1982年に23歳だった「ぼく」が、尊敬する老建築家の設計事務所に勤めて、その「夏の家(夏場だけ北軽井沢と思われる避暑地に移転します)」でのひと夏の体験を、建築家の姪との恋愛や国立現代図書館の設計コンペの準備と絡めて描いています。
本の扉に書かれた惹句には、「小説を読むよろこびがひとつひとつのディテールに満ちあふれた」とありますが、たしかにディテールの部分の描写は優れていますし、主題である建築だけでなく作者の動植物や芸術などに対する知識も豊富でなかなか読ませます。
もともと「神は細部に宿る」というのは建築関係のことばなのですが、この作品もそれをめざしている感じがします。
ただあまりに細部にこだわりすぎてストーリーから逸脱して、読むのが退屈に感じられる個所も散見されます。
また、ストーリーがそれらの細部を支えるだけの骨太さに欠けていて、小説を読む楽しさを阻害しています。
内容も文章もとても上品なのですが、どこかスノッブな印象を受けてしまうのは、書き方に問題があると思われます。
二十三歳の「ぼく」の一人称で書かれているのですが、五十代の作者あるいはラストに登場する二十九年後の「ぼく」の視点が表面に出るところが多く、若者らしい新鮮な発見というよりは老成した人物のうんちく話という感がしてしまいます。
また、結婚や恋愛に対するジェンダー観(結婚対象者を親や叔父が決め当人たちもそれに縛られています)が、とても古めかしいのも気になりました。
私はこの作品世界とほぼ同じ1981年に結婚しているのですが、いくらなんでも当時の結婚や恋愛はもっと自由でした。
たかが小さな設計事務所のオーナーや老舗とはいえ和菓子屋程度の家で、こんな古めかしい女性像や結婚観は不自然だし、それに唯々諾々としたがっている主人公たちのひ弱さが気になります。
また、地の文章で、男性所員はすべて苗字に「さん」づけなのに、二人の女性所員は「ぼく」よりも年上にもかかわらず下の名前を呼び捨てにしているのも、非常に恣意的な感じを受けて不快でした。
案の定、「ぼく」はそのうちの一人と「夏の家」で結ばれるも事情があって別れ、いきさつは書かれていませんが二十九年後の「ぼく」はもう一人と結婚しています。
全体的に、作者が知っていることや調べたことをすべて作品に盛り込もうとして、肝心のストーリーが弱くなってしまったようです。
この作品全体を支えるはずの国立現代図書館の設計コンペも、老建築家の脳梗塞の発病という形であいまい化され、それにつれて「ぼく」の恋愛もなし崩し的に終了してしまい、残されたのは避暑地の思い出だけというのでは、作者と同世代の読者のノスタルジーは満足させても、真の文学とは言えません。
それにしても、「ぼく」のラッキーな経験(希望の設計事務所に簡単に就職でき、有能でやさしい先輩たちに十分な指導を受けながら責任のある仕事にも携われ、ひと夏の恋愛体験までできます)は、過酷な就職活動や劣悪な非正規などの労働を余儀なくされている現代の若者たちにとっては、夢の中の世界としか思えないでしょう。
このような芸術家や職人(この作品の建築家の場合はその両方を兼ね備えています)の世界を描いた作品は児童文学にもありますが、最近の作品(例えば、本多明の「幸子の庭」など)はその独特の世界を書くことに汲々として、肝心の物語や人物像が弱くなっている傾向があります。
かつては、岩崎京子の「花咲か」や今西祐行の「肥後の石工」のような優れた作品がありましたが、やはりこういった作品世界を描くときには、対象を十分に客体化できるだけの作者の成熟度が求められるようです。
本多の場合もこの松家の場合もこれらの作品がデビュー作で、作者の年齢は十分に高いのですが、作家としての経験が不足しているように思われます。