モーセと言えば、旧約の知らない人はいない巨人である。そのモーセも人生の中で、超大きな失敗をしたことがある。
それは、エジプトの王になれる可能性すらある身分、立場であるのに、エジプト人に打たれ、奴隷に落とされている自分の出身の民(つまりイスラエル人)を助けようと、そのエジプト人を殺したからだ。何も殺そうとまでは思わなかったのかも知れないが、結果的にそうなった。
モーセから見れば、同国人を救おうとした英雄的な決断だったのだが、その当のイスラエル人からは英雄どころか、感謝はおろか、単なる「殺人者」としてしか見られなかったのが大誤算であった。当然それはファラオが知るところなってエジプト王族のモーセは、エジプトから逃亡しシナイの荒野を漂浪するという、180°変わった、自ら選んだとはいえ、まことにあわれな境遇となる。
こうして王にでもなろうかという当時世界一の身分から転じて、シナイ半島で後半生はずっとただの「雇われ羊飼い」で生涯を終えるはずであったモーセ。ここまで劇的に落とされた人物は少ないだろうが、おそらく神は意図してこのように、あえてあわれ無き者とされ、謙遜さを求められた。謙遜とは机上で学び得るものではない。体験から、ある特定の人物が人生の肥やしにして得ていくものだ。
「良かれ」と思ってしたことが、まったく伝わらないだけではない。かえって自分の身に災いとなって降りかかってくる。そんな経験をしている人はいないだろうか?人というものを信じるタイプの人。愛する人には多いはずである。わたし事で恐縮だが、牧師という仕事も、当然そんなことがけっこう多い。
しかしだからといって、人を疑ったり、避けたりしてよいものだろうか?モーセは注意深くなったかも知れないが、そうはしなかった。失敗から失敗することの恐怖や自分を守ることを選んだ人は、失敗を人生の失敗に置き換えた人のことである。
モーセはイスラエル人を助けるという、自分の正義感、同国人への愛がまったく通じなかったことから、たとえ良かれと思ったことでも、互いの信頼関係やカバーリングという土台がなければ、
それは独り合点の茶番劇だということを学んだ。後にイスラエルのエジプトからの大脱出、民族の偉大な指導者として立てられて行く時にも、その学びの経験が生かされている。謙遜であり、かつ民族を愛することを失っていなかった。
だから私の言いたいことはこれに尽きる。自分が大失敗をし、どん底に落ちた時こそ、人生の思案のしどころ、分かれ目である。悔い改め、謙遜を学び、後にそれを生かすなら、失敗は失敗とはならず、かえって成功の土台となる。それを学ばせるために、神が失敗することをあなたに許されたのだ。 ケパ