今日はホームページの更新の為、朝から学んでるケパさんです。このところSkypeでの授業をしてますが、今回は実家を訪ねながらね
美穂センセから学んでます。がそろそろ学び時間は、おしまいです。
今日はホームページの更新の為、朝から学んでるケパさんです。このところSkypeでの授業をしてますが、今回は実家を訪ねながらね
美穂センセから学んでます。がそろそろ学び時間は、おしまいです。
以前に訪れた時は工事中で、とても寒くて歩く事も厳しかった。
今日この場所に来れたのもきっと意味がある。
礼拝堂に入り賛美し、祈ることが出来て、感謝した。ドルカス
今朝のコール。 悪いね。二日程お留守番ですがよろしく。お泊まりはいつもの動物病院ホテルでお姉さん達が、お世話してくれるので我慢してね。
えっがまんなんてしないって? その答えは微妙だゎ。 と、言い聞かせて信州に向かってます。
主人公の妹尾Hは、両親が聖霊派に属するブラザレンの教会員の家庭である。だからこの映画の両親夫婦は聖霊派らしく、信仰が生きていると感じさせるシーンが幾つもある。
印象的なシーンとして、テサロニケ書の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」の聖句が家の中心にどーんと大きく貼られていたり、戦時体制下で教会は石を投げられガラスを割られたり、学校ではHの机に嫌がらせの落書きが連日書かれる。真のクリスチャンは迫害されるのだが、それを地で行っている。それでも少年Hはたくましく生きて行く。
映画の中で特に関心を持ったのは、戦況が厳しく日に日に軍部のコントロールが厳しくなって行く中、父が子に語るシーンがあった(以下言葉はは不正確ですが趣旨は沿っているはず)。
「いいか、このような時勢だから、踏めと言われたら踏み絵を踏んでもええ。心の中で信仰さえしっかり持っとればええ。」Hは父の意図がいまいち飲み込めなかったが、言わんとすることは分かったようだった。
これに対して母は異なった態度だった。夫に反し、踏み絵は踏まない。つまり御名を否むことなく、迫害を正面から受けとめようとしていることは明らかだった。しかしそのような父も、Hのうっかりが原因で特高からの厳しい拷問は受けなければならなかった・・・・。
この夫婦の意見の違いは、これから迎えるであろう終末の艱難時代とリバイバルの時代、神を信じるすべての家庭と個々人に、古くてかつ通らなければならない決定的な分かれ目となることだろう。はっきりしていることは、聖書によるとこれから迎える艱難時代、獣(けもの)の像を拝み、その刻印を受けるものは、裁かれる(神の国へは行けない)ことは明記してあることだ。
Hの父のように、『拝んでも、またたとえ刻印を受けても、心の中でしっかりと信仰をもっとけばいいんじゃ」では、残念ながら永遠の火の池に落とされてしまう。今のいのち(ウン年、十年するとやがて尽きて滅んでしまうのだが)を大切にするか、またはたとえ死んででも生きる永遠のいのちを取るか、その容赦ない選択を迫られる時が来る、その備えをしていかなければならない。もっとも弱いわたしには、祈りしかないように思えるのだが・・・・・ ケパ
先週に引き続きですが、またしてもシネマです。今夜は「少年H」話題作です。
そして、上映されるのは「PREMIER SCRMIR」 ここです。場内に入り座ってみたら、なんと座り心地よい椅子。前席との間も十分あって、ゆったりと映画を楽しめそうです。感謝!!ドルカス
今日は昼からなつかしい杉並のテニス仲間と、たっぷり4時間テニスを楽しんで、その後、東府中の駅前で懇親会を持った。会えばいつも率直で楽しい会話がはずむ仲間だ。わたしはこのようなノンクリスチャンとの自然なつきあいも、大切な伝道の機会だと示されている。
ところで4人の話が煮詰まったところで、話題は個人的な話になる。わたしが抜けた後、仲間に加わったらしい方(今日初めて会った)から、「早期退職までされて、どうして牧師になったのか?牧師になるには、どういう道があるのか?」と質問をいただいた。もっともな質問である。
そこで「普通は神学校を卒業して、それから教会に招聘されてなりますが・・・・・・、ならない方もおられます。牧師は神さまからの召命がないとなれません」と答えた。「召命」がわかりにくいと思ったので、「神様がある人に、あなたは牧師となってわたしに仕えなさい」と語られることだと説明した。しかしもっと怪訝な顔をする。やっぱり「神が召す(人に語って自分の働きに用いていく)」ことが、理解の壁になっているようだ。
わたしも二十歳からのクリスチャンであったが、もし自分自身がしたような召命の説明を受けたら、さすがにクリスチャンだから意味は分かるものの、「怪しい・・・・うさんくさい」と感じたと思う。まして今日の彼はノンクリスチャン、わたしが真顔で言うので、非礼なことをしなかっただけだと感じた。
しかしキリスト教の土台である聖書自体、神からの啓示を受けた人の手を通して書かれた書物である。そこに描かれている三位一体の神とは、アブラハムに語りかけ、ヤコブと相撲をとり、モーセに語り、紅海を渡る奇跡を起こさせた神である。新約聖書に至っては、神ご自身が人となり世に下ってあらゆる奇跡と癒やしをし、多くのことを語られた。創世記には「言葉は神であった」とさえ言っている。
だから神は、最初の人であったアダム以降、常に人に語られる存在である。まずそれを信じなければならない。クリスチャンであっても、過去のわたしのように信じていなければその声も聞こえるはずがないのだ。しかし信じたとき、わたしは聞くようになった。「主よしもべはここにおります。お語りください」とサムエル少年のように。
もし神の召命なくして牧師になったらどうなるか?それは考えるだけで、恐ろしいことである。どんなに熱心に教会に通い、信仰を持ったとしても、この召命だけは神の計画でありご意志であるので、自分の希望や理想を捨てて、ただ従うことが最善なのだ。今日の新しいテニス仲間には、伝えきれなかったことだが。 ケパ
引っ越しは引っ越しでも、パソコンの引っ越しです。
DorcusPCですが、そろそろ動きが非常によろしくない事態になってきました。「買って3年経つので、レジストリーが貯まってきているのだ」とか言って私に説明してくれるケパさんですが、実は最近Macに乗り換え宣言をしたケパさんの、自分のパソコンの行く先を私にしようという魂胆なのでした。
というわけで、ここ数日は新しいウィンドーズ8マシンに、せっせと引っ越ししてます。
前回は忙しくそのまま移動、今回はちょっと念入りに、いらないファイルは棄てて(最近家の引っ越しで要領得てるからね^^)・・・・・と。
これ今やらないとずっとそのままになること間違いなしですから・・・はぃ ドルカス
「終戦のエンペラー」「風立ちぬ」は、終戦というこの時期にぶつけられた秀作映画だ。それなのに本来、本筋とは関係のないはずの男女の愛がそれぞれのテーマ、「天皇の戦争責任」「零戦」に色濃いく織り込まれている。映画は娯楽なのでしかたがないと言えばそれまでなのだが。
ところで一般的には男女の愛には出会いがあって、一目惚れするかまたはいつしか恋になり、困難を乗り越えて互いに結ばれていく・・・・が理想であるし、ほとんどそのパターンになっている。おませだった私が関心を持ち始めた子どもの頃、両親にそういうパターンを期待して「なれそめ」を聞いたことがある。
「お見合いで、暗い電灯の下で、顔を一度も上げなかったので、妻になる人の顔がわからない」まま結婚したのだそうである。私は二度とそれから両親に聞くことはなかった。ただ「ああっ、愛のない男女の間に自分は生まれたのだ」とひどく落胆した。そして自分は、決してそんな結婚はしない!と決心した。
そんな思いに凝り固まって成長したので、お見合いはもちろんあり得ない。自分の理想の女性との出会いを期待し続けることになった。描け、と言われたら絵でも文でも彼女を描けたと思うが、それ以上に、出会いとか性格の詳細まで完璧に凝り固まっていた。ところが「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるように、現実とは恐ろしいもので(※わたしはこれらはすべて神のご計画であったことを後に知ったのだが、この時はこのような言い方でしか言い表せなかった)、二十歳で学生運動に挫折してクリスチャンになった半年後、突然、そのホンモノが、私の状況設定通りに登場することとなった。
かんたんに説明すると、ある日の教会の礼拝後。急に賑やかになるのだが、会堂の最前列に座っていた私に後方、会堂入り口の辺りの女性たちの声の中に、あの低いアルトの声を聞いたのだ。驚いてふり返って見ると、そこにあの、寸部たがわぬ女性が立っていた・・・・・。
それから7年して、いろいろあって、互いの指さえ触れぬままで二人は結婚した。二人の娘まで与えられて、幸せな結婚なはずだった・・・・・のだ。
その女性とは今のドルカスだ、と言いたいところだが、残念ながら別人だ。すでに推察されている方もいるかも知れないが、ドルカスとの結婚はまったく白と黒、正反対のものになった。そこに、痛切な痛みの歴史と、悔い改めがあったことを想像していただきたい。今にして思えば私は、自分の夢を追っていただけの、エゴイスティックな人間だったのだ。
ドルカスとは、互いの伴侶を同じ胃がんで天へ送ったことが共通点だった。それ以外は「知人の妹」と言うだけで、顔だけは知っていた。ところがそれまで、神様が私にあらかじめ予告し、忍耐させた上、さらに「アイアイサー、あなたが導かれる女性であれば、たとえどんな女性であってもめとります」と告白させられていた。言い方は悪いが、「拒否権ナシ、人間的な愛情ナシ」なのだ。
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どうか若いみなさん、映画では上等な恋愛を見せてくれますが、多くの場合、相手を愛しているつもりでも、実は自分の夢を相手にかぶせているだけではありませんか。少しだけ、自問自答してみてください。人が人を愛する、それって異性が関わってくると実は超困難なことです。
ですが、イエス・キリストという本当の神を信じてください。この方は真実、人間を愛し、究極の愛、十字架にかかってくださいました。人間をそこまで愛してくださる神は全知全能の神で、最善の道を歩ませてくださるのです。ただ神に従うことが、多くの人の場合、できないのですが・・・・。
私が正反対の選択、自分の目でも思いでもなく、ただ神の選択に従ったことは、どれほど正しかったことでしょうか!現在、わたしほど幸せな夫はいないことでしょう!神は実際的にも、こころから神を愛し、従うものを祝福してくださるのですから。 ケパ
午後、歯科医の予約で高円寺まで来ました。治療が済むころには空の雲行きあやしい。空は暗く雷も鳴り響き稲光も走る。
一番近いメトロ東高円寺へ急いであわや雨に濡れず駅についた。走り込んだ直後に降り出したらしく、一休みしたコーヒー店は集中豪雨のおかけでこの満席だね。
久しぶりのメトロは乗ったら、随分車内が明るい。「おぉ!LEDに変わった」とケパさんが、叫ぶ。 車内はこの明かりで随分とグレードUPしたかの様にみえる。のはなぜかな
蛍光灯の明るさとは微妙に違う車内でした。
これから東京駅で乗り換えて、市川に寄って帰る予定だけど傘がない。・・・どうか買わずに済むように・・・と祈ってしまった。ドルカス