宅配係とのコミュニケーションを敬遠する人がいる。
うーん、思いついたはいいものの、色々考えてみると難点ばっかりだ。生活保護制度と組み合わせるというより、民間による生活支援ボランティアとして毎月限度額を上限として料金肩代わりをして相談サービスと組み合わせる、という感じで精一杯か。すなわち、生活保護を受けるに際して月5千円限度で生協ができるよと勧誘して任意で加入してもらい(この支援分は資産調査で考慮外にしてもらう)、活用してもらう。5千円を超える額は自分の責任で支出する。こういうかたちにすれば生活設計の自由を格別侵すこともないだろう。行政のケースワーカーは加入しなかった人、利用がない人を中心に訪問調査を行うことで、人手不足に対応する。こういう感じでどうだろう。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

デジタル機器に苦労する

2009年07月10日 | 日記
携帯音楽プレイヤー

いまは携帯電話のSD-Audioを使っているのだけど、自分の携帯電話ではギャップレス再生(曲と曲の間を時間差なく再生するもの)ができないし、データの読み込みも早くないため、やっぱり音楽再生専用機があったらいいかな、なんて思うようになった。ところが今の市場ではSONYのWALKMANとAppleのiPodしか存在しないと言ってよい状態である。この2つ、一長一短があって、どちらを選んでも何かしら不満を抱えなければならない。

WALKMANは、ノイズキャンセリングや音質のよさ・FMラジオ機能といった性能面で優れている。スピーカーつきも便利だ。値段もiPodに比べると割安に感じる。普通にいけばこれで決まりなのだが、試しに楽曲管理ソフトを使ってみようかなとSonic Stageをダウンロードしてみたら、これが破滅的。音楽はこういう風に取り込むのかー、じゃあ動画はどんな風に操作するのかなーと思ったら、別のソフト入れないといけないらしい。一括管理できないの?画面もデカデカと広告が表示され操作部分が狭まって使いにくいし、楽曲のところをダブルクリックしても再生されないし…。しばし操作してみて一気に買う気が失せた。

一方、iPodはWALKMANに比べて機能が低いわりに値段が高い。以前iTunesを試しにインストールしてみたとき、アップデートのたびにApple社の他のソフトもインストールするようにしつこく催促するようになって、腹が立って全部消去した。それにiTunesと今自分のPCに入れているセキュリティソフトは相性が悪いようで円滑に作業できない危険性が高い。

音楽管理はWindows Media Playerで十分じゃないか。ソフトで囲い込むならこれより質のいいものを用意したらどうか。Windows Media Playerで管理できた東芝のgigabeatは今どこに行っても売ってない。数ヶ月前、量販店に行って「東芝のはどこにあるの?」と訊いたら「もう生産していない」と言われたときの喪失感。東芝さんはパナソニックと組んで騒音キラーと長電池寿命を兼ね備えて新製品でぜひとも市場に新風を巻き起こして欲しい。真っ先に買いに行くから!

こんな私にベストチョイスを知っている方がいたら教えてください。


ネットブック

昨年秋に買った。当時はASUSとAcerとHPの3社からしか発売されておらず、AcerのAspire Oneの一択と言ってよい状態だったので迷わずこれを購入。夏のアルバイト代をはたいた。ネットブックは「おもちゃ」とか言うけど、メインマシンの2003年春に買ったDynabookよりメモリもHDD容量もずっと上であり、文系学生が利用するにあたりスペック的には何の不便もない。

だが、「おもちゃ」というのは品質のことを言うのかもしれない。自分は初期ロットなのでBIOSというソフトに不具合があるらしくアップデートすべきらしいんだけど、アップデートの説明に従って操作するとPCが完全フリーズしてどうしようもなくなるため、未だ最初のままだ。また、買ってしばらくしてファン音がブインブイン言うようになり、とても外で起動できない状態になった。最近では異常な発熱が生じる。机と接するゴムのすべりどめも接着剤が弱まってポロポロとれる。

ということで、メモリを強化したメインマシンに逆戻り。たぶん初期不良で購入した店で交換すべきなんだろうが、色々忙しかったこともあって行けていない。これをみると、Dynabookは頑丈だね。いちどウイルスバスターをインストールしてオーバースペックで壊れかけたのだけど(セキュリティソフトでPCが壊れるって本末転倒だよね)、今もこうして問題なく操作ができている。ネットブックは今では各社が投入していて、量販店で色々眺めてみると東芝のDynabook UXが圧倒的によいと感じる。キーボードの質感からして違う。当時これが発売されてたら真っ先に買いに行ったよ!

次にPCを買うとしたら、Windows7が入ったNECのデスクトップかな。あのキーボードの感触は最高だと思う。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

タブーと罪

2009年07月09日 | essay
"What is your religion?"

これは外国では珍しくないが、多くの日本人にとっては面食らう質問である。とりあえず「Buddhism(仏教)」と答えておくのが無難と言われるが、多くの人は仏教の内容をよく知らないし、よくみると似た考え方だと言われても信じようと思って信じているわけでもない。「Nothing(無宗教)」と言うと相手に印象が悪いようで、これは思考の基盤がない人と受け取られてしまうかららしい。

もっとも、宗教を信仰していないからといって思考の基盤がないといわけではない。個人的には「周囲と調和せよ、他人に迷惑をかけるな」というのが日本人の根本的な行動原理であるように見える。神と個人の一対一の対話という思考様式がないので、環境に左右されやすい。「みんなやってるから」という理由付けが最も説得力をもち、政治や経済でも悪用されがちだ。このような他人との関係で行動が左右される状態は、自己確立を目指すという考え方からは「自分の意見がない」などと批判されることが多い。

しかし、これには悪いことばかりではないように思える。「他人に迷惑をかけるな」を裏返せば、「他人に迷惑をかけていなければ、とりたてて非難しない」ということになる。他者加害禁止の原則を忠実に体現したようなものだ。個人の内心に現実にいる他者を超えて「神」が干渉してくることがない。個人が好きでやっていることに対してタブーが強く主張されることは少ない。このタブーの少なさが、日本の豊かな創作文化を支えているように思える。

「人間には様々な欲求があります。常識的にはこれらを万遍なく満たそうとするはずですが、昔の人は、価値の高いものと低いものとに分けていました。」もうどこを探しても出典が見つからないのだけど、一読して妙に納得してしまった文章。中には価値が低いにとどまらず罪だとされたものもあり、特に自然で本能的な欲求に罪の意識を植え付けるのは全ての人に無用な葛藤を生じさせ賛成できないものだ。むしろタブーがあると背徳感による昂揚が加わり、フィリア(病的愛好者)を生みやすいだろう。

欲求をずっと抑えて過ごしてきた人は、次のような思考を持ちやすい。(1)自分がずっと抑えてきた事柄を自由に楽しんでいる人をみると自分が否定されるような感じがして嫌悪したくなる、(2)今の自分があるのはずっと欲求を我慢してきたからであり、立派な人物になるには我慢が必要で、それは誰にでもあてはまる。(1)は妬みであり望ましい感情でないということは合意できるだろう。(2)は、我慢しなくても立派になる道はあるし、人それぞれ合ったやり方があるということを見落としている(意外にこの点に気がつかない方が多い)。

岩波ジュニア新書の『西洋哲学の10冊』でも最後に紹介されるバートランド・ラッセルの『幸福論』。その第7章でも、個人を不幸に陥らせる原因として罪の意識が挙げられ、特にキリスト教の性のタブーが批判される。他の章でも度々その不都合性が指摘される。罪の意識に苛まれた人は劣等感を持ちやすく妬み等を生じやすい、何事にも興味を持たない態度が身についてしまった人は寛容を嫌い、抑圧的な法律を好むようになる、と述べられる。このような人は同書が書かれた1930年当時でも「稀になりつつある」とあり、解説でも「日本では関係のないこと」とあるが、最近の世相を眺めてみると、むしろ危険は高まっているように感じる。

好きなことをして、他人に迷惑がかからないため、或いは生活のバランスが崩れないためにその限りで我慢をする、というのが本来の姿である。欲求を我慢して抑圧することを自己目的化しないように気をつけなければならない。そうでないと、自分だけでなく、周囲の人をも不幸にする。それを罪といわず何と言おうか。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

チョコレート・トレイン

2009年07月06日 | ミュージック

歌詞等の曲情報→チョコレート・トレイン(初音ミクwiki)思春期Pさんのホームページ

これは鳥肌が立つ。素晴らしいの一言。

上の動画が出来上がるまでには、次のような経緯があった。

2008.7.7 思春期Pさんが作曲・作詞し曲を公開する(参照
2008.7.8 タイツォンさんが歌った動画を公開する(参照
2008.8.10 リツカさんが歌った動画を公開する(参照
2008.10.5 オサレPさんが曲に自作のPVをつけ公開する(参照
2009.1.17 上記各動画のファンの方がPVと2人の歌を合わせて公開する(参照

PVは、電車の中を妖精のように動き回る初音ミクと、一人の男子大学生を中心に描いている。所々遊び心が散りばめられていて面白い。1:51からのミクが後姿でリズムを取っているところがお気に入り。動画の最後、女子高校生が「寝たふり」を明かすところも注目だ。

ところがこの動画を観た後、ネットサーフィンでブラボー山田劇場に行き着いてしまい、感動が吹っ飛んでしまった(笑)。この劇場の破壊力はすさまじい。何というか、元気が出る。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

フォト・リテラシー 戦争への視線

2009年07月04日 | 学習ノート
今橋映子著『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 』(中公新書・2008年)

「フォト・リテラシー」という言葉は何だか聞き慣れない。これについては、次のような意味をもつと整理できる(8頁参照)。

  (1)写真(とくに報道写真)を芸術的・社会的文脈で分析・評価できる力
  (2)分析・評価の知識や倫理をもって問題への認識を高める力

より広い概念である「メディア・リテラシー」は(1)のうち社会的文脈での分析力を言うことが多い。写真は芸術性を兼ね備えているため、芸術的という視角が加えられている。また、(2)は情報の送り手だけでなく受け手の側の倫理性の問題で、あまり強調されないがメディア・リテラシーの概念に当初より含まれているとのことだ。

そして、本書は(1)に対応するものとして第1部・第2部(第1章~第6章)が充てられており、構造主義的ではなく歴史的な観点から様々な問題が取り上げられている。「写真が事実をありのままに映している」という思い込みに対して、報道写真成立史から「制作物」としての側面があることを示す。また、日本の報道写真雑誌や写真集の歴史を丁寧にみていくことで、芸術と報道をはっきりと分けることができないということを指摘する。

続いて(2)に対応するものとして第3部(第7章~第9章)が割り当てられており、大きく3つのテーマを扱っている。第7章は主に撮る側の倫理の問題を、報道写真の大家の作品にオリエンタリズムがないのか、ヒューマニズムを標榜する作品にアメリカ的普遍主義の宣伝が含まれていないか、後の写真史の展開とともに考えさせる。第8章は見る側の倫理の問題として、衝撃的な写真を見て見る側は何か行動するのか、しないとして写真は無意味なのか、とソンタグのサルガド評を題材に考えさせる。第9章は写真が写しきれていない事柄をどのように表現するのか、ホロコーストの表現の仕方を題材に考えさせる。

以上のような本書の本筋を離れても、紹介される写真家の様々な試みは非常に興味深い。例えば、パリからヴェネツィアまで面識のない男性の後を尾行して後姿を淡々と撮影した写真集があるらしい。文字で見るだけでもスリルを感じる。個人的には、防犯カメラの映像を組み合わせてある男女の恋の成就の過程を描写する作品があったら監視社会というテーマも入って面白いな、と何年も前から思っているのだが(締めの言葉は「大丈夫、カメラはあなたの大切な思い出を記録しています」なんて)、実際に同様の作品は出ているのだろうか。

実は私、教養課程時代に著者の講義等を履修し、この本の生成過程の一部を目撃している。当時の配布物等を改めてみると、本書で紹介されているテーマや具体例を豊富に見つけることができる。浅学非才な私はそれらを体系的に理解することができず、この本を読むことでようやく復習をなすに至る。ということで、これからの記述は、数年遅れの簡素で出来の悪いレポートのようなものである。


報道写真の構図

まず(1)写真の分析・評価について、自己流の鑑賞の仕方をまとめることにする。本来ならテクスト論とか勉強してから専門的に論じたいが、法学の方角に進んでしまったため一般人の感想にとどまる。とりあえず下の画像は、全体像を図に表したものだ。



まず、「報道」写真という特性として、写真を制作するのは被写体自らでなく中間者(編集者+撮影者)であるという点がある。見る者は基本的に中間者が撮った写真を通してしか、被写体について情報を得ることができない。また、被写体も自らの意図を中間者の意図より強く反映させることができない。とりわけ「決定的瞬間」を謳う作品では被写体はポーズをとる権利すら与えられていない。横を通る大きな矢印はこのことを表現したものだ。

そして中間者の意図が反映する要素として主なものを挙げると、次のようになる。

  構図と対象選択:例えば、戦争で兵士と市民のどちらを見るか
  色合い:ポジティブな印象を与えるか、逆か
  カラーかモノクロか:事実を強調するか普遍的なテーマを求めるか
  キャプション(説明文):写真の中のどの部分を注目してもらいたいか等
  組写真での配置:時系列やテーマの流れの中で読んでもらう
  記事:報道の雑誌では記事の主張が主体となり写真は従属的

中間者には撮影者と編集者があり、力関係が媒体によって異なってくる。個展は基本的に撮影者の意図を大きく反映させることができるが、媒体力の強い新聞や雑誌は編集者の意図がほとんどである。写真集は撮影者が主体となれるが、編集者の力も強い。本書でも、ユージン・スミスの名作「スペインの村」が撮影者の政治的意図を編集者が骨抜きにして写真の選択や配置を変更し、撮影者が「失敗作」と述べていると紹介されている。

編集者による作為は予想以上に大きいもので、誤りも導いている。『戦争広告代理店』では、ユーゴ紛争でナチスを模した収容所・民族浄化の証拠として用いられた写真はスクープ欲しさにあまり関係ない写真を新聞が大きく取り上げた、ということが指摘されているし、本書でも、ウクライナでの処刑場に連行される人たちの写真がポーランドのナチスの収容所のガス室に連れて行かれる写真として扱われているなど、途方もない間違いの指摘が紹介されている。

以上が撮影者と編集者からの写真への矢印の構図である。これに本書で紹介される写真史的な知識を加えてみれば、一応完成されるだろう。以上のような「制作物」としての作為性を見る者がすべて見抜き、真の正解に辿り着くというのは不可能である。ではこういう分析は無意味かというと、「証拠写真」として安易に飛びつく態度を避け、慎重さをもって視線を投げかけるというだけでも十分な意義があるだろう。この構図を念頭に置くと、鑑賞の手助けにもなる。先日何年かぶりに世界報道写真展に行ったので、別記事で実際の報道写真を素材として感想を書いてみたいと思っている(【追記】感想記事はこちら)。


戦争への視線

続いて、(2)倫理の側面として、第8章のソンタグのサルガド評から戦争写真のあり方について考えてみたい。サルガドは、有名な報道写真家であり(作品例:googleイメージ検索)、大規模な写真プロジェクトを立ち上げ、圧倒的なスペクタクルと目を背けたくなる悲惨な現実を共に伝えるような表現をしている。一方、ソンタグはアメリカの女性批評家で、『写真論』といった写真に関する著作で有名であった(故人である)。

ソンタグはサルガドの作品について、「人間家族」といった神聖めいたテーマの下で原因も種類も異なる数多の悲惨をひと括りにし、見る人の関心を引くかもしれないが壮大すぎて何をしても状況を変えることができないという無力感を与え、抽象的な印象にしかならない、と批判する(196頁)。その現われとして、作品のキャプションで被写体となった者の名前を付さない点を鋭く指摘する(ちなみに、被写体に密着取材し被写体の名前もよく記す写真家としては長倉洋海氏がいる)。私もサルガドの「ESSAYS」展に足を運び、モノトーンで濃淡を操作して制作している点に普遍性を強調したい意図があるのでは、といったレポートを書いた憶えがある。

普遍性と壮大なスケールを強調する写真はかえって見る者に働きかける力が弱いのではないか、この指摘には納得できる部分が多いだろう。例えば、太平洋戦争での原爆被害の衝撃が大きく兵器を悪とし戦争を絶対悪とする日本的な考え方は、あまりにも大きな相手を設定するので(兵器の廃絶は、自発性に委ねると囚人のジレンマで正直に放棄した者がつけこまれる状況にあり、全ての国が同時に放棄する以外には「刀狩り」をするしかない)、かえって戦後生じた様々な戦争に対する抑止・防止のための具体的な行動が諸外国ほど活発でなかった(特にイラク戦争)、と言うことができないだろうか。

現在は、巨大な国民国家同士が存亡を賭けて争う戦争は起こっておらず、市街地への無差別な絨毯爆撃も行われることがない。ホロコーストの教訓は宥和政策でこの悲惨な状況を放置したことへの反省であり、正義の戦争をかきたてるものであるとの理解も十分でない(参考:藤原帰一『戦争を記憶する』)。正義の戦争がありうるとした上で実利のために大義を捏造する人たちがいるという問題、テロという非国家組織を相手にしないといけないという問題、こうした現代特有の個別の問題点が捨象されてしまっているように思える。

このような状況に照らせば、個別具体的に戦争や紛争の原因や背景を丹念に調べ上げ、解決策を想起させるような表現方法のほうが有効だと考えられる。もっとも、サルガドのような普遍的なスペクタクルは完全に無意味と言うわけではない。本書でも紹介される池澤氏による評で、美しいが故に深く記憶に残るのではないか、という指摘がある(200頁)。深く残る記憶は、人々に関心を向けた上で永久的に留める力をもつというのだ。

この点について、私は、スペクタクル写真にはより強い力が秘められていると思う。深く胸に突き刺さった悲惨な光景は、解決を探り具体的な行動をしていて壁に突き当たったとき、心を折らず、諦めずにもう少し頑張ろう、と駆り立てる力を提供する。一度取り掛かった人類の大仕事を成し遂げる心の支えとなるのだ。その意味で、サルガドの写真には、無意味ではないと消極的な評価にとどまらず、やはり積極的な評価を与えてよいだろう。そして、具体性を追求する作品と協力し合えるものだと言えよう。


ということで、本書から一歩進めた指摘まで辿り着いたところで筆を置くとしよう。これは本書が扱った倫理的問題のひとつであり、他にも考える材料がたくさん含まれているので、興味があったら書店で手にとって、色々と思考を巡らせてみて欲しい。アフェリエイト始めたほうがいいかな?

※ないとは思いますが、くれぐれも不出来な先輩の感想文をレポートで丸写しなんてことはしないでね。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村