近頃、表題のことが時々頭をかすめ、祈ると示されたり、知識を与えられたりする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/9b/e3829f112d5d18b6f1fb340309c2048d.jpg)
私もそうだったのだが、この〈聖霊のバプテスマ〉ほど誤解されているものはないだろう。記憶間違いかも知れないが、クールマンが「(聖霊のバプテスマを)受けていない人とはチームを組めない」と言うことを聞いたりすると、受けていないと大変だと思うようになる。私たちの神学校でも、入学条件の一つがこれである。まるで運転免許証みたいに、必須アイテムのようにだ。
私もかなり焦っていて、西にベニー・ヒン来たれば駆けつけ、さらに遠方にアナコンディア来たる報あれば、遠距離もなんのその、とりつかれたように行ったものだ。しかしそれは、期待通りには得られなかった。高名な人に祈ってもらえれば、あるいは得られるかも知れないと勘違いしていたのかも知れない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/36/606b144ef12e7985719eb7908d8e317a.jpg)
今も聖霊のバプテスマを受けたい人が、祈ってもらって、得ようとしている例を見る。そんな方に、以下の私の話が参考になればと思う。
マーリン・キャロザースという賛美と感謝の器が、聖霊のバプテスマについて一言、このように言っている。(著作「祈りの力」)
「弱くされることです」と。
その通り❗と私は膝を打つ。これを私流に言えば「自分に希望を失うことです」と。
ヤコブの手紙 3章11節に次のような御言葉がある。
「泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。」
私たちが神に聞き従い、聖霊の賜物を用いるようになるためには、その栄光を決して自分の手柄にして、横取りし高慢になってはならない。それは身の破滅を待つばかりだ。
だから聖霊のバプテスマは、徹底的に己の罪を知らされ、弱くされること、自分に絶望し、かと言ってクリスチャンなので無神論者の太宰や芥川のように自殺できず、ただ神の前にひざまづき、悔い改めて行く時に、神の計画のタイミングで注がれるケースが私だった。
まさに苦い水を出し切って、もうその水は出なくなった時である。そんなタイミングは、昔、エレミヤに「あなたは何を見ているのか」と言われたのと似ている。神は神の最高の基準で、正確に注ぎの時を推し量られていると私は思う。
聖霊のバプテスマは、人の願いもあるが、何よりも神の主権と判断によろもので、それが最善なのだ。ちょうどそれは己れがもっとも弱くされ、または無きものとされた、その時が土台である。
聖霊のバプテスマを受け、その賜物を用いる時、自分の肉があったら、苦い水がまだ出ていたのなら、苦しむのは本人なのだ。さらにそのために神の栄光を盗むのなら、聖霊のバプテスマとそれに続く聖霊の賜物など、受けなかった方が、どんなによかったことだろうか。
だから、求めても未だ得られない人は、神に訳を聞きつつ(まだ、聞けていなくても祈ることはできる)、必ず最高のタイミングでいただけると信じて、安心して神にゆだねて行くことがよいのだど思う。
なお、聖霊のバプテスマは、受けたかどうかハッキリしないけれども、「受けた」と言われて、受けたという信仰に立っておられる方がいる。それは否定されるべきではないかも知れないが、しかし例えば、その証をお願いされたら困るのではないだろうか?
異言が語れる、という客観的な判定基準があるが、されは意図したものではなく、神の賜物として湧いてくるものである。また、異言が絶対に必須だとは聖書にないと思う。
聖霊のバプテスマは、少なくとも私の場合、受けたかどうかわからぬものではなく、ハッキリと自覚できるものである。ハッキリわかるよう、祈り求めて、しばらくして明確に経験した。
本人にハッキリした体験が無い場合、私たちには証人としての使命があるので、土台が揺らぐことになる。だからそのためにも神に明確に、受けるよう祈り求め続ける必要があるのではないだろうか。最初にも言ったように、それは何度でも受けられる満たしなので、それが良いと私は思う。
ケパ
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私もそうだったのだが、この〈聖霊のバプテスマ〉ほど誤解されているものはないだろう。記憶間違いかも知れないが、クールマンが「(聖霊のバプテスマを)受けていない人とはチームを組めない」と言うことを聞いたりすると、受けていないと大変だと思うようになる。私たちの神学校でも、入学条件の一つがこれである。まるで運転免許証みたいに、必須アイテムのようにだ。
私もかなり焦っていて、西にベニー・ヒン来たれば駆けつけ、さらに遠方にアナコンディア来たる報あれば、遠距離もなんのその、とりつかれたように行ったものだ。しかしそれは、期待通りには得られなかった。高名な人に祈ってもらえれば、あるいは得られるかも知れないと勘違いしていたのかも知れない。
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今も聖霊のバプテスマを受けたい人が、祈ってもらって、得ようとしている例を見る。そんな方に、以下の私の話が参考になればと思う。
マーリン・キャロザースという賛美と感謝の器が、聖霊のバプテスマについて一言、このように言っている。(著作「祈りの力」)
「弱くされることです」と。
その通り❗と私は膝を打つ。これを私流に言えば「自分に希望を失うことです」と。
ヤコブの手紙 3章11節に次のような御言葉がある。
「泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。」
私たちが神に聞き従い、聖霊の賜物を用いるようになるためには、その栄光を決して自分の手柄にして、横取りし高慢になってはならない。それは身の破滅を待つばかりだ。
だから聖霊のバプテスマは、徹底的に己の罪を知らされ、弱くされること、自分に絶望し、かと言ってクリスチャンなので無神論者の太宰や芥川のように自殺できず、ただ神の前にひざまづき、悔い改めて行く時に、神の計画のタイミングで注がれるケースが私だった。
まさに苦い水を出し切って、もうその水は出なくなった時である。そんなタイミングは、昔、エレミヤに「あなたは何を見ているのか」と言われたのと似ている。神は神の最高の基準で、正確に注ぎの時を推し量られていると私は思う。
聖霊のバプテスマは、人の願いもあるが、何よりも神の主権と判断によろもので、それが最善なのだ。ちょうどそれは己れがもっとも弱くされ、または無きものとされた、その時が土台である。
聖霊のバプテスマを受け、その賜物を用いる時、自分の肉があったら、苦い水がまだ出ていたのなら、苦しむのは本人なのだ。さらにそのために神の栄光を盗むのなら、聖霊のバプテスマとそれに続く聖霊の賜物など、受けなかった方が、どんなによかったことだろうか。
だから、求めても未だ得られない人は、神に訳を聞きつつ(まだ、聞けていなくても祈ることはできる)、必ず最高のタイミングでいただけると信じて、安心して神にゆだねて行くことがよいのだど思う。
なお、聖霊のバプテスマは、受けたかどうかハッキリしないけれども、「受けた」と言われて、受けたという信仰に立っておられる方がいる。それは否定されるべきではないかも知れないが、しかし例えば、その証をお願いされたら困るのではないだろうか?
異言が語れる、という客観的な判定基準があるが、されは意図したものではなく、神の賜物として湧いてくるものである。また、異言が絶対に必須だとは聖書にないと思う。
聖霊のバプテスマは、少なくとも私の場合、受けたかどうかわからぬものではなく、ハッキリと自覚できるものである。ハッキリわかるよう、祈り求めて、しばらくして明確に経験した。
本人にハッキリした体験が無い場合、私たちには証人としての使命があるので、土台が揺らぐことになる。だからそのためにも神に明確に、受けるよう祈り求め続ける必要があるのではないだろうか。最初にも言ったように、それは何度でも受けられる満たしなので、それが良いと私は思う。
ケパ