ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

老後より死後

2018年08月13日 | 信仰
日本は世界に冠たる老人大国で、去年の統計では二位のイタリアを4.03%も差をつけて27.05%で一位である。(高齢化率は総人口に対する65歳以上人口の比率)

(暑さ本番中に、セミ二匹見つけた)
今日のテニスコートで昭和20年、23年、26年(私)と三人の男が並んで話す機会があった。「座位から立ち上がるまでが手を突きながらのヨッコラショ、情けない」(26年)。朝起きて立ち上がるまでが「うっかりできない、時間をかけて」(23年)とかの話になった。この話は暑い日中、テニスコートを走り回ってバリバリのプレーする猛者達なはずなのだが・・・。年をとったらこうなる、それは聞いてはいた。しかしこれは経験しなければ、本当にはわからない話だった。

秋元牧師のお話の中で、「老後より死後なんです」と言う言葉を何度も語られている。今年になって経済が逼迫している私たちには、その都度ドキッとさせられている。なぜならこれまでの余裕が尽きて、現在でもどうやって生活を成り立たせようかと思い、ましてこの先、どうなることだろうかという心配が、瞬間的にでも再々襲って来ているからだ。

しかしこれから先の老後生活を心配することより、確かにその先のために私たち夫婦は召されているのだ。私自身、上京する際には、路上生活者となり、野垂れ死にしても構わぬ決心をして来た(神様からは、「決してそうなりません」と笑われた)はずだった。それなのに、体の衰えと共に、このように老後を心配する有様である。

そして昨日は何と自分自身で、示されてではあったが、下記の聖句からメッセージしている。
"金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。"(ヘブル人への手紙 13章5節)

‘’金銭を愛する‘’とは、まさしく生活を心配し、オロオロどうしようか、と悩むことである。神は‘’今持っているもので‘’と言われる。本当にその通りである。上を望んで欲望にとりつかれ、まだ見ぬ先を心配して不安にとりつかれる。これらは賢そうに見えるが、実は愚かなことである。最も大切なこと、天国への備えをおろそかにしているからである。

神を信頼し、世での命を捧げてきたのに、どうして今さら煩うのであろうか。主は決してこの私たちを見放されず、見捨てられないのだ。神を信頼し、この世では、ただひたすらに、神の御心だけを行う、それこそ天国人としての生き方である。



ケパ



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8月12日主の日

2018年08月12日 | 教会のこと


おはようございますございます
まもなく礼拝が始まります
共に礼拝いたしましょう


司会はm姉


ピアノ奏楽奉仕をケパ牧師で始まってます。


聖餐式です。


ケパ牧師のメッセージは、
聖書ヘブル13:5~6 から、語られてます。


ドルカス



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ひがし東京聖会です

2018年08月11日 | ゴスペル
今日はこちらに来てます。

ちょっとのお手伝いと、恵み頂きに来ました。

船橋 東東京聖会


第一部のゴスペルコンサートは、なんと贅沢な、トップクラス2チームのコンサート


主催者の、Gospel Seed のお二人


そして、Gifts
今日は、ゆっくり、たっぷりコンサートも楽しんで聴いてます。


ドルカス



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引き続き聖会

2018年08月11日 | 聖会・キャンプ・集会
聖会のとき
会衆賛美は。ドルカス導きでした。臨在あり〜〜


続いてのケパ牧師ショートメッセージは、証し中心で、この時期にわかりやすいメッセージでした(๑˃̵ᴗ˂̵)


そして献金の後のGiftsによる特別賛美は
♪輝く光の中で


後半は賛美の後にP牧師による、メッセージでした。


主の祝福満ちた聖会でした。
私の思いなどはるかに超えて、人々も来てくださり、感謝な時でした。アーメン

ドルカス




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J.GOSPELミニコンサート

2018年08月10日 | 聖会・キャンプ・集会
始まりました。

いま、オンラインで 流しています。このブログのブックマークの、船橋教会礼拝からustreamにお入りください。

(これ!Wi-Fi環境悪く、乗らなかったようですが、続けます)

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準備して

2018年08月10日 | 聖会・キャンプ・集会
船橋聖会当日です。

ケパさんは、ショートメッセージの準備中

日焼けした腕だね〜

私は聖書開いて、心静めて


いつものおむすび🍙🍘🍙 準備しよ

ドルカス



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船橋聖会

2018年08月09日 | 聖会・キャンプ・集会
明日、8月10日(金曜日)
船橋カリスマ聖会が行われます。


今年4月の聖会から、会場が勤労市民センターに変わり3回目
船橋聖会も通算すると40回目です。

当日前半は、GIFTSミニコンサート
もあります。
もちろん事前の路上ライブは、駅近くで予定してるようです。

台風も太平洋上へ消え、明日はまた暑さが戻るようですが、
路上ライブ、そしてコンサート、聖会が恵まれますようにと、祈ります。


ドルカス




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お盆とクリスチャン

2018年08月08日 | 信仰
船橋駅の近くに行くと、ガラガラとスーツケースを引っ張って歩く人が目についた。お盆帰省の人たちだ。今年もお盆がもうすぐだ。

お盆はわが国最大の宗教行事だ。あまりに宗教的過ぎて、これほど国民的な行事なのに祝休日にできないでいる。
お盆には浄土などから祖先の霊が帰ってくるので、「此処だよ」と燈籠を点け、香を焚いておもてなしをする。香は仏への敬意を表し、己をも清浄にし、良い香りで極楽浄土を想起させ、灰になることから無常さを教えるものらしい。つまり帰省すると、どうしても焼香や線香を捧げる場に出てしまう。そこで線香などを皆と一緒にすると、本人の信仰はともかく、仏になった先祖霊を認め、礼拝したことになるのだ。

私は安芸門徒と呼ばれる浄土真宗のただ中育ち。東京でクリスチャンになるまでは、家族親族近郷近在、皆この宗門だらけで、幼き時よりしっかり身についていた。
二十でバプティスマを受け、卒業して広島に帰ってくると、どの教会でもお盆に限らず、葬祭の焼香や供養に、全く違和感なく参列し焼香を捧げる人が多かった。せいぜい十字架をぶら下げている程度だった。しかし私はどうしても違和感があって、これでいいのかとかなり長い間、疑問を感じ続けていた。

かつての教会内でこの点を問うたことがあった。すると「他宗(仏教)を尊重することは、自宗(この場合キリスト教)をも尊重してもらえることになる」と説明された。また焼香や礼拝しなければ、ホストを傷つけることになるので、愛がないとも言われた。しかしそれでも、「本当にそうだろうか?」との疑念が消えなかった。

以下は私個人の見方であり、上述の疑念からの結果であって、他者に押しつけるつもりはない。その上での話である。
福音派と呼ばれる教会にどっぷりつかっていた後半、家族の病と家庭の崩壊などいろいろな試練があって、私は180度異なるカリスマ派になった。その時から、私は目からウロコ、この問題における大きな過ちに気づいた。上述の例は、要するに聖書と神に聞き従っているのではなく、あくまで世に迎合し人間を恐れ、保身を第一にしていることの言い訳、へ理屈だったのだ。この過ちが理解できていなかったとはいえ、私はひどく悔い改めた。

クリスチャンなら誰でも知っている十戒の第二には、
"いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない"( 申命記 5章8~9節)とある。クリスチャンがお盆に、仏になった先祖へ焼香や供養することは、信じてはいないとどんなに詭弁(きべん)を弄(ろう)しても、それは重大な背教である。唯一の真の神以外を拝することは、偶像崇拝の罪に当たる。

聖書ではさらに、
"この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。"(ローマ人への手紙 12章2節)とある。

何が良いことで、神に喜ばれることなのであろうか? まさか焼香や供養をすることではないだろう。そのような場では、私は代わりに、たとえどんなに目立っても祈りを捧げる。神をほめたたえ異言を語る。僧侶が居て、皆に対して「ライハーイ」と言おうが、決して頭を下げたりはしない。それが不遜と受け取られそうな時は、はじめから祈りの姿勢を崩さない。ただしその場の人びと対しては、心から礼を尽くすのは当然であるが。

もしその焼香や供養しない事で、親族などからなじられることがあったとしたら、それはキリストの苦難に、この小さな者がわずかでもあずかれたと喜んで感謝する。キリストは「だれでも自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのだ。パウロのように何度も鞭打たれ牢獄にぶち込まれるわけではない。どうしてこの程度のことで怯(ひる)んでおられようか。まして訳を聞かれるなら、絶好の証のチャンスである。感謝、また感謝である。

※参考)ダニエル書の「たとえそうでなくても」
捕囚の民であっても役人として取り立てられた
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのユダヤ人3人は、巨大な王の像を拝むことを強要された時、死を覚悟して言った。

"「しかし、たとえそうでなくても(=神が自分たち三人を燃える炉の火から助けてくれなくても)、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」"(ダニエル書 3章18節)

神への信仰は、何千年も不変である。



ケパ







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今朝の出会い

2018年08月07日 | 生活
月一度の歯科医へ行くため、船橋駅へ今日はシャポー入り口から入ろうとしたら

チラシ配る人が立っていて、避けようかな〜〜 なんて思ったら

ケパさんが「○○さんお早うございます」と言うから、ついわたしも手を出してチラシ受け取ってた。

なんとこの方
ご本人がお一人で活動中でした。

受け取った後ろから「いってらっしゃい」と、声まで掛けてくださって、
地域を代表する!この方。今は力を発揮出来ないかもだけれど、

暖かい人なんだね〜
やっぱり応援したい人物です。

私的には、お仕事抜きとして、教会繋がって欲しいなぁと思われる人物です。

ドルカス



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「ご先祖様!」じゃない・偶像崇拝とは

2018年08月06日 | 信仰
数日前、NHKテレビ番組ファミリーヒストリーで、「北海道スペシャル~北の大地で、強く生きた~」があった。

私はこの番組が、調べる先祖の中に家柄や偉い人、帝大出とか○○裁判官を探し出し、そういう先祖だけを称揚するのに、軽い嫌悪感を持っていた。今回、ほんの短い時間だけ観てしまったが、その中でニシン御殿を作った先祖に対し、その子孫に当たる番組出演の芸能人が喜んでかつい、「ご先祖様❗」と声をあげていた。私はこれに強い違和感を覚えてしまった。(その番組のシーン)

もちろん「ご先祖様❗」と言うことを非難しているわけではない。そんなことを言おうものなら、この国では即バッシングにあってしまう。そうではなく、ただこの自分が、この国の民、多くの日本人とかなり考え方が異なっていることを実感したのだ。

多くの人にとっては、自分の先祖に立派な人がいたら、誇りに思うことだろう。世的にはそうだろう。しかし、信仰的に見ると、それは全く何の関係もないのである。すべての人は罪人であり、そのままではゲヘナ行きは免れない。ただイエス・キリストの十字架を信じ受け入れた信仰者(クリスチャン)だけが、十字架の贖いによって罪赦され、永遠のいのちを与えられて、神の国の一員として天国で再会できるのだ。

だから先祖にクリスチャンがいたら、それは天国で会えるので喜ぶ。しかしそうでなければ、審判は神のなさることなので、人間に過ぎない私が絶対とは言えないが、先祖とは言え全く違う恐ろしいところへ行く人たちなのだ。

確かに私は先祖が居たから存在している、しかしそれゆえ先祖がありがたく尊いのではない。
なぜなら私の霊は神がこの血肉となる遙か以前に創造されておられ(ダビデやエレミヤ、イザヤも49章でこのことを証している)、全能の神はどのような方法をもってしてでも、私の霊に血肉の体を着せてこの世に送り出すことがお出来になるのだ(マリヤは処女なのにキリストを出産した)。その視点から言えば、神はご計画によって私の先祖を用いられたに過ぎない。

けれども、親を尊び敬うのは当然である。神の愛に答える者は、血肉の親の愛にも答えるのは当然ではないか。しかしそれと、先祖を〇○様❗と敬うのは別の話しである。
血筋や民族を誇ってはならないことのは、以下の御言葉からも明らかである。大切なのは信仰である。

"あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。"(マタイの福音書 3章9節)

付け加えだが、全人類はアダム以来というもの、神の前に罪人である。先祖だからといって、罪深い、ただの人間に過ぎない。十字架を信じていなければ行き先はゲヘナである。だから感謝は神に対してするのであって、おろそかにはしないものの、先祖だからとそれだけで敬うことはできないし、してはいけない。
つまり多くの同胞と同じ先祖崇拝をして、偶像崇拝の罪に陥ってはならない。だからあくまでクリスチャン限定だが、「ご先祖様❗」は、してはならない。神に感謝し、世にある限り、その使命を全うしよう。

この点から言えば、クリスチャンの家に、位牌や遺骨が存在することは避けたい。積極的ではないにしても、そこに偶像崇拝の危険性があるからだ。御言葉にもある通り、世の霊から遠ざかり、偶像崇拝は絶つ必要がある。

"あらゆる形の悪から離れなさい。"テサロニケ人への手紙 第一 (5章22節)

葬儀後はできれば土葬して、土からつくられたのだから土に還す(地上には形として何も残さない)のがベストだと思うが、この国では不可能である。

だから遺骨は教会の墓地に埋葬されているのが良いと思うが、海とかの大自然に散骨して、土に還すのも非常に良い方法ではないだろうか。とにかく、形あるものを残すことの重大な問題性(遺骨=大事なものという感覚=偶像崇拝)に気付いて欲しいと私は思う。

" あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。“(申命記5:8-9)



ケバ





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