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歴史模擬授業(第13回 平安時代①)②-1

2010年09月27日 08時57分41秒 | 歴史☆模擬授業

今回は歴史模擬授業13回目です。平安時代その1です。(詳細は、もう1つ前の記事をご覧ください)

平安時代は、前期・中期・後期に分け、今回は前期・中期の2つをまとめて学習します。

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キンコーンカンコーン

「さて、今日は平安時代を説明するわよ。

平安時代は長いので前期・中期・後期と3つに分けます。

そして今回は中期まで行うわ。

・・・とその前に恒例の前回習った時代の復習。」

「奈良時代だったね。」

「国際色ゆたかで、仏教文化が華やいだ時代だったね。」

「でも、たしか仏教を大切にしすぎたために、お坊さん(僧)たちが政治に口出すようになったんだよね。」

「天皇中心の律令政治の体制が危うくなったんだっけ。」

「みんなすばらしいわ。用語だけを言葉丸暗記をするのでなく、理解して覚えているのね。

そうそう、みんなの言うように、奈良時代の末期は、仏教勢力が強くなって、律令政治の体制が危険にさらされはじめたの。

それで、思い切って都を移して、まっさらな場所で最初からやり直そうとしたの。

それを行ったのが、桓武天皇よ。

最初に長岡京に都をうつし、その後の794年平安京に都を移したの。」

「平安京は奈良じゃないの?」

「うん。平安京は今の京都。」

「だいぶ遠くまで引っ越ししたんだね。」

「なぜ、京都という場所に移したかというと、京都は大きな川もあり、水陸の両方ともの交通の便がよかったそうよ。」

「鴨川とか桂川とかよく聞く川だよね。ドラマの撮影でも時々見る川だよね。」

「平安京と平城京を比較した地図をみてごらん。(記事の一番上にあるイラスト)

   何か違いにきづくかな?」

「あ、寺がない!卍の地図記号が平安京の中にはほとんどないよ!」

「そういうこと!・・それは何を意味しているのかな?」

「あ!仏教勢力をおさえるためだ!」

「そうなの。今までは都を移す時に寺院も一緒に移していたんだけど、今回はわ   ざと奈良に置いたままにしたのよ。」

「たしかに、東大寺や唐招提寺、薬師寺とかそのまま今でも奈良に残っているものね。」

「ただ、すでに人々の心の奥まで浸透した仏教を完全に消すことは無理だから、政治に口出しをしなく、僧は僧らしく修行に励むような仏教宗派を保護することしたの。

その平安時代に新しくできた修行中心の2つの仏教宗派が、

最澄が開いた天台宗と、空海が開いた真言宗というもの。」

「この2つは、寺を山奥に建てて、修行をしたの。

天台宗は滋賀県と京都府の境にある比叡山(ひえいざん)という山に延暦寺を、

真言宗は和歌山にある高野山(こうやさん)に金剛峰寺(金剛峯寺)という寺を。」

 

 「へー。」

「ちなみに空海は別名、弘法大師(こうぼうだいし)ともいうの。」

「あ、もしかして、「弘法も筆もあやまり」の弘法?!」

「そうなの。弘法大師(空海)はとても字が上手だったから、そういうことわざができたの。また、弘法大師にゆかりのある温泉や食べ物も多いの。讃岐うどんも空海が初めて作ったという伝説もあるそうよ。」

「なんだか身近にかんじてきたな~。」

「話を元に戻すね。桓武天皇は平安京に都を移し、仏教勢力から逃れ律令政治の立て直しをしたの。たとえば、国司の不正を取り締まったり、班田収授を奨励(積極的に推し進めた)したり。

また、旧来の寺院や僧の力をおさえ、天台宗と真言宗の新興仏教を保護したり。

そして、もう1つ東北地方に対して、その地に住んでいた、朝廷に従わなかった蝦夷(えみし)という人々を支配しようとしたの。その蝦夷を征伐するための役職が征夷大将軍というものなんだけど、桓武天皇は坂上田村麻呂征夷大将軍に任じて、ついに、蝦夷を支配することになったんだ。」

「蝦夷を征伐するから、夷を征する将軍という名称なんだね。」

「そうそう。漢字の意味で用語を覚えるのは大切だものね。」

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「このようにして、一時的に正しい律令政治が再生して、盛りになるの。それが、平安時代の前期。そして、9世紀後半ごろからその陰りが・・・。それが平安中期。」

「でも200年弱は正しい律令政治が続いていたんだね。長く続いたといえば長いよね。」

「うん。9世紀後半あたりから、摂政・関白という位についた人物が、政治を動かしていくことに・・。」

「あ、摂政(せっしょう)は聞いたことある!」

「飛鳥時代の聖徳太子のときにやったね。」

「天皇が女性か子供のときに、天皇にかわって政治を行う役職のことだったね。」

「よく覚えているね。平安時代には女性は天皇につかなくなったの。なので、子供

が天皇になったときに摂政という位について摂政が政治をするようになったんだよね。」

「でも、いつかは天皇は大人になるよね。そうすれば、今度は摂政にかわって天皇が政治をするの?」

「今まではそうだったの。でも、今度は天皇が大人になったら、「関白」という位について、天皇のかわりに政治をするようになって・・。」

「え!じゃあ、ずっと天皇はお飾りで、摂政(関白)が政治するじゃん!」

「あ、だから、摂関政治というだね。摂政・関白のそれぞれ1字をとって。」

「そういうこと。そして、摂政・関白についたのが、すべて同じ一族だったから、またさらに大変。その一族パラダイスよ! その一族が藤原氏

摂政関白は天皇の母方のおじいさんが就くことが多いので、藤原氏は娘を現天皇の奥さんにして子供を産んでもらい、その子供を天皇にして、自分は摂政(関白)になって・・・とね。」

「あ、奈良時代に聖武天皇が抑えようとしたあの藤原氏。」

「藤原氏を押さえようとして仏教を推進したから、仏教勢力が強くなったんだから、その仏教勢力がなくなれば、残っている藤原氏が強くなるというのは当然といえば当然ね・・。」

「そうなのよね。一方を押さえつけるともう一方が強くなり、かといって強くなった勢力を押さえると、それまで押さえつけれた勢力が盛り返して・・・。バランスというものはむずかしいのよね。

 

それで、摂関政治がもっとも隆盛を誇っていたときに、摂政(関白)の位についていた人物を親子2代で覚えてね。

1人は藤原道長(ふじわらのみちなが)。

もう一人が、道長の息子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)。

二人の「みち」の漢字がそれぞれ違うから気をつけてね。

 

 藤原道長は、自分の絶頂期の気持ちを和歌に詠んでいて、その和歌がよく入試ででるの。その和歌とは、

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

というもの。

この世の中は私のための世の中と思えるぐらいだ。そう望月(満月)のように、欠けている部分がないようにね。

という意味。」

「うわー。酔ってる。ナルシスト!ナルシスト!ナルシー道長!」

 「そんな歌がうたえるぐらい道長に勝てる人がいなかったんだね。ある意味、道長は政治家としてすごかったんだね。」

「やり方はともかく、とにかく凄い人ではあったよ。彼のころに、文化も華やいだしね。

ついでその子の藤原頼通は、京都郊外にある宇治に、極楽浄土をこの世(現世)に作ろう、ということで、豪華絢爛な平等院鳳凰堂(びょうどういんほおうどう)という建物を建てたの。

みんな、ここには行ったことはなくても、平等院鳳凰堂はぜったい見たことあるわよ。」

「?????」

「ヒント。お金。」

「あ!わかった!十円玉!」

「そう!十円玉に描かれている建物が平等院鳳凰堂。今度よく見てみてね。

この平等院鳳凰堂は、当時流行った、浄土信仰という考え方を元につくられたの。

阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土(天国)に行けるという考え方。この世はもう終わりかもしれないという世紀末の不安みたいなのがあってね・・。」

「あー。今でも「ノストラダムスの大予言」とか「2012」とかの世界の終りの考え方ってあるものね。平和な世の中のほうが、かえって不安が募るのかもしれないね。」

「あと、どんどん私有地である荘園が力をつけてきたんだよね。このころになると、荘園の特権があってね。荘園は税を払わなくてもよい、という不輸の権とか、国司が荘園に立ち入ることを断われる不入の権などの権利を荘園はもっていたの。」

「うわー。ますます私腹を肥やす人々がふえるじゃん。」

「その荘園を広げていたのが、有力貴族や寺社だったので、よけいにね。その荘園の領土争いが後に朝廷の弱体化&源平合戦を招くことに・・。」

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文字数の関係で、残りの文化の説明は、もうひとつ別の記事(②-2)にアップいたします。

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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