船橋駅の近くに行くと、ガラガラとスーツケースを引っ張って歩く人が目についた。お盆帰省の人たちだ。今年もお盆がもうすぐだ。
お盆はわが国最大の宗教行事だ。あまりに宗教的過ぎて、これほど国民的な行事なのに祝休日にできないでいる。
お盆には浄土などから祖先の霊が帰ってくるので、「此処だよ」と燈籠を点け、香を焚いておもてなしをする。香は仏への敬意を表し、己をも清浄にし、良い香りで極楽浄土を想起させ、灰になることから無常さを教えるものらしい。つまり帰省すると、どうしても焼香や線香を捧げる場に出てしまう。そこで線香などを皆と一緒にすると、本人の信仰はともかく、仏になった先祖霊を認め、礼拝したことになるのだ。
私は安芸門徒と呼ばれる浄土真宗のただ中育ち。東京でクリスチャンになるまでは、家族親族近郷近在、皆この宗門だらけで、幼き時よりしっかり身についていた。
二十でバプティスマを受け、卒業して広島に帰ってくると、どの教会でもお盆に限らず、葬祭の焼香や供養に、全く違和感なく参列し焼香を捧げる人が多かった。せいぜい十字架をぶら下げている程度だった。しかし私はどうしても違和感があって、これでいいのかとかなり長い間、疑問を感じ続けていた。
かつての教会内でこの点を問うたことがあった。すると「他宗(仏教)を尊重することは、自宗(この場合キリスト教)をも尊重してもらえることになる」と説明された。また焼香や礼拝しなければ、ホストを傷つけることになるので、愛がないとも言われた。しかしそれでも、「本当にそうだろうか?」との疑念が消えなかった。
以下は私個人の見方であり、上述の疑念からの結果であって、他者に押しつけるつもりはない。その上での話である。
福音派と呼ばれる教会にどっぷりつかっていた後半、家族の病と家庭の崩壊などいろいろな試練があって、私は180度異なるカリスマ派になった。その時から、私は目からウロコ、この問題における大きな過ちに気づいた。上述の例は、要するに聖書と神に聞き従っているのではなく、あくまで世に迎合し人間を恐れ、保身を第一にしていることの言い訳、へ理屈だったのだ。この過ちが理解できていなかったとはいえ、私はひどく悔い改めた。
クリスチャンなら誰でも知っている十戒の第二には、
"いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない"( 申命記 5章8~9節)とある。クリスチャンがお盆に、仏になった先祖へ焼香や供養することは、信じてはいないとどんなに詭弁(きべん)を弄(ろう)しても、それは重大な背教である。唯一の真の神以外を拝することは、偶像崇拝の罪に当たる。
聖書ではさらに、
"この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。"(ローマ人への手紙 12章2節)とある。
何が良いことで、神に喜ばれることなのであろうか? まさか焼香や供養をすることではないだろう。そのような場では、私は代わりに、たとえどんなに目立っても祈りを捧げる。神をほめたたえ異言を語る。僧侶が居て、皆に対して「ライハーイ」と言おうが、決して頭を下げたりはしない。それが不遜と受け取られそうな時は、はじめから祈りの姿勢を崩さない。ただしその場の人びと対しては、心から礼を尽くすのは当然であるが。
もしその焼香や供養しない事で、親族などからなじられることがあったとしたら、それはキリストの苦難に、この小さな者がわずかでもあずかれたと喜んで感謝する。キリストは「だれでも自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのだ。パウロのように何度も鞭打たれ牢獄にぶち込まれるわけではない。どうしてこの程度のことで怯(ひる)んでおられようか。まして訳を聞かれるなら、絶好の証のチャンスである。感謝、また感謝である。
※参考)ダニエル書の「たとえそうでなくても」
捕囚の民であっても役人として取り立てられた
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのユダヤ人3人は、巨大な王の像を拝むことを強要された時、死を覚悟して言った。
"「しかし、たとえそうでなくても(=神が自分たち三人を燃える炉の火から助けてくれなくても)、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」"(ダニエル書 3章18節)
神への信仰は、何千年も不変である。
ケパ
お盆はわが国最大の宗教行事だ。あまりに宗教的過ぎて、これほど国民的な行事なのに祝休日にできないでいる。
お盆には浄土などから祖先の霊が帰ってくるので、「此処だよ」と燈籠を点け、香を焚いておもてなしをする。香は仏への敬意を表し、己をも清浄にし、良い香りで極楽浄土を想起させ、灰になることから無常さを教えるものらしい。つまり帰省すると、どうしても焼香や線香を捧げる場に出てしまう。そこで線香などを皆と一緒にすると、本人の信仰はともかく、仏になった先祖霊を認め、礼拝したことになるのだ。
私は安芸門徒と呼ばれる浄土真宗のただ中育ち。東京でクリスチャンになるまでは、家族親族近郷近在、皆この宗門だらけで、幼き時よりしっかり身についていた。
二十でバプティスマを受け、卒業して広島に帰ってくると、どの教会でもお盆に限らず、葬祭の焼香や供養に、全く違和感なく参列し焼香を捧げる人が多かった。せいぜい十字架をぶら下げている程度だった。しかし私はどうしても違和感があって、これでいいのかとかなり長い間、疑問を感じ続けていた。
かつての教会内でこの点を問うたことがあった。すると「他宗(仏教)を尊重することは、自宗(この場合キリスト教)をも尊重してもらえることになる」と説明された。また焼香や礼拝しなければ、ホストを傷つけることになるので、愛がないとも言われた。しかしそれでも、「本当にそうだろうか?」との疑念が消えなかった。
以下は私個人の見方であり、上述の疑念からの結果であって、他者に押しつけるつもりはない。その上での話である。
福音派と呼ばれる教会にどっぷりつかっていた後半、家族の病と家庭の崩壊などいろいろな試練があって、私は180度異なるカリスマ派になった。その時から、私は目からウロコ、この問題における大きな過ちに気づいた。上述の例は、要するに聖書と神に聞き従っているのではなく、あくまで世に迎合し人間を恐れ、保身を第一にしていることの言い訳、へ理屈だったのだ。この過ちが理解できていなかったとはいえ、私はひどく悔い改めた。
クリスチャンなら誰でも知っている十戒の第二には、
"いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない"( 申命記 5章8~9節)とある。クリスチャンがお盆に、仏になった先祖へ焼香や供養することは、信じてはいないとどんなに詭弁(きべん)を弄(ろう)しても、それは重大な背教である。唯一の真の神以外を拝することは、偶像崇拝の罪に当たる。
聖書ではさらに、
"この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。"(ローマ人への手紙 12章2節)とある。
何が良いことで、神に喜ばれることなのであろうか? まさか焼香や供養をすることではないだろう。そのような場では、私は代わりに、たとえどんなに目立っても祈りを捧げる。神をほめたたえ異言を語る。僧侶が居て、皆に対して「ライハーイ」と言おうが、決して頭を下げたりはしない。それが不遜と受け取られそうな時は、はじめから祈りの姿勢を崩さない。ただしその場の人びと対しては、心から礼を尽くすのは当然であるが。
もしその焼香や供養しない事で、親族などからなじられることがあったとしたら、それはキリストの苦難に、この小さな者がわずかでもあずかれたと喜んで感謝する。キリストは「だれでも自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのだ。パウロのように何度も鞭打たれ牢獄にぶち込まれるわけではない。どうしてこの程度のことで怯(ひる)んでおられようか。まして訳を聞かれるなら、絶好の証のチャンスである。感謝、また感謝である。
※参考)ダニエル書の「たとえそうでなくても」
捕囚の民であっても役人として取り立てられた
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのユダヤ人3人は、巨大な王の像を拝むことを強要された時、死を覚悟して言った。
"「しかし、たとえそうでなくても(=神が自分たち三人を燃える炉の火から助けてくれなくても)、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」"(ダニエル書 3章18節)
神への信仰は、何千年も不変である。
ケパ