今日は昼からなつかしい杉並のテニス仲間と、たっぷり4時間テニスを楽しんで、その後、東府中の駅前で懇親会を持った。会えばいつも率直で楽しい会話がはずむ仲間だ。わたしはこのようなノンクリスチャンとの自然なつきあいも、大切な伝道の機会だと示されている。
ところで4人の話が煮詰まったところで、話題は個人的な話になる。わたしが抜けた後、仲間に加わったらしい方(今日初めて会った)から、「早期退職までされて、どうして牧師になったのか?牧師になるには、どういう道があるのか?」と質問をいただいた。もっともな質問である。
そこで「普通は神学校を卒業して、それから教会に招聘されてなりますが・・・・・・、ならない方もおられます。牧師は神さまからの召命がないとなれません」と答えた。「召命」がわかりにくいと思ったので、「神様がある人に、あなたは牧師となってわたしに仕えなさい」と語られることだと説明した。しかしもっと怪訝な顔をする。やっぱり「神が召す(人に語って自分の働きに用いていく)」ことが、理解の壁になっているようだ。
わたしも二十歳からのクリスチャンであったが、もし自分自身がしたような召命の説明を受けたら、さすがにクリスチャンだから意味は分かるものの、「怪しい・・・・うさんくさい」と感じたと思う。まして今日の彼はノンクリスチャン、わたしが真顔で言うので、非礼なことをしなかっただけだと感じた。
しかしキリスト教の土台である聖書自体、神からの啓示を受けた人の手を通して書かれた書物である。そこに描かれている三位一体の神とは、アブラハムに語りかけ、ヤコブと相撲をとり、モーセに語り、紅海を渡る奇跡を起こさせた神である。新約聖書に至っては、神ご自身が人となり世に下ってあらゆる奇跡と癒やしをし、多くのことを語られた。創世記には「言葉は神であった」とさえ言っている。
だから神は、最初の人であったアダム以降、常に人に語られる存在である。まずそれを信じなければならない。クリスチャンであっても、過去のわたしのように信じていなければその声も聞こえるはずがないのだ。しかし信じたとき、わたしは聞くようになった。「主よしもべはここにおります。お語りください」とサムエル少年のように。
もし神の召命なくして牧師になったらどうなるか?それは考えるだけで、恐ろしいことである。どんなに熱心に教会に通い、信仰を持ったとしても、この召命だけは神の計画でありご意志であるので、自分の希望や理想を捨てて、ただ従うことが最善なのだ。今日の新しいテニス仲間には、伝えきれなかったことだが。 ケパ