一昨夜、お風呂に入っていて、どういうわけか日露戦争の映画で日本海海戦のシーンを思い出していた。小国が世界の大国を完膚なきまでに粉砕した世界史的な勝利。それが以後の日本海軍を戦艦大和に象徴されるような艦隊間決戦、巨艦主義に陥らせてしまったと思う。劇的な圧勝は逆に、太平洋戦争での空母間での航空機戦に遅れをとらせ、連合艦隊の敗北、日本の敗戦を招いてしまったと・・・・。(写真は旗艦三笠艦上の直前の東郷元帥。分厚い装甲の艦橋の中で身を守らないところが、ロシアと異なる)
会社などで栄達出世し、かなりの上役になったいわば成功者の引退は、これと似たようなことになってはいないか。栄光というのものは、めざましいものであればあるほど自らを滅ぼしかねない恐ろしいものだ。本来の姿から誇りを持たせ、高慢に変えてしまうのだ。
わたしたちの教会の群れでは、今年の年間主題が「栄光をわたしたちの神に帰せよ(申命32:3)」である。神は自分に従うしもべを通して、ご自身の栄光を現される。新年のスタートからこの群れには「62名の奇蹟」があった。もとより栄光はすべて神のものである。それは重々わかっている。わかってはいてもこれが一筋縄ではいかないものなのだ。私個人に限って言えば、神が従う自分を通してその栄光と力を現してくださっているだけなのに、いつの間にか「私が・・・・」「私でなければ・・・・」と、自分に限って決して栄光を横取りする恐れがないとは、どうしても断言できない。私自身がどんなに罪深い存在か、自分でわかる。
あらぬ批判や中傷で傷つきはしても、それで召しを失う人はまずいない。北風と太陽のイソップ話もある。最大の敵は、実に己自身だと私は自分を恐れる。 ケパ