第1話
時は20XX年,木の葉に秘められたエネルギーを解放し活用する技術が開発された。
エネルギーを自在に扱うには個人の高い技能が必要とされた。
全国各地では扱いに長けた戦士の育成が進められ,同時に様々な品種で研究も進められていった。
クリーンエネルギーの旗手として,温暖化対策を始めとする環境運動の象徴として,大きな期待が寄せられた。
いつしか戦士はジュリアンと呼ばれ,子どもたちのヒーローにもなった。
東京都文京区本郷,東京大学本郷キャンパス―発端の地である。
開発の先駆けとなったこの地では,熱心な戦士の育成が行われていた。
用いる木の葉は大学のマークにもなったイチョウである。
銀杏並木の下では,熱心な訓練生たちが自主的に木の葉エネルギー活用の練習をしている。
駒場キャンパスの銀杏並木の下から,厳しい訓練を潜り抜けた者たちだ。
そんな激戦の中,五月祭のイベントで見事ナンバーワンになったイチョウ・ジュリアン,
それがこの話の主人公,撫子田 葉(なでこだ よう)である。
現在のジュリアンたちの目下の課題は,ジュリアンたちを襲い,環境破壊を行う闇の集団との対決である。
闇の集団の正体は不明である。全身黒づくめでこつ然と現れ,ジュリアンの弱点である炎を撒き散らす。
「シャドウ・フレイマー」と呼ばれ,全国のジュリアンたちは手を焼いていた。
ある秋の日,撫子田はぼんやりと授業を受けていた。
外の銀杏並木は黄金に色づき,一年でも最もパワーが高まる時期だ。
そこへ警報が鳴り響く。都内でシャドウたちにジュリアンが襲われた!
現場に駆けつけるべく飛び出す。生き生きとしたイチョウの葉を携えていく。
現場は東京都千代田区千鳥ヶ淵,襲われたのはサクラ・ジュリアンだ。
桜は先に葉が落ちてしまっており,ジュリアンは十分にパワーが出ない。そこを突かれたのだ。
わらわらと取り囲むシャドウたちに,孤軍奮闘のサクラは追い詰められていく。
至近距離に迫られ肉弾戦になれば,女性のサクラは特に不利である。
とどめの炎を撒かれそうになったその時,イチョウが間に合った。
シャドウの集団に飛び込むイチョウ・ジュリアン。
手にしていた黄金のイチョウの葉の力を開放する。
ジュリン・ア・ラ・モーーードッ!
変身タイムだ。どんな攻撃も寄せ付けないオーラを身にまとう。
一年の中でもパワーの高いイチョウだ。オーラの輝きにたじろぐシャドウたち。
イチョウは有無を言わさず攻撃に入る。イチョウの葉は燃えにくく,シャドウに対抗する力も強い。
シャドウたちは散り散りになった。すぐさま最後のとどめに入る。
新しいイチョウの葉を手に取り,パワーを掌の上の一転に集中する。
瞬く間に解放されたエネルギーが集まり,溢れんばかりのエネルギー弾を前に押し出す。
イ・チョ・ウ・ノ・破(は)------ドッカーン!
シャドウは地面の底に消えていった。
起き上がるサクラに手を貸すイチョウ。
大切な木が守られた,周囲の人たちからの大喝采。
「やれやれだ,これからの季節,襲撃はどんどん増えていくぞ。」
第2話
パワーが弱まる冬をどうするか,ジュリアンたちの課題であった。
そんな中,常緑樹を扱うジュリアンならばパワーの低下は少ないという研究報告を耳にする。
ツバキ・ジュリアン,ヒイラギ・ジュリアンと会い,協力を得よう!
イチョウとサクラはJR上野駅公園口から電車に乗り込んだ。
第X話
シャドウたちの正体を掴みかけるイチョウたち。
1人1人の人間の影,現代の人間活動に二酸化炭素の排出は不可欠。
そういえばシャドウを壊滅させるたび,生活が不便になっていくような・・・
シャドウは悪なのか,倒すべきなのか。
ジュリアンたちは大きな問題にたちはだかった!
第Y話
シャドウ・フレイマーの真の黒幕はジュリアンの中にいた。
しかも最長老,ヤクスギ・ジュリアンであった。
ヤクスギは言う。私は長年生きてきたヤクスギの記憶を引き継いでいる。
地球史をみてみろ,温暖な世紀のほうが動物も植物も非常に栄えた。
あのころのほうが全体のパワーが満ち溢れていた。
長年の経験から言える,これから地球は寒くなっていく。
君たちは真逆のことをしているのではないか!
この問いかけにイチョウたちジュリアンはどうすべきか。
最後の大きな問題に立ち向かうことになった!
プレゼン
植物の種類・季節の特色,植生の楽しい勉強になり,子供の理科離れを防ぐ。
環境問題への関心を呼び起こし,よい教育になる。
全国各地の名所,特産の木・有名な木などをテーマにし,地理の勉強にもなる。
世界の木にまで発展でき,いくらでもシリーズとして話が作れる。
エコを推進する企業の方針にも合致する。
環境問題が人間活動の裏表の関係であることを提示し,
単純な勧善懲悪で割り切れない現代社会の複雑さを学ばせ,情操教育にもなる。
時は20XX年,木の葉に秘められたエネルギーを解放し活用する技術が開発された。
エネルギーを自在に扱うには個人の高い技能が必要とされた。
全国各地では扱いに長けた戦士の育成が進められ,同時に様々な品種で研究も進められていった。
クリーンエネルギーの旗手として,温暖化対策を始めとする環境運動の象徴として,大きな期待が寄せられた。
いつしか戦士はジュリアンと呼ばれ,子どもたちのヒーローにもなった。
東京都文京区本郷,東京大学本郷キャンパス―発端の地である。
開発の先駆けとなったこの地では,熱心な戦士の育成が行われていた。
用いる木の葉は大学のマークにもなったイチョウである。
銀杏並木の下では,熱心な訓練生たちが自主的に木の葉エネルギー活用の練習をしている。
駒場キャンパスの銀杏並木の下から,厳しい訓練を潜り抜けた者たちだ。
そんな激戦の中,五月祭のイベントで見事ナンバーワンになったイチョウ・ジュリアン,
それがこの話の主人公,撫子田 葉(なでこだ よう)である。
現在のジュリアンたちの目下の課題は,ジュリアンたちを襲い,環境破壊を行う闇の集団との対決である。
闇の集団の正体は不明である。全身黒づくめでこつ然と現れ,ジュリアンの弱点である炎を撒き散らす。
「シャドウ・フレイマー」と呼ばれ,全国のジュリアンたちは手を焼いていた。
ある秋の日,撫子田はぼんやりと授業を受けていた。
外の銀杏並木は黄金に色づき,一年でも最もパワーが高まる時期だ。
そこへ警報が鳴り響く。都内でシャドウたちにジュリアンが襲われた!
現場に駆けつけるべく飛び出す。生き生きとしたイチョウの葉を携えていく。
現場は東京都千代田区千鳥ヶ淵,襲われたのはサクラ・ジュリアンだ。
桜は先に葉が落ちてしまっており,ジュリアンは十分にパワーが出ない。そこを突かれたのだ。
わらわらと取り囲むシャドウたちに,孤軍奮闘のサクラは追い詰められていく。
至近距離に迫られ肉弾戦になれば,女性のサクラは特に不利である。
とどめの炎を撒かれそうになったその時,イチョウが間に合った。
シャドウの集団に飛び込むイチョウ・ジュリアン。
手にしていた黄金のイチョウの葉の力を開放する。
ジュリン・ア・ラ・モーーードッ!
変身タイムだ。どんな攻撃も寄せ付けないオーラを身にまとう。
一年の中でもパワーの高いイチョウだ。オーラの輝きにたじろぐシャドウたち。
イチョウは有無を言わさず攻撃に入る。イチョウの葉は燃えにくく,シャドウに対抗する力も強い。
シャドウたちは散り散りになった。すぐさま最後のとどめに入る。
新しいイチョウの葉を手に取り,パワーを掌の上の一転に集中する。
瞬く間に解放されたエネルギーが集まり,溢れんばかりのエネルギー弾を前に押し出す。
イ・チョ・ウ・ノ・破(は)------ドッカーン!
シャドウは地面の底に消えていった。
起き上がるサクラに手を貸すイチョウ。
大切な木が守られた,周囲の人たちからの大喝采。
「やれやれだ,これからの季節,襲撃はどんどん増えていくぞ。」
第2話
パワーが弱まる冬をどうするか,ジュリアンたちの課題であった。
そんな中,常緑樹を扱うジュリアンならばパワーの低下は少ないという研究報告を耳にする。
ツバキ・ジュリアン,ヒイラギ・ジュリアンと会い,協力を得よう!
イチョウとサクラはJR上野駅公園口から電車に乗り込んだ。
第X話
シャドウたちの正体を掴みかけるイチョウたち。
1人1人の人間の影,現代の人間活動に二酸化炭素の排出は不可欠。
そういえばシャドウを壊滅させるたび,生活が不便になっていくような・・・
シャドウは悪なのか,倒すべきなのか。
ジュリアンたちは大きな問題にたちはだかった!
第Y話
シャドウ・フレイマーの真の黒幕はジュリアンの中にいた。
しかも最長老,ヤクスギ・ジュリアンであった。
ヤクスギは言う。私は長年生きてきたヤクスギの記憶を引き継いでいる。
地球史をみてみろ,温暖な世紀のほうが動物も植物も非常に栄えた。
あのころのほうが全体のパワーが満ち溢れていた。
長年の経験から言える,これから地球は寒くなっていく。
君たちは真逆のことをしているのではないか!
この問いかけにイチョウたちジュリアンはどうすべきか。
最後の大きな問題に立ち向かうことになった!
プレゼン
植物の種類・季節の特色,植生の楽しい勉強になり,子供の理科離れを防ぐ。
環境問題への関心を呼び起こし,よい教育になる。
全国各地の名所,特産の木・有名な木などをテーマにし,地理の勉強にもなる。
世界の木にまで発展でき,いくらでもシリーズとして話が作れる。
エコを推進する企業の方針にも合致する。
環境問題が人間活動の裏表の関係であることを提示し,
単純な勧善懲悪で割り切れない現代社会の複雑さを学ばせ,情操教育にもなる。
お久しぶりです。走り書き程度に。なお,創作カテゴリです。
大雑把にいえば,戦後日本の典型的な家族モデルは,<終身雇用の下での働き手の男性>と<専業主婦或いは扶養から外れない程度にパートをする女性>に<子供>,という組み合わせであった。働き手の男性には,一家を養える分の賃金が支払われる(生活費保障仮説)一方で,長時間労働を行い移住を伴う配転を受け,仕事に一身専念して自身が家事や子育てに関わることが困難であった。このような滅私奉公的な働き方は,ひとつの倫理や道徳として定着していた。
以上のようなモデルを支える経済・社会条件は永続するものではない。ひとつの状況の変化は,景気の長期的な低調化である。企業は,終身雇用(もとより契約上の約束ではなかったが)の保障,生活費保障分の賃金の支払いが困難になった。非正規雇用に代替化し,福利厚生や賃金水準も切り下げられていった。しかし倫理・道徳化した働き方は容易には変わらないので,男性一人が家庭を犠牲にしながら十分に家族生活を支えにくいという状況が生まれた。
もうひとつの状況の変化は,男女平等の進展である。女性がきちんと能力に応じて働ける機会が増えていった。もっとも,男性が家庭を犠牲にしつつ行っていた働き方を女性もすることが可能になった,という進展にとどまった(理想としては男女双方家庭と両立できる程度の労働負担にすることである)。そのため,家事や子育ては女性がするものという容易には変わらない価値観との間で女性が葛藤を強いられることになった。男性が役割転換をしようとしても,今度は男性の方が葛藤を強いられることになった。
このような変化の結果,子育てをする経済的・時間的ゆとりは失われ,少子化が急激に進むこととなった。少子化によって国内市場の活発化の見通しも明るくなく,経済の低調化をもたらすというマイナスのスパイラルも起こしかねない状況になっている。
性差なく個人が能力に応じて働くことができ,家事や子育てもゆとりをもって行うことができ,経済的にも安定する,そういう手段はないだろうか。ひとつは労働条件を抜本的に変えることがある。しかし,強固に倫理化・道徳化している現状下では,制度を変えたとしても実効性にも疑いがある。「当面自分に降りかかるものとして,もうこれは諦めるしかない」そんなふうに感じられる。
では,家庭の方を変えることはできないだろうか。そこでひとつありうるのは,<働き手2人><家事のなり手1人>の大人3人で世帯を構成することである。現在でも,共働き夫婦に,引退したその親(祖父母世代)が家事を援助することはよく観察される。親世代の援助を受けられない者たちは,自分の世代で3人を集めることとなる・・・
・・・そんなことを考えた若者3人,共同生活を開始する。それぞれの役割分担に専念し,すべてが上手くいっているように思えた。しかしある日,1人のある一言で状況は変わる。
「みんな20代後半になってきたし,そろそろ,子供もほしいな」
すべての子供に対して公平に行うことができるか,結婚という制度との葛藤が出てくるか,周囲の価値観と折り合うことができるか。頭ではこれが合理的と考えていてもいざ実践できるか。子の人生がかかっていて,失敗しましたではすまされない。ちゃんと「四人世帯」「五人世帯」に発展できるか。歯車が忙しく回り始めた。
大雑把にいえば,戦後日本の典型的な家族モデルは,<終身雇用の下での働き手の男性>と<専業主婦或いは扶養から外れない程度にパートをする女性>に<子供>,という組み合わせであった。働き手の男性には,一家を養える分の賃金が支払われる(生活費保障仮説)一方で,長時間労働を行い移住を伴う配転を受け,仕事に一身専念して自身が家事や子育てに関わることが困難であった。このような滅私奉公的な働き方は,ひとつの倫理や道徳として定着していた。
以上のようなモデルを支える経済・社会条件は永続するものではない。ひとつの状況の変化は,景気の長期的な低調化である。企業は,終身雇用(もとより契約上の約束ではなかったが)の保障,生活費保障分の賃金の支払いが困難になった。非正規雇用に代替化し,福利厚生や賃金水準も切り下げられていった。しかし倫理・道徳化した働き方は容易には変わらないので,男性一人が家庭を犠牲にしながら十分に家族生活を支えにくいという状況が生まれた。
もうひとつの状況の変化は,男女平等の進展である。女性がきちんと能力に応じて働ける機会が増えていった。もっとも,男性が家庭を犠牲にしつつ行っていた働き方を女性もすることが可能になった,という進展にとどまった(理想としては男女双方家庭と両立できる程度の労働負担にすることである)。そのため,家事や子育ては女性がするものという容易には変わらない価値観との間で女性が葛藤を強いられることになった。男性が役割転換をしようとしても,今度は男性の方が葛藤を強いられることになった。
このような変化の結果,子育てをする経済的・時間的ゆとりは失われ,少子化が急激に進むこととなった。少子化によって国内市場の活発化の見通しも明るくなく,経済の低調化をもたらすというマイナスのスパイラルも起こしかねない状況になっている。
性差なく個人が能力に応じて働くことができ,家事や子育てもゆとりをもって行うことができ,経済的にも安定する,そういう手段はないだろうか。ひとつは労働条件を抜本的に変えることがある。しかし,強固に倫理化・道徳化している現状下では,制度を変えたとしても実効性にも疑いがある。「当面自分に降りかかるものとして,もうこれは諦めるしかない」そんなふうに感じられる。
では,家庭の方を変えることはできないだろうか。そこでひとつありうるのは,<働き手2人><家事のなり手1人>の大人3人で世帯を構成することである。現在でも,共働き夫婦に,引退したその親(祖父母世代)が家事を援助することはよく観察される。親世代の援助を受けられない者たちは,自分の世代で3人を集めることとなる・・・
・・・そんなことを考えた若者3人,共同生活を開始する。それぞれの役割分担に専念し,すべてが上手くいっているように思えた。しかしある日,1人のある一言で状況は変わる。
「みんな20代後半になってきたし,そろそろ,子供もほしいな」
すべての子供に対して公平に行うことができるか,結婚という制度との葛藤が出てくるか,周囲の価値観と折り合うことができるか。頭ではこれが合理的と考えていてもいざ実践できるか。子の人生がかかっていて,失敗しましたではすまされない。ちゃんと「四人世帯」「五人世帯」に発展できるか。歯車が忙しく回り始めた。