主人公の妹尾Hは、両親が聖霊派に属するブラザレンの教会員の家庭である。だからこの映画の両親夫婦は聖霊派らしく、信仰が生きていると感じさせるシーンが幾つもある。
印象的なシーンとして、テサロニケ書の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」の聖句が家の中心にどーんと大きく貼られていたり、戦時体制下で教会は石を投げられガラスを割られたり、学校ではHの机に嫌がらせの落書きが連日書かれる。真のクリスチャンは迫害されるのだが、それを地で行っている。それでも少年Hはたくましく生きて行く。
映画の中で特に関心を持ったのは、戦況が厳しく日に日に軍部のコントロールが厳しくなって行く中、父が子に語るシーンがあった(以下言葉はは不正確ですが趣旨は沿っているはず)。
「いいか、このような時勢だから、踏めと言われたら踏み絵を踏んでもええ。心の中で信仰さえしっかり持っとればええ。」Hは父の意図がいまいち飲み込めなかったが、言わんとすることは分かったようだった。
これに対して母は異なった態度だった。夫に反し、踏み絵は踏まない。つまり御名を否むことなく、迫害を正面から受けとめようとしていることは明らかだった。しかしそのような父も、Hのうっかりが原因で特高からの厳しい拷問は受けなければならなかった・・・・。
この夫婦の意見の違いは、これから迎えるであろう終末の艱難時代とリバイバルの時代、神を信じるすべての家庭と個々人に、古くてかつ通らなければならない決定的な分かれ目となることだろう。はっきりしていることは、聖書によるとこれから迎える艱難時代、獣(けもの)の像を拝み、その刻印を受けるものは、裁かれる(神の国へは行けない)ことは明記してあることだ。
Hの父のように、『拝んでも、またたとえ刻印を受けても、心の中でしっかりと信仰をもっとけばいいんじゃ」では、残念ながら永遠の火の池に落とされてしまう。今のいのち(ウン年、十年するとやがて尽きて滅んでしまうのだが)を大切にするか、またはたとえ死んででも生きる永遠のいのちを取るか、その容赦ない選択を迫られる時が来る、その備えをしていかなければならない。もっとも弱いわたしには、祈りしかないように思えるのだが・・・・・ ケパ