ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

自分を信じることと 神を信じること

2012年05月17日 | 随想

  私は牧師にしては、スポーツをやっている方だと思う。ところがあれこれ40年K6911948上、知り合った牧師に、運動好きの牧師なんて、ほとんどいなかった。もっとも表向きは、そんな話にはなりにくいこともあるが・・・・。


  私の場合、5時台に早天祈祷を済ませ、その後公営コートに行く。それから朝食までの時間が日課だ。聖日には決してしない。しかし練習といえども毎日が勝負である。勝負は、勝つ目的があり、そのために全力を使うものである。スポーツというもの、勝負にあたってまず自分の力を信じなければ、勝利はおぼつかない。

  ところがクリスチャンの場合は、自分の無力さを告白して、神さまを信じるのであって、まったくもってスポーツの敢闘精神にそ

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ぐわない。これは二律背反、矛盾する問題である。

  これを「世のものと信仰の世界とは異なる」と門前払いをするのは簡単だろう。けれども私は、次のように示されている。「勝ちたい心をも、神に捧げなさい」と。

  それでゲームを始める時は「主よ、あなたの御心の通りにしてください。私が勝とうが負けようが、それはあなたのものです。負けて弱さを教えてくださることも、すばらしい恵みです。感謝します。」 勝ちたいために、勝てるよう祈るのではPraise_49なく、まずすべてを主に捧げる。自分の目的のために神を使ってはいけない。これは祝福されない。


  私たちの願いは、ただただ、神の栄光が現されることである。それで、勝負ではなく、せっかく主のゆるしによってさせていただくのなら、それは時間の無駄のような、つまらないゲームをすることではないはずだ。一心にボールに集中し、慰めと励ましを与えられること。これからの使命を果たす体力と健康を与えられ、主の栄光だけが現れますように!」


  すると結果的にだが、私は強くされ、主にあって勝利を得る。祈りの力を実践的に学べる、恵みの場なのだ。    (ケパ)
  
  

 

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