これまで日本史にはあまり興味がなかったが、インターネットでふと邪馬台国の所在などの話を見つけて色々と読み耽ってしまった。個人的には九州説が妥当だと感じた。また、その後の歴史についても九州王朝説の説得力があるように感じた。魏志倭人伝では邪馬台国までの行程に「水行十日、陸行一月」とあることの解釈が色々と問題となっているようだ。これは素直に読んで「船で行けば10日、歩いて行けば1か月(水路でも陸路でも行ける)」ということなのではないか。唐津(末廬國)の項で前を行く人が見えないほど草木が生い茂っていると当時の九州の陸路が困難な様子が窺われる。また、伊都国とそこから肉眼でも見えるであろう100里(7キロメートル)先の国々までは「里」と正確な単位で記載され、戸数も断言しているのに対し、投馬国と邪馬台国は日数で記載され戸数も「可」と推測の言葉が入っていることからすると、伊都国周辺までは直接体験し、そこから先は現地の人からの伝聞で書かれたのではないかと思われる。壱岐と唐津の距離の倍くらいだとすると「帯方から1万2000余里」の記載との関係も無理はない。那珂川や宝満川、筑後川あたりを移動した先に邪馬台国があったのかもしれない。古代日本への浪漫を感じに国内を旅したい気持ちに駆られる。
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