(注・映画のネタバレあります!内容をまだ知りたくない人はブラウザバックでお戻りください)
2016年11月12日の封切りから1年経ったこのタイミングで、やっと「この世界の片隅に」の感想をここに記そうと思う。
最初に見たのが12月初旬だったのだが、見た当初は、うまく言葉が紡げなかった。
「悲しい映画だった」「面白かった」
など、一言で表すことができなかった。
でもなぜか、観終わった後、自分の愛する存在に、今すぐ自分の愛を伝えたくなった。どうしてそう思うのかよくわからずに、ぼんやりしながら帰り支度を整えた。
ただただ、「これはすごいものを観てしまったぞ…」という感覚のまま帰宅し、翌日、Twitterでそれとなく感想やネタバレを検索してみると、出るわ出るわ、この映画に関する絶賛の声。
それを観ているうちに、うっかり目に涙が。人前だったのに。
わたしは去年の1月、久慈に行った。
決して大きい街ではないけれど、あちこち歩いてみて(もちろん「あまちゃんハウス」にも行った)、いろいろ食べて、現地の人とも少しばかり触れ合って、好きな街のひとつになった。だから8月の台風被害は本当に胸が張り裂けそうだった。
それもあって、久慈に関する情報をいろいろと入手していた。
久慈といえばあまちゃん、あまちゃんといえば主人公天野アキを演じた、本名能年玲奈こと女優ののんちゃん。
彼女が声で主演を務める映画がもうすぐ公開されますよ、というツイートを目にした。
それが「この世界の片隅に」だった。
確か、本当に薄れかけた記憶なのだが、いつだったかも忘れてしまっていたが、この映画のクラウドファンディングが早々に達成された、という話題を誰かがツイートしていたのを見かけた気がする。
「普通の戦争映画とは違う」
「ぜひ観に行ってもらいたい」
そういう意見も、封切りの頃によく見かけた。
映画史に残る傑作だ、とあの手この手を使って観客を増やそうと尽力する人が後を絶たなかった。
だけど、全国で63館じゃあ、この辺でやってる所なんかないんだろうな…と思いきや、割と近くで公開していた所があったので、思い切って行ってみた。
度肝を抜かれた。
戦時中の話なのに、現代の自分と繋がるところがあったから。
幾度もの空襲警報を耳にした晴美が思わず呟く
「警報もう飽きた」。
この一言が、わたしの記憶を揺さぶるように呼び覚ました。
それは他でもない、東日本大震災の頃。
あの日震災が起きて以降、携帯に緊急地震速報のエリアメールが届いた。それこそ数え切れないくらい。当日の夜は5分だか10分置きくらいに来ていたような気がする。
それはもう、飽きるほど携帯が鳴っていた。
停電したおかげで星が綺麗だったらしいが、生き抜くのに必死だった我が家は、少なくとも誰一人、そんな余裕はなかった。
そして、円太郎さんのお見舞いの帰りに遭遇してしまう空襲。
これは地震が起きた時のこと。
いつ収まるとも知れない、それまで経験した事のなかった揺れ。
初めてあのシーンを観た時には、あの時と同じ恐怖が頭の中にへばりつき、実際は数十秒くらいだったにも関わらず、凄まじく長く感じた。
「何これ!?こんなシーンがあるなんて聞いてない!逃げられない!」
と思うほどに。
二回目に観た時も恐怖はあったが「あれ?こんなに短かったんだっけ?」
と思ってしまった。
終盤「復興」と書いてある旗が出てくるが、そこは
「そうだった、広島東洋カープは、広島の復興のために作られたチームだったんだ、わたしはこのチームのそういうところが好きなんだ」
と思ってぐっときた。
同じ場面で、最も自分と繋がるシーンがあるのだが…
これは4月に片渕監督の舞台挨拶があった際、監督に直接話すことができたので、監督とわたしの秘密ということで。
そういえば、わたしが初めて広島に行った時。
雨の夜、広電で降り立った先にあったとある建物が、わたしを呼んでいた気がして。
その時のことを思い出した。
繰り返し見るにつれ驚くのがやはり時代考証だろう。
なにせ、作中に出てくる新聞紙の内容ひとつひとつまで当時のものを再現しようと資料を探していたというから驚きだ。
片渕監督のやっていることは、漫画のアニメ化、ではなく、むしろ「ドキュメンタリー映像の製作」ではないだろうか。
一日一日ずつ、この日は何があったか、どんな気象だったか、戦争が激化していく中で何が変化していくか、その上ですずさんは何をしたか…
その考証が実に細やかで、考証をまとめたものを本にでもしてくれたら歴史的にも価値があるのではないだろうかと思うほどだ。
ともかく監督の細やかな考証のお陰で、戦争を生き抜いた方がご覧になって「懐かしい」と言っていた、というような報告を何度も何度もTwitterで目にした。
また、映画の中に実在の人物を登場させたと聞いた。
それも山本五十六とか東條英機とかの著名な軍人ではなくて、本当にそこに住んでいた人達。
当時の写真から、その人が住んでいたであろう場所のあたりに立たせ、その人がしていたであろう行動をさせる…
たとえば、「中島本町」に住んでいた方を、どんな人だったかなるべく忠実に再現して。
因みに「中島本町」とは、今の平和記念公園である。
世界で初めて落とされた原子爆弾によって消されてしまった街を、そこに住んでいた人たちを、監督は忠実に再現した。
戦争を描いた映画で、こんなことが今まであっただろうか。そしてこれは、アニメでなければ成し得ないこと。
だから、この映画は何度観ても見飽きない。
わたしはそれほど多くの映画を観ている訳ではないが、この映画だけはこれまでに二桁回数鑑賞している。自慢にもならないが、わたしの中でぶっちぎり1位の劇場鑑賞回数だ。この映画は「劇場で観る」ことに意味があると思っているから。
この映画の繋がりでお友達もできた。
いずれも、この映画をより多くの人に観てもらいたいと思っている仲間だ。
好きすぎて広島や呉、ついでに片渕監督の前作品「マイマイ新子と千年の魔法」の舞台である山口県防府市まで巡る弾丸ツアーを敢行するほどの豪傑揃い。
もしここを見ている人で、あの映画を一度しか見ていない、なおかつ原作も未読という人がいるとしたら、原作も読んでほしい。そして二回目も観て欲しい。きっと新しい発見があるから。
たとえば哲さんのこと。
初めて観た時は、哲さんが北條家に来てすずさんのことを笑っている理由がわからなかった。
でも原作を読んで、彼が言葉では表しきれないほどの過酷な状況下に置かれ、すずさんの毎日に溢れる「普通」が一番の幸せだと感じ、笑えたのだとしたら、そしてまた、「普通」から遠ざかり、彼はどんな気持ちでその後を過ごすのだろう…と思ったら、泣けて泣けて仕方なかった。
たとえば妊娠?のこと。
実は最初に観た時、すずさん妊娠してたんじゃ?おなか大きくならないなぁ?と思って結構気にしてしまっていて…
その辺は原作を読めばすぐにわかる。
映画の中で印象的な台詞は幾つもあるが、わたしが特にどきりとしたのはこれ。
「過ぎた事 選ばんかった道
みな 覚めた夢と変わりやせんな」
「あっけのう人はおらんようになる
姿が見えんくなったら 言葉は届かん」
そして原作ではリンさんが。
…ここでは原作未読の方もいるかもしれないから伏せておく。
人は忘れる。
下手をすると、いま話そうと思ったことすら忘れてしまう。
そしてこういう言葉をよく耳にする。【人は二度死ぬ。一度は心臓が止まった時で、本当に死ぬのは皆に忘れられた時】
すずさんが鬼いちゃんの代わりに海苔を届けに行ったのは、「平和記念公園」ではなく「中島本町」だ。
すずさんが望遠鏡で見たあの建物は、「原爆ドーム」ではなく「産業奨励館」だ。
歴史の教科書にその辺は載っていないだろうが、そこには確実に、人の営みがあった。
巨大な戦艦大和にも洗濯する人がいて、料理を作る人がいて。
配給が減る一方の中で、主婦達はどうやって食べていくか知恵を絞って考えて。
終戦したからといって、すぐに暮らしが良くなるわけでもなくて、それでも生きていかないといけなくて。
そういうことを、忘れてはいけないのだった。
特に、2011年3月11日を経験した人間にとっては。
わたし自身は忘れたいことではあるけれど、そこから得た教訓と、ぎりぎりの生活でも生き抜く努力をしたことくらいは下の世代に伝えなくては、と思う。
昭和という時代に「暗い影を落とした」から、「戦争に負けた」から、まるごと「なかったことにしよう」と、「間違った人達が起こした過ちは時代ごと闇に葬ろう」としていなかったか。
その時代に懸命に生きていた人達を、存在ごと消し去ろうとしてはいなかったか。
事実、この国では、第二次世界大戦の記憶を、狭い島国に二つも落とされた原子爆弾のことを伝えられる人が減っているのを言い訳にして、それらがまるでなかったかのように振る舞う人が増えたような気がする。
覚えている人がいなくなれば、テストのために数字とセットで覚えさせられるだけの「歴史」に成り下がってしまう。
覚えていなければ、それは存在しなかったこととおそらく同義なのだから。
だからこそ、こうの史代さんが、片渕監督が、ともすると忘れ去られてしまいそうな、なかったことにされてしまいそうなことを、この作品に、すずさんに託したのではないか。
随分長々と書いたが、まだ言いたいことの的を射ていないようにも思える。
音楽について全然触れていないし。
ともかくこの映画に出会えて良かった。
100年後も、それよりずっと先も、この映画が愛され続けることを願う。
ありがとう、この世界で、この映画に出逢わせてくれて。
2016年11月12日の封切りから1年経ったこのタイミングで、やっと「この世界の片隅に」の感想をここに記そうと思う。
最初に見たのが12月初旬だったのだが、見た当初は、うまく言葉が紡げなかった。
「悲しい映画だった」「面白かった」
など、一言で表すことができなかった。
でもなぜか、観終わった後、自分の愛する存在に、今すぐ自分の愛を伝えたくなった。どうしてそう思うのかよくわからずに、ぼんやりしながら帰り支度を整えた。
ただただ、「これはすごいものを観てしまったぞ…」という感覚のまま帰宅し、翌日、Twitterでそれとなく感想やネタバレを検索してみると、出るわ出るわ、この映画に関する絶賛の声。
それを観ているうちに、うっかり目に涙が。人前だったのに。
わたしは去年の1月、久慈に行った。
決して大きい街ではないけれど、あちこち歩いてみて(もちろん「あまちゃんハウス」にも行った)、いろいろ食べて、現地の人とも少しばかり触れ合って、好きな街のひとつになった。だから8月の台風被害は本当に胸が張り裂けそうだった。
それもあって、久慈に関する情報をいろいろと入手していた。
久慈といえばあまちゃん、あまちゃんといえば主人公天野アキを演じた、本名能年玲奈こと女優ののんちゃん。
彼女が声で主演を務める映画がもうすぐ公開されますよ、というツイートを目にした。
それが「この世界の片隅に」だった。
確か、本当に薄れかけた記憶なのだが、いつだったかも忘れてしまっていたが、この映画のクラウドファンディングが早々に達成された、という話題を誰かがツイートしていたのを見かけた気がする。
「普通の戦争映画とは違う」
「ぜひ観に行ってもらいたい」
そういう意見も、封切りの頃によく見かけた。
映画史に残る傑作だ、とあの手この手を使って観客を増やそうと尽力する人が後を絶たなかった。
だけど、全国で63館じゃあ、この辺でやってる所なんかないんだろうな…と思いきや、割と近くで公開していた所があったので、思い切って行ってみた。
度肝を抜かれた。
戦時中の話なのに、現代の自分と繋がるところがあったから。
幾度もの空襲警報を耳にした晴美が思わず呟く
「警報もう飽きた」。
この一言が、わたしの記憶を揺さぶるように呼び覚ました。
それは他でもない、東日本大震災の頃。
あの日震災が起きて以降、携帯に緊急地震速報のエリアメールが届いた。それこそ数え切れないくらい。当日の夜は5分だか10分置きくらいに来ていたような気がする。
それはもう、飽きるほど携帯が鳴っていた。
停電したおかげで星が綺麗だったらしいが、生き抜くのに必死だった我が家は、少なくとも誰一人、そんな余裕はなかった。
そして、円太郎さんのお見舞いの帰りに遭遇してしまう空襲。
これは地震が起きた時のこと。
いつ収まるとも知れない、それまで経験した事のなかった揺れ。
初めてあのシーンを観た時には、あの時と同じ恐怖が頭の中にへばりつき、実際は数十秒くらいだったにも関わらず、凄まじく長く感じた。
「何これ!?こんなシーンがあるなんて聞いてない!逃げられない!」
と思うほどに。
二回目に観た時も恐怖はあったが「あれ?こんなに短かったんだっけ?」
と思ってしまった。
終盤「復興」と書いてある旗が出てくるが、そこは
「そうだった、広島東洋カープは、広島の復興のために作られたチームだったんだ、わたしはこのチームのそういうところが好きなんだ」
と思ってぐっときた。
同じ場面で、最も自分と繋がるシーンがあるのだが…
これは4月に片渕監督の舞台挨拶があった際、監督に直接話すことができたので、監督とわたしの秘密ということで。
そういえば、わたしが初めて広島に行った時。
雨の夜、広電で降り立った先にあったとある建物が、わたしを呼んでいた気がして。
その時のことを思い出した。
繰り返し見るにつれ驚くのがやはり時代考証だろう。
なにせ、作中に出てくる新聞紙の内容ひとつひとつまで当時のものを再現しようと資料を探していたというから驚きだ。
片渕監督のやっていることは、漫画のアニメ化、ではなく、むしろ「ドキュメンタリー映像の製作」ではないだろうか。
一日一日ずつ、この日は何があったか、どんな気象だったか、戦争が激化していく中で何が変化していくか、その上ですずさんは何をしたか…
その考証が実に細やかで、考証をまとめたものを本にでもしてくれたら歴史的にも価値があるのではないだろうかと思うほどだ。
ともかく監督の細やかな考証のお陰で、戦争を生き抜いた方がご覧になって「懐かしい」と言っていた、というような報告を何度も何度もTwitterで目にした。
また、映画の中に実在の人物を登場させたと聞いた。
それも山本五十六とか東條英機とかの著名な軍人ではなくて、本当にそこに住んでいた人達。
当時の写真から、その人が住んでいたであろう場所のあたりに立たせ、その人がしていたであろう行動をさせる…
たとえば、「中島本町」に住んでいた方を、どんな人だったかなるべく忠実に再現して。
因みに「中島本町」とは、今の平和記念公園である。
世界で初めて落とされた原子爆弾によって消されてしまった街を、そこに住んでいた人たちを、監督は忠実に再現した。
戦争を描いた映画で、こんなことが今まであっただろうか。そしてこれは、アニメでなければ成し得ないこと。
だから、この映画は何度観ても見飽きない。
わたしはそれほど多くの映画を観ている訳ではないが、この映画だけはこれまでに二桁回数鑑賞している。自慢にもならないが、わたしの中でぶっちぎり1位の劇場鑑賞回数だ。この映画は「劇場で観る」ことに意味があると思っているから。
この映画の繋がりでお友達もできた。
いずれも、この映画をより多くの人に観てもらいたいと思っている仲間だ。
好きすぎて広島や呉、ついでに片渕監督の前作品「マイマイ新子と千年の魔法」の舞台である山口県防府市まで巡る弾丸ツアーを敢行するほどの豪傑揃い。
もしここを見ている人で、あの映画を一度しか見ていない、なおかつ原作も未読という人がいるとしたら、原作も読んでほしい。そして二回目も観て欲しい。きっと新しい発見があるから。
たとえば哲さんのこと。
初めて観た時は、哲さんが北條家に来てすずさんのことを笑っている理由がわからなかった。
でも原作を読んで、彼が言葉では表しきれないほどの過酷な状況下に置かれ、すずさんの毎日に溢れる「普通」が一番の幸せだと感じ、笑えたのだとしたら、そしてまた、「普通」から遠ざかり、彼はどんな気持ちでその後を過ごすのだろう…と思ったら、泣けて泣けて仕方なかった。
たとえば妊娠?のこと。
実は最初に観た時、すずさん妊娠してたんじゃ?おなか大きくならないなぁ?と思って結構気にしてしまっていて…
その辺は原作を読めばすぐにわかる。
映画の中で印象的な台詞は幾つもあるが、わたしが特にどきりとしたのはこれ。
「過ぎた事 選ばんかった道
みな 覚めた夢と変わりやせんな」
「あっけのう人はおらんようになる
姿が見えんくなったら 言葉は届かん」
そして原作ではリンさんが。
…ここでは原作未読の方もいるかもしれないから伏せておく。
人は忘れる。
下手をすると、いま話そうと思ったことすら忘れてしまう。
そしてこういう言葉をよく耳にする。【人は二度死ぬ。一度は心臓が止まった時で、本当に死ぬのは皆に忘れられた時】
すずさんが鬼いちゃんの代わりに海苔を届けに行ったのは、「平和記念公園」ではなく「中島本町」だ。
すずさんが望遠鏡で見たあの建物は、「原爆ドーム」ではなく「産業奨励館」だ。
歴史の教科書にその辺は載っていないだろうが、そこには確実に、人の営みがあった。
巨大な戦艦大和にも洗濯する人がいて、料理を作る人がいて。
配給が減る一方の中で、主婦達はどうやって食べていくか知恵を絞って考えて。
終戦したからといって、すぐに暮らしが良くなるわけでもなくて、それでも生きていかないといけなくて。
そういうことを、忘れてはいけないのだった。
特に、2011年3月11日を経験した人間にとっては。
わたし自身は忘れたいことではあるけれど、そこから得た教訓と、ぎりぎりの生活でも生き抜く努力をしたことくらいは下の世代に伝えなくては、と思う。
昭和という時代に「暗い影を落とした」から、「戦争に負けた」から、まるごと「なかったことにしよう」と、「間違った人達が起こした過ちは時代ごと闇に葬ろう」としていなかったか。
その時代に懸命に生きていた人達を、存在ごと消し去ろうとしてはいなかったか。
事実、この国では、第二次世界大戦の記憶を、狭い島国に二つも落とされた原子爆弾のことを伝えられる人が減っているのを言い訳にして、それらがまるでなかったかのように振る舞う人が増えたような気がする。
覚えている人がいなくなれば、テストのために数字とセットで覚えさせられるだけの「歴史」に成り下がってしまう。
覚えていなければ、それは存在しなかったこととおそらく同義なのだから。
だからこそ、こうの史代さんが、片渕監督が、ともすると忘れ去られてしまいそうな、なかったことにされてしまいそうなことを、この作品に、すずさんに託したのではないか。
随分長々と書いたが、まだ言いたいことの的を射ていないようにも思える。
音楽について全然触れていないし。
ともかくこの映画に出会えて良かった。
100年後も、それよりずっと先も、この映画が愛され続けることを願う。
ありがとう、この世界で、この映画に出逢わせてくれて。