今日棚を整理していて、ドルカスが持っていた高橋真梨子や谷村新司のCDがかなり出てきた。「何だ、私と同じ趣味だったんだ」と思うのだが、これまで全く聴いたことがなかった。それで処分する前に、と少しだけCDをかけてみたのだが、以前は良いと思っていたものなのに、今となっては聴くに堪えない。
なんで? と振り返ってみると、どうやら歌詞の<異性を恋いる未練や恨み言ばかり>に反応しているようである。美しいサウンドに載せていても、その言葉は悲しく、また、あきらめ切れない情念すら感じさせる。そういえばこれで、やりきれなさを晴らしたり、逆に暗く募らせていた自分の過去を思い出した。
だからゴスペルはすばらしいと思う。この世のことを歌えば、それは罪の世界だからどうしても希望がない。しかし神の世界には光と希望があふれている。どれほど心が引き上げられることか!ゴスペルの歌詞には「永遠の愛」「大きな愛」「ハレルヤ」「君は愛されている」「Rejoice(喜ぶ)」などの言葉がならぶ。歌詞は大切だ。今私は、ゴスペル漬けの毎日だ。
ところでゴスペルを多くの人が受け入れてくれる時代になりつつあるが、それで人々が教会へ即来てくれているかと言えば、そうはなっていない。ゴスペルのサークルには、十分クリスチャンの心を持っていてくださる方が多い。それだけでなく、言葉が言葉だから、路上でもどこでも、涙を流して「霊にふれ」てくださっている方もしばしば見るほどだ。
だが教会へは二の足、三の足を踏まれるのだ。これはどうしたことだろうか?
これは教会の方にその責任がありはしないか?教会の敷居が高いのだろうか?そうではなく、教会には化石のような信仰しかなくて、本当に生きて働かれる神さまがおられないからではないか?
私たちの教会には今のところ会堂もなければ、あらたまった儀式もない。だからそのような見えるものを求めて来られる人には向いていない教会である。けれども、神さまが生きて働かれる信仰がある。神さまが病を癒やし、また奇跡を行ってくださることを信じている。どんな不幸のどん底でも感謝し、心から喜んでいる。私たちの教会には、ゴスペルがあふれてる。 (ケパ)