「今の子供は…」なんてことはよく言われるけれども、自分としては素直に羨ましく感じる。何かに興味をもつとして、簡単に情報が得られ、仲間もすぐ見つけることができる上、より高度なものを作ることができる道具も揃っているからだ。
殊に音楽の分野では、近年の技術の進歩は目を見張るものがある。朝日新聞社がyoutube公式チャンネルで最初に取り上げたのが「初音ミク」を代表とするVOCALOIDであった。個人でパソコン上で作曲し歌をつけて一曲完成させることができる、というもので、アニメっぽいキャラクターで人気があるだけと甘く見てはいけない。ここ一週間くらい色々とみてみると、最初に取り上げられるだけの強い魅力があることがわかった。
asahi.com 世界に広がる仮想歌姫「初音ミク」 新進クリエーターに迫る
インターネット上では、オリジナル曲の週刊ランキング等の集計も存在し、曲を作る人、歌詞をつける人、イラストを書く人、また彼らを応援する多数の視聴者と、ひとつの文化が形成されつつある。また注目すべきは、基本的にどの曲も音声ファイルが公開されており、無料で手に入れることができることだ。人気が出た曲はカラオケになったりCDになったりして、応援する気持ちで購入するというサイクルになっているようだ。
私は中高一貫の男子校に通っていたのだが、文化祭も皆熱心に取り組み、多くの人がクリエイター然とした意識をもっていたようにみえる。男子校ということで周囲の目を気にすることなくそれぞれの鋭い感受性を発揮していた。そういう彼らも大学に入り、年を重ねるにつれ変わっていった。当時はgeocitiesでCGなどを載せたり、紙に描いた絵を載せたりという方が多かった。もし当時に今のような環境が揃っていたら、どんな作品が出来ていただろう、想像するだけでも楽しい。
【9月30日追記】動画のリンク切れが多かったので楽曲紹介部分を削除しました。YouTubeの再生リスト集にお気に入り曲をまとめたのでご覧ください。
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殊に音楽の分野では、近年の技術の進歩は目を見張るものがある。朝日新聞社がyoutube公式チャンネルで最初に取り上げたのが「初音ミク」を代表とするVOCALOIDであった。個人でパソコン上で作曲し歌をつけて一曲完成させることができる、というもので、アニメっぽいキャラクターで人気があるだけと甘く見てはいけない。ここ一週間くらい色々とみてみると、最初に取り上げられるだけの強い魅力があることがわかった。
asahi.com 世界に広がる仮想歌姫「初音ミク」 新進クリエーターに迫る
インターネット上では、オリジナル曲の週刊ランキング等の集計も存在し、曲を作る人、歌詞をつける人、イラストを書く人、また彼らを応援する多数の視聴者と、ひとつの文化が形成されつつある。また注目すべきは、基本的にどの曲も音声ファイルが公開されており、無料で手に入れることができることだ。人気が出た曲はカラオケになったりCDになったりして、応援する気持ちで購入するというサイクルになっているようだ。
私は中高一貫の男子校に通っていたのだが、文化祭も皆熱心に取り組み、多くの人がクリエイター然とした意識をもっていたようにみえる。男子校ということで周囲の目を気にすることなくそれぞれの鋭い感受性を発揮していた。そういう彼らも大学に入り、年を重ねるにつれ変わっていった。当時はgeocitiesでCGなどを載せたり、紙に描いた絵を載せたりという方が多かった。もし当時に今のような環境が揃っていたら、どんな作品が出来ていただろう、想像するだけでも楽しい。
【9月30日追記】動画のリンク切れが多かったので楽曲紹介部分を削除しました。YouTubeの再生リスト集にお気に入り曲をまとめたのでご覧ください。
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裁判員制度が21日から始まった。私自身はこれまであまり大きな関心を抱いてはいなかったが、時間に余裕も出来たので、裁判員制度を批判する記事を素材に考えてみることにする。
「算数の出来ない人が作った裁判員制度」
ここで語られる批判は多岐にわたっているが、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ない、(2)経験できる国民の数が少ない、(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、(4)アメリカの陪審制も国民に信頼されていない、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、(6)弁護士の演技力が判決を左右することになる、(7)事前の実験がされていない、という点に整理することができよう。このうち、いくつかの点について検討してみる。
裁判員法の趣旨
批判記事は、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ないという指摘の前提として、審議会の意見書を持ち出して国民主権・民主主義の理念を非常に重視しているが、最終的に出来上がった裁判員法の1条は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」というのを趣旨として掲げており、国民主権・民主主義というのは挙げられていない。それもそのはず、人権というのは多数者の意思でも覆せない権利があることを内容とするものであり、人権を守り時に民主主義と対決する判断も示す司法においては、民主主義を直接の目的にすることはできないのである。
国民の司法参加の民主主義的意義は、国民自身が最終決定をするというものではなく、司法判断に正統性を与えるものである。裁判所が単独では批判にさらされる恐れのあるような事件、政治的問題に関わる事件について積極的に判断するかどうかは、民主主義的基盤の有無により大いに変わってくる(もっとも、民主主義的基盤確保の手段として司法参加ではなく裁判官の選挙制度を採用すべきという議論はある)。裁判員制度は、行政による事前規制から司法による事後規制へという「小さな政府」を目指す流れの中で、その足がかりとなる意義を有しているといえよう。
しかし批判記事は、民主主義の意義を誤解あるいは過度に重きを置いた前提のためか、裁判員に過大な要求をしているきらいがある。裁判員は職業裁判官と協力して裁判をする者であって、代わりになるわけではない。代わりというならば突き詰めれば司法試験に合格する程度の能力が必要だし、憲法上の裁判官の規定が適用されなければならない。100人はいないと平均化できないといった議論は、そのような多数の参加者を採用している国が皆無であることからも的を得ていないことがわかる。むしろ基本的人権の保障と真実の発見という刑事裁判の二大目的を実現するには慎重な審議が必要であり、そのためには集団の規模を制限する必要がある。
その反面で選ばれた者の適正な判断を確保する必要があるが、批判記事では、裁判員の選定において判断力を客観的にチェックする仕組みがないとされている。しかし、裁判員法36条は被告人・検察官双方から理由なく不選任を請求できる旨の規定を置いている。これは偏りをなくすために機能しうるものであり、アメリカでも採用されている制度である。これについては、日本では社会の同質性が高く人種等の深刻な差別問題が顕著でないことから、過剰な制度ではないかとの疑問が出されているくらいである。批判記事は、この制度について触れていない。選定以外の場面においても、一人でも職業裁判官の賛成がなければ評決が成立しないこと(67条1項)、判決書で判断の理由が明らかにされること、といった適正な判断を確保するための制度が用意されている。
一方、国民の理解と信頼は裁判員法1条に掲げられている直接的な法の目的である。批判記事では、この点について、(2)経験できる国民の数が少ない、また、守秘義務のせいで期待できないと指摘している。しかし、模擬裁判を経験した人へのアンケートで「やってみてよかった、勉強になった」という回答が非常に多かった、という報道が流れているが、この報道があるかどうかで裁判所に対する関心や印象は大きく変わるものであろう。守秘義務というのも何でもかんでも適用されるものではなく、こうした参加した感想が語られるだけでも意味はあるように思う。
量刑のバラツキは刑法を手直しするのが筋
(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、という指摘について、批判記事では、裁判にとって最も大切なことは同じような犯罪に同じような刑が科せられること、ということが出発点となっている。これは法律を学んでいる人にとっては違和感があるもので、「事件に同じものなどひとつもない」というのが原則であり、バラツキがあまりにも大きいと不公平なので量刑の目安を作る、というのが思考の流れになる(アメリカでは量刑ガイドラインが作られた)。
例えば、同じ飲酒運転でも社会問題になった後で重い量刑が課されるようになっているが、格別問題視されていない。社会の関心事となるか否かでは「同じような事件」ではないというのかもしれない。では、同じ窃盗でも多発地域でなされたものかどうかは影響するのか、事故で指が使えなくなった被害者の職業がピアニストかどうかは影響するのか、問い始めたらキリがない。また、事実が同じであっても、農民は所有権を、軍人は名誉を、商人は信用を最も大事にするとイェーリングの著作の中にあるように、その評価は変わってくるものである。日本広し県民性も異なるのであって、東京と大阪の裁判所で判断の傾向に違いがあるというのもよく知られた話である。刑罰は応報・一般予防・特別予防の見地からその時の(地域)社会にとって妥当と言えるものを決して行くものであり、何が正しいと言い切れるものではない。
量刑のバラツキの問題は、刑法などの刑事実体法の定め方の問題であるように思う。現在は、職業裁判官の専門判断を想定してかなり量刑を幅広く設けている。殺人は刑法199条の一条でほぼ全ての殺人を包摂しているが(厳密に言えば240条とかあるけど)、アメリカでは一級殺人、二級殺人といった段階ごとに量刑が分けられている。裁判をする者の能力に信頼ができないなら、法律で量刑の範囲を段階的に決めておくのが筋である。「量刑相場」というのは、なぜその量刑なのかを突き詰めていくと特に理由はない。「このくらいが妥当かな」という判断がなされてきて、以後その空気を読んで決めていくようなものである。公平性を最優先に確保するというのなら、法的拘束力のある基準が必要になるだろう。
裁判員の判断力について
(6)弁護士の演技力が判決を左右することになるという指摘について、シンプソン事件という有名な事件が一件だけ取り上げられているが、アメリカにおいて弁護士の巧拙によって評決が左右されたと推測されるのは全体の0.25%であるとされる(浅香『現代アメリカの司法』30頁)。シンプソン事件の刑事事件は人種差別という問題が絡んだ特殊な側面を有しており、この一件だけを取り出して危険を誇張するのは公平な論じ方ではないであろうし、数字を無視したものである。演技に注心するというのは、単に事実を言うだけではなく、裁判員の正義感にも訴えかけなければ説得することが出来ない、というプラス要素が必要になることから生まれたものであり、無から有を生み出すようなものではないであろう。従前のような書面のやりとりで大部分を済ます裁判と較べてどちらが望ましいかは、各人の判断次第である。
また、アメリカの実証研究において、集団としての陪審が職業裁判官よりも事実認定能力において劣っているとは示されない、という結果が出ている(同)。一人が感情的になっても、合議において説得させることができなければ多数を構成することは出来ない。また、日本ではアメリカのように評決について理由を付さなくていいわけではなく、裁判官による判決書が作成されることから、判断を下すには説得的な理由を考えなければならないし、被告人は判断において不合理な点を吟味して上訴して争うことが十分に可能であると考えられる。これは、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、という問題への対応策として働いている。もっとも、運用において判決書の記載が簡略化される可能性があり、運用を注視する必要があるだろう。
最後に
個人的には、裁判員制度は反省を踏まえて手直しされていくだろうが、全体的には上手くいくだろうと楽観視している。日本は他の司法参加の制度がある国と比較しても国民の教育程度が高水準にあるにもかかわらず、個々人の能力についての信頼が全くないように見える。これは、日本社会がムラ集団の縛りによって秩序を保っていて他人への信頼度が低いという社会心理学の知見を如実に表しているように思う。しかし一方で、ムラ集団の「恥の文化」の下では、いったん選ばれて合議に顔を出すことになれば、恥をかかないために皆必死に取り組むことであろう。
ところで、読者の注目を集めるためか、「算数の出来ない人が作った」と刺激的なタイトルがついている。導入部分で数学嫌いが法学部を選択するという話があるが、基本的に法学系は経済学系より入試において難関であり、数学が苦手という消極的な理由で文学系ならまだしも法学系に挑戦する人ってそんなにいるのだろうか。法学系の人たちの傾向として理念が先行してコスト意識が足りない、というのはあるかと思うけれど。裁判員制度も目的の割に結構コストがかかる制度と言えるだろう。
【6月6日追記】文章のつながり等を修正して、参照元の記事にトラックバックを送りました。
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「算数の出来ない人が作った裁判員制度」
ここで語られる批判は多岐にわたっているが、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ない、(2)経験できる国民の数が少ない、(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、(4)アメリカの陪審制も国民に信頼されていない、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、(6)弁護士の演技力が判決を左右することになる、(7)事前の実験がされていない、という点に整理することができよう。このうち、いくつかの点について検討してみる。
裁判員法の趣旨
批判記事は、(1)偶然選ばれた6人では公平な判定は出来ないという指摘の前提として、審議会の意見書を持ち出して国民主権・民主主義の理念を非常に重視しているが、最終的に出来上がった裁判員法の1条は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」というのを趣旨として掲げており、国民主権・民主主義というのは挙げられていない。それもそのはず、人権というのは多数者の意思でも覆せない権利があることを内容とするものであり、人権を守り時に民主主義と対決する判断も示す司法においては、民主主義を直接の目的にすることはできないのである。
国民の司法参加の民主主義的意義は、国民自身が最終決定をするというものではなく、司法判断に正統性を与えるものである。裁判所が単独では批判にさらされる恐れのあるような事件、政治的問題に関わる事件について積極的に判断するかどうかは、民主主義的基盤の有無により大いに変わってくる(もっとも、民主主義的基盤確保の手段として司法参加ではなく裁判官の選挙制度を採用すべきという議論はある)。裁判員制度は、行政による事前規制から司法による事後規制へという「小さな政府」を目指す流れの中で、その足がかりとなる意義を有しているといえよう。
しかし批判記事は、民主主義の意義を誤解あるいは過度に重きを置いた前提のためか、裁判員に過大な要求をしているきらいがある。裁判員は職業裁判官と協力して裁判をする者であって、代わりになるわけではない。代わりというならば突き詰めれば司法試験に合格する程度の能力が必要だし、憲法上の裁判官の規定が適用されなければならない。100人はいないと平均化できないといった議論は、そのような多数の参加者を採用している国が皆無であることからも的を得ていないことがわかる。むしろ基本的人権の保障と真実の発見という刑事裁判の二大目的を実現するには慎重な審議が必要であり、そのためには集団の規模を制限する必要がある。
その反面で選ばれた者の適正な判断を確保する必要があるが、批判記事では、裁判員の選定において判断力を客観的にチェックする仕組みがないとされている。しかし、裁判員法36条は被告人・検察官双方から理由なく不選任を請求できる旨の規定を置いている。これは偏りをなくすために機能しうるものであり、アメリカでも採用されている制度である。これについては、日本では社会の同質性が高く人種等の深刻な差別問題が顕著でないことから、過剰な制度ではないかとの疑問が出されているくらいである。批判記事は、この制度について触れていない。選定以外の場面においても、一人でも職業裁判官の賛成がなければ評決が成立しないこと(67条1項)、判決書で判断の理由が明らかにされること、といった適正な判断を確保するための制度が用意されている。
一方、国民の理解と信頼は裁判員法1条に掲げられている直接的な法の目的である。批判記事では、この点について、(2)経験できる国民の数が少ない、また、守秘義務のせいで期待できないと指摘している。しかし、模擬裁判を経験した人へのアンケートで「やってみてよかった、勉強になった」という回答が非常に多かった、という報道が流れているが、この報道があるかどうかで裁判所に対する関心や印象は大きく変わるものであろう。守秘義務というのも何でもかんでも適用されるものではなく、こうした参加した感想が語られるだけでも意味はあるように思う。
量刑のバラツキは刑法を手直しするのが筋
(3)量刑のバラツキが生じて公平性に欠く、という指摘について、批判記事では、裁判にとって最も大切なことは同じような犯罪に同じような刑が科せられること、ということが出発点となっている。これは法律を学んでいる人にとっては違和感があるもので、「事件に同じものなどひとつもない」というのが原則であり、バラツキがあまりにも大きいと不公平なので量刑の目安を作る、というのが思考の流れになる(アメリカでは量刑ガイドラインが作られた)。
例えば、同じ飲酒運転でも社会問題になった後で重い量刑が課されるようになっているが、格別問題視されていない。社会の関心事となるか否かでは「同じような事件」ではないというのかもしれない。では、同じ窃盗でも多発地域でなされたものかどうかは影響するのか、事故で指が使えなくなった被害者の職業がピアニストかどうかは影響するのか、問い始めたらキリがない。また、事実が同じであっても、農民は所有権を、軍人は名誉を、商人は信用を最も大事にするとイェーリングの著作の中にあるように、その評価は変わってくるものである。日本広し県民性も異なるのであって、東京と大阪の裁判所で判断の傾向に違いがあるというのもよく知られた話である。刑罰は応報・一般予防・特別予防の見地からその時の(地域)社会にとって妥当と言えるものを決して行くものであり、何が正しいと言い切れるものではない。
量刑のバラツキの問題は、刑法などの刑事実体法の定め方の問題であるように思う。現在は、職業裁判官の専門判断を想定してかなり量刑を幅広く設けている。殺人は刑法199条の一条でほぼ全ての殺人を包摂しているが(厳密に言えば240条とかあるけど)、アメリカでは一級殺人、二級殺人といった段階ごとに量刑が分けられている。裁判をする者の能力に信頼ができないなら、法律で量刑の範囲を段階的に決めておくのが筋である。「量刑相場」というのは、なぜその量刑なのかを突き詰めていくと特に理由はない。「このくらいが妥当かな」という判断がなされてきて、以後その空気を読んで決めていくようなものである。公平性を最優先に確保するというのなら、法的拘束力のある基準が必要になるだろう。
裁判員の判断力について
(6)弁護士の演技力が判決を左右することになるという指摘について、シンプソン事件という有名な事件が一件だけ取り上げられているが、アメリカにおいて弁護士の巧拙によって評決が左右されたと推測されるのは全体の0.25%であるとされる(浅香『現代アメリカの司法』30頁)。シンプソン事件の刑事事件は人種差別という問題が絡んだ特殊な側面を有しており、この一件だけを取り出して危険を誇張するのは公平な論じ方ではないであろうし、数字を無視したものである。演技に注心するというのは、単に事実を言うだけではなく、裁判員の正義感にも訴えかけなければ説得することが出来ない、というプラス要素が必要になることから生まれたものであり、無から有を生み出すようなものではないであろう。従前のような書面のやりとりで大部分を済ます裁判と較べてどちらが望ましいかは、各人の判断次第である。
また、アメリカの実証研究において、集団としての陪審が職業裁判官よりも事実認定能力において劣っているとは示されない、という結果が出ている(同)。一人が感情的になっても、合議において説得させることができなければ多数を構成することは出来ない。また、日本ではアメリカのように評決について理由を付さなくていいわけではなく、裁判官による判決書が作成されることから、判断を下すには説得的な理由を考えなければならないし、被告人は判断において不合理な点を吟味して上訴して争うことが十分に可能であると考えられる。これは、(5)スピードを意識するあまり拙速な審理になりかねない、という問題への対応策として働いている。もっとも、運用において判決書の記載が簡略化される可能性があり、運用を注視する必要があるだろう。
最後に
個人的には、裁判員制度は反省を踏まえて手直しされていくだろうが、全体的には上手くいくだろうと楽観視している。日本は他の司法参加の制度がある国と比較しても国民の教育程度が高水準にあるにもかかわらず、個々人の能力についての信頼が全くないように見える。これは、日本社会がムラ集団の縛りによって秩序を保っていて他人への信頼度が低いという社会心理学の知見を如実に表しているように思う。しかし一方で、ムラ集団の「恥の文化」の下では、いったん選ばれて合議に顔を出すことになれば、恥をかかないために皆必死に取り組むことであろう。
ところで、読者の注目を集めるためか、「算数の出来ない人が作った」と刺激的なタイトルがついている。導入部分で数学嫌いが法学部を選択するという話があるが、基本的に法学系は経済学系より入試において難関であり、数学が苦手という消極的な理由で文学系ならまだしも法学系に挑戦する人ってそんなにいるのだろうか。法学系の人たちの傾向として理念が先行してコスト意識が足りない、というのはあるかと思うけれど。裁判員制度も目的の割に結構コストがかかる制度と言えるだろう。
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