かなり古い昔話だ。
武士の家系であり、エリートとして成功した明治の男がいた。ところが若くして妻を亡くし、残された幼な子の養育に困った彼は、ただちに故郷で嫁探しをした。
後妻という点はあったが、何分にも好条件の男だから、すぐに理想的な若く美しい妻をゲットすることができた。お姫様と呼ばれる家系で、またとない色白の美人であった。男なら誰しも羨ましがる話である。才たけた彼は戦後も事業で成功し、財をなした。ここまでは成功物語の話だ。
が、ただ一つ、彼は家柄が自分より高く、気位の高い妻とはうまく行かなかった。そして不仲の夫婦の成り行きとして、浮気が発生した。事実を知った妻は懐妊中だったが、堕胎を決心する。それだけでなく夫婦の不仲は、子の代に渡ってぬぐいがたい非常に大きな問題を遺すこととなった。
これはよくある典型的な話だろう。逆の例だが、ドルカスの父母は仲がよかった。経済や地位はそれほどでもなかったかも知れないが、はるかにそれを凌ぐ、健康な心を子供たちは受け継いだ。それがどれだけの財産であることか。私に言わせれば、それが最善だった。財がある故に失うものは、実は取り返しのつかないものがある。
この家庭の悲劇は夫を責めるだけでは解決できない。家庭内にあって、勝者は存在しないと私は思う。実際、相手を「責める」ことで解決した事例など、ほとんど存在しない。みな傷つくのだ、子々孫々に至るまで。
濃密な家族関係だけではない。人間関係で生じる問題の解決はまったく別なところにある。教師であった私が、問題を起こした子どもを前にし、その行動を「断罪し責めて」良い結果なったためしなどまずなかった。
ではどこにあるか?それは「悔い改め」にある。
先の例で言えば、できればだが、妻は夫の裏切りを責めるのではなく、悔い改めるべきだった。「どうして夫が他の女に行くのか?」「妻として自分に至らぬ点があったからではないか?」「そしてそれは、自分のどういう所なのか?」・・・・。悔い改めることができたなら、「ゆるす」という解決の選択肢も生じてくる。まして小さな命が失われることは絶対無かったはずだ。
実際そこに「(血筋の)誇り」という大きな問題があったと思われるのだが、この例では決して気づかれることはなかった。それはその人の存在の基盤そのものであったからだ。高慢と言う言葉と、誇りとは実は同根のもので、それが原因であることに気づくことは、相当困難だ。
私の教職の例で言えば、問題行動を起こした児童への、教師である私の指導や配慮ができていなかった指導力不足が先ず存在する。第一に深刻に反省すべきは、先ず私自身である。しかし問題行動を、だからと言って正当化できないので、原因とともに、どうしたらこのことを糧に、繰り返さずに前へ進めるだろうかと模索することになる。
同じ目線で苦しむことであり、問題児童をしっかりと抱きしめることが解決への道である。それは教師自身が「悔い改め」てこそ可能になるのだ。
私はつくづく思う。「他人を変える」ことは難しいことだし、ひょっとしてそれは自分の思い上がりかもしれない。しかし「自分を変える」ことは、悔い改めればあるいは可能だ。それは辛いことなのだが、最善の道だ。
しかし、最大の敵は自分の誇りであり、プライドという肉があることだ。正直に振り返ると、自分がこれに勝てるとは到底思えない。どうしても自分がかわいいのだ。ここで先ほどの古い話も、教師の問題解決の在り方も、困難という壁に水泡と化す。
けれども、唯一方法がある。自分の力を放棄することだ。キリストの十字架である。キリストは神なのに人となって、私たちと同様肉の苦しみを体験された。神がそのように自分を落とし、辱めたのは、人を造った責任を取られ、命がけで悔い改められたと言ううがった見方もできる。まさに愛そのものの神なのだから。だから私たちの心の内をすべて知っておられる神であり、弱い私たちを思いやることのできる神でもある。私を愛して十字架にまでかかってくださった。その愛の神になら、このみにくい自分を捧げ、委ね、神の支配に自分を明け渡すことができる。そうすると肉が死に、もはや生きているのがキリストへの信仰によってなら、肉が死ぬことが可能だ。これを福音と言う。信じる信仰の祈りは、絶望を確かな希望に変え、実際に力有る唯一のもので、それは真実だと、私は胸を切り開いてでも証言したい。 ケパ