ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

駅に着いて

2012年12月22日 | 食べる

駅に着いて
 少し時間が早くて、寒かったので、只今コーヒータイム中です。なぜかいつでも、手前のブレンドコーヒーはドルカス好みで、カフェラテはケパさん好み。そうですケパさんは牛乳大好きなのです。なんと健康的!しかし、年齢的に取り過ぎ要注意でしょうか。ドルカス

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今日の移動はね

2012年12月22日 | 感謝
   いつもだったら、土曜日はすでに船橋にいるか移動中です。なのですけど、今日は珍しくJRで高円寺へ向かってます。なにがあるのかって、神学姣の特別講義に出席します。
寒い日で出かけるの嫌だなっと瞬間思ったのですが、風邪で咳込んでいるのに行くのが当然の様子のケバさんの前で、何が言えましょうか~。 ですから昨夜のゴスペルの練習のように元気よく出かけてきました。

Photo_2
それで後で「blogに今日のこと云々・・・書いた」と、話したら、なんと答えは「いやぁ (^_^;) 今日は休もうかな。明日のためにと思ってたけれどね。押して出かけて来た」「えっえ~言ってくれたら即、賛成と手を上げたのに・・・(>_<)」
でも、セミナーが終わっての帰り道、やはり来て良かったなあ。と感謝してました。
はい!アーメン その通りです。ハレルヤ(^。^  ドルカス
 
写真は前日移動中の湾岸道路。大観覧車 き・れ・い

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ただ一つ、信じられるホンとうの本

2012年12月21日 | 聖書

 Hell_23 今晩は、いろいろな方もおられると思いながら、少しだけ我慢していただき、聖書のお話をしたい。

 どれだけ聖書がこの世にまたとない書であるかは、一言で言うと、
○ノストラダ ムスの類いの、いろいろな予知・予告・予言の書が出たが、何一つ、真実なものはなかった。しかし、この聖書の預言だけはすべて当たっており、また今後も必ず成就していくだろう。イスラエルの滅亡、ユダの帰還、キリストの預言、その後の離散と1948年の復活etc・・・・。
 これだけ世界史上明白な証拠と事実がありながら、聖書とその神を認めないのはどうしたことか?

○「死海文書」と言うものが、20世紀に明るみに出た。この文書はイエス・
キリスト時代前後のもの(当然旧約聖書)で、いわば二千年間封印されていた文書であった。そして驚くべきことが明らかになった。聖書は二千年の時を超えて、寸分違わぬものであったことだ。そんなことが現代のような印刷機が無く、写本することしかなかったのに、、考えられるだろうか?為政者や権力者が、己に都合の良いように書き直させることは、一切できなかったのだ。
 これはまさに奇跡、あるいは奇跡的である。
 
○聖書の内容こそ驚くべきものであった。つい最近まで人類は奴隷制、人種制というおぞましいい社会制度を当然としていたし、封建制度や共産主義のように支配・被支配の前に人権などは存在しなかった。どんなに良心に従い、愛と善を行っても、権力者に刃
Bible_04向かうことは即、死を意味した。

 しかしそんな時代でも、キリスト教は初期から教えは「愛・寛容・自由」であり、男女平等と一夫一婦制、神の前に身分を超えての人の普遍的価値、子どもや寡婦、貧しい者と言う社会的弱者の救済を唱えた。そのような価値観は聖書に記されている神だけがあらわし得たもので、彼はそれ故、もっともむごたらしい十字架に架けられた。

 ※ただしキリスト教国にもこのような、身分、奴隷など差別とあらゆる問題があったことは事実である。あくまで聖書の基本的な内容を指している。また相当な時は要したが、今日の人類普遍の基本的人権は、間違いなくキリスト教国が生み出し為しえてきたものだ。


 こんな神をもつ信仰がどこにあるのだろうか?我々日本人が歴史をまだ持ち得ない二千年前、釈迦やマホメットが生まれる五百年も前のことである。  ケパ

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黒ねこジジとレイラ

2012年12月20日 | 感謝

 信州に住んでいた時、私は愛猫2匹と住んでいました。猫のいない生活はあったのかと思うほどいつも猫が一緒でした。そのうちで特に、「ジジとレイラ」には思い出深いことが沢山ありました。 Photo_2

と、過去形で書きますが、実はジジを引き取って家族の一員として下さったT牧師婦人から今日、「ジジが死んだわ」と悲しい電話が届きました。この11月ごろからいつ息がなくなってもおかしくない程の状態の末期ガンでした。その状態の時にT牧師ご家族は、手厚く手当てをして下さってました。私はいつも夫妻の優しさに頭が下がり、感謝し、主に祈りました。写真→は11月最後に会ったジジです。
悲しいけれど、あえて私は今日ジジの思い出を書きます。


 97年春頃の生まれと推測してます。迷い猫で我が家に引き取られた黒猫でした。ですからちょうど15歳半程で全うしました。このジジが家に来て直後、ヒマラヤンのレイラもやってきました。このレイラは生まれて1ヶ月も満たなくて、先に来ていたジジをまるで母猫かのように、すり寄って甘え、お乳をまさぐるのです。幼い雄猫のジジにはどうしてやることも出来ず、ただただ見守って遊んでいた姿はけなげでした。ちょうど小学生になったばかりの男の子が2歳ほどの妹を面倒見るようなことでしたから。

Photoそんな2匹の猫はずっと仲良く、つかず離れず、見ていても微笑ましい程の異母兄妹だったのです。幼い頃から優しさの漂った?ジジはちょっぴり気が弱く。少しの物音にも耳を立て、気の強いレイラが追いかけるとレイラにはついて行けない高い場所に逃げる。という雄猫でしたが、狩りは上手で、よく私に勝利を届けてくれて・・・困りました。
 とくに雄猫は甘え上手ですが、ジジは女性には、メス猫のようなかわいらしい鳴き声で甘え、大好きな煮干しのある場所へ連れて行き、出してくれるのを待つ・・・・さらに目的が達成されないと、ずっとおしゃべりし続ける事が特技のようなでした。

 レイラは純血種のためか11歳半のにはやはり皮膚ガンで死んでしまったのですが、その時も牧師夫妻が看取って下さり、ずっと2匹は大事にされ生活していたのです。

 ジジとレイラを家族として最後まで大事にして下さったT牧師家族のために、私の出来ることは、そのことをして下さったことを知人に証しをして、どうしてこの家族がこのようなことに心を置いて下さったと言うことをお伝えしていきたいと思います。神様。そのように示して下さり感謝します。 ドルカス

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小さくて、大きな奇蹟

2012年12月19日 | 祈り

小さくて、大きな奇蹟
  この親指の爪を見て欲しい。
  実は何ヶ月も前に、うっかりドアで挟んでしまった。見る間に爪の中で内出血していった。痛みの中で、「主よ、どうか出血を止めて下さい。」と祈った。すると出血は止まったのだろうか、もうそれ以上は大きくならず、痛みも収まった。

 

  喜んで神に感謝した。ところか、である。しばらくするとなんと!爪の中心というか、爪をつくりだす源のところに黒い出血が現れ、それは次第に大きくなっていった。これはまず間違いなく爪が死に、生え変えるまでに半年以上もかかってしまう事態だと思わされた。
  それは同時に、あのいやし、神に祈って応えられたいやしが反故(ほご)になってしまうことを意味する。それは信仰にも関わることなので、「まあ、いいや」と済ますわけにはいかなかった。
  「ああ、神様、あなたは確かにいやしのわざをお与えになりましたが、あれは何だったのでしょうか? わたしを戒めるためなのでしょうか? しかし主よ、御心なら、あなたのいやしが真実であるためにも、到底無理と思えるこの爪の芯での出血を止めるだけでなく、生え返させることもなく、ただいやしてください。」と祈った。

 

  祈ってると異変を感じた。爪の中心とも芯ともいえるところが、まるで熱を持ったように熱くなったのである。神はわたしの祈りを聞いてくださったことがわかった。

 

  これはさらにその数ヶ月後の、明白なしるしである。神は生きておられ、信じて祈る者に答えてくださる。怪しい宗教、いかがわしい神々は数多くあれど、それ故に真の神はいないと決めてはならない。唯一の神は確かに、永遠から今に至るまで、生きておられる。(ケパ)

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風邪さん、大流行中(特に我が家で)

2012年12月19日 | 生活

  みなさん、お元気でしょうか?
  ただ今ドルカスは、一週間以上の風邪をさらにこじらせてしまい、喉からとうとう熱とお腹にきてしまいました。NHKが風邪薬の重篤な副作用を取り上げていますし、以前医師から風邪に効く薬は無い、薬は緩和するだけ、しっかり休憩をとり、食べれるようになったら食べるだけ、と聞いていたので、寝込むという休養をしています。
  そんな中、私まで昨日は風邪特有の、あの腰にグワッと妙な痛みを感じるようになり、炎上状態にーーー。結局火曜日は二人でばったんキューでした。体が弱まると、お祈りにも力が入りません。でも、感謝だけはしっかりしてます。ちなみに風邪には体力のある私の方が耐性があり、回復も早いようですね。

 

  みなさん、風邪にはお気をつけください。そして、ドルカスが早く回復できますよう、お祈りに加えてくださると嬉しいです。 (ケパ)

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教育は国に任せてはいけない

2012年12月17日 | 随想

  わたしは30年前後教職にあった。仕事に困難はつきものだが、何がつらかったかというと、「道徳」の授業だった。文科省には「指導要領」という恐れ多い至高の(強制力のある)教育目標があって、人間について「正しい理解と協同、自主および自立の精神を養う」とある。問題はそれをどう教えるかは、まったくハネ投げて、できもしないことを学校と教師の工夫だとされている。

Church_34

 「馬鹿言ってんじゃないよ」と言うのが、在職中のわたしの本心だった。自己中心という罪深い人間の本性を棚上げし、何が正しい理解だ。自主、自立と言ってもその実態は、自分はできもしないのに、他を批判しけなしてばかりの高慢な人間作りと化しているではないか。

 

 恥ずかしながら、心の思いとは別に、そのことを退職するまでは公言することはなかった。せめてミッションスクールにでも職場替えしたらよいかと思ったが、結局未遂に終わった。

 教育史をひもとけば、教育は教会のものだった。ちょうど日本でも寺子屋が学校の始まりであったようなものだが、キリスト教の場合、特にプロテスタント国ではもっと本格的だった。これはユダヤ教とも相通じるが、幼児洗礼を受けて「信者」とされるカトリックと違って、プロテスタントは「信仰」を持ち、告白しなければ「信者」とは言えない。と言うことは、聖書を理解していなければ確固たる土台を持った信仰とは言えず、そのためには文字が読み書きできなければならないからだ。

 つまり印刷のはじめは聖書をたくさん作りたかったからであり、教Photo_3会は自らの存続をかけて、信徒の子どもたちを聖書によって教育したのだ。その時教育を受けることは同時に、信仰を学び、心を新たに造りかえられることであった。

 しかしイギリスから始まった産業革命は、安価で労働規律も高く、均一な生産の担い手としての労働者を必要とした。国家が教育を教会から奪取してこの需要に応えた。ここに心の教育と、知識教育との乖離が発生した。公教育にたずさわったわたしが悩むわけである。


 だから皆さんに知っていただきたいことは、学校では知的なものは入っても、肝心な心は育ちません。お母さんの愛と、社会の難しい言葉を使うお父さんによる思考力、そして教会による信仰が子どもを真に育てるのだということを。教育のプロと教師が言っても、それは家庭の豊かな土台がないと、まったく無力な存在なのです。玉川学園の工学部の礎石にある 「神なき教育(これは公教育のことを言っているとしても差し支えないでしょう)は、知恵ある悪魔をつくることなり」 とは、本当のことなのだということを。  ケパ

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華やかに

2012年12月16日 | 教会のこと

華やかに
  久しぶりに礼拝に来られた方。お昼をご一緒にとお誘いしても、「お腹空いてないんだ」と云われ早々に帰られたので少しがっかりしていたら、午後のITネット礼拝中にドアチャイムが鳴り、 どなたかしらと顔を出したら、なんとたくさんの花鉢のむこうに先ほどの方の笑顔が見えました。「教会は、なんだかさ・・・殺風景だ。」と言われ、花のプレゼントを届けて下さいました。花がとても好きなのですって。花屋さんともなじみみたいで、花屋さんが一緒に届けて下さった^^。


    その方を気遣う教会のK姉の娘さんに一つ。教会に彼が見えると椅子を進め、冷たい水を用意するM姉に一つ。そして会堂には、今日入荷したと言う、立派なデンドロビウムと、ポインセチアを下さいました。

花が置かれた途端に、会堂が華やかになりました。素敵なプレゼントを下さった方に感謝すると共に、神さま。そのように示して下さったのですね。感謝します。 ドルカス

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それってどうして?

2012年12月15日 | 示されたこと

 昨日、船橋へ向かいながら、田舎で利用したファンヒーターを運んでいたその時のことです。ケパさんのアンテオケ教会の奉仕していた頃の牧師仲間から電話。

その彼が不思議な事を言うのです。 「船橋へ移動示されてはいないの?」どっどうして。不思議です。実は最近ケバさんは、そのことを示されていて、今私達はそのように祈りはじめていたから。彼の祈りは、また違う点からの祈りだったようですが、私達には確認の一つとなりました。

 

で、どうしてその示しなのかと尋ねると、「実はいまこちらも寒くてね。会堂が、与えられているのに、ストーブも無くて寒いんよ~。で祈ってたらね。ケパさん夫妻が船橋へ移動すること示されて、その時は不用品がでてストーブも出るのでは無いかと。思わされたんよ~。」

 

   実はいま車に積んでいるファンヒーターは灯油使用なので、会堂で使えるだろうかと二人で話しながらの移動中だったのです。教会には小さな電気ストーブも有るし、どうだろうか・・・と。
   

今日ケパさんは、早速ストーブを梱包して送りましたCat49_3明日の夕方には到着するようです。本当に神様は不思議な形で不要となった品をも用いて下さいます。本当に不思議ですが、すべて神様に感謝しま す。


・・・・ストーブの箱はボロボロだったけど、つぶさず保管用に使ってて良かった^^ (ドルカスとCall・・・暖ったかいけど眠いニャン・・・)

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天と地の違い

2012年12月14日 | 随想

 かなり古い昔話だ。
 武士の家系であり、エリートとして成功した明治の男がいた。ところが若くして妻を亡くし、残された幼な子の養育に困った彼は、ただちに故郷で嫁探しをした。
 後妻という点はあったが、何分にも好条件の男だから、すぐに理想的な若く美しい妻をゲットすることができた。お姫様と呼ばれる家系で、またとない色白の美人であった。男なら誰しも羨ましがる話である。才たけた彼は戦後も事業で成功し、財をなした。ここまでは成功物語の話だ。
 が、ただ一つ、彼は家柄が自分より高く、気位の高い
妻とはうまく行かなかった。そして不仲の夫婦の成り行きとして、浮気が発生した。事実を知った妻は懐妊中だったが、堕胎を決心する。それだけでなく夫婦の不仲は、子の代に渡ってぬぐいがたい非常に大きな問題を遺すこととなった。

 これはよくある典型的な話だろう。逆の例だが、ドルカスの父母は仲がよかった。経済や地位はそれほどでもなかったかも知れないが、はるかにそれを凌ぐ、健康な心を子供たちは受け継いだ。それがどれだけの財産であることか。私に言わせれば、それが最善だった。財がある故に失うものは、実は取り返しのつかないものがある。 この家庭の悲劇は夫を責めるだけでは解決できない。家庭内にあって、勝者は存在しないと私は思う。実際、相手を「責める」ことで解決した事例など、ほとんど存在しない。みな傷つくのだ、子々孫々に至るまで。
 濃密な家族関係だけではない。人間関係で生じる問題の解決はまったく別なところにある。教師であった私が、問題を起こした子どもを前にし、その行動を「断罪し責めて」良い結果なったためしなどまずなかった。

 ではどこにあるか?それは「悔い改め」にある。
 先の例で言えば、できればだが、妻は夫の裏切りを責めるのではなく、悔い改めるべきだった。「どうして夫が他の女に行くのか?」「妻として自分に至らぬ点があったからではないか?」「そしてそれは、自分のどういう所なのか?」・・・・。悔い改めることができたなら、「ゆるす」という解決
Seasonalimage_36の選択肢も生じてくる。まして小さな命が失われることは絶対無かったはずだ。
 実際そこに「(血筋の)誇り」という大きな問題があったと思われるのだが、この例では決して気づかれることはなかった。それはその人の存在の基盤そのものであったからだ。高慢と言う言葉と、誇りとは実は同根のもので、それが原因であることに気づくことは、相当困難だ。

 私の教職の例で言えば、問題行動を起こした児童への、教師である私の指導や配慮ができていなかった指導力不足が先ず存在する。第一に深刻に反省すべきは、先ず私自身である。しかし問題行動を、だからと言って正当化できないので、原因とともに、どうしたらこのことを糧に、繰り返さずに前へ進めるだろうかと模索することになる。
 
 同じ目線で苦しむことであり、問題児童をしっかりと抱きしめることが解決への道である。それは教師自身が「悔い改め」てこそ可能になるのだ。

 Bible_34 私はつくづく思う。「他人を変える」ことは難しいことだし、ひょっとしてそれは自分の思い上がりかもしれない。しかし「自分を変える」ことは、悔い改めればあるいは可能だ。それは辛いことなのだが、最善の道だ。
 しかし、最大の敵は自分の誇りであり、プライドという肉があることだ。正直に振り返ると、自分がこれに勝てるとは到底思えない。どうしても自分がかわいいのだ。ここで先ほどの古い話も、教師の問題解決の在り方も、困難という壁に水泡と化す。

 けれども、唯一方法がある。自分の力を放棄することだ。キリストの十字架である。キリストは神なのに人となって、私たちと同様肉の苦しみを体験された。神がそのように自分を落とし、辱めたのは、人を造った責任を取られ、命がけで悔い改められたと言ううがった見方もできる。まさに愛そのものの神なのだから。だから私たちの心の内をすべて知っておられる神であり、弱い私たちを思いやることのできる神でもある。私を愛して十字架にまでかかってくださった。その愛の神になら、このみにくい自分を捧げ、委ね、神の支配に自分を明け渡すことができる。そうすると肉が死に、もはや生きているのがキリストへの信仰によってなら、肉が死ぬことが可能だ。これを福音と言う。信じる信仰の祈りは、絶望を確かな希望に変え、実際に力有る唯一のもので、それは真実だと、私は胸を切り開いてでも証言したい。   ケパ

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