ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

十二年の歳月

2018年08月18日 | いやし
今日は十二年前に召天した前妻の墓に、献花し賛美、祈るために一日を使った。これを言い出してくれたのがドルカスなのでうれしい。

船橋から神奈川県愛甲郡愛川町の相模メモリアルパークまで、およそ百キロ弱。どんなに頑張っても途中何カ所かの渋滞は避けられず、片道2時間半余りかかる。行く途中で厚木聖会に立ち寄って参加し、その後、学生時代の懐かしい本厚木の街もちょい見た。(今日行ったお墓の中でも、1番かっこ良いと思ったらのが下の写真)

相模メモリアルパークには二年前にも来たが、今回は賛美の機材を持ち込んだり、祈りにも力が入った。前妻との28年の結婚生活を思い出していた。当座はどんなにつらく悲しい思い出でも、後になってみればすべて益に変えられ、感謝することだった。それらがなければ、私は自分への希望を抱き続けたであろうし、従って聖霊のバプテスマは無かった。神は本当に素晴らしい恵みを賜る方である。

今日またここへ来たのは、墓参でも、もちろん報告でもない。確かに遺骨はここにあっても、霊があるわけではない。私たちクリスチャンはお墓を特別視しない。メモリアルの場所なのだ。
だからただ故人を偲んで感謝し、天での再会に希望を熱くして祈るのだ。本当はどこででもそれは同じなのだが。

今日のNHKの「半分青い」で「オージー(大爺
=祖父)の死後は、どこへ行ったの?」と、孫のカンチャンが母のつばめに問いただす場面があった。それに対して、「ママは行ったことがないから」と、はぐらかしに終始していた。一言で言えば「死後の世界はわからないので、保留にしてしまって、今生きていることだけを考えよう」だろうか。
小さな子どもでも、人間の死後の世界の行き先がどこなのか気になるのに、大人の方が「わからない」ので「生きることだけに専念しよう」とは・・・・・・、これが日本の悲しい現実なのだ。
生きていることだけを考え、死が近づくと恐怖におののき、死への恐れから考えずに逃れようとする。そんな縁起の悪いことは言うな、である。多くの人が、前向きに生きると言うことを勘違いさせられている。単にそれは逃げているだけである。必ず来る死への備え、神を信じ天国を目指すと言うことを遮断し、十字架の恵みから離して、少しでも自分と同じゲヘナの火の世界に道連れにしようとするサタンの策略なのだ。

十字架の救いはすべての人に開かれているが、それをただ信じ受け取った者だけがその恵を得る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする