今回は歴史模擬授業11回目です。飛鳥時代後半です。(詳細は、もう1つ前の記事をご覧ください)
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キンコーンカンコーン
「こんにちわ。今日から飛鳥時代を始めるわ。この前は、飛鳥時代の前半を行ったわね。
「うん、聖徳太子の時代だったよね。」
「仏教の考え方を取り入れて、天皇中心の政治をしていこうとしたんだよね。」
「そのために、冠位十二階や十七条の憲法などを作成したり、よりしっかりした政治をしている中国(隋)に留学生(遣隋使)を派遣して、勉強したりしたんだよね。」
「そうそう。みんな良く覚えているね。
今日は、その聖徳太子が成し遂げようとしたことをさらに綿密にして、完全に天皇主導の政治に移り変わっていった時代をやるよ。」
「どんなふうなのかな?どきどき」
「その最初のきっかけは、クーデター・・、そして暗殺事件から始まります。」
「うわ、血なまぐさい・・。」
「聖徳太子が死んでから、再び、蘇我氏という豪族の力が強くなってきたの。それで、蘇我氏中心に政治が動くようになってきたわけ。それに対して、不満を持つ人々もあらわれてくるわけ。」
「蘇我氏じゃない人々は不満だらけだよね。」
「その中で、クーデターを実行にうつして成功させたのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という男性。」
「え?皇子様?つまり天皇の息子さん?」
「え?でも、蘇我氏が天皇家と婚姻関係を結んでいたんだから、中大兄皇子も蘇我氏で、蘇我氏が強いままでいいんじゃない?」
「昔は天皇はさまざまな女性と子どもを設けたの。
だから天皇の息子は、蘇我氏と密接な血を持っていない子もたくさんいるの。
中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇という両親のどちらも皇族という皇族中の皇族の息子で、蘇我氏の息子という感じではなかったのよ。(ただ、彼の奥さんの中には蘇我の血をひいた女性もいたけれど。彼の娘で後に天皇になった持統天皇は蘇我氏の蘇我馬子の孫の娘の娘になる。)」
「皇族中心つまり天皇中心の政治をする際に、
ばりばり皇族の中大兄皇子からしたら、蘇我氏は邪魔だったわけね。
それに、蘇我氏が強いままだと、蘇我氏の血が入った皇子が天皇になったら、自分に皇位が渡ってこない可能性も高く、ますます、天皇中心の政治ができないものね。」
「そういうこと!(まあ、家系図についてはいろいろな説があるけど・・)。
そこで、ついに、645年、中大兄皇子は、家来の中臣鎌足と手を組んで、
ついに蘇我氏(蘇我入鹿:そがのいるか)を暗殺することに成功するの。
そして、そのあと、中大兄皇子が政権を握って(天皇になったのは別の人物だが、
中大兄皇子が政治の主導権を握っていた)、
天皇中心の政治化改革を推し進めていったの。
その蘇我氏の暗殺から一連の改革を合わせて、大化の改新と言います。」
「どんな改革をしていったのかな?」
「まずは、天皇以外の力をもっている一族(たとえば地方を治めている豪族)の
力を弱めるために、豪族らが所有していた土地やそこに住んでいた人民を
すべて、天皇のものにしたの。
それを「公地公民」というの。」
「公の土地と人民、ということだから、公の頂点は天皇だから、こういうネーミングなのね。」
「そうそう。言葉を意味を持って覚えるとわすれないよね。」
「そして、都つまり天皇のいる政治の中心地(朝廷)を定めて、それ以外の地域を、国・郡・里(こく・ぐん・り)に分けて、
それぞれに朝廷が決めた役人(国司・郡司・里長)を派遣するの。
国司(こくし)は、中央の貴族が、郡司(ぐんじ)は地方の豪族が任命され、
里長(りちょう、さとおさ)は現地の有力農民の中から選任されたの。」
「そっか、日本全体を天皇が納めやすいように区画分けして、
現地を知っている人で天皇が許可した人や天皇の息がかかった人が
派遣されることで、日本全土が天皇中心になっていったんだね。」
「そういうこと!そして、戸籍をつくったのよ。」
「戸籍ってなに?」
「戸籍というのは、その人物の住んでいるところや
年齢(出生年)情報を載せたものなの。
つまり、戸籍をつくったってことは・・。」
「天皇が、日本にどれぐらいの国民がいるかを把握できたってこと!」
「そういうこと。そうすれば、支配しやすくなるし、支配される方も、
何かあったときに国に頼めるしね。」
「そして、その戸籍に基づいて、
6歳以上のすべての男女に一定面積の田んぼを分け与え、そこで田を耕させるの。
そしてそこで実った稲の1部を朝廷に納めさせることで、食糧事情も安定するわけよ。
その与えられた田を口分田(くぶんでん)と言って、本人が死んだら国(朝廷)に返させるの。そのようなきまりを、班田収授の法と言います。
この言葉はよくテストででるので覚えておくのよ~。」
「ふえー。そうか、食糧も天皇が管理していくのか。
そうすれば、飢饉がおこったときに、国がその地域を助けることができるし、地方も国が頼りになるしなぁ。(予想)」
「そのほかに税をも設けます。租庸調という税があって、租が稲、庸が労役や布、調が地方の特産物だよ。」
「地方の特産物まで都に集まるなら、都はたくさんのおいしいグルメが発展したんだろうなぁ。(予想)」
「また、当時朝鮮半島で争いがあって、日本が味方した王朝が敗れたのよ。(白村江の戦い)
中国の唐と新羅が百済を滅ぼそうとしたんだけど、日本は百済に味方して負けたの。そこで、唐や新羅は日本まで侵攻してくんではないか?と不安になったのよ。」
「そこで、北九州(当時は船しか交通手段がないので、朝鮮半島から来る場合北九州に漂着する可能性が高い)に防人(さきもり)という兵士を置いたの。」
「そんなに緊迫した時代だったのね。」
「大宰府(だざいふ)という北九州の国防や外交を置く機関も設けたほどね。」
「また、他に、日本史上初の年号も定めたのよね。」
「あ、これ第2回の授業の年号のところで習った覚えがある。日本初の年号は「大化」だったよね・・。あ!だから「大化の改新」っていうんだ!」
「そういうこと!よく覚えていたね!」
「そして天智天皇は大津(滋賀県)でついに天皇に即位するの。
天皇のときの名は、天智天皇(てんじてんのう)(厳密に言うとのちに奈良時代につくられた贈り名)。
そして、国内の制度作りに急いだんだけど、急速な改革は人々に不満を招くことになって・・。
結局、天智天皇の死後に、政治の方針の違いや時期天皇は誰にするかで、大きな戦い(戦争)がおこったの。」
「また血みどろな争いが・・。」
「そしてついに、
天智天皇の息子だった大友皇子(おおとものおうじ)と、天智天皇の弟であった大海人皇子(おおあまのおうじ)の後継者争いがおこり戦争(反乱)に発展し、最終的に大海人皇子が勝利をし、天武天皇(てんむてんのう)として即位することに。
この後継者争いを、壬申の乱(じんしんのらん)(672年)と言います。」
「そして、皇位についた天武天皇は、より天皇中心の政治改革を推し進めていきます。
さらに、彼の死後、皇位についたのは、彼の妻であり、天智天皇の娘であった持統天皇(じとうてんのう)。
持統天皇も天武天皇同様に天皇中心の政治改革を推し進め、唐の都にならって藤原京という計画的な都をつくるの。
そして、持統天皇のあとをついだ孫の文武天皇(もんむてんのう)のときに、
天皇中心であり、ゆるぎない国家の象徴である確固とした法律である、
大宝律令が制定(701年)されるに至ったの。
律令というのは、律が刑罰に関する法律で、令が政治に関する法律よ。
これで、聖徳太子から大化の改新にいたる一連の目的が達成し、天皇&法律で世の中が動いていく律令国家が成立したの。これで、唐に馬鹿にされない、しっかりとした政治体制が日本に出来たわけ。」
「な・・長い道のりだった・・。」
「国家は一日にして成らず、だね。何人の手にわかって、はじめて確固たる形ができるわけなんだ。」
「うん。だから、自分たちがこれから何かやっていく際に、自分1人でやっていく必要はないわけだし、新しいことをやるだけが良いわけではないのよ。
自分がやろうとしていくことは、自分は新しいものを始めるやる役割なのか、それを継続して次の世代にすこしでもスムーズにわたろうとする役割なのか、完成させる役割なのか、完成したものを永続させようとする役割なのか、また、永続したものを終わらせる役割なのか、を考えて行動するのが良いかもね。」
「この時期の官政(政治機関のしくみ)なども別の記事で載せておくので、参考にしておいてね。では今日はここでおわりです。起立・礼!」
「ありがとうございました!」
キンコーンカンコーン
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終わり。
わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方は申し訳ありません。とくに蘇我氏や天智天皇・天武天皇の扱い方には様々な説がありますので、ご了承をお願いいたします。