数日前、NHKテレビ番組ファミリーヒストリーで、「北海道スペシャル~北の大地で、強く生きた~」があった。
私はこの番組が、調べる先祖の中に家柄や偉い人、帝大出とか○○裁判官を探し出し、そういう先祖だけを称揚するのに、軽い嫌悪感を持っていた。今回、ほんの短い時間だけ観てしまったが、その中でニシン御殿を作った先祖に対し、その子孫に当たる番組出演の芸能人が喜んでかつい、「ご先祖様❗」と声をあげていた。私はこれに強い違和感を覚えてしまった。(その番組のシーン)
もちろん「ご先祖様❗」と言うことを非難しているわけではない。そんなことを言おうものなら、この国では即バッシングにあってしまう。そうではなく、ただこの自分が、この国の民、多くの日本人とかなり考え方が異なっていることを実感したのだ。
多くの人にとっては、自分の先祖に立派な人がいたら、誇りに思うことだろう。世的にはそうだろう。しかし、信仰的に見ると、それは全く何の関係もないのである。すべての人は罪人であり、そのままではゲヘナ行きは免れない。ただイエス・キリストの十字架を信じ受け入れた信仰者(クリスチャン)だけが、十字架の贖いによって罪赦され、永遠のいのちを与えられて、神の国の一員として天国で再会できるのだ。
だから先祖にクリスチャンがいたら、それは天国で会えるので喜ぶ。しかしそうでなければ、審判は神のなさることなので、人間に過ぎない私が絶対とは言えないが、先祖とは言え全く違う恐ろしいところへ行く人たちなのだ。
確かに私は先祖が居たから存在している、しかしそれゆえ先祖がありがたく尊いのではない。
なぜなら私の霊は神がこの血肉となる遙か以前に創造されておられ(ダビデやエレミヤ、イザヤも49章でこのことを証している)、全能の神はどのような方法をもってしてでも、私の霊に血肉の体を着せてこの世に送り出すことがお出来になるのだ(マリヤは処女なのにキリストを出産した)。その視点から言えば、神はご計画によって私の先祖を用いられたに過ぎない。
けれども、親を尊び敬うのは当然である。神の愛に答える者は、血肉の親の愛にも答えるのは当然ではないか。しかしそれと、先祖を〇○様❗と敬うのは別の話しである。
血筋や民族を誇ってはならないことのは、以下の御言葉からも明らかである。大切なのは信仰である。
"あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。"(マタイの福音書 3章9節)
付け加えだが、全人類はアダム以来というもの、神の前に罪人である。先祖だからといって、罪深い、ただの人間に過ぎない。十字架を信じていなければ行き先はゲヘナである。だから感謝は神に対してするのであって、おろそかにはしないものの、先祖だからとそれだけで敬うことはできないし、してはいけない。
つまり多くの同胞と同じ先祖崇拝をして、偶像崇拝の罪に陥ってはならない。だからあくまでクリスチャン限定だが、「ご先祖様❗」は、してはならない。神に感謝し、世にある限り、その使命を全うしよう。
この点から言えば、クリスチャンの家に、位牌や遺骨が存在することは避けたい。積極的ではないにしても、そこに偶像崇拝の危険性があるからだ。御言葉にもある通り、世の霊から遠ざかり、偶像崇拝は絶つ必要がある。
"あらゆる形の悪から離れなさい。"テサロニケ人への手紙 第一 (5章22節)
葬儀後はできれば土葬して、土からつくられたのだから土に還す(地上には形として何も残さない)のがベストだと思うが、この国では不可能である。
だから遺骨は教会の墓地に埋葬されているのが良いと思うが、海とかの大自然に散骨して、土に還すのも非常に良い方法ではないだろうか。とにかく、形あるものを残すことの重大な問題性(遺骨=大事なものという感覚=偶像崇拝)に気付いて欲しいと私は思う。
" あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。“(申命記5:8-9)
ケバ
私はこの番組が、調べる先祖の中に家柄や偉い人、帝大出とか○○裁判官を探し出し、そういう先祖だけを称揚するのに、軽い嫌悪感を持っていた。今回、ほんの短い時間だけ観てしまったが、その中でニシン御殿を作った先祖に対し、その子孫に当たる番組出演の芸能人が喜んでかつい、「ご先祖様❗」と声をあげていた。私はこれに強い違和感を覚えてしまった。(その番組のシーン)
もちろん「ご先祖様❗」と言うことを非難しているわけではない。そんなことを言おうものなら、この国では即バッシングにあってしまう。そうではなく、ただこの自分が、この国の民、多くの日本人とかなり考え方が異なっていることを実感したのだ。
多くの人にとっては、自分の先祖に立派な人がいたら、誇りに思うことだろう。世的にはそうだろう。しかし、信仰的に見ると、それは全く何の関係もないのである。すべての人は罪人であり、そのままではゲヘナ行きは免れない。ただイエス・キリストの十字架を信じ受け入れた信仰者(クリスチャン)だけが、十字架の贖いによって罪赦され、永遠のいのちを与えられて、神の国の一員として天国で再会できるのだ。
だから先祖にクリスチャンがいたら、それは天国で会えるので喜ぶ。しかしそうでなければ、審判は神のなさることなので、人間に過ぎない私が絶対とは言えないが、先祖とは言え全く違う恐ろしいところへ行く人たちなのだ。
確かに私は先祖が居たから存在している、しかしそれゆえ先祖がありがたく尊いのではない。
なぜなら私の霊は神がこの血肉となる遙か以前に創造されておられ(ダビデやエレミヤ、イザヤも49章でこのことを証している)、全能の神はどのような方法をもってしてでも、私の霊に血肉の体を着せてこの世に送り出すことがお出来になるのだ(マリヤは処女なのにキリストを出産した)。その視点から言えば、神はご計画によって私の先祖を用いられたに過ぎない。
けれども、親を尊び敬うのは当然である。神の愛に答える者は、血肉の親の愛にも答えるのは当然ではないか。しかしそれと、先祖を〇○様❗と敬うのは別の話しである。
血筋や民族を誇ってはならないことのは、以下の御言葉からも明らかである。大切なのは信仰である。
"あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。"(マタイの福音書 3章9節)
付け加えだが、全人類はアダム以来というもの、神の前に罪人である。先祖だからといって、罪深い、ただの人間に過ぎない。十字架を信じていなければ行き先はゲヘナである。だから感謝は神に対してするのであって、おろそかにはしないものの、先祖だからとそれだけで敬うことはできないし、してはいけない。
つまり多くの同胞と同じ先祖崇拝をして、偶像崇拝の罪に陥ってはならない。だからあくまでクリスチャン限定だが、「ご先祖様❗」は、してはならない。神に感謝し、世にある限り、その使命を全うしよう。
この点から言えば、クリスチャンの家に、位牌や遺骨が存在することは避けたい。積極的ではないにしても、そこに偶像崇拝の危険性があるからだ。御言葉にもある通り、世の霊から遠ざかり、偶像崇拝は絶つ必要がある。
"あらゆる形の悪から離れなさい。"テサロニケ人への手紙 第一 (5章22節)
葬儀後はできれば土葬して、土からつくられたのだから土に還す(地上には形として何も残さない)のがベストだと思うが、この国では不可能である。
だから遺骨は教会の墓地に埋葬されているのが良いと思うが、海とかの大自然に散骨して、土に還すのも非常に良い方法ではないだろうか。とにかく、形あるものを残すことの重大な問題性(遺骨=大事なものという感覚=偶像崇拝)に気付いて欲しいと私は思う。
" あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。“(申命記5:8-9)
ケバ