「鶏口なるとも牛後となるなかれ」という言葉がある。小さな集団で指導者となるほうが大きな集団の中で付き従う者になるよりよい、という意味で、中国の戦国時代に秦の勢力拡大に他国が同盟して対抗する政策を主張する際に説かれたという。
このような意味と成り立ちを知れば当然分かることであるが、普段意識されないことがある。それは、牛後にも鶏口にもなれない、鶏の足のあたりか、それにも引っかからない場合もあるということである。小さな集団だからといって簡単に指導者になれるわけではない。また、大きな集団の尻尾にいるからといって、誰でもその集団に入れるわけではない。実際、上の故事の場面で鶏口か牛後かを選択できる立場にあったのは6人の諸侯だけであった。
結局のところ、この言葉は優越感のあり方を比較したものであると思う。牛後にいる人は、勝ち馬に乗れたことに優越感を感じ、その中で落ちこぼれても、勝ち馬に乗れなかった人々と比較することで優越感を維持しようとする。鶏口にいる人は、実際に指導力・支配力を発揮して直接的に優越感を得ようとする。どちらを選択するにせよ、「他者より抜きん出よ、優越性を獲得せよ」という共通の意識を根底に見出すことができる。
柏木・高橋編『日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題』(有斐閣・2008年)
ジェンダー研究はいまや男性の問題としても認識されているようで、この本では様々な研究が紹介されているが、「男らしさ」を定義づけるキーワードは「優越性」であるらしい。学歴が高い、頭がよい、体格がよい、力が強い、運動ができる、稼ぎが多い、地位が高い、意志が強い、弱みを見せない、理性的である、といった優越性の諸要素の全部もしくは一部を獲得することが目標とされ、追求される。そこでは、絶え間ない他者との競争が掻き立てられる。
社会における競争のほとんどが生物学的な生存ではなく社会的な生存―優越性を賭けた競争だということは、以前ブログでも書いたことであるが、これと同様に優越性を追求しなければならないという男性の意識も社会的な側面―すなわちジェンダーの問題としての側面をもっている。そして、「女らしさ」がある程度修正されてきた(いまの若い人で古来通りの女性に対する偏見を豪語する人はいない)ように、「男らしさ」も修正されうるものである。特に現在の日本では、不可避的に出てくる社会的な敗者を救う倫理観が形成されておらず、自殺や自暴自棄な犯罪が後を絶たない。このような状態では、男らしさを問い直してみる現実的な必要性があるように思える。
しかし、いくら問い直す必要性があるとしても、現実として男性に男らしさを求める社会的圧力は存在しているし、女性も理想の男性像として臆面もなく優越性を要求する以上、正面から反抗しても精神をすり減らす上に不遇に陥るだけである。この競争に追い立てるプレッシャーを負担に感じてしまう場合、どうしたらいいだろう。ありきたりであるが、「好きなことで競争しよう」というのが今のところの最適解であるように思う。少なくとも、優越性を獲得できなかった場合にそのこと自体に興味をなくしてしまうようなものに人生を賭けるのは間違いと言えよう。そして、優越性にこだわるあまり、敵わない人が出てきたらすぐに方向転換をし、自分が他人より抜きん出ているものは何か探してばっかりでは、結局何も得られないということを認識すべきである。
法学というのは、正解がない学問である。しかし、学ぶ過程においては、厳然たる順位付け、序列付けがいつまでも続く。具体的な数字で席次が出る。あるときいい順位が出たとしても、差はちょっとしたことなので、いつ抜かれるかわからない。強いプレッシャーを感じるのは確かである。しかし、条文解釈をしたり、判例相互の関係を探ってみたりすることは、職人芸のようなところがあり、私としてはその技術を探っていくのが楽しい。それに、その結果として誰かを救うことができるかもしれない。他人のほうが上手にできるかもしれない。成功するかもしれない。お金を稼ぐかもしれない。でもそれだからといって嫌いになりはしない。そんなことを思いながら、今日も教科書をめくっている。
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このような意味と成り立ちを知れば当然分かることであるが、普段意識されないことがある。それは、牛後にも鶏口にもなれない、鶏の足のあたりか、それにも引っかからない場合もあるということである。小さな集団だからといって簡単に指導者になれるわけではない。また、大きな集団の尻尾にいるからといって、誰でもその集団に入れるわけではない。実際、上の故事の場面で鶏口か牛後かを選択できる立場にあったのは6人の諸侯だけであった。
結局のところ、この言葉は優越感のあり方を比較したものであると思う。牛後にいる人は、勝ち馬に乗れたことに優越感を感じ、その中で落ちこぼれても、勝ち馬に乗れなかった人々と比較することで優越感を維持しようとする。鶏口にいる人は、実際に指導力・支配力を発揮して直接的に優越感を得ようとする。どちらを選択するにせよ、「他者より抜きん出よ、優越性を獲得せよ」という共通の意識を根底に見出すことができる。
柏木・高橋編『日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題』(有斐閣・2008年)
ジェンダー研究はいまや男性の問題としても認識されているようで、この本では様々な研究が紹介されているが、「男らしさ」を定義づけるキーワードは「優越性」であるらしい。学歴が高い、頭がよい、体格がよい、力が強い、運動ができる、稼ぎが多い、地位が高い、意志が強い、弱みを見せない、理性的である、といった優越性の諸要素の全部もしくは一部を獲得することが目標とされ、追求される。そこでは、絶え間ない他者との競争が掻き立てられる。
社会における競争のほとんどが生物学的な生存ではなく社会的な生存―優越性を賭けた競争だということは、以前ブログでも書いたことであるが、これと同様に優越性を追求しなければならないという男性の意識も社会的な側面―すなわちジェンダーの問題としての側面をもっている。そして、「女らしさ」がある程度修正されてきた(いまの若い人で古来通りの女性に対する偏見を豪語する人はいない)ように、「男らしさ」も修正されうるものである。特に現在の日本では、不可避的に出てくる社会的な敗者を救う倫理観が形成されておらず、自殺や自暴自棄な犯罪が後を絶たない。このような状態では、男らしさを問い直してみる現実的な必要性があるように思える。
しかし、いくら問い直す必要性があるとしても、現実として男性に男らしさを求める社会的圧力は存在しているし、女性も理想の男性像として臆面もなく優越性を要求する以上、正面から反抗しても精神をすり減らす上に不遇に陥るだけである。この競争に追い立てるプレッシャーを負担に感じてしまう場合、どうしたらいいだろう。ありきたりであるが、「好きなことで競争しよう」というのが今のところの最適解であるように思う。少なくとも、優越性を獲得できなかった場合にそのこと自体に興味をなくしてしまうようなものに人生を賭けるのは間違いと言えよう。そして、優越性にこだわるあまり、敵わない人が出てきたらすぐに方向転換をし、自分が他人より抜きん出ているものは何か探してばっかりでは、結局何も得られないということを認識すべきである。
法学というのは、正解がない学問である。しかし、学ぶ過程においては、厳然たる順位付け、序列付けがいつまでも続く。具体的な数字で席次が出る。あるときいい順位が出たとしても、差はちょっとしたことなので、いつ抜かれるかわからない。強いプレッシャーを感じるのは確かである。しかし、条文解釈をしたり、判例相互の関係を探ってみたりすることは、職人芸のようなところがあり、私としてはその技術を探っていくのが楽しい。それに、その結果として誰かを救うことができるかもしれない。他人のほうが上手にできるかもしれない。成功するかもしれない。お金を稼ぐかもしれない。でもそれだからといって嫌いになりはしない。そんなことを思いながら、今日も教科書をめくっている。
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