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歴史模擬授業(第15回 鎌倉時代)②-3

2010年10月17日 12時08分58秒 | 歴史☆模擬授業

さきほどの記事(歴史模擬授業第15回鎌倉時代 ②-2)の続きです。
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「さて、これで鎌倉幕府全体の仕組みはわかったかな!」

「難しいけど・・・はい、なんとか・・・。」

「では、次は、この鎌倉幕府がどのような歴史を歩んでいったのかを見ていきましょう。」

「はーい。」

「まず、一代目将軍の源頼朝、そして2代目、3代目の源実朝(みなもとのさねとも)と
源氏による政治が続いて行ったんだけど、3代目の源実朝が死んでしまい、源氏の家系が絶えてしまうの。」

「あらら・・。」

「そこで、どうするかというと・・・、さきほどの幕府の仕組みで出てきた将軍の補佐役の・・・。」

執権!」

「そう、執権が中心となって政治をするようになったの。名目上の将軍は立ててはあるんだけど、将軍はただのお飾りなのよ。

 その執権が中心となっておこなった政治のことを、執権政治と言います。
そして、その執権の地位についた一族が北条(ほうじょう)という一族。
頼朝の奥さんは北条政子というんだけど、その奥さんの家系が源氏にかわって幕府を動かしていくことになるの。」

「ほえー。」



「また、源氏が絶えるなど、色々と幕府が混乱していたから、それに乗じて、幕府を倒そうと思った人たちがいたの。」

「え?そうなの?」

「よく考えてごらん。幕府に不満があるのって・・・、幕府は武士中心の政治をするでしょ・・・それで幕府ができる以前は違う人たちが政治を動かしていて・・その人たちは幕府に心から賛成しているわけではないから・・・。」

「あ!わかった!朝廷だ!天皇率いる朝廷!」

「そういうこと!天皇ではなく上皇なんですが、上皇がついに、幕府を倒そうと動き出します。

それが1221年承久の乱というもの。
承久の乱を起こした天皇は、後鳥羽上皇。」

「成功したのかな?」

「「乱」という文字がつく場合は、世の中が乱れてるときの戦い名なんだけど、たいがい、起こした側が失敗するときによく「乱」はつけられるの。(絶対ではないけれど)」

「・・・ということは、後鳥羽上皇が失敗した。」

「うん。それで、上皇は、隠岐(おき:中国地方の島)に島流しになったの。」

「将軍が絶えて混乱状態だったのに、よく幕府が勝ったよね。」


「このときに、さっきの「御恩」と「奉公」の関係が力を発揮するの!」

「あ、「奉公」って、たしか・・幕府に何かあったときのために幕府のために戦え!ってやつ!」

「その「幕府におきた何か」が「承久の乱」だったのね。」

「そうなの。頼朝の奥さんの北条政子がそのときに言ったことばが有名なんだ。
「亡き頼朝が君たち御家人にしてやったことを忘れたか?!その深い情けをわすれて、京都(後鳥羽上皇)に味方するのか、幕府につかえるのか、どっちだ!」という内容でね。(意訳です。)」

「それで、御家人たちは、御恩に報いるために、一所懸命(一生懸命)がんばって戦ったのね。」

「こう考えると、相手に何かをしたことや制度をつくることって大切よね。自分がいなくなっても、それが後々、機能してくるんだから。」

「そうなのよね。ではでは、承久の乱で御家人たちの活躍で勝った幕府。
そして、また同じような反乱がおきないように、京都の朝廷を監視する機関を京都に置くようにしたの
その機関を六波羅探題(ろくはらたんだい)というの。」

「あ、さっきの幕府の仕組みに書いてあったやつね。」

「うん、もう一度、参考のために、幕府の仕組みをここでみてみようか。」



「この六波羅探題なんだけど、
入試で、「何の事件のあとで六波羅探題は置かれたか」とか「承久の乱のあとで置かれたものは何か。」とか
「六波羅探題とは何か説明せよ。」とか、いろんなパターンでよく出るから、よーく、覚えておいてね。」

「はーい。」

「それで、そのあと、さっき話した執権政治が続いていくの。それで、習う執権が2人出るから、覚えてね。

 まず、一人目は、北条泰時(ほうじょうやすとき)。彼は、武士の慣習(風習・行動様式)をまとめて、武士の初めての法律をつくったの。それが御成敗式目(ごせいばいしきもく)というもの。」

「武士も、やっとここで法律ができたんだね。」

「天皇たちの朝廷の法律とかは、大宝律令などの法律があったけど、武士では初めてなの。
      つまり、法律をつくれるぐらい、もう武士の政治機関もまとまってきたってことね。」

     そして、そのあと、覚えておいてほしい執権は、北条時宗
    彼が執権の地位についていたときには、外国が攻めてきて、大変だったの。
     ・・ということで、その当時(前後)からの外国の状況を説明するね。」


「久々に国際的な話になったね。」


「13世紀のはじめごろに、モンゴル民族が大きな帝国を築いたの。最終的にはアジアの大半とヨーロッパの一部まで広がった一大帝国を。」

「うわ!でちゃでかい!(とても大きい!)」

「その大きな帝国を、モンゴル帝国と言って、その帝国を築いたのが、チンギス=ハンという人物。

そして、チンギス=ハンの息子たちがどんどん領土を拡大していったの。
でも、あまりに領土が広がりすぎちゃったから、そのあとで、チンギス=ハンの4人の息子たちの一族たちでそれぞれ領土を分けて、それぞれの領地に名前をつけて、統治することになった。

そのときに中国の地域を支配したのがフビライ=ハンという人で、その領地を「としたの。」

「「元」は繁栄を極めていたそうよ。その当時、イタリア人のマルコ=ポーロという人が元に来て、フビライ=ハンと会って、いろいろな話を聞き、「東方見聞録(『世界の記述』)」と文書も残っているわ。
その「東方見聞録」に書いてあったことが、後々の江戸末期~明治に関係してくるの。

なぜかというと、彼が日本を「黄金の国ジパング」と記述したことから、後々のヨーロッパ人は「日本には金がたくさんある!」と思い込んで、日本をほしい!と思うようになったという説もあるの。」


「へー、そうつながっていくんだ。」

「では話を戻すね。元のフビライ=ハンは、さらに元の領土を増やしていこうとして、アジアの色々な国を攻めていくの。そしてもちろん日本にも来た。」

「あ、それが、北条時宗が執権をしていたとき?」

「そういうこと!その元が日本に攻めてきたことを「元寇(げんこう)」と言うの。2回にわたって元は攻めてきたので、1つ1つの戦いで言うと、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)。」

「それで、日本は大丈夫だったの?」

「2回とも暴風雨におそわれたために、元軍は退いたの。なので、日本は自然現象のおかげで、元に支配されなかったの。」

「神風だ!かみかぜ!」

「うん。まさに神風だね。この元寇のときの暴風雨を「神風」というのよ。」

「あ?そうなの!」

「日常で使っている言葉で、歴史に関係していることっていろいろあるんだね~。」

「この戦いで、元の集団での攻め方や、火薬に日本軍は苦戦したそうよ。
    なにせ、初めて見る兵器(戦法)だったからね。」

「そうなんだ・・。」

「この元寇で元に日本は支配はされなかったんだけど、これが結果的に鎌倉幕府の終わるきっかけになるの。」


「え!?」

「さっき、承久の乱では、御恩と奉公のおかげで勝ってよかった!という話があったでしょ。元寇のときだって、同じで、御家人たちは幕府を守るために必死に戦った。多くの費用も使った。戦いがおわったあとの御恩を期待した人だっていたはずよ。
しかし、元寇が終了したあとに、幕府はがんばった御家人たちに十分な恩賞を与えることができなかったの。」

「うわ・・、じゃあ、戦い損じゃん!」

「そうなの。だから、御家人は幕府に対する不満が高まったの。
さらに、借金を抱えている御家人たちだっていたから、さあ大変。」

「わあ。そりゃ大変だ!」

「それで、幕府は、じゃあ御家人の借金を帳消しにすれば何とかなるかも・・と思い、
 借金帳消しの命令を出したの。

借金を帳消しにする命令を徳政令(とくせいれい)と言って、

この時期の1297年に出した徳政令を「永仁の徳政令」というの。」

「それで、万事オッケーになったの?」

「ううん。効果は一時的なもので、逆に社会は混乱して、幕府は信用をなくしてしまったそうよ。」

「借金があるってことは、お金を貸している人もいるってことで、徳政令のせいで、その貸した人は困るもんね。」

「それで、ついに、1333年に、鎌倉幕府は滅亡してしまうの

楠木正成(くすのきまさしげ)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)と、
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によってね・・。」

「御恩と奉公のおかげで、承久の乱のときは幕府は存続し、最後は、それが仇となったんだ・・。」

「滅亡の詳しいことは、次の室町時代に行うわね。」

「はーい。」

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文字数が多くなってしまったので、もうひとつ別の記事(②-4)で行います。

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。



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