順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
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Vocaloid Collection 6

2010年05月31日 | ミュージック
Vocaloid文化の広がり

このブログで最初にVOCALIDオリジナル曲を紹介する記事を書いてからちょうど1年が経った。この間、初音ミクの勢いは衰えるところなく、むしろ非常に強くなっている。最近でもカラオケの上位を独占したり、アルバムがオリコンで週間1位をとるなど、話題に事欠かない。特に今の中高生の世代に定着しているのがいいことで、私たちが中高生の頃好きだったアーティストを今でも思い出して聴くように、文化が長期にわたって持続することを期待させる。最近は制作者も投稿される楽曲も格段に増え、外国人からの楽曲の投稿もある。P名という愛称を付けるのが追いつかず、内輪の文化が薄れてきているように見える。

このような動きに様々な考察が行われ始めている。インターネットの発達で音楽のあり方が変わることは予想されたが、それを初音ミクのようなキャラクターが担うことまで予想していた方は少なかったのではなかろうか。個人的な感想を言うと、従来のような住む世界が違う・浮世離れ・雲の上の存在という方向でのアーティストの売り出し方はもはや成功しないようにみえる。もとは普通の人で無理にイメージを作っているというのが情報化の発達で聴く側にわかってしまっているし、そういうアーティスト像も求められなくなっているからだ。むしろあたかも友達のような身近な存在から始まり、頑張って上を目指すのを聴く側も一体となって応援する、そんな売れ方が増えているようにみえる。Perfumeもそうだし、Vocaloid楽曲制作者の成功もこの方向性に乗るものだ。

さて、諸事情で忙しくぼからんもチェックできない時期が続いていたのだが、少し解放されたので、前回と同じように、最近聴いたVocaloidオリジナル曲から1枚のアルバムになるように再生リストを作ってみた。前回のCollectionは多くのアクセスをいただいていて、今回も曲を探す手がかりとなれば嬉しい。また、同じように好きな曲で再生リストを作ってみたというときは、コメント等で教えていただければ幸いである。


01:【初音ミクオリジナル曲】アンバランスコミュニケーション【SWANTONE】
02:【初音ミク】 白い雪のプリンセスは 【オリジナル】
03:【初音ミク】 恋率方程式 【オリジナル曲】
04:初音ミク・巡音ルカ オリジナル曲 「ワールズエンド・ダンスホール」
05:【もんちー】「Ladies First」歌ってみた【*あいり】
06:【鏡音リン】 trick art ! 【オリジナル曲】
07:[初音ミクAppendオリジナル曲] 五月少女
08:【初音ミク】 Mikunologie 【オリジナル曲】
09:弱虫モンブラン 歌ってみた 【リツカ】
10:【鏡音レン】魔法の手【オリジナルPV】
11:【初音ミク】 モノクロ∞ブルースカイ 【オリジナル・のぼる↑】
12:【初音ミク】さくら【167】
13:PENGUINS PROJECT feat. 初音ミク「コバルトブルーの花嫁」
14:【彩】初音ミクの暴走*歌ってみた【ななひら】
15:【初音ミク】STAR☆【オリジナル曲】
16:初音ミクが歌うオリジナル曲→「ワールドアウトサイド」


PICK UP!!
上に挙げた楽曲から特にお薦めの曲をいくつか紹介しよう。


いろなPさんの4曲目のオリジナル曲。ぜひともヘッドホンでじっくり聴いてほしい。
細部まで丁寧な楽曲の作りで思わずホッとため息が出る。


2008年の投稿ということだが、今まで知らなかったことに後悔。
重厚な低音の響きに、海の底にいるような感覚に襲われ、とても神秘的だ。


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敏感な人の鈍感力

2010年05月27日 | essay
今は神経質な人、感覚が鋭敏な人にとって辛い時代である。その理由を挙げれば、(1)取り組む問題が高度に複雑化しており、注意すべきことの絶対量が増えている、(2)時代の流れが速く、すぐ次の問題が生じ、こだわっていると取り残される、(3)時間的効率性が重視されるようになってきている、(4)情報過多で、調べるにしても材料が大変多い、(5)社会の動きが不安定化し、人生設計のリスクが高まり、私生活での心配事も増えている、(6)居酒屋で話されるような陰口がネットで自分も見られるようになり評判が垣間見える、といったものがある。これでは色々なことが気になる人は心身が疲れても仕方がない。「鈍感力」という言葉が流行するのも頷ける。

このような時代の下では、神経質であるが故に不適応を感じてしまう場合があるだろう。このとき、通常は神経質であることを治そうとする。「くよくよ気にしないことにしよう」「考えすぎないようしよう」「切り替えて別のことを考えよう」「もっと気分転換をしよう」「おおざっぱに考えよう」…こんなことを自分にも言い聞かせるし、他人からも助言されることとなる。しかし、これで上手くいくことはあまりないのではないか。無知から知にはなれるが知から無知にはなれないように、自然と色々と気がついてしまう人に気がつかないようにしようというのは困難なことである。無理に抑えこんでも頭の奥では気がかりな状態が続き、心身に負担がかかるのである。

それではどうすべきなのだろうか。「いっそ気になることにとことんこだわってしまえ」というのが今回の提案である。気になったところは満足のいくまで突き詰めてしまうのである。こうすると、最初に挙げたようなマイナス面が出てくるのでは、という疑問が生じよう。非効率になるし、すぐには十分な成果は出ない。器用な人たちは先に行ってしまうように見える。しかし、ここで諦めないことが肝心である。本気でこだわった経験というのは身体に残るもので、次の気がついたことに対してだんだん応用が利くようになってくるものである。そうすると、最初は「あれもこれも気になるから全部やらなきゃ」という状態だったのが、「あれもこれも問題となるが重要なのはこれ」と選別できるようになってくる。深い分析をしながら効率性も確保できるようになるのである。そして最終的には、様々な問題について鈍感な人と同様に泰然自若とした態度をとれるようになる。不適応なのは「神経質すぎる」のではなく「神経質さが足りない」からなのである。

私自身法学の学修において、細かい点に気を配り自分の視点を加えて論じるという点から大学でそれなりに好ましい評価をもらっていたのだが、資格試験のような「色々と問題点はあるが全部取り組むと時間が足りなくなる」ような問題に対しての取り組みに大変苦労した。最初は細かい点までこだわりすぎるのが問題だと捉えて軽めに論じるにはどうしたらいいか様々試みた。しかし最終的には、こだわる経験が少ないが故に対応できていないのではないか、という考えに行き着いた。とにかく沢山の問題について徹底的に取り組む経験を積むことが結局近道になるである。

神経質である、感覚が鋭敏であることはひとつの長所でもある。それを抑えるより伸ばすことのほうが上手くいくだろう。そして、最終的に大きな大きな成果を出せるのは、こうして色々なことにこだわって突き詰める経験をした人である。最初は歩みが遅くても、準備期間が長いのだと信じて、とにかく取り組むことが大切である。経験を積み重ねて、一見新しい問題で周りが慌てる中で余裕をもって「想定の範囲内です」と以前よくきいた言葉を連発できるようになろう。


【参考】今回の記事の基本的なアイデアは泉谷閑示「普通がいい」という病(講談社現代新書・2006年)177頁以下の「螺旋的思考」から来ています。この本を題材にして以前も記事を書いたことがあり、様々な影響を受けています。これらの記事に共感してくださる方は読んでみるといいと思います。


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創作表現規制の第三の道

2010年05月24日 | 学習ノート
「悪影響」ということ

昨年から創作表現に対する規制の是非が頻繁に話題となっている。規制の結論ありきの動きで規制する理由が不分明であるが、Wikipediaを参照する限りでは、「児童に対する性的搾取につながる」という現実の犯罪への悪影響と、「性差別意識を助長する」という人々の意識への悪影響という点が挙げられていると把握することができる。今回はこの「悪影響」ということについて考察をしてみたいと思う。

ある表現がそれを鑑賞する人に対し何らかの影響を与えるということは、少なからず認められる。しかしここで注意すべきは、表現からもたらされる影響は作品のメッセージと必ずしも一致するわけではないということである。犯罪等を非難する作品であっても、それが犯罪を助長する影響を与えることもあるし、逆に一見肯定的な表現であっても、受け取る側はそれはよくないことだと否定的な意見をもつようになることだってある。

例えば、反戦モノとして個人的に一番印象に残っているのは、「戦場のピアニスト」で、ユダヤ人が特に理由もなく一列に並べられて地面にうつぶせに寝かされ、ドイツの兵士が順に頭を撃ち抜いていくというシーンである。これは全体の中ではそれほど大きな位置づけを与えられているシーンではないが、衝撃的であるため強く憶えている。この場面からは当然人倫を踏み外す行為への非難が生まれ、これが作品としての意図でもある。しかし可能性としては、兵士の側に感情移入して、人倫を踏み外す極限的な緊張感、人の命を弄ぶ神や悪魔のようになった万能感に浸ることも十分に考えられる。似たような非道が歴史的に実際に行われたということは、そのような感覚を現実に持ちうることを表している。

また、性的虐待のようなシーンで被害者が順応して享楽的になってしまうような話の筋になっていたとしても、読む側としては、その流れがあまりに不合理で説明がつかず、その非人間的な姿にゾッとしてこういうことはいけないとの思いを抱くことが十分に考えられる。現実でも、人を傷つけ、そのことでその人の性格を悪くするなど人格に悪影響を与えてしまったら大きな後悔を抱き、反省するだろう。極限的な帰結を見ることで、その代替的な経験となることもあるのである。

こうした表現の意図と影響の不一致は、目に見える犯罪誘発効果がテレビのニュースとワイドショーにあることからも明らかである。犯罪を取り上げるテレビは皆犯人を責め、被害者感情を思いやり、強い処罰を望むような内容である。それにもかかわらず模倣犯と呼ばれる者が登場する。また、文芸評論の観点からも、このことは以前紹介したテクスト論からの当然の帰結である。みんな表現物で作者の意図を自然に真に受けているというのなら、国語の問題でわざわざ作者の意図はどうかなんて訊かれることもないし、感想文でそれぞれの意見を書く必要もないのである。重要なのは、テクストたる表現を受け取る側のバックグラウンドなのである。


アディショナル・スピーチ規制の提案

賛美と批判に関係なく、社会的に望ましい方向にも望ましくない方向にも影響があるということになると、望ましくない影響を与えうる表現の一切を規制してしまうのがよいということにもなりかねない。しかし、犯罪報道がなされないことは社会を運営する上で有り得ないことで、清濁飲み込んだ自律した人間になるためにも完全に遠ざけるというのは考えられないことである。また、人間の差別感情は本質的に備わっていて、教育で差別はよくないこととの認識を作ることが必要であるとも言われている。何も知らないままであれば、子ども特有の残酷で思慮の浅い状態のまま、大人の力を持つようになってしまう。『日本の殺人』(ちくま新書)で描かれているような、犯罪への取り組みを一部の公務員の献身的な努力に頼りそ知らぬ顔で暮らす社会のままがいいというのなら別であるが、成熟した社会になるためにはそういうわけにもいかないだろう。

ということで、必要なことは、社会的に悪影響な行動・意識につながりかねないテーマが描かれている場合に、その問題を熟慮させる機会を設けさせ、受け取る側に慎重な判断を促すことである。ここで参考になるのは、タバコの警告表示である。タバコは健康を害するという側面があり、パッケージに具体的にどのような病気のリスクが高まるのか記載がされている。これは、広告について商品の魅力を伝えさせるだけではなく、悪い面も同時に買い手に伝えさせ、十分な判断をしたうえでの購入を促すものである。金融商品等にも同様の規制がある。このように表現を追加させる規制について何か用語があったと思うのだが忘れてしまったので、勝手に「アディショナル・スピーチ規制」と名付けることにする。

創作表現においても、現在成人指定マーク等の警告表示が任意の取り組みで行われているが、これはタバコの警告表示と同様、「購入するか否か」という時点での判断を促すものである。ここでは、さらに発展させて、購入した後の時点において、その表現から形成されうる考え方について慎重な判断を促すことを提案するものである。具体的には、犯罪被害・差別被害の実態、国際的な統計、社会全体で被害をなくすことに取り組むべきこと、等の情報を冒頭や結末に掲載させたり、小さい啓発冊子を同梱させるというものが考えられる。インターネット上での非商業的活動でも、リンクや注意書き等の取り組みをさせることが考えられる。

このような規制方法は、作者にとって作品の中身自体に介入されないというプラスの側面がある。冊子でフォローする以上好きに作れるわけである。セリフひとつひとつ言葉狩りに遭う必要もなくなるだろう。また、この規制はビジネス的にも美味しいものであると思う。制作側の追加のコストはそこまで高いものではないし、冊子を日本ユニセフが作って納入すれば、ぼろ儲け児童の権利擁護のための活動の大きな力となるからである。児童の人身売買は貧困が原因であることが多く、経済的にある程度の豊かさが保障されれば、被害を減らすことが可能であろう。このように経済的な要因と結びついている問題において、活動資金が十分に得られることは非常に大事なことである。

このような規制に対しては、効果として不十分でないか、という疑問があるだろう。ページは読み飛ばすことができるし、冊子も捨てることができる、誰も真面目に受け取らない、といった感じである。個人的には人間の判断力はそこまで劣っているとは思っていない。しかし仮に結果として不十分になったとしても、今の時点では実際どうなるかは予測はできないから、規制においてより制限的でない手段が考えられる以上それをまず試してみるべきである。表現を発信すること自体、それを保有していること自体を規制するというのはとても強い規制であって、副作用も考えられることから、マイルドな手段が探求されるべき必要性が高い。特に日本は、道徳を堕落させるから規制なんてことは有り得ず、宗教的バイアスが少ない国であり、合理的な規制方法を探究し提案していくことが国際社会における役割であると思われるのである。


まとめ

・規制の理由付けが不分明だと議論そのものがしにくいよ。
・作品のメッセージと受け取る側の影響は一致しない。
・しかしだからといって全てを規制するというわけにはいかない。
・重要なのは「熟慮させる機会」を作ることで、そのことを促す冊子やページを同時に発信させればいいのではないか。
・これなら作者は自由に書ける、日本ユニセフがもうかる、国際的な取り組みに貢献する、といいことばかり。
・規制としてはマイルドなものから実験していくべき。
・安易な追従ではなく、合理的な規制を提案するのが日本の役割である。


【6月26日追記】「スピーチ・プラス」は行動を伴う表現という意味で使われているので、「アディショナル・スピーチ(Additional Speech)」という意味にしました。Add(追加する)だとAd(広告)と重なりますので微妙。いやはや不勉強で。


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黒い歴史は白く塗れ

2010年05月23日 | essay
変えられない過去

過去にあった事実は変えることができない。そのことで苦しむことがあるだろう。何かの拍子にふと過去の失敗や恥ずかしい出来事を思い出して「うわああ」と叫びたくなる。このときは思いが過ぎ去るのを待つしかない。「命長ければ則ち辱多し」という言葉も古来から存在しているように、失敗の経験は長く生きれば生きるほど多くなり、叫びたくなる機会も多くなる。たいていは年とともに自意識や感受性が低下して気にならなくなってくるが、感覚が鋭敏な人はいつまでも苦しめられることになるだろう。

しかし一方で、変えられない過去に頼ることで自我を保つことができる場合も多い。過去の成功は揺るがないので、自信の基礎となるだろう。また、過去の失敗でも「他人のせい」であれば、その他人をずっと責め続けることで現在の苦境から目を背けることができる。これは気楽なことだ。アフリカが発展しない理由(Chikirinの日記)では、アフリカの政治家が自国の現状の悲惨さを過去の植民地化の結果であると考え、自分たちで発展しようという気持ちがないということが指摘されている。私たちの身近でも、家庭環境のせい、学校のせいという言説をよく目にする。家庭と学校で多くの時間を過ごしたのだから何かしらの影響があることは当たり前である。

これらの側面は現在苦境にあることへの逃避的な防衛反応であることが多く、問題解決に資することは少ない。いつまでたっても苦境の状態を引き延ばすこととなる上、着実に歩みを進める者たちと差が開いていってしまう。また、「他人のせい」にされた他人は、執拗に攻撃を受けて心身疲労困憊してしまうことになる。気が晴れるまでの一時的な反応ならいいが、継続すると誰にとってもいいことはない。


変えることができる「評価」

ここで意識すべきことは、事実は変えられなくても、それに対する評価は後から変えることができるということである。失敗や恥ずかしい出来事がいつまでも忘れたいことでありつづけるのは、その失敗が現在の自分に生かされていると思えないからではないだろうか。失敗をするということは、それだけ挑戦したということで、素晴らしいことでもある。そして、失敗を分析・反省して再挑戦したり別の道で生かしたりして成功につなげることができる。そうなれば、過去の失敗は「成功のため不可欠だった通過点」という位置づけになり、忘れたいとは思わなくなるだろう。失敗したことに傷つき、その分野から逃げてしまうことばかり繰り返すと、忘れたい過去がどんどん積み重なってしまう。どこかで対峙する必要が出てくる。

例えば、就職活動等の面接で失敗しても、その反省点を心がけて次の面接で思わぬ好評価が得られたりということがある。また、典型的な忘れたい過去として、思春期に思い描いたファンタジーの世界を現実の行動に出してしまう、ということがある。自分が勇者だと思ったり、というやつだ。このような過去ですら、発展させて文学作品を作ろうとしたり、映画や文芸の議論・評論をしたりするときに生かすことができる。また、自分の子供が思春期になった頃にその気持ちを理解し、適切な教育を施すことができる。何よりも大切なのはこれからの自分が成功の実感をもてるよう取り組むことであり、この過程で「抹消したい過去の私」から「愛すべき過去の私」に変わるのである。

成功の実感を得るというのは、自分の考えをただ変えるだけでは足りず、他者からの評価を勝ち得ることも少なからず必要である。これは人それぞれの考えがあることであるから、常に評価が得られるとは限らない。失敗が続いてしまうこともあるだろう。失敗してすぐは気分を晴らすため叫んだりしてもいい。しかし少し休んだら、常に転がっているチャンスに向かって挑戦することが大切である。その取り組む姿勢があれば、周囲からも応援され、必ずや自分で満足の行く結果に辿り着くことができるのではなかろうか。いわゆる「黒歴史」は後から白く塗りなおすことができるのである。


ちょっと反省を

最近エッセイに自分語りを入れていなかったが、今回は少し。最近の記事は、自分としての充電期間の成果を試すというような位置づけである。表現の自由の話も法科大学院の授業で当てられたときに満足のいくやりとりができなかった個人的な失敗を解消するためのものという側面もある。そのためか、直接会う友人に対しブログの感想をよく尋ねてしまう。もともと長文で読みにくい内容のものを、それぞれの忙しい生活の中で読んで評価してもらうことを期待してしまうというのは自分勝手というものだろう。申し訳ないです。


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文化的・芸術的表現の優越性

2010年05月20日 | 学習ノート
【概要】憲法学にいう二重の基準論の根拠についての議論を振り返る。その上で、根拠の一つとして挙げられる民主的政治過程論について、公共圏の観点から具体化し、文化的・芸術的表現にも強く妥当することを主張する。また、その理由づけから他の問題についても考え方の指針が得られないか検討する。


1 二重の基準論の実質的根拠

1.1 二重の基準論とは

日本の憲法学では、「二重の基準論」という理論がある。ある法令等が憲法に違反しないか検討するにあたり、いかなる基準により憲法違反になるか判断するか、という違憲審査基準論が問題となる。その違憲審査基準論を考える上での指針として、精神的自由(表現の自由・思想良心の自由等)を規制するものに対しては、経済的自由(職業の自由・財産権等)の場合よりもより厳格な審査基準が必要である、というものがある。これが二重の基準論である。

二重の基準論は一般論としては判例・実務でも承認されているが、その根拠が何であるかについては議論が確立したとは言えない。そのために必ずしも二重の基準論が十分に反映されたとは言えない事件の解決が見られる。根拠としては、経済的自由の判断は立法府が適しているといった裁判所の審査能力を理由とする機能的なものと、精神的自由には本質的に優越性があるという実質的なものに分けられる。ここでは、後者の実質的根拠について検討をする。そして、精神的自由の中でも議論の主戦場となっている表現の自由を想定して進める。

1.2 自己実現と自己統治

実質的根拠として広く言われているのは、表現の自由は(1)自己実現の価値を有する(2)自己統治の価値を有する、ということである。(1)を具体化すると、個人が人格を発展させ自律的に生きるためには、自ら意見を自由に表明し、多様な考え方に接する必要があり、個人の自己実現や自律に奉仕している、というものである。この根拠に対しては、表現の自由が自己実現につながるのは確かであるが、職業の自由といった経済的自由にも自己実現に資する面があり、とりわけ表現の自由を厚く保護することにはならないのではないか、という批判がある。

(2)自己統治の価値とは、民主的政治過程の維持とも言われる。表現の自由が侵害されると、政治についてよりよく判断するための情報が奪われることとなり、民主的な政治過程で回復することが困難になる。対して経済的自由の規制においては、たとえ不合理な規制がされても民主的な政治過程で回復が可能であり、そのことが望ましいとも言える。この根拠に対しては、民主的政治過程の維持に照らすと政治的な表現の自由しか保護されず、表現の自由やその他精神的自由の保護の根拠としては不十分であるという批判がある。また、経済的自由も表現の自由を実質化するために必要であり、表現の自由のみ厚く保護するという帰結は知識人特有の偏見であるという批判もある。

1.3 思想の自由市場論・国家の疑わしい動機

このような批判を受け、以上の2つの根拠では不十分と考える学説は、他の根拠を持ち出す。代表的なものは(3)思想の自由市場論である。真理に到達するためには真実か誤りか問うことなく自由な競争をさせることが必要であり、表現の自由に対する規制は忌避されるべき、というものである。これは学問的な表現について優越性を根拠付け、(2)民主的政治過程論では不十分とされた領域を捕捉する意義がある。もっとも、この根拠に対しては、市場経済の類推を持ち込んでいるが、市場経済は独占禁止法等の規制が当然に伴うものであり、同様に、例えば私人が他人の思想を抑圧するような行為をすれば国家がそれを防止するため介入することを正当化するのではないか、という疑問がある。

また、(4)国家の疑わしい動機という根拠も出されている。表現の自由を規制する国家の側に着目し、歴史的経験上、表現の自由を規制しようとする国家の動機は批判を抑圧し体制を維持するためのものであり、そのような疑わしい動機がないか厳格な審査が必要である、というものである。これに対しては、動機が疑わしいことは審査の「慎重さ」を要求すれど「厳格さ」を必然的に求めるわけではないのではないか、という疑問を個人的に抱いている。立法事実の慎重な審査でも裁判所をすり抜ける危険があるから、予防原則に則って厳格な基準が必要であるというステップが必要である。しかし立法事実の偽装は各種距離制限規定など経済的自由で華やかであり、裁判所の審査をすり抜けた例も観察できる。これは裁判所の審査能力が経済的自由のほうが低いからであって、むしろ経済的自由に予防的に厳格審査を要求するのが適しているように見える。それでも精神的自由の規制に予防が必要と言うのなら、別の根拠を援用する必要があるのではないか(そして民主的政治過程論に行き着くように思う)。

1.4 民主的政治過程論の再評価

以上のように議論の状況を自分なりにまとめてみたが、今回私が主張したいのは、(2)民主的政治過程論で十分じゃないのか、ということである。特に、民主的政治過程論では政治的表現以外の自由を基礎付けるには不十分というが、文化的・芸術的表現の自由であっても民主的政治過程論で理由付けが可能ということである。その理由を一言で言えば、「文化的表現は複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供しており、そこで形成される人間関係が個人の政治的認識を高める作用をしていて、民主的政治過程の不可欠な基盤を作っている」ということである。折しも現在は民主的政治過程論の再評価という方向のようであり(大河内・ジュリスト1400号60頁以下参照)、今回の主張は、自己実現の価値のある表現と民主的政治過程とは密接に連関し、政治的表現以外の表現でも同じく保障されるべきという指摘(芦部『憲法学Ⅱ』222頁)の具体化を試みるものと位置づけることができる。


2 文化的表現と民主的政治過程論

2.1 文芸的公共圏・政治的公共圏

基本的なアイデアは、社会学の定番で出てくるハーバーマス『公共性の構造転換』である。ここでは、18世紀から19世紀初頭にかけてのイギリス・フランス・ドイツで起こった出来事として、「文芸的公共圏」から「政治的公共圏」へと成長していき、教会と君主が支配する封建社会から市民社会へと移行したことが指摘されている。

「文芸的公共圏」とは、文学作品を共通の関心事として語り合う空間のことを言う。この文学作品をめぐって交わされる言論においては、(1)平等性―社会的地位を度外視して対等な議論が行われるべき、(2)自律性―教会や国家の権威による解釈の独占を排除し、相互理解の下で自立的・合理的に解釈をする、(3)公開性―文学作品を入手する財産と議論するための教養がありさえすれば、全ての私人が公衆として参加できる、というルールが形成される。このようなルールの下では、身分を超えた自由な議論が多く交わされることになる。それはやがて政治の話題を議論する場になり、公権力に対する批判も行う公論形成の空間としての政治的公共圏へと成長するのである。

2.2 日常生活へのリアリスティックな認識

以上のような文芸に関する言論が政治的言論の基盤を作るという過程は、現代の日本社会における日常生活を見ていても大いに観察することができる。「政治と宗教の話はするな」という言葉があるように、政治の話題というのは個々人の譲れない信条と絡み合い、相互理解ができていない人間関係の上で話題となれば場を壊し、関係の存続を難しくするという性質がある。日常生活において他人と政治の話題を語るとすれば、本・音楽・スポーツ等文化活動を通して気のおけない関係となっている場合に、生活体験やいつもの本・音楽・スポーツ等の話題から入り、そこからニュース等の話題を経て感想や意見を論じる、という順序をとることが多いであろう。最初から最後まで政治の話題しかしない人間関係や集団というのは、明らかに異質である。文化的な基礎をなくして政治的な認識を高めることは通常想定できないと言える。

そして、文化活動を通して得られる人間関係というのは、年齢も職業も様々で多様性をもたらす可能性を秘めている。これは、文芸的公共圏が平等性・自律性・公開性をもたらしたことと共通している。音楽や演劇の公演会場で出会う人は、職業生活では出会うことのない人であろう。このブログに検索で辿り着いた方も、私とは全く違う仕事や専門をもっていることであろう。こうして多様な人と触れるということは、民主主義を実質化するためには非常に重要であり、個人の政治認識を高めることに大きく貢献するものである。

このように、文化・芸術の極めて重要な機能として、「同一の興味」の下で多様な個人を接着させ充実した人間関係を作ることが挙げられる。芸術表現については、「魂の避難所となる」「過酷な競争において息をつぐ機会を提供する」といった意義が指摘されているが(駒村「国家助成と自由」『論点探求憲法』168頁以下)、あまりに孤独で消極的な感じがする。仮に日本において市民社会が未成熟であるとすれば、長時間労働により多くの人にとって文化・芸術が逃げ場になるにとどまり、それ以上の個人間の評論・議論の場の形成という機能に参加できていないという点に理由を求めることができるであろう。

以上のように個人を接着させるという機能に着目すると、文化的・芸術的表現が規制・侵害されるとそれによって個人間の親密な人間関係の形成の機会が奪われることとなり、個人が政治認識を高めることができなくなる。そして、このことは国民が規制を政治過程で修正する力自体を奪うものであって、政治過程による回復が困難であると言える。かくして、文化的・芸術的表現は、民主的政治過程論そのものが妥当する領域であると考えられるのである。


3 展開と射程

3.1 経済的自由との区別の正当化

以上の議論では「政治的表現以外の表現が射程から外れる」という民主的政治過程論への批判に対する再反論が完了したことになる。続いて、経済的自由も同様に民主的政治過程に貢献しているという批判に対しても再反論できないかを検討してみよう。この部分については十分に考えが練られてはいないが、経済的自由からもたらされる個人の接着は第一に経済的利害に基づくものであって容易に政治的公共圏に昇華するものではないこと、文芸的公共圏ないし文化活動に参加するための財産の取得は生存権の問題として位置づけることが可能であることが指摘できる。このことからすれば、民主的政治過程の基盤としての性質には自ずから差があり、審査基準として差を設けてもよいと考えられよう。

これらの中間領域としての営利的表現の自由ついても考えてみよう。文化活動であっても、大規模・高い質・継続性を備えようとすれば経済活動としても成り立たせる必要が出てくる。そのために広告等営利的表現を行うことは避けられないことであり、この場合文化的表現と営利的表現の区別は困難になる。もっとも、この場合でも経済活動としての側面がある以上、財の取引のルールが妥当し、誤った情報を与えて判断を誤らせてはいけない等の制約は当然に伴うと言える。区別の困難性から表現の自由として厚い保障の領域に一旦は属するが、経済活動の側面から一定の制約は免れず基準が一段階落ちることも正当化されると考えられる。

3.2 スポーツ等文化活動の自由

文化的表現の性質として「複数の個人が経済的利害なしに結びつく機会を提供すること」があり、これが民主的政治過程の基盤をなしていると論じてきた。このような性質はスポーツのような文化活動の自由についても認められる。先の論述で「スポーツ等の話題」としたのはこうした理由である。スポーツをする自由というのは、13条の幸福追求権の一貫として保障がされ、施設の必要性は社会権の領域として認識されるのが通常であろう。この場合、保護の強さとしてはあまり期待できない。そこで、文化的表現と同様の機能を有していることにより、強い権利保障を基礎付けることが考えられる。

しかし、スポーツをする自由は侵害の危険に晒されることは少ないと言える。昔は強い兵隊の獲得のため、今では国民の健康確保のため、歴史的経験として、運動をする・スポーツをするということが奨励されど抑圧されることはあまりなかった。この観点から表現の自由一般よりも保護の度合いが落ちる可能性がある。歴史的経験が解釈論における理由付けとして意味をもつことは、憲法21条2項「検閲」の最高裁の解釈や、憲法14条1項後段列挙自由の限定列挙説の理由付けや、憲法31条以下の権利の重要性を語る上で用いられていることからも明らかである。もっとも、戦時において敵国発祥のスポーツを禁止するような事態は生じうる。この場合は民主的政治過程論との関係から強い保護を主張することが要請されよう。


4 おわりに

他にも射程論として近時制約が強まっている性表現の自由についても検討したかったが、議論が分散してしまうおそれがあるので、またの機会に論じることとしたい。

以上の問題について認識をさらに深めるべく、この記事を読んで、批判や足りないところがあると感じれば、アドバイスをいただきたい。また、憲法学では既に同様の指摘がなされているといった情報があれば、参照すべき文献等をぜひともご教示いただきたい。コメント欄あるいは右上のメールフォーム(「メッセージを送る」をクリックすると登場する)、さらにtwitterのアカウントも試しに作ってみたので、活用していただけたら、と思う。


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不正直な感情、利用される理性

2010年05月17日 | essay
「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」

「なぜ勉強するのか」という問いは親子の間でよくなされることだろう。「勉強しなくたって立派な人になれる」といった問いを子どもがする。個人的には、「じゃあ勉強以外で立派になれる道を具体的に考えてるの?」という返しが効果的だと思うのだが、実はこうした理詰めのやりとりは大して意味がない。このような問いかけが子どもからなされるということは、たいてい今の勉強に疲れているか限界を感じているのである。心の奥で勉強に疲れた!やりたくない!というものがあって、都合のいい言い訳に飛びついているのである。したがって、ここで論破しても仕方がなく、適当にやり過ごしておいて、休みや勉強のやり方の再考をさせて、疲れをケアするのが最もよい方法である。※

このように目の前の理詰めの議論が実は問題の本質から外れているという場面はよくある。夫婦喧嘩で、夫は問題を理詰めで解決しようと説得するのに対し、妻は感情的に納得できないというすれ違いがよく生じる。ここでも喧嘩の種となった問題は大して重要でなく、日常の小さな不満がたまっているだけということがほとんどである。いつもの分担を代わりにやってあげたり、感謝の気持ちを表したりすれば、自然と解決されるだろう。それでも議論ばかりに終始していると、「ちゃんとした思考ができない妻」「理解の足りない夫」とお互い呆れて終わりとなり、溝が深まってしまう。


自己防衛と誤る理性

それでは、なぜ疲れた!不満だ!といった感情が直接問題と上がることなく、一見理性的な議論に問題が転換されているのだろうか。正直に問題の本質となる感情を表現すれば、無用なすれ違いも生じないのに。私は、これは「自己防衛」の働きであると思っている。勉強などで「これが自分の限界だ」と認めることは非常に辛いことである。できるだけ認めたくない。日常の小さな不満も、口に出せばこんなことも我慢できないなんてダメな人間だ、と言われてしまう。これも認めたくない。そこでもっともらしい理由付けをつけて、理性的な話にしようとするのである。しかし、感情に利用された理性の働きは、誤りを犯していることが多い。

例えば、受験など大きな目標に向かって取り組んでいるとき、大きなプレッシャーによりストレスが生じ、ツライ!という心の叫びが次のような誤った思考を生む。(1)目標の過小評価と(2)他の可能性への過大評価である。(1)目標の過小評価とは、仮に成功したとしてもいいことは大してないんじゃない?と疑問を持つ、いわゆる「すっぱいブドウ」の思考である。目標をクリアした人たちがその後苦境に陥っているという情報、先行きが暗いという情報が過度に目に付くようになり、取り組む価値は少ないんじゃないか、という結論を導きがちになる。しかし、現在苦境や先行きの明るさがないとしても、それが永続するとは限らない。「変化」への着目を忘れるという理性の誤りがある。将来、プラスにもマイナスにもどう変わるかはわからないのである。ここで確率計算に励むのは生産的でなく、目の前の目標を突破することが最も大事であると認識しておくべきである。

(2)他の可能性の過大評価とは、自分は今こんなことやってるけど、実はもっと違う才能があって、そっちにいけば成功するんじゃないか、といった期待を生じることである。(1)と相俟って、こんな馬鹿馬鹿しいことに取り組んでいるより、別の道に行くべき!という結論を導くことになる。しかしこれには、別の道で成功するには今以上の大変な努力が必要であることを見逃しているという誤りがある。単純に必要な努力を見積もれば、一歩手前まで来ている現在の目標が最も効率がよいのは明らかである。別の道では先に取り組んでいる人たちがいて、一からのスタートで彼らと伍して最後に勝つためには、何十倍の努力が必要である。別の道について知識が少ないために、安易な皮算用をしてしまうのである。

このように冷静に考えれば誤りとわかる思考でも、多くの人が陥ってしまいがちだ。特に、自分が理性的で、感情や生活を統御できていると確信している人ほど陥りやすい。理性が犯す誤りに対して完全に無防備だからである。「我思う、故に我あり」という言葉があるが、個人的には、「我感じる、故に我あり。我思う、故に我守られる。」が実際のところではないかな、と考えている。


感情をケアする

ということで、問題や課題に取り組むに当たっては、感情をケアすることが非常に大切である。子どもの勉強の場面でも述べたように、ひと休みするというのはひとつの方法である。しかし、休むことや遊ぶことは、それだけでは目標に近づかないという面がある。あまり長く休んでいては、益々目標から遠ざかるような気がして、次の感情の負荷を生んでしまいかねない。これでは悪循環に陥ってしまう。

そこで、極めて重要なのは「小さくてもいいから成果や成長を実感できることをする」ことである。単純作業でもできる簡単な問題集や本の精読を行い、これだけやった!身についた!という実感を得ることである。これを何回も繰り返していく。クリアできそうな小さな目標を立てて、こなしていくのである。基本に取り組むことで、新たな発見もある。楽しさも得ることができる。結局はコツコツと積み重ねていくことが大事というありきたりな結論なのだが、疑問を抱かないで行う場合と疑問を抱いた上で一回りして辿り着いた場合とでは、違うものだ。


※以前話題になった「勉強をした方がいいと断言できる4つの理由」のはてなブックマークコメントで同様のことを書いた。なぜ勉強するのかきちんと語る場合には、この記事やこの記事に対して様々な人がつけたコメント等を参考にするといいと思う。


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更新再開/KOKIA

2010年05月17日 | ミュージック
諸事情のためブログの更新をしていませんでしたが、これからまた更新していきます。話題はたくさん考えているので、積極的に活動できると思います。コメント・トラックバックも再開します。迷惑コメント・トラックバックもあるので承認制ですが、お気軽に書き込んでください。gooあしあとの訪問も滞っていましたが、いつもどおり訪問して読みたいと思います。

~~

お知らせだけでは物足りないので、最近よく聴いている音楽を紹介します。トップレベルの歌唱力と魅力的な楽曲が揃うKOKIAさんです。00年前後から活動していたようですが、この頃の自分はクイーンやデビッドボウイといった昔の洋楽にはまっていたので最近まで知りませんでした。ちょっと後悔しています。

【良音質】 KOKIA 10曲セレクション 【入門編】


一般的な認知度ではまだ伸びしろがたくさんあるようで、宣伝効果を重視してか、ネット上にはたくさんのPVやライブの動画が投稿されたまま黙認状態のように見えます。上の入門の10曲紹介も3年近く残っています。自分もこの動画で知るようになったのですが、どの曲も本当に素晴らしいです。中でも特に好きなのは、「ありがとう…」「調和」「人間ってそんなものね」です。

1曲目の「ありがとう…」一番の有名曲のようです。この曲を聴いて衝撃だったのは、か弱さ・繊細さを感じさせるという方向での歌唱力の高さを感じたことです。歌唱力のある実力派の歌手だと声量が大きく、声も太めで「これでもかっ」という感じで歌うイメージをもっていたのですが、この曲では平原に生える細長い植物のような、人の心の機微を感じさせる声を聴くことができます。「ありがとう…」の「う…」の最後の消え入るような部分などうわーって感じになりました。しんみりとした曲調によく合っています。

3曲目の「調和」は、神秘的という言葉がぴったりな曲です。人間と自然の共存をテーマにしたもので、全体的に密林の最奥のような空間を感じさせます。後半はアナグラムのような歌詞となっており、自然の鼓動がどんどん迫ってくる感覚を得ます。ここでは声を震わせて、1曲目のようなか弱さ・繊細さとは違った表現がされていて、歌い方を曲にあわせる幅の広さに圧倒されました。ライブ映像では特に圧倒的なパフォーマンスを見ることができます。

9曲目の「人間ってそんなものね」は歌詞が琴線に触れます。特に好きなフレーズを引用してみましょう。歌詞全部はこちら(goo音楽)を参照してください。

 「迷惑をかけるのはイヤだなんて一人で歩いて来たつもりなの?」
 「人間って…助け合って 肩貸し合って 少し進んでは立ち止まって…」
 「…人間ってそんなものね」

日本では他人に迷惑をかけることが特に忌避されているように見えます。迷惑をかけず一人で十分に生きていると、自分が成功しているという感覚を得るのではないでしょうか。しかしそんなことは現実にはできない、あるいは気がついていないことがほとんどです。「迷惑をかけないべき」が強すぎて無理をしているとき、一人でできないことを受け入れていいよ、と諭されるとホロっときます。そして、助けてくれた人に対して贈るべき言葉は「すみません」ではなく「ありがとう」なのです。ここで「ありがとう」という気持ちが言えなかった心残りを歌う1曲目の「ありがとう…」に戻ると感動も高まるのではないかと思います。

ということで、まずは「調和」と「人間ってそんなものね」が収録されている「trip trip」というアルバムを入手しようかなと考えています。もっと広く知れ渡るようになり、カラオケでガイドボーカルがつくくらいになって欲しいです。同時に宣伝効果が果たされたとして動画が削除されるようになるかもしれませんが。


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