今晩は、いろいろな方もおられると思いながら、少しだけ我慢していただき、聖書のお話をしたい。
どれだけ聖書がこの世にまたとない書であるかは、一言で言うと、
○ノストラダ
ムスの類いの、いろいろな予知・予告・予言の書が出たが、何一つ、真実なものはなかった。しかし、この聖書の預言だけはすべて当たっており、また今後も必ず成就していくだろう。イスラエルの滅亡、ユダの帰還、キリストの預言、その後の離散と1948年の復活etc・・・・。
これだけ世界史上明白な証拠と事実がありながら、聖書とその神を認めないのはどうしたことか?
○「死海文書」と言うものが、20世紀に明るみに出た。この文書はイエス・キリスト時代前後のもの(当然旧約聖書)で、いわば二千年間封印されていた文書であった。そして驚くべきことが明らかになった。聖書は二千年の時を超えて、寸分違わぬものであったことだ。そんなことが現代のような印刷機が無く、写本することしかなかったのに、、考えられるだろうか?為政者や権力者が、己に都合の良いように書き直させることは、一切できなかったのだ。
これはまさに奇跡、あるいは奇跡的である。
○聖書の内容こそ驚くべきものであった。つい最近まで人類は奴隷制、人種制というおぞましいい社会制度を当然としていたし、封建制度や共産主義のように支配・被支配の前に人権などは存在しなかった。どんなに良心に従い、愛と善を行っても、権力者に刃向かうことは即、死を意味した。
しかしそんな時代でも、キリスト教は初期から教えは「愛・寛容・自由」であり、男女平等と一夫一婦制、神の前に身分を超えての人の普遍的価値、子どもや寡婦、貧しい者と言う社会的弱者の救済を唱えた。そのような価値観は聖書に記されている神だけがあらわし得たもので、彼はそれ故、もっともむごたらしい十字架に架けられた。
※ただしキリスト教国にもこのような、身分、奴隷など差別とあらゆる問題があったことは事実である。あくまで聖書の基本的な内容を指している。また相当な時は要したが、今日の人類普遍の基本的人権は、間違いなくキリスト教国が生み出し為しえてきたものだ。
こんな神をもつ信仰がどこにあるのだろうか?我々日本人が歴史をまだ持ち得ない二千年前、釈迦やマホメットが生まれる五百年も前のことである。 ケパ