今の多くの若者は当然、それを知らない。だからどうって事でもない。
その日、どこで何をしていたかは私の年代ならば言える。
光陰矢の如し。時間は矢の様に飛んで行くが、観察者の私は止まったままの感覚である。
28年x365=という日々を重ねれば、きっと立派な事の一つも出来たであろう。(笑)
それは人はきっと明日も有ると思っているからだろうか?
この桑名市も伊勢湾台風で大きな被害を受けた歴史がある。(私は生まれていない)過去は歴史で必ず風化してゆく。
今日の報道の多くは【風化させない為に..】というフレーズだけだった。
絶対に風化するのだ。悲しみも怒りも何もかも当事者だけのものだ。
残るのは、結果の今だけである。それが町である。頑張った結果の街の今が残る。
先の戦争で亡くなった人々の悲しみは既にない。関東大震災は数字だけである。
結果は今の東京の繁栄しかない。
これが現実である。
悲しみはその人だけのものである。
昔の町に若くして出産時に亡くなった幼馴染の女性がいる。僕が恋した小学校5年生彼女の声や何を話したかも思い出せる。
彼女の両親ももいないかもしれない。
その家にどんな娘いて、その後、彼女が
アメリカに渡りどんな人生を送ったなんて誰も知らない。それでいいのだと思う。
もっと以前、その土地に江戸や明治にどんな人がいたのか知らないと同じなのだ。市井に生きるとは儚いものだ。
ただ明日、死ぬ覚悟して生きること。