社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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歴史模擬授業(第12回 奈良時代)②-1

2010年09月26日 13時02分49秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業12回目です。奈良時代です。(詳細は、もう1つ前の記事をご覧ください)

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「さて、今日は奈良時代ね。」

「わーい!奈良時代だ!奈良時代!楽しみにしていたよ!」

「ん?どうしたの?ひよちゃん。妙にハイテンションね。」

「えへ!実はこの前、家族旅行で、奈良の平城京遷都1300年祭に行ってきたんだ!そこで平城京にあった建物を再現したものがたくさんあって、楽しかったの。」

「良いなー。先生も行きたいと思っているの。どんな建物があったの?」

「遣唐使船とか大極殿とか。大極殿は儀式とかした場所なんだよね。めっちゃ豪華だったよ。遣唐使船も、あれで遣唐使が乗って船に渡ったんだ~と思いをはせていたりしたよ。」

「うらやましい!先生もぜひ今度行くわ!当時の衣装なども着ることができるみたいだから着てみたいのよね~。」

「歴史スポットに行くと、イメージがわきやすいし、なんといっても、授業を聞くのが倍楽しくなりそう!わくわく!」

「そうね。旅行で歴史にゆかりのある場所に行くのはすごく良いことよね。では、授業を始めます。まず、飛鳥時代の復習。奈良時代は、飛鳥時代で初めて完成したものを続けていって、微調整しながら平安時代に橋渡していく時代なのよ。」

「飛鳥時代って、「天皇中心+仏教を政治に入れていく」を目標した時代だったよね。」

「天皇中心の政治を完成させたのが、701年の大宝律令の制定だったよね。天皇を頂点にして、法による政治形態ができたんだよね。」

「そうそう。これで、どんな人が天皇になっても、法律があるから、政治にブレが少なくなるのよね。」

「あと、公地公民制も確立していたよね。全部、土地と人民は天皇のものっていう。班田収授の法とか制定されて。」

「そうそう!みんな、よく覚えているね。天皇中心の政治は飛鳥時代に確立したから、残るは、仏教!さて、奈良時代の全体的なイメージはここまでにして、これからは、どのような歴史を歩んでいったかを年代別に見ていくね。飛鳥時代に律令制度が確立して、政治機関もしっかりできてきたから、だんだんと都(藤原京)が手狭になってきたの。それで、都をもっと広く、さらにもっと機能的な都市にしようということで・・・。」

「都を移したんだ!」

「そう!それまで奈良県の南の方(明日香村に近い橿原市)にあった都(藤原京)を・・。」

「奈良市(現在)に移した!それが、平城京だよね!平城京!」

「ぴよちゃん、おおはしゃぎだね・・。」

「そう!平城京!平城京に都を移したのが710年。移したときの天皇は元明天皇という女性の天皇よ。」

「え?また女性の天皇だったの!?」

「うん。大宝律令を定めた文武天皇に子どもはいたんだけど、皇族の母親が産んだ子供がいなくてね・・。だから、そのつぎの天皇はこの人!ってだれもが納得する人がいないうえに、まだ子供たちが小さかったから、とりあえず、文武天皇のお母さん(皇族)が天皇としてつくことになったそうよ。」

「あ、それが元明天皇ね。」

「そうそう。中継ぎとして天皇になった元明天皇だったんだけど、奈良時代において習う用語の多くは元明天皇のときが多いの。「これをやったのは誰ですか?」という問題は出ないけど、これは元明天皇の時代のこと、と分けて整理すると、ものごとのおこった順番がよくわかるわよ。」

「整理して覚えるのって大切だもんね。」

「平城京は、中央集権国家(天皇中心国家)にふさわしいように計画的につくられ、道路はタテヨコのマス目をしっかりつくったのよ。(詳しくは、別記事の平城京のつくりをご覧ください。そのような都市をつくるときに模範としたのは、中国の唐の都である長安だったそうよ。この長安はよく愛知県の私立中入試で聞かれるから覚えておきましょうね。」

「すごーい!」

「平城京は、道路が規則的に並び、白い壁にかわらの屋根、朱色の柱・・という建物が立ち並び、桃の木などの木々も多く植えられ、池などもおおくあった、水と花の咲き乱れた、美しい都だったそうで・・。」

「へー。そんなに美しい都だったんだ!」

「平城遷都1300年祭の平城宮跡で見たシアターで、平城宮の再現を見たけど、確かにキレイだったよ!あのシアターは建物が中心だったけど、そこに木々・花々が咲き乱れてきたら、美しい香りがしてきそうで。」

「当時もその都の美しさに感動して、平城宮のはなやかな美しさを和歌で詠った人がいたそうでよ。その和歌がこれ。「青丹(あおに)よし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく いまさかりなり」 簡単にいうと、「奈良の都は、咲いた花が色美しく映えるように、絶頂期をむかえていることよ。(「青丹よし」は、「奈良」にかかるもので意味はとくにない)」ということらしいわ。」

「ぷわんと桃の香りがしてきそう!目にも美しく、鼻にも美しく。(注意:この和歌が桃の香りとニオイを限定しているわけではありません。柳・橘・松の木などが植えられていたことは明らかになっていますが、ここでは生徒が想像しやすいように身近な桃の木で例えました。)」

「このように都が整備されたから、地方も整理されていくわけよ。そして、平和な時代になったから、文化も華やぐし、産業も発達してくるのよね。」

「戦争していたり政治が混乱しているときは、目の前の食べ物を得るだけで必死になるものね。奈良は平和だったんだね。」

「農業生産も高まって、養蚕(ようさん)や牧畜も広まってね。また、金や銅などの鉱山も開発されていったの。そうすると、農作物や、服の原料や金や銅などの鉱物が地方それぞれの特産物になるよね。その特産物を税として都に納めるから、都にはいろいろなものが集まることになって、さらに文化が華やぐというわけよ。」

「地方の特産物の税って、「租庸調」の「調」だったね。」

「お!よく覚えていたね!その特産物の1つに、武蔵国の秩父(現埼玉県)で銅が朝廷に献上されたの。それをもとにしてつくったのが貨幣で、その貨幣を「和同開珎(わどうかいちん、もしくは、わどうかいほう)」というの。実際には都とその周辺した使われなく、流通もあまりよくなかったみたいだけど、世の中が物々交換でなく、貨幣をつかって物を売り買いするようになるってことは、それだけ貨幣を発行する機関(朝廷)がながく続く信用できるところになってきたってことよ。」

「政治機関がころころ変わっていたら、前の政治機関が発行したお金は使えなくなるもんね。ずっと政治機関が一緒なら、この貨幣を使っても安心!と思われるからね。」

 「さて、このように華やかな平城京の話の裏で、一般庶民・農民たちはどのような暮らしをしていたかというのを見ましょう。貴族たちは、立派な家に住んでいたけれど、農民たちは、竪穴式住居やほったて小屋のような粗末な家に住んでいたそうで、貧しかったそうよ。また、飛鳥時代に定められた班田収授法で与えられた口分田を捨てる農民も多くて口分田も荒れ果ててね。そして人口は増えたにもかかわらず口分田が不足してさ・・。」

「死んだら口分田を天皇に返す、というやり方だったら、だれが好き好んで田を耕すか!と思うもんね。」

「そう、それで、少しでも田を増やそう(農作物を収穫できるよう)と、今度は本人・子・息子・ひ孫の3代までは新たに開墾した(新たに農地をつくった)土地は彼らのもの、という方法に変えることにしたの。それを三世一身の法(さんぜいっしんのほう)というの。元明天皇の後を継いだ次の天皇が723年に定めらたの。

でも、それもうまくいかなくて・・。」

「どうせ、ひ孫が死んだら返さなきゃいけないもんね!」

「そこで、さらに743年に墾田永年私財法という法律を出して、新しく開墾した人は永久にその人(&子孫)のものですよー、としたの。」

「それじゃあ、飛鳥時代に掲げた公地公民制がくずれるってことじゃ・・。」

「よく気がついたね!そういうことなんだよね!でも、それだけ、農民が口分田を手放すことに苦しんでいたということ。また、その墾田永年私財法を出すほど、農民たちにあることを認めてもらいたい、という天皇を支持してもらいたかったってことなんだよ。」

「?」

「墾田永年私財法を出したときの天皇は、聖武天皇という人。」

「あ!この人、聞いたことある!東大寺の大仏を作った人だ!この前、奈良に旅行したときに見たもん!大仏!」

「聖武天皇は父は文武天皇なんだけど、母は皇族出身ではなく、藤原一族の母でね。聖武天皇が天皇につくことを良しと思っていない人も多かったんだよね。」

「そうだよね。飛鳥時代の蘇我氏と同じで藤原氏が力をつけるってことだから、ほかの一族からしたら困るよね。」

「藤原っていう名前ってどこかで聞いたような・・。」

「あ!大化の改新のときの中臣鎌足って藤原鎌足とも言ったよね!藤原氏って鎌足の子孫なのかな?」

「そうだよ!鎌足の子孫が藤原氏で、平城京に都を移した中心人物も藤原氏で、藤原氏がどんどん政治の世界に入り込んできたのが奈良時代。聖武天皇のころに、藤原氏が権力を保持しようと、色々な策略をしたり、天変地異がおこったり、天然痘がはやり多くの人々が死んだりしてね・・。それで聖武天皇は自分が天皇になったからだ・・、と落ち込んだりしたようで。さらに、藤原氏でもあり皇族である聖武天皇は、その狭間で悩み、藤原氏でありながら、藤原氏の勢力を押さえようとともしていたフシもあるみたい。」

「へー。お父さんの血筋(皇族)とお母さんの血筋(藤原氏)に間に挟まれて大変だったんだね。」

「それで、彼は、藤原氏の勢力を押さえるためにも仏教を推進していくの。」

「みんなが仏教の方を大切にすれば、藤原氏が何を言っても聞かないもんね。」

「色々な説はあるので、これはその1つの説だけどね♪でも今回はそうやっていくと1つの線でつながるから、この説でおしすすめていくわよ!

それで、国ごとに国家の息がかかった寺を1つ1つ作っていこうということになるの。

それが、国分寺と国分尼寺。国分寺が男のお坊さん(僧)用、国分尼寺が女のお坊さん用。」

「ああ、だから国分尼寺には、女のお坊さんである「尼」という文字が使われているのね。」

「それで、たくさんある国分寺の中のトップ(総本山)を、奈良の東大寺と定めたの。東大寺や平城宮跡に行くとわかるんだけど、東大寺は平城京を見下ろすような場所にあるし、藤原氏の氏寺である興福寺を平城宮と東大寺ではさむような形になっているのよ。つまり、天皇のいる平城宮と、天皇の息がかかった国営の東大寺で、藤原氏私営の興福寺を見はろう!ていうわけよ。」

「ほえー。興福寺も行ったけど、あそこって藤原氏の寺だったのかァ。」

「また、当時天然痘がはやったりして国内が不安に包まれていたから、仏の力を借りて国家を救おうと思って・・。」

「あ!それで大仏をたてた!」

「そうなの!大仏はかなり大きいし、金箔で塗り固めたものを作ろうということで、かなりお金と労働力がかかる。」

「あ!わかった!それで農民たちにも大仏建立に対して文句を言われないように、墾田永年私財法を出して、コビを売ったんだ。」

「うん。そういう風にも考えることができるのよ。(これは1つの説を説明していて、これが絶対的に正しいわけではありません。)また、農民たちに絶大な人気のあった僧に大仏建立に賛成してもらえたら、さらに確実ってことで、当時人気のあった僧である行基(ぎょうき)に大仏建立のお手伝いをしてもらったの。」

「なんで、行基は人気あったの?」

「当時の僧って、国家のためを祈ることが中心で個人の生活には無関心だったんだけど、行基は、橋をたてたり池をつくったりして一般庶民の生活を助けた(社会事業をほどこした)。」

「へえ、庶民の神様みたいな人だったんだね。」

「うん。そうして、東大寺に大仏が完成したのよ。」

「あと、聖武天皇のころに、唐のえらいお坊さんである鑑真(がんじん)が日本に来てくれて、日本に本格的な仏教を伝えてくれたの。彼(もしくは弟子)が建てた寺に唐招提寺というものがあるので、セットで覚えておいてね。」

「寺がたちまくりだァ。」

「そう、だもんで、聖武天皇のあとの天皇ぐらいから、仏教勢力が政治に口をはさんだり、お坊さんが天皇になるかもしれないような状態もあったようでね・・。さらに、先ほど言った墾田永年私財法を出したことから、私有地が認められたので、貴族や寺院が農民たちを使って開墾したときを自分のもの(私有地)にして、広い私有地を持つようにもなったみたいで・・。ちなみにその私有地を荘園と言います。

だから、飛鳥時代にきずいてきた天皇中心の公地公民制は次第にくずれ、天皇はいるんだけど、その水面下での勢力争いが強くなっていくんだよね。」

※文字数が超えたので、②-2に続きます。


歴史模擬授業(第12回 奈良時代)①

2010年09月26日 13時01分04秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業です。3か月ほど間があいてしまい申し訳ありません。

模擬授業12回目奈良時代です。

飛鳥時代までの文化はまた後日アップしたいと思います。


奈良時代は、2010年は平城京遷都1300年ということで、
奈良市で1300年祭がおこなわれていることからも、今年(2011年1~2月入試)は入試に出やすい時代かな~と思います。

この時代は、新しい発見があるごとに歴史が塗り替えられるうえに、いろいろと説はありますが、今回は、教科書に書かれていることおよび1つの線につながるような教え方をしたいということを念頭において話したいと思います。



自分がよくツールの使い方を把握していないせいか、1つの記事に1つ画像しかアップできないので、1つの画像ごとに説明できる分だけアップという形にしています。すみません。

「歴史模擬授業」という記事を数か月に数回更新していきたいと思います。

これは実際の授業形式を文字であらわしていこうというものです。

劇の台本みたいな感じになると思います。 定期的に内要がまとまったら、HP「しゃかしゃか★ぶりっじ」にて改定してアップする予定です。

読むときに、 →先生、 →生徒その1(ひなちゃん)、 →生徒その2(はむちゃん)、→生徒その3(ねこちゃん) だとだと思って読んでください。

(みんな、びっくりするぐらいいい子ですが、そこはご勘弁を・・)

また、設定は、私立中学入試をひかえた小5の授業(塾)だと思ってください。


今回は文字数が最大数を超えてしまいそうなので、もう一つ記事を作ってアップさせていただきます。

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方は申し訳ありません。

佐渡に行っていました

2010年09月22日 14時02分23秒 | おすすめ☆歴史スポット

先週~昨日はなかなか更新できなくてすみませんでした。

 実は、先週から昨日にかけて仕事が多く、

さらに、新潟県佐渡ヶ島に里帰りしていました。

 私の先祖はずっと名古屋育ちですが、旦那のご先祖が佐渡出身ということで、

佐渡にお墓参りに行ってきました。

 

佐渡では、お墓参り以外に、

能楽堂(佐渡には、神社の境内にある能楽堂が多い)や佐渡金山などに行ってきました。

 

佐渡での能は「観賞するのではなく演ずるもの」という風潮があります。

通常は別の仕事に就いている人たちが、仕事の合間に練習をし、それを、発表する、というもので、とても能が身近なものののようです。

おそらく、江戸時代(とくに室町あたり)までは、このように、能はもっと庶民に近かったのだと思われます。(江戸時代に能楽師は士農工商の「士」の身分に入り、特権階級のものになりましたが、能楽師ではない一般人でも「能」を演じることはできたようです。)

また佐渡の能楽堂は神社の境内にあり、

能が昔はいかに「奉納するもの」という祈りの文化の面が強かった、

ということも感じられました。能には、神社由来のものや、五穀豊穣などを願う演目も現在多く残っています。

 

佐渡金山は、江戸時代当時の採掘現場が人形で再現されていたり、明治以降の坑道などが歩けました。

当時の採掘や坑道がどのようであったかを知るのに、社会を勉強するのに大切な体験でした。 

 

 

佐渡にはフェリーで2時間半かかります(ジェットフォイルだと1時間)ので、簡単には行くのは難しいですが、島国独特の文化があり、ほかではなかなか体験できないものがありますので、おすすめの場所です。

 

 


「御伽草子」から見る室町時代

2010年09月13日 09時52分56秒 | 歴史へのつぶやき&興味

この前は室町時代の授業をいたしました。

室町時代って、よく考えると難しいんですよね。

初期は南北朝の動乱、中期は文化が華やぎ、後期は戦国時代、

とレパートリーが豊富すぎ。

また、この室町時代は、食事が1日3回になった&お茶を飲むようになった、など私たち日本人の生活の基礎が出来上がった時代であり、また、生け花や能などの現代まで続く日本文化が誕生した時代でもあります。

 

私は室町時代を説明するにあたって、そのストーリーの軸を、

初めて一般民衆が豊かになった時代~その恩恵と悲劇の始まり~

としています。

 

そうすると、やっと、武士の政治が安定してきて、そして・・・

農業・商業の発達→農民・商人たちが、豊かになり力をつける→自分たちで自治を始めようとする(土一揆・国一揆の始まり)→お上の騒動(応仁の乱&守護大名・戦国大名の争い)もあり、武士・民衆のお互いがぐちゃぐちゃとした戦い始める戦国時代に突入

というようにお話できるんですよね。

 

 

そして政治的な流れを説明したあとで、文化の説明をしました。

 

そのときに、私がぽつりと一言。

「『お伽草子(おとぎぞうし)』て、室町時代をよく現した作品よね。」と。

生徒は、???な表情。そこで説明を続けます。

 

私 「お伽草子って、「浦島太郎」や「一寸法師」の話がある、おとぎ話が入っている  

    のは知っているよね。」

生徒 「うん。」

私 「じゃあ、たとえば浦島太郎って身分は何?」

生徒 「漁師。」

私 「漁師って貴族?武士?」

生徒 「ううん、一般庶民」

私 「だよね。貴族や武士とかの特権階級じゃない、身分のひくい一般庶民だよね。

    そうそう!今まで習ってきた作品って、貴族か武士が主人公だったじゃん!   

    「源氏物語」「平家物語」とか。

   でも、「御伽草子」には一般庶民が主人公のものがあるってことなんだよ!

    「御伽草子」には貴族・武士が主人公の作品もあって、一般庶民の主人公の  

     作品とごっちゃになって入っているの。

    つまり、この当時、一般庶民が主人公の作品が出てきたってこと 

    は、庶民がそれだけ生活の余裕が出てきて力が出てきたってこと。

    さらに、貴族・武士・一般庶民の主人公の話が同じ作品におさめられていると  

    いうことは、身分の精神的な差が縮まっているとも読めるね。」

生徒 「それって、さっき先生が言っていたことだよね!(庶民の力が強くなり、一揆  

      がおこって、それが戦国時代につながっていく!と。)」

という会話ができました。

そのあとで、生徒が「こういう風に歴史って見ることができるんだ~!文化から政治や社会情勢を見ることができるんだね。」と感動してくれて嬉しかったです。

でも、このような内容で理解&感動できる生徒さんは、社会のセンスがあるな、と思います。

話しても、「でも、それテストに出ないじゃん」とか「何を感動するの?」という生徒も多くて・・・。

社会って、言葉は覚えなけばいけないけど、その言葉をわれわれが何故習うのかというと、そこから学ぶべき教訓や内容があるからなんですよね。

 

私の授業が良いかは別として、生徒に私の授業で楽しんで、社会に良いイメージを持ってもらえれば幸いです。

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「御伽草子」での「浦島太郎」は現代のように、亀に乗って竜宮城に行く形ではありませんが、彼が漁師をしていたのは確かです。「風土記」「日本書紀」「万葉集」での浦嶋子は豪族(一説には、浦嶋子は蘇我馬子を現しているとも言われています。)でしたが、時代が移って、室町時代には、漁師という身分になっていたそうです。


うれしい一言

2010年09月09日 20時08分05秒 | 教育者としてのつぶやき
昨日は400以上のアクセスありがとうございます
訪問者数ではランクインもできました。


今日はお友達に嬉しいお言葉をもらいました。

教育でお金をバリバリ稼ごうと思うと、じっくり一人の生徒をみれないのは辛いから、他で収入源を確保するやり方はないかな~と話をしていました。
そのとき、
将来、このブログの記事や、私が描いているマンガを本にして売ってみたるのも一つの手かも?
と言われました。

実際には、自費出版の費用や印刷業界の大変さ、自分の実力を考えると、まだまだなんですが、そのように言っていただけたのが、嬉しかったです


「私なんて・・」と謙遜している間は、目標設定もできないし、目標設定ができなければ、どのように努力するべきかもわからないです。
しかし、「いつかコレをやれるように!」と思って努力することで、いつの間にか能力が上がっていることがあるんですよね。

だから、友達のあの一言は、私のぐずぐずした気持ちを吹き飛ばしてくれる大切な一言でした。



実際に本にするかは別として、本になるように努力していきたいなぁと思います

友人に大感謝です。

確認テスト⑬-2 弥生・古墳時代

2010年09月08日 16時27分46秒 | 確認テストツール
確認テストです。
詳細は、この記事の前の記事「確認テスト⑬-1」をご覧頂くよう、お願いいたします。
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確認テスト 弥生~古墳時代


1:紀元前5~3世紀に大陸から伝わって、人々の生活形態がかわったものを2つ書け。
2:弥生時代の人々が使っていた土器は何か。
3:2の土器は縄文時代の土器と比べて、どのような特徴があるか記述しなさい。
4:弥生時代に稲刈りをする際に、穂先をつみとるときに使っていたものは何か。
5:弥生時代に稲刈りをして、つみとられた稲を保管した倉庫を何というか。
6:弥生時代に、祭りの道具に使われていた青銅製のものは何か。
7:「漢書地理志」には、紀元前1世紀ごろに、日本にはどれぐらい
  くにがあったと記されているか。
8:「後漢書東夷伝」に記されている、日本の北九州にあったとされる、
くにの名を書け。
9:8の国は、中国の皇帝から何を授かった、と言われているか。福岡県志賀島で発見されたものを書け。
10:9に彫られていた文字を書け。
11:紀元後3世紀に女王が統治する国で、30あまりの小国を従えていたとされている、くにの名を書け。
12:11のくにの女王は誰か。
13:11について記してある中国の歴史書を書け。
14:11のくには現在のどの地域にあったとされているか。有力な2つの説があるので、その2つの地域を書け。
15:弥生時代の遺跡で、佐賀県・静岡県にある有名な遺跡をそれぞれ書け。
16:5世紀中ごろまでに、地方の豪族を従え、九州から関東にいたるほぼ全国を統一した王朝は何か。
17:16の朝廷の王を何というか。漢字と読み仮名のそれぞれを書け。
18:4~6世紀に中国や朝鮮半島から来て、大陸の進んだ文化を伝えた人々を何というか。
19:18の人々が日本に伝えたものを3つ書け。(20のものは除く。)
20:6世紀の中ごろに朝鮮半島の百済から日本に伝わったものは何か。
21:4~7世紀に、17や豪族たちの、大きな墓を何というか。
22:21はいろいろな形があったが、その中で、日本独特の形のものを何というか。
23:22の中で、日本で最も大きいものは何か。
24:23は、現在のどこにあるか。都道府県名と都市名を書け。
25:21のまわりに立てられた素焼きの土器を何というか。

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答えはコメント欄にあります。

(万が一、こちらの問題を使用しておこったいかなる問題も責任はとれませんので、申し訳ありませんが、ご了承のほどよろしくお願いいたします。)

確認テスト⑬-1 弥生・古墳時代

2010年09月08日 16時26分52秒 | 確認テストツール
今回は確認テストツール第13弾です。

これは仕事で個人的に使う一問一答式のものをアップしていたので、今年は小中学生の社会を担当していなかったため、なかなかアップできませんでした。
夏休みから小学生を新たに受け持つことのになったので、今まで書かなかった時代も作成していくことになりました。

今回は弥生時代~古墳時代です。

弥生時代はさらっと習うので、期間が短いとおもわれがちですが、600年以上です。
また、農耕牧畜が本格的に始まった(技術が入ってきたのは縄文時代)、というイメージが強いため、のほほーんとした雰囲気がありますが、実は領土争い・家督(トップ)争いが
絶えない戦争の時代でもあり、
人間は昔から変わっていないだ・・と色々考えさせられることがあります。


もしよろしければ、確認テストを活用していただけるとうれしいです。

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(万が一、こちらの問題を使用しておこったいかなる問題も責任はとれませんので、申し訳ありませんが、ご了承のほどよろしくお願いいたします。)

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文字数の関係上、このままアップは難しかったので、もう一つ記事をつくり(題名は、確認テスト⑬-2です)問題をアップしました。お手数ですが、そちらをご覧頂くようおねがいいたします。

確認テスト⑫-2 旧石器・縄文時代

2010年09月04日 18時14分21秒 | 確認テストツール

確認テスト 旧石器・縄文時代

1:紀元後3世紀とは、西暦何年から何年までですか。

2:紀元前2世紀と紀元前5世紀では、どちらの方が古い世紀ですか。

3:日本で初めて定められた元号は何ですか。

4:日本にも旧石器時代(無土器時代)があったとわかったのは、群馬県である遺跡が発見されたからです。その遺跡名は何か。

5: 5の遺跡を発見した人は誰か。

6:旧石器時代(無土器時代)の人々が主に使っていた石器は何か。

7:氷河時代が終わり、日本列島が今のような島国の形になったのは、今から約何年前ですか。

8:縄文時代の人々が使っていた土器は何か。

9:縄文時代の人々が主に使っていた石器は何か。

10:縄文時代の人々が住んでいた、地面を浅く掘って柱を立てて、木や草などでまわりをおおった形の住居を何というか。

11:縄文時代のころのゴミ捨て場を何というか。

12:1877年に、東京都の大森で、11を見つけたアメリカの動物学者は誰か。

13:縄文時代に、人々が豊作を願ったり、魔よけのためなどにつくった土の人形を何というか。

14:縄文時代に使われた、動物の骨などでつくった器具を何というか。

解答は、コメント欄にあります。

1~3番:4点 4~14番:8点


確認テスト⑫-1

2010年09月04日 18時11分37秒 | 確認テストツール
今回は、約半年ぶりの確認テストツール第12弾です。

これは仕事で個人的に使う一問一答式のものをアップしていたので、今年は小中学生の社会を担当していなかったため、なかなかアップできませんでした。
夏休みから小学生を新たに受け持つことのになったので、今まで書かなかった時代も作成していくことになりました。

今回は旧石器・縄文時代です。

この時代は、小学生(私立中受験)が歴史で初めて習う範囲です。
なので、習い始めは、歴史の頭ができていなくて、よくわかっていない内容だったりします。

もしよろしければ活用していただけるとうれしいです。

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(万が一、こちらの問題を使用しておこったいかなる問題も責任はとれませんので、申し訳ありませんが、ご了承のほどよろしくお願いいたします。)

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文字数の関係上、このままアップは難しかったので、もう一つ記事をつくり(題名は、確認テスト⑫-2です)問題をアップしました。お手数ですが、そちらをご覧頂くようおねがいいたします。

アメリカドラマ「ER」について

2010年09月02日 12時09分31秒 | アメリカドラマを観て

以前の記事にも書きましたが、アメリカドラマ「ER~緊急救命室~」がマイブームです。
とにかくおもしろいんです!


実は医療と教育現場って、同じような悩みがあるんですよね。
患者(生徒)に感情移入しすぎてもだめ、多くの人の命を救う(多くの生徒の志望校を受からせる)のが大切だけど、割り切れない感情がある。目の前の一人を救えなくて、だれを救えるというんだ!というジレンマが。

医療ミスや判断ミスだってある。失敗を繰り返して、しっかりした医師になっていくんだけど、その過程で犠牲になった人はどうなるんだろう、という負い目が。

私も新人のときに失敗して、今の私があるんだけど、私が新人のときに受け持った生徒にとっては一生に一度の貴重な時間なのに志望校に受からなかったことは彼らにとって一生のトラウマになるおそれだってあると。

経験を積んでからでも、判断ミスもあり、犠牲になった数人の生徒はどうなるんだ!とも。

先生は万能じゃない。結果は、生徒自身の力ややる気が大きい。
でも、私は先生として、100パーセントの力をこめて、その子に対応したか、と反省し、悩むんです。

この悩みは永遠に解決しないし、前に進むしかないんです。

もし、今、先生業を辞めたら、未来で救えるかもしれない子供も救えないかもしれない。だから、悔やむことがあっても、先生業をやり続けるしかないんですよね。

ほかにも、最後に決断するのは患者というのが前提で、医師はリスクなどを話した上で、最終的には患者に判断をゆだねるところや、患者以外の家族へのフォローなどもするのも、教師と似ています。

このように、自分と同じような悩みや生き方が、このドラマには多く描かれています。

また、様々な医師や患者が出てくるので、自分の考え方や生き方が似ている医師もいて、「私だけじゃなかったんだ!よかったー!」と思えて、勇気がもらえます。


「ER」を見てから、仕事に臨むと、余分な雑念がなくなり、
仕事に集中できるようになりました。