ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

日食をみた

2012年05月21日 | 自然

日食みた
三芳インターです。ケパさんが、インターネットで購入したグラス片手に満車の駐車場から金環日食を観ました。神が創られた地球と太陽の素晴らしい瞬間を見せて下さったのです。 先週パソコンでグラス注文してくれたケパさんを、ちょっと子供っぽいなあ。二つも入らないのになぁ。なんて思ったけれど、

そうではなくその瞬間を一緒に観ようと、二つセットで注文してくれたのでした。本当にありがとう。写真は日食が始まった太陽を無防備で!みるケパさん。目は日食グラスで守ってます(ドルカス)

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ゴスペルと教会

2012年05月19日 | ゴスペル

 今日棚を整理していて、ドルカスが持っていた高橋真梨子や谷村新司のCPraise_24Dがかなり出てきた。「何だ、私と同じ趣味だったんだ」と思うのだが、これまで全く聴いたことがなかった。それで処分する前に、と少しだけCDをかけてみたのだが、以前は良いと思っていたものなのに、今となっては聴くに堪えない。

 なんで? と振り返ってみると、どうやら歌詞の<異性を恋いる未練や恨み言ばかり>に反応しているようである。美しいサウンドに載せていても、その言葉は悲しく、また、あきらめ切れない情念すら感じさせる。そういえばこれで、やりきれなさを晴らしたり、逆に暗く募らせていた自分の過去を思い出した。


 だからゴスペルはすばらしいと思う。この世のことを歌えば、それは罪の世界だからどうHymn_27しても希望がない。しかし神の世界には光と希望があふれている。どれほど心が引き上げられることか!ゴスペルの歌詞には「永遠の愛」「大きな愛」「ハレルヤ」「君は愛されている」「Rejoice(喜ぶ)」などの言葉がならぶ。歌詞は大切だ。今私は、ゴスペル漬けの毎日だ。


 ところでゴスペルを多くの人が受け入れてくれる時代になりつつあるが、それで人々が教会へ即来てくれているかと言えば、そうはなっていない。ゴスペルのサークルには、十分クリスチャンの心を持っていてくださる方が多い。それだけでなく、言葉が言葉だから、路上でもどこでも、涙を流して「霊にふれ」てくださっている方もしばしば見るほどだ。
 だが教会へは二の足、三の足を踏まれるのだ。これはどうしたことだろうか?Church_32

 これは教会の方にその責任がありはしないか?教会の敷居が高いのだろうか?そうではなく、教会には化石のような信仰しかなくて、本当に生きて働かれる神さまがおられないからではないか?


 私たちの教会には今のところ会堂もなければ、あらたまった儀式もない。だからそのような見えるものを求めて来られる人には向いていない教会である。けれども、神さまが生きて働かれる信仰がある。神さまが病を癒やし、また奇跡を行ってくださることを信じている。どんな不幸のどん底でも感謝し、心から喜んでいる。私たちの教会には、ゴスペルがあふれてる。  (ケパ)


 

 

  
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今夜は

2012年05月18日 | 感謝

   教会では金曜日の夜は何かと予定が入っています。今夜は祈祷会です。家で仕事を済ませ、只今船橋へ向かう地下鉄。 いつもだったら中野富士見町より丸の内線利用してですが、気候がよくなって来ましたから、自転車で中野迄走り、東西線を利用しました。が・・・なんと乗った電車は東西線快速「津田沼行き」です。 感謝感謝!! なぜって、いつものように西船橋で後ひと駅のためJRに乗り換える事もなく、船橋へ行けます。今日はちょっと風が強く自転車は躊躇したけれど、夫に従ってよかったぁo(^-^)o

田舎で片付け事する前に、体調と傷めている膝の祈りをしてなかったと、今悔い改めてます。 そのことも感謝して、今日は膝に負担が無いよう、守られて感謝します。更に今夜は祈祷会ですから、素晴らしいね。

Ps。   今日利用した電車は、津田沼駅直行便で、なんと西船橋駅からJR線となり、車掌が変わったことのアナウンスがあ りました。多分運転手もJR社員にかわったと思います。何だか不思議でした。

ドルカス

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自分を信じることと 神を信じること

2012年05月17日 | 随想

  私は牧師にしては、スポーツをやっている方だと思う。ところがあれこれ40年K6911948上、知り合った牧師に、運動好きの牧師なんて、ほとんどいなかった。もっとも表向きは、そんな話にはなりにくいこともあるが・・・・。


  私の場合、5時台に早天祈祷を済ませ、その後公営コートに行く。それから朝食までの時間が日課だ。聖日には決してしない。しかし練習といえども毎日が勝負である。勝負は、勝つ目的があり、そのために全力を使うものである。スポーツというもの、勝負にあたってまず自分の力を信じなければ、勝利はおぼつかない。

  ところがクリスチャンの場合は、自分の無力さを告白して、神さまを信じるのであって、まったくもってスポーツの敢闘精神にそ

Photo

ぐわない。これは二律背反、矛盾する問題である。

  これを「世のものと信仰の世界とは異なる」と門前払いをするのは簡単だろう。けれども私は、次のように示されている。「勝ちたい心をも、神に捧げなさい」と。

  それでゲームを始める時は「主よ、あなたの御心の通りにしてください。私が勝とうが負けようが、それはあなたのものです。負けて弱さを教えてくださることも、すばらしい恵みです。感謝します。」 勝ちたいために、勝てるよう祈るのではPraise_49なく、まずすべてを主に捧げる。自分の目的のために神を使ってはいけない。これは祝福されない。


  私たちの願いは、ただただ、神の栄光が現されることである。それで、勝負ではなく、せっかく主のゆるしによってさせていただくのなら、それは時間の無駄のような、つまらないゲームをすることではないはずだ。一心にボールに集中し、慰めと励ましを与えられること。これからの使命を果たす体力と健康を与えられ、主の栄光だけが現れますように!」


  すると結果的にだが、私は強くされ、主にあって勝利を得る。祈りの力を実践的に学べる、恵みの場なのだ。    (ケパ)
  
  

 

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夏の白馬キャンプ

2012年05月16日 | 教会のこと

 今年もまた、白馬キャンプの募集が始まりました。
7月24日(火)プレ、25日(水)~27日(金)本キャンプです。
このキャンプでは、全国及び海外から800人ほどの人々が来られます。もちろん参加はどなたでも自由です。

そして毎年「全国ゴスペルグループコンテスト」が開かれています。今年は26日に大町文化会館であります。もちろん入場は無料です。

第12回めの大会で、今年は何チームでしょうか!昨年は23チームの全国そしてアメリカから各地の予選会で上位チームが集いました。ちなみに優勝は、船橋でのゴスペルコンサートでおなじみの「Gifts」でした。また船橋ゴスペルクラブ「ピースフル」で指導してくださっている素子さんのチーム「TrueVine」も出場します。大変楽しみです。

また、第3回になる白馬ヤング賛美大会(小学生以下の部・ヤングの部)もあります。こちらも聞き応えあり。各チームの成長ぶりが期待されます!!

ここに昨年の映像でご紹介します。見てくださいね。そしてぜひご一緒に参加してみません?
ちなみにこの映像にちょこっと私たちが^^映って居りまする ドルカス

http://tokyo.antioch.jp/movie/201205-hakubaCM/index.html

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神さまに会いたい

2012年05月15日 | 信仰

 世界最大の宗教は? キリスト教である。Photo
 世界でもっとも起源が古い宗教は? ユダヤ教と共に、天地創造から、B.C.2000年前のアブラハムに起源を持つキリスト教である。
 世界で最も人類の歴史と文明を影響を与えてきた宗教は? キリスト教である。
 キリスト教は奴隷解放、一夫一婦制、弱者の尊重と保護、奉仕など他宗教には見られない基本的人権の母体となった。

 浄土真宗の家庭だったが、中学1年生の時一番心を惹(ひ)かれたのは、キリストが全人類の罪のために十字架で、実に悲惨な死を選んだことだった。こんな教祖なんていない。
 以来還暦を過ぎた今に至るまで、18歳からの2年間、学生運動に挫折した期間を除いて、この一神教の神から心が離れたことはない。しかし、である・・・・・・・・・。U17341427

 十数年まで、神に実際に会えるなんて、知らなかった。そんなことがあるなんて知識もなかった。いや、聖書が明確に記していても、その知識はあっても、聖なる神は高く天に座して、罪深い人と親しく交わるなんて、あり得なかった。受け入れないことは、知らないのと同じだ。もし知っていたなら、その瞬間から狂ったように「会いたい、会いたい」と願ったことだろう。
 今日でも多くのクリスチャンは、経験上だが、私と同様な方が多いと見ている。しかしこれは間違っている。なぜなら聖書自体に、聖霊は「神を信じる者に内住される」とはっきり記している(使徒1:4-5)。それどころか、確かなことに、キリストは、信じる者に聖霊を送る(個々人に内住させる 
ヨハネ16:7)ために十字架にかかられたのだ。
 ※聖霊とは、「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は神であり、唯一である」というキリスト教の三位一体の神の呼称。

 ところが私ときたら、ボヤーっとは感じても、はっきりと神を知らないのに、それでも「熱心なクリスチャン」で、必ず天国へ行ける・・・・と信じようとしていた。だが、実際に知らないので迫力がないこと、確信が無いこと・・・・おびただしい。「まぁ(周辺のクリスチャンを見ても)、みんなそんなもんだナ」と。
 そんな私が「(内住されている)神を体験できる、会える」らしい、という情報を得た。
 クリスチャンである私は、いつも殉教を考えていた。中学生の時、遠藤周作の「沈黙」
を読んだためだ。「自分はクリスチャンだと言っているが、では本当に神を選べるのか?」この問いは頭から離れることはなかった。だから「なんとしても、神に会いたい、いや、会わねばならない」と瞬間的に決心した。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 願い続けていると、いつかかなうものだ。
 それまでのいきさつはオールカットするが、「聖霊のバプテスマ(マルコ1:8 使徒1:5)」と言うものがある。このこともきちんと聖書には重要なこととして記されていた。実は私の場合、その直前に、聖書で言えばサウロがダマスコ途上で神に会い打たれたように、神が語ってくださる体験をした。
 その瞬間からコペルニクス的転回というか、劇的に信仰が変わった。
Calva03

 人類の祖アダムから、四千年前のアブラハム・イサク・ヤコブから今に至るまで、神は生きておられ、それは人間の一人一人を(造られたのだから当然)、認識し関心を抱いておられる。何よりも私たちを十字架の愛で、今も愛しておられる。間違いありませんでした。今は断言できる。小説「沈黙」は間違いだ。  (ケパ)

 
 
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トマト栽培?

2012年05月14日 | 自然

 今日は私達の安息日。田舎から母を預かっている姉の家を訪ねた。母はこのところ殆ど寝て過ごす時間が多い、と言う姉の顔は淋しげ。そんな姉にありがとうと思いな2がら、私はただただ祈ります。

 姉とおしゃべりをしながら、ふと庭を見ると花や野菜が植えてある中に、あれっ何なになの。あの地面に置いてある赤い袋。

 庭に降りて近寄ってみると、袋の中に土が盛られ苗が植えられていて、袋にはよく見るとトマトの絵が書かれていて。すご・・・・ 袋の中でトマトの苗が育ってる。 おまけに収穫前には花(ペチュニア)も楽しもうなんて^^ね。

土が無いベランダでもトマト栽培が出来る。いいなあ。我が家のベランダで育つかしら・・・Photo

 家に帰る途中でいつも行くホームセンターに立ち寄ると、あの袋と同じらしい物を見つけた。ほしいなあ育てようかなあ、でも、姉の庭の赤い袋とはかわいらしさが違うなあ・・・などと思いながら帰った。

我が家でも、それを育ててその枝から小さなトマトをもぎ取って食べたいと、田舎育ち ドルカスは思うのです。

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ピアノ

2012年05月12日 | 感謝

  昨日から正式に、ゴスペルクラブ「ピースフル」の伴奏をはじめた。Photo_2
  弾いていると、弾き語りのように両方はうまくいかず、どうしても伴奏に専念することになる。少しさびしいが、そこは割り切らねばならない。伴奏は大変だ。緊張と冷や汗ものだったが、みんなの歌声を聴きながら、合わせながら、笑顔で演奏する。これはこれで実に楽しい。※笑顔は後半の、少し余裕が出た時だけです。

  私の年代で男性のピアノは珍しいだろうと思う。私がピアノを始めたのは、自主的ではない。姉がピアノをねだって買ってもらう時、「弟もやるから」と私をダシにしたのだ。こうしてピアノをすることが決まった。
  ピアノが家へやってきた日、私はこの楽器の音が好きになった。なにしろ力
_lg強い音だ。家でこれを弾かれると大音量なので、戸外へ逃げるか、またはおとなしく聴くしかない。好きになったので、避難しなくてすんだ。それですぐに姉と一緒に、近くのピアノ教室に通うようになった。歯医者さんの娘さんで、ちょっと厳しい感じの先生だった。
  しばらくして教室のピアノ発表会が行われた。大勢の人の前で、大きなグランドピアノを弾かねばならない。我が生涯で、緊張のランキングとしてはこれが史上最 高だと思う。今でもその時の記念写真が残っていて、何十名かの盛装した女の子たちの端に、黒いタイツをはかされた半ズボンの男の子がぽつんと一人だけ、実に恥ずかしそうに立っている。
 
  2.3年は通ったが、普段はあまり練習しないので、結局バイエルを卒業するかしないかで終わった。10歳前後の話である。ところがなぜか高校生になったら、松ぽっくりに火がついたように、またピアノを始めた。理由は簡単である。ギターの弦が指に痛いので、ピアノにしたのだ。姉は京都で大学生活を始めたので、ピアノが私専用になったせいもある。
  自分の意思で始めると上達は早い。ソナチネまで突き進んだが、先生の都合で1年後、突然終わった。

  まるで暗闇を照らす光のように、自分の人生がわかる時がある。たとえばこのピアノである。これで永遠に終了と思っていたピアノが、教員採用試験で生かされた。試験の課題曲を弾き終えた時、試験官は私にこう言った。
Photo
「キミは音楽専科が無理だと申請しているが、そんなはずはない。今すぐ可だと書き直しなさい」・・・・とんでもない誤解だったが。

  そして今である。もちろん力がないので一時的だとわかってはいるが、ピースフルの奏楽者としての働きである。これを避けて避け続けてきたが、どうしてもしなければいけなくなった。不思議なのはどうしてかわからないけれども、1年半前ぐらいから伴奏の仕方の個人レッスンを受けていた。どうしてなのか、実にふしぎだ。しかし神に従う私たちの人生には、すべて神の計画の下で歩まされている。試練も悲しみ苦しみも、
何一つ無駄なものはなく、感謝なのだ。・・・・そしてこのピアノも。   ケパ


? すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサ5:18)

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ピースフル定期練習

2012年05月11日 | ゴスペル

 今日はピースフルの5月最初の練習日でした。実は先月の練習がさんざんだったので、何とも惨めな気持ちで落ち込んだ後に、これではいけないと悔い改め、感謝しての練習でした。

ケパさんがインターネットからボイストレーニングの方法を見つけてくれて、さらにはピアノで伴奏をしてくれました。ボイストレーニングにピアノの伴奏なしは何ともやりにくいことですから・・・ピアノを思うように弾きこなせない私にとって、なんと頼もしい助Gospel_club2け人です。 

今日は大変人数が少なかったのですが・・・・しかし集った人は幸いです^^。なんと楽しく練習が進んだことでしょうか。

歌い終わった後のウキウキの心は、神さまが下さる祝福以外は考えられませんね
そのような訳で、今夜は「さくら」「永遠の愛」「Never Worry」「God is Love」などを次々に歌えたのです。本当に何も出来ないこの私をもちいてくださる主に「この
ようにお使い下さり感謝します」と、飛びはねるような心で終了したのです。 ハレルヤ (ドルカス)

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 本当に生きる

2012年05月10日 | 示されたこと

 最近は続けて信州へ行って、家の整理と庭などの手入れを行っている。 実は広島の私の家も同様に、一切合切整理をしなければならない。かつて家族が住んでいた家、それらはモノでGod_25溢れている。その時その時では必要であったモノだろうが、今やほとんどが不要なものと化している。

 目に見えるもの、それらは確かに在るが、しかしそれもまた、人が居なくなれば価値を失い、しばらくして滅ぶ。人は見えることしか信じようとしないが、しかしそれだってこのように不確かなことではないか。このブログのテーマは「肝心なことは、目では見えない」。見えている
と思うからこそ、惑わされて本当に大切なこと、価値あることが見えなくされている・・・・そのことに気づいてほしい。

 母はかつて茶道具を収集した。私が実家に帰って、茶道具が部屋にあふれているのを見ても、それらは私にとって、ほとんど価値を持たないものだ。そんな目に見えるものより、母との懐かしい思い出が湧いてくる。目に見えないものが自分には大切だと思う。

 このように一度きりの人生を、ただ自分のためだけに消費したのであれば、茶道具のように、ゆくゆくはおそらく、空しさは隠せないはずだ。Aけれども自分を惜しんでくれる人がいて、愛してくれる人がいるならば、生きていてよかったと思うのではないか。それはその人々のために、かなりを犠牲を払ったからだと思う。
 
 もっともっと良い生き方というものがある。それは生きている時に死んで 、死んで生きる道である。なぞなぞのようであるが、そうではない。

 天地万物を創造され、今も生きて 働かれ る神がいる。ご自分の一人子イエス・キリストを人間のために犠牲にしてまで、わたしたちを愛してくださった神。この神を愛を信じ、自分を捧げ、故に自分は生きていても、自我が死んだも同然の生き方になる。このすごいことは、身体が滅んだ時、神と共に生きる永遠の命が与えられることである。

Heaven_40  

 植物の実がある。実がもし、そのままであれば、ただ一粒のままである。良い地にまかれ芽を出すならば数十倍、数百倍になる。ただし、最初の実は死ななければならない。(詳しくはヨハネによる福音書12章24節参照)


 私たちの肉体は必ず滅ぶが、たましい(霊)は残る。目には見えないが、必ず来る当たり前の事。そのたましいの行き先こそ、生きている時に心配しておかなければいけないことなのだ。終わってからではすでにはしごが外されて、取り返しがつかないからだ。  (ケパ)

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