最終日
ダンナは最後に発表なので、昨夜の岩塩坑もパスだった。
かわいちょーに、クラクフではほとんど観光できず。
最後の方は、歩いた方が時間が正確なうえ体にいいと気付いて、
城壁跡の緑地を歩いていたようだが、
それだけになっちゃった。。。
私はダンナの発表を見に行くなんてことはせず、
最後のお買い物のためにスーパー(カルフール)へ。
日本には無い、ポーランド人がフツーに使ってるものを買うのじゃ。
ピクルス用のスパイスとか代用コーヒーを買って満足する。
買い食いもしたけど、食べ物編で書くね。
トラムの券売機
おばあちゃんが苦戦してるから、正面から撮れんがや。
鉄道の券売機
どちらも液晶。
外の停留所に置いてある券売機は、光っちゃって見えにくい時があるんだよね。
でかしたのはどちらも英語表記があること。
トラム・バスの切符はゾーンや所要時間によって料金が違う。
今回クラクフでは、乗り換えがあるときは1ゾーンでも20分券ではダメ。
40分券を買いましょうってことが分かった。
乗り継ぎがあまり良くなくて、待ち時間の間に時間が切れちゃうの。
クラクフでトラムやバスに乗ることがあったら参考にしてね。(いるのか?)
昼ごろ、ダンナがホテルに戻ってきてチェックアウト。
そう言えば、自分のホテルのことを書いていなかった。
泊まったのは、学会斡旋の「ホテル・オイロペスキ」(ヨーロッパ・ホテル)
駅に近いかと思ったら、微妙に離れてるし、
学会会場へはえらく遠かったけれど、
古くからある、なんとなくアットホームなホテルだった。
ただ、部屋は3階だったのだけど、
エレベーターが無い。
ポーターに運んでもらえば良かったのかもだけど、
重いトランクを持って、えっちらおっちら3階まで階段で上った。
毎日の上り下りも階段なのは当たり前だけど、
これが古い建物のため、天井が高くて、つまり階段も1階分が多くて、
3階でも4階分ぐらいあったんだと思う。
途中で足に来るのよ。。。
2階から3階に上がる所で、辛くなる。
それがなければ、いいホテルなんだけどね。。。。って鍛えようよ、自分。
でも、他には6階なのにエレベータ無しの人もいたから、
それよりましか~~。
フロントのおばちゃんにド・ヴィゼーニャ(さようなら)と言って、
タクシーでクラクフ空港へ。
空港ではダンナが丸腰にされたけど、
ま、想定内だったので笑って待つ。
頼む!上着のポケットに消しゴム、
シークレットシャツの胸ポケットに大容量フラッシュメモリをケーブル付きで入れとくの止めようよ。
自爆テロみたいじゃん。。。
別室に連行されてやんの。
すみません。長蛇の列を作ったのはうちのダンナです。
やっと乗る。(ダンナは写ってない。)
あとはフランクフルトでトランジットして、爆睡して帰りましたとさ。
これで全行程終了。
お読みいただき、ありがとうございました。
引き続き、食べ物編に移ります。
ではでは。。。。
ふぅぅ~~、今回の旅の山場を越えたぞ。
と、安心してはいけない。
まだまだ足腰の酷使は続く。
学会5日目、昼間は自由。やったー!
ダンナを送り出した後、少しのんびりしてから出掛ける。
展望用の気球。
(綱につながってて、上がったり下がったりするだけ)
目当てはマンガ館(ヴィスワ川ヴァヴェル城の対岸)
磯崎新設計の日本美術・技術センター
日本美術コレクターのF・マンガ・ヤシェンスキ氏のコレクションが常設展示されている。。。
浮世絵にポーランドで会えるかな~~~~って、
トラムに乗って行っただに。。。。。
え?入れ替え???
振られた。
「来週には浮世絵展が始まるから、また来てね。」
えええ~、そうしたいけど、明日には帰国するんですぅ~~。
仕方ないので、河畔を散策して、橋を渡ってヴァヴェル城へと戻り、
火を噴いてみる。
時々ジジジジ・・・・って音がして、ゴーーーッ!っと噴くのだ。
ポーランドでは天然ガスが取れないから、
ロシアから供給されているのだそうだ。
竜の住む穴(出口)
入ってみたかったんだけど、入口が分からなかった。
竜はクラクフの人気キャラで、ぬいぐるみとかいっぱい売ってた。
でも中国製なんだって。どこでも同じね。
中央広場を目指して、歩く。
タウンウォークの時に中を見れなかった聖ペテロ聖パウロ教会
オルガンが観たかったの。
音を聞ければ嬉しいんだけど、
16時からのコンサートでは予定があってダメ。残念。
アールヌーボー様式の建物や、ステンドグラスを眺めながら歩くと、
会議で一緒のお仲間夫妻に遭遇。
お昼を食べに会議場へ戻ることに。
途中・・・・
おぉっ!駐禁はねられてるぅ~~~。
駐車監視員
すごいねぇ。ここまでタイヤをロックされたら動けない。
日本では時々耳(ドアミラー)にイヤリング(駐禁表)を付けて走ってるのがいるけど、
そんな甘いもんじゃない。
次に歩いた時は黒い車だけが残ってた。
罰金っていくらなのかな~
さて、学会のスープ付ちゃんとした昼食を取って、
また街に戻る。
ぷらぷらとお店を冷かしたり、買い物をして、
戦利品をホテルに置いてから再出発。
会議会場(集合場所)に戻り、夕方から全員参加の遠足。
夕方からですよ~~~~!
目的地はヴィエリチカ岩塩抗
大型バスは3台。
1号車はVIPとか会議の重鎮。
私ら下々は2,3号車。
着いたらVIPから入抗。
しばらくして私らの番。
岩塩坑は深いと聞いていたが・・・・
木の階段を下りても下りても下りても下りても・・・・・着かない。
段数を数えるんだった!!
下を覗く
上を見上げる
やっと着いた。
坑道は木組みで補強されいてる(部分もある)
ガイドのお兄さん
淡々と進めます。
横坑道は所々大きなドアがあって、開けては閉め開けては閉め進む。
ドアが閉まる度、もう帰れないんじゃないかと思う。
岩塩でできた彫像
キンガ女王の伝説。(岩塩を見つけた炭坑夫)
また会いましたね。
コペルニクス記念像
壁とかの黒い岩塩はミネラルがいっぱい入ってるとかで、
舐めても大丈夫って言うから舐めてみた。
やや甘め。
木組みから噴き出してる塩
こちらは白い。
言わばフィルターでろ過した状態だから、舐めてみると尖った塩っぱさが先に来る。
舐めても大丈夫って言われても、皆さん用心してかあまり舐める人がいないの。
塩だよ。
ちょっと舐めるぐらいで死にゃあしないよ。(チクロンじゃないんだからさ)
なんやよく分からん画像だけど、
ガスが出たとかで、
明かりの松明に引火して爆発したっていうのを再現するアトラクション。
なんとなく佐渡金山見学を思い出す。
のみの跡
そろそろ飽きてきたころ
バーーーーン!
聖キンガ礼拝堂
ひ、広い!!(拡大して見てね)
床も壁も天井も塩でっせ。
シャンデリアも塩で出来ている。
最後の晩餐も岩塩
覚えてますかー?
ヨハネ・パウロ二世センターにあったレプリカ。
こっちが元祖ですよー。大きいです。
ヨハネ・パウロ二世の彫像もありました。
更に先に進む。
ミハヴォヴィツェの間
17世紀の木組み
17世紀の階段とか、塩湖とか、他にもいろいろ見たけど、
だんだん飽きるのね。
ガイドブックによると、深さは64~327m
ツアー距離は2,5km
所要約2時間
で、やっとツアー終了。
上下2階建てのエレベーターに乗って地上へ戻ります。
これがまた凄い。
1階9人乗りなんだけど、
大きな男性(お腹も)がギュウギュウに乗ってるとこに、
「あともう一人」って詰め込まれちゃったから、
えええーーーー!助けちくりぃ~~~。って感じ。
生還できた時にはホッとしましたよ。
ツアー終了は20時過ぎ。
メンバー全員が生還するのを待ってから、バスで街に戻ったのが21時半ごろ。
それまで夕食はお預けだったから、
中央広場で遅い夕食。
もうくったくたです。
翌日は最終日。
軽く続きます。
前夜遅く帰っても、翌日のプログラムは容赦なく早朝に開始される。
01:00頃寝て、06:00に起床、
06:30から朝食、07:30にホテルを出て、待ち合わせてタクシーで会議場(集合場所)へ
08:15に点呼、08:30に出発
・・・そりゃ、バスの中で寝るわなぁ~~。
でも、日本人以外の年配者(60歳~70歳ぐらい)は元気だ。
基礎体力が違うのか。。。
本日の目的地、と言うか今回の旅行の最大の山場、
漏れなくアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)
行きのバスの中で予習のビデオが流される。
収容所に送られた人々の顔や登録番号が刺青された身体などの映像。
すると、同行の一人のイスラエル人夫人が話し出した。
(覚えててねのベデディクト僧院の女性)
「夫(研究者)の身体にも、あの数字がある。」
ビデオが流れる中で聴きにくい上、解りにくい彼女の英語を一生懸命聴いたのだが、
どうもご主人はアウシュヴィッツの生き残りのようだ。
子供の頃の話で、家族で収容され、
バラバラに選別されたのだが、何とか生き残り、
終戦後、偶然が重なり再会できたと言うのだ。
(どこどこで保護され、どこどこで生活していたら・・・・と話していた。)
家族はその後イスラエルに渡ったのだろう。
そして今の生活がある。
2度とアウシュヴィッツに行くことは無い。
そんな衝撃的な話を聞きながら・・・
ARBEIT MACHT FREI
「働けば自由になる」の門
全員ワイヤレスガイドシステムのヘッドホンをする。
私たちのチームは小柄なガイドさんで、静かな声の人。
ヘッドホンから聞こえてくる説明が染み入る。
長閑な佇まいだが、全部元収容施設。
以前から本を読んだり映像から抱いてきたイメージは、
シャワー室でシャワーヘッドからガスがシュワーッと出てきて、苦しむ。
というのだったのだけど、
実際にはチクロンB
シアン系殺虫剤で粒々。
これをばらまくと気化する。
これだけの缶が消費された。
アウシュヴィッツにはユダヤ人だけが送られたのではない。
ソ連軍捕虜、政治犯、ロマ(ジプシー)、同性愛者なども収容された。
選別ごとの標識
服にマークを付けさせられる。
ガス室
チクロンB投下口
映画や本からの印象で、私の頭の中のイメージはモノクロ。
こんなに晴れた、気持ちいい季節の明るい風景ではない。
ユダヤ人もドイツ人も、こういう日でも殺され殺したのだろう。
何故そのような狂気の時があったのか。。。
ヘスの絞首台
車ですぐのビルケナウへ移動
ヨーロッパ中から集められたユダヤ人はここまで運ばれた。
線路の奥、左右にガス室がある。
例えばスウェーデンからなら、貨物車にぎゅうぎゅうに詰め込まれ、
座ることも、休むことも、トイレヘくことも出来ずに5日間。
疲れ果てて死ぬ者もいる。
貨車は汚物で臭くなり、人々は体力的にも精神的にも弱り切る。
やっと到着してフレッシュな空気を吸うことができ、やれやれと思った時に、
先ずはシャワーを浴びるからと男女に分けられ、
荷物はそこに戻って来るから置いたままにして大丈夫と言われ、
汚れた服を脱ぐように言われて、
シャワー室へ入れば、そこはガス室。。。
元気そうで働けそうなものは残されて、収容される。
一段に3~4人、もっとか。。。
寝具などはほとんど無く、冬は暖房があっても使われた形跡がない。
家屋は薄い屋根壁の木造。
トイレ
一日に朝夕2回のみ使用可。紙は無く、自分の服で拭く。
死の門
どういう気持ちでこの風景を見ていたのか。
アウシュヴィッツは心の準備をしていたので、
囚人から取った大量の髪、装身具などの山を見ても、
何とか持ちこたえることができた。
サイレンサーで銃殺した壁、地下牢などは、
そこにいた人の姿を想像するといたたまれない。
そんな殺戮施設、絶滅収容所の中で生活したドイツ人の精神も病んでいたに違いない。
麻痺した状態でなければ、こんなことができるわけない。
誰かが「どうして反乱しなかったのか」とガイドさんに問うた。
大量に送られてきたのだから、反乱すれば良かったのにと。
どうして言いなりになっていたのか。
ガイドさんの答えは聞きそびれたのだが、
私は「出来なかった」のだと思った。
精神的に追い詰められたこともある。
巧妙に理由を揚げられて誘導されたのもある。
そして長い歴史で染みついているユダヤ人の気質故でもあるのではないか。
キリスト教が排他的で、キリストを裏切ったのがユダであったり、
職業的に卑しいとされた金融業(金貸し、錬金術)などに従事していたこともあって、
ユダヤ人は差別され続けた。
そんな中ユダヤ人は耐え忍んで、或いは強かに生き残っていた。
財産を身に着け、時には賄賂を贈って窮地を脱したかもしれない。
きっと今回も我慢していれば嵐は去る。
いざとなればドイツ人に金を渡そう。
そう思って全財産を持って貨車に乗り、言われるままにシャワー室へ。。。
そして、ナチスもそういう気質をうまく利用した。
ぐるぐるとそんな事を考えながら、アウシュヴィッツを後にした。
軽い昼食後、
プシュチナ城を見学
プロイセンの侯爵の城で、館内には趣味の狩猟の角がいっぱい。
ドイツの領主の館(城)へ行くと、こういうのが多いのだが、
ここでもそうで、私は嫌いなのでゲロゲロ~な気分。
部屋の壁全面に角や剥製ってどうよ。
こういう気質がホロコーストを招いたんじゃないかと勘繰りたくなる。
社交界の花デイジー夫人の話を聞いても、「あぁそうですか~。」と聞き流す。
功績はあったみたいだけれど。。。
戦後再建されたものらしいが、
ドイツ系の城なのでか、ドイツ語のパンフレットが珍しくあった。
サロンにはピアノ。
ブログを書くにあたって調べたら、
ここって1704~1707年にテレマンが宮廷楽師(オルガン楽師)をやってたらしい。
それで1979年以来「テレマンの夕べ」というコンサートが毎年催されているらしい。
ほやや~~~、このサロンはただもんではないと思ったら、そういうこってしたか。
それにしても疲れましたわ。
帰りの車中ではドロドロに寝た。
会場に戻っても、ホテルに戻る力は無いから、そのままの姿で夜のパーティーに突入。
いいの。グリルだから。ジャズだし・・・。
ノーベル夫人、タフやなぁ。
他のイスラエル人とかも踊ってた。
私ら日本人は食べるだけ食べたら撤収。
ホテルは遠いぞ、ガンバレ!ってなもんさ。
(バスとトラムで帰れました。)
翌日も頑張れ!
つづく
またお会いしましたね。
コペルニクス
午後は学会全員参加のオールドタウン・ウォーク。
(ダンナは発表準備でパス。)
日本人が多いので、日本語チームが2つ出来て、
私はアンナがガイドのAチームに振り分けられた。
アンナさん、若いんだけど、最初っからちょっと気になることを言ったりする。
「私のチームはぁ~人数が多いですけど、最後には誰もいなくなったりするかも。。。」
えええ~何だってぇ~??
13:30にスタートして、旧市街へ向かい、
ポーランドで最初に創設された大学=ヤギェヴォ大学を見学する。
コペルニクスはここの卒業生なので、
あちこちにコペちゃんの太陽系モデルがある。
アンナ「私は何度も本を読んだりしたが、これをちゃんと皆さんに説明できない。」
大丈夫か・・・・。
さて、博物館にもなってるコレギウム・マイウス(15世紀の建物)に入ることに。
何故か日本語Bチームが先に着いてて、
大学の人の案内があるので先に入ることに。
下には英語チーム
Bチームは人数が少ないとかで、Aチームから8人先に入ってもいいことになる。
よっしゃー、先に入るで~~。
ガイドさんは少しふくよかな女性。
大学の人の説明を通訳してくれる。
わ、解りやすい!!
教授会会議室
学長の椅子だけ皮張りで、
エリザベス女王がいらした時でも座れないほどの特別席。
ヤギェヴォ大学は、
1364年カジミエーシュ大王とその妻ヤドヴィガ(敬虔なクリスチャン)によって創立されたとされている。
そのため、この二人の絵とか像とかが最初にあったり、話もよく出てくる。
でも、ガイドさんの話だと(たぶん大学の人の説明には無い)、
二人の年の差は50才ぐらいあって、結婚していた期間は短くて・・・・とか何とか、
なんか横道を教えてくれて面白い。
食堂
階段はドイツのニュールンベルク製作
左の大きなのはストーブ
卒業生が寄付したお宝
アンジェ・ワイダ監督の金熊とかオスカーがある。
なかなか興味深く見学して、そのままBチームに編入。
のろのろと街の説明を聞きながら広場に入る。
え!馬車に乗せてくれるのぉ~~~
何故だか後に入ったはずのAチームが先行していて、
馬車が足らず、ちょっと戻ってくるのを待ち、
パカパカ向かった先は、街の南にあるヴァヴェル城。
大聖堂
14世紀から18世紀までポーランド国王の戴冠式が行われ、
国王の墓所でもある。
中でヤドヴィガさんがよく祈った場所とかも観る。
王宮の中庭
ここで急にガイドさんが急に「ダ・ヴィンチの絵を見たいですか~?」と聞く。
クラクフには世界に3枚しかないダ・ヴィンチの油絵ポートレートのうちの1枚
「白テンを抱く貴婦人」があるのだけど、
それはチャルトリスキ美術館にあるはず。
それが美術館修復中で王宮に飾られていると言うではないか!
「別料金10ztを払わなければいけないけど・・・」
ってそんなの安いやん!ハイハイ、ハーイ!観たいでーす。
Bチームの半数は観に行った。
この1枚だけ、ゆっくりと広い部屋で、至近で観られて幸せ。
もちろん絵から離れても、人が少ないから陰影を楽しむことが出来て、幸せ。
大満足ーーー。Bチームに入って良かった。いいね!
お城はつぎはぎ、建設時代がチャンポーン。(ガイドさんが言った。)
ところで、お城の下には洞窟があって竜が住むという伝説がある。
時々火を噴くのだそうだけど、見えないなぁ。
行きは馬車で楽々だったコースを歩いて広場へ戻る。
クラクフには寺院がいっぱい。
左、聖ペテロ聖パウロ教会。12信徒の像。
オルガンコンサートをやってて中を見られず残念。
右、聖アンデレ教会。
尼僧院で、戒律が厳しくおばあさんしか住んでいない。。。。とガイドさん。
クラクフの街、広場は昔より地面が上がっているそうで、
掘ると昔の壁とかが出てくるのだそうだ。
モダンな服を売るお店も、ステキに改装して地下の壁を見せてくれている。
聖ヴォイチェフ教会
ここも古い教会だが、後日地下を見ることができた。
ローマ時代の壁だそうだ。
で、なんで地面が上がったかと言うと、
ガイドさんによると「皆がゴミを捨てるから。。。」
「掘るとゴミも出てくる。」
うええぇぇぇぇ~~。
この後聖マリア教会の内部を見学して、ラッパの音を聞いて、
最後に広場中央にあるアダム・ミツキエヴィッチ像の前で解散。
17時チョイ過ぎ。
右に写ってるガイドさんによると、
「5時ぐらいまで案内して解散って(ボスに)言われてます。」
ボスは前日のマグダだったんだけど、
ありりぃ~~、日本語Aチームが4時半ぐらいには放逐されてるのを見たよー。
あぁ、アンナったらだいぶ端折ったね。
きっとダ・ヴィンチも観てない・・・ってか話もしてないに違いない。
あああ、Bチームに移って良かったーーー。いいね!
あ、アダム・ミツキエヴィッチの説明。
ポーランドを代表する詩人で、ショパンのバラードは彼の詩から構想を得たと言われてるとか。
ふうぅ、久々にショパンの登場。
良かった良かった。
これで、一度解散して、
夕食はユダヤ人のカジミエシュ地区でバンケット。
ダンナとホテルで合流して、着替えてタクシー。
生演奏で楽しい。
今回の学会、食事の時に乾杯とか〆とか何も無いの。
なんで演奏が終わって、食べ終わったらさっさと帰宅部。
誰よりも先にタクシーをゲットして帰るだー。
今日も一日ごくろーさん。
明日は、いよいよアウシュヴィッツでつ。
つづく
どんなに前夜遅くまで活動しても、
6時には起きて、6時半から朝食をたっぷりと取る。
ホテルの部屋から見るクラクフ・グローニー駅
部屋の前にはトラムとバスの停留所。
朝5時から走り出す。。。
この日、随伴者は午前中フリー。
ダンナは8時には出掛けたが、私は少しのんびり。
でも、9時には駅横のギャラリア(集合商業施設)が開いたので、
お土産にいいものは無いかと出掛ける。
クラクフのグルメショップのパン&ケーキショップ
どんなに美味しそうでも、朝からは食べられない。
だって、朝食たぁ~くさん食べたんだもん。
ギャラリアは日本のショッピングモールとほぼ同じ作りで、
イマイチ面白くなかったので、
次は一番好きな街歩きの醍醐味。
市場だーー!
屋根付き常設市場
スターリー・クレパルツ
おおっ!っといきなり見たことが無いチーズです。
後で調べると、ヤギのスモークチーズでオスツィペックというらしい。
何の形かと思ったら、紡錘。
街の中で薄いのを焙って売ってたりした。
食べてみたかったけど、山羊だと分かってたので、
1人だと持て余して勿体無い可能性ありだから諦めた。
野菜は葉物が少ない。
この季節はキノコ天国!
左から、ポルチーニ系(独名シュタインピルツ)、イグチ系、アンズタケ
ポーランド人はキノコ大好き。
こんなに売られてるんだから、いい森があるんだろうなぁ。
でもさぁ、チェルノブイリの後は食べられなかっただろうに、
もう大丈夫なのかなぁ。
・・・などと他人事ではない心配をしたりする。
肉屋にはカバノス
ドライサラミであ~る。
これは本当に美味しくて、毎朝食べてた。
魚屋には燻製と冷凍魚ぐらいしかない。
ひまわりの種は花ごと!ビーツも売ってる。
市場を2周して、心置きなく楽しみ、旧市街方向へ出ると、
たくさんのおばあちゃんが衣料品(主に肌着)を道端で売ってた。
旧市街の周囲は昔城壁があったが今は壊されて緑地(公園)になっている。
残されているのは、円形の砦
バルバカン
そして南側に一部残っている城壁の門をくぐると
中央広場へ続くフロリアンスカ通り
先に見えるのは聖マリア教会
振り返るとフロリアンスカ門
まだ早いのでお店はあまり開いてなくて、ウィンドーを冷かすのみ。
中央広場に着くと、パーーっと視界が開けて、
織物会館が見える。
ここは14世紀に建てられた織物取引所だったが、
今は民芸品などを売る小さなお店が並んでいる。
可愛い物も売っているんだけど、
これまたイマイチ心に響かないと言うか、
店員が不愛想と言うか、冷かしただけで終わってしまった。
一昨年に行ったトルコと違い、
通りがかるだけでバンバン声を掛けてくる商法はここには無い。
商品を見ていても知らんぷり。
こっちから聞けば愛想は良くなるし、親切なんだけど、
まぁ~~、そりゃぁ対照的だわな。
くたびれて広場のベンチに座って馬車を眺める。
観光馬車とか小さな車とか客引きをしてるんだけど、
1人だと声を掛けてこない(くれない)。
ボーっとしてると、どこからかラッパの音
聖マリア教会
塔の上から聞こえてくる。
昔モンゴル軍の来襲を告げるために吹き鳴らされたラッパ。
モンゴル兵に喉を射られて、途中で音楽は途切れる。
今もそれを追悼して24時間毎日毎正時に吹き鳴らされるのだそうだ。
昔の井戸
さて、お昼が近くなったので、学会でノーベル講演をやってる会場へ歩いて向かう。
丁度終わって記念写真を撮っていた。
他の人に聞いたら、素人でも解りやすい話で面白かったのだそうだ。
「観なかったんですか~!?」って言われちったぁ。
いいの。市場が面白かったから。
もう隙間なくプログラムされちゃって、辛い。
私は自由な女。
ノーベル講演なんざ、今更どーでもいいわ。。。。と心の中で強がる。
ちぃっと勿体無かったかなぁ。
提供されたオープンサンドとかを昼食にして、
午後は全員参加の市内観光ウォーキング
後編につづく