最近は続けて信州へ行って、家の整理と庭などの手入れを行っている。
実は広島の私の家も同様に、一切合切整理をしなければならない。かつて家族が住んでいた家、それらはモノで溢れている。その時その時では必要であったモノだろうが、今やほとんどが不要なものと化している。
目に見えるもの、それらは確かに在るが、しかしそれもまた、人が居なくなれば価値を失い、しばらくして滅ぶ。人は見えることしか信じようとしないが、しかしそれだってこのように不確かなことではないか。このブログのテーマは「肝心なことは、目では見えない」。見えていると思うからこそ、惑わされて本当に大切なこと、価値あることが見えなくされている・・・・そのことに気づいてほしい。
母はかつて茶道具を収集した。私が実家に帰って、茶道具が部屋にあふれているのを見ても、それらは私にとって、ほとんど価値を持たないものだ。そんな目に見えるものより、母との懐かしい思い出が湧いてくる。目に見えないものが自分には大切だと思う。
このように一度きりの人生を、ただ自分のためだけに消費したのであれば、茶道具のように、ゆくゆくはおそらく、空しさは隠せないはずだ。けれども自分を惜しんでくれる人がいて、愛してくれる人がいるならば、生きていてよかったと思うのではないか。それはその人々のために、かなりを犠牲を払ったからだと思う。
もっともっと良い生き方というものがある。それは生きている時に死んで 、死んで生きる道である。なぞなぞのようであるが、そうではない。
天地万物を創造され、今も生きて 働かれ る神がいる。ご自分の一人子イエス・キリストを人間のために犠牲にしてまで、わたしたちを愛してくださった神。この神を愛を信じ、自分を捧げ、故に自分は生きていても、自我が死んだも同然の生き方になる。このすごいことは、身体が滅んだ時、神と共に生きる永遠の命が与えられることである。
植物の実がある。実がもし、そのままであれば、ただ一粒のままである。良い地にまかれ芽を出すならば数十倍、数百倍になる。ただし、最初の実は死ななければならない。(詳しくはヨハネによる福音書12章24節参照)
私たちの肉体は必ず滅ぶが、たましい(霊)は残る。目には見えないが、必ず来る当たり前の事。そのたましいの行き先こそ、生きている時に心配しておかなければいけないことなのだ。終わってからではすでにはしごが外されて、取り返しがつかないからだ。 (ケパ)