(原題:The Shawshank Redemption)94年作品。
[概要]
大銀行の副頭取だったアンディ(ティム・ロビンス)は妻とその愛人を射殺した罪で無期懲役の刑を受け、ショーシャンク刑務所に収監される。最初の方こそ頼りなげに見えた彼だが、持ち前の頭脳としたたかさで、所内の“調達屋”のレッド(モーガン・フリーマン)に一目置かれるようになる。やがてアンディは所長や看守の税吏相談も受けるようになり、刑務所の中心人物になるが、ある日入所してきた若い囚人から、真犯人の存在を聞いたのをきっかけに、ある“決意”を胸に秘める。ホラー以外のスティーヴン・キングの小説の映画化では「スタンド・バイ・ミー」に続き当時2本目。監督は「フランケンシュタイン」などの脚本を手掛けたフランク・ダラボン。これが初演出である。
[感想]
ひとことで言って、非常に感銘を受けた。たぶんここ10数年間のアメリカ映画の中ではベストテンに入る。
刑務所ものという、型通りになりやすいジャンルでありながら、ハリウッド得意の予定調和劇とは最も遠い。この映画は今まで観た刑務所ものとはどれも似ていない。
公開時にある評論家は“どんな状況でも希望を持つことがいかに大切であるか、そして信じた希望が現実となって実を結ぶことの素晴らしさを描いた映画”だと言った。間違いではないが、核心でもない。それがテーマのすべてだったら、最初からそれに呼応するディテールを積み重ね、ラストでドーンと打ち上げるハリウッド製娯楽劇になったはずだ。
ところがこの映画、観客の期待をいい意味で裏切り続ける。特に私のように原作も知らない観客にとっては、途中まで主題が何かさえつかめず、ラストなんて見当もつかない。かなり描くポイントに“ゆらぎ”が多く一定していない。それでも観終わって感動してしまうのは、映画の視点がストーリーではなく、徹底して登場人物の側を向いているからだと思う。
“当たり前のことを言うな!”との指摘は承知の上だ。でも、主題があまりにも物語(そして題材)の側にすり寄り、“大作のための大作”あるいは“娯楽作のための娯楽作”という堂々巡りをしている映画が多いとは思わないか?
対して「ショーシャンクの空に」は、まずキャラクターがある。彼らが何を考え、それが周囲の出来事によってどう変わり、結果としてどう行動するか、実に微分的に描写する。人間の心なんて日々これ葛藤の連続。描き方に“ゆらぎ”があるのは当然だ。刑務所という舞台に、こういうキャラクターを入れたらどうなる、ということから出発しており、大仰なストーリーの辻褄を合わせるためのキャラクター設定ではないこと。これがこの映画の成功の要因だ。
そういうスタンスのもとに、アンディというキャラクターが選ばれている。無実の罪で刑務所に入り、頭はいいが性格は(最初は)弱い。しかも心の奥底では希望を失わない。いずれ何かやらかすような人物だ。事実、感動の結末になるのだが、これは万人にアピールさせるアメリカ映画ならではの選択に過ぎないのだ。彼がたまたま“希望を失わない”前向きのキャラクターだったから、(少々の娯楽性豊かな展開を付け加えたとはいえ)ああいうラストに持って行けたのである。たとえば別のもっと屈折したような人物を主人公にして、フランス映画の犯罪ドラマみたいな方向に持っていくこともできた。実に拡張性の高い(?)映画作りだ。
それにしてもダラボン監督の、的確で抑制され、ここ一番という時パワーを見せる演出の見事さ。ティム・ロビンスは最高の演技だ。モーガン・フリーマンも素晴らしい。トーマス・ニューマンの音楽。ロジャー・ディーキンズのカメラ。何から何まで満点に近く、鑑賞後の味わいは極上である。でも単に“感動した”の連呼より、前述の柔軟性に富んだ作劇のスタンス、映画に対する作者の謙虚さを評価したい。
[概要]
大銀行の副頭取だったアンディ(ティム・ロビンス)は妻とその愛人を射殺した罪で無期懲役の刑を受け、ショーシャンク刑務所に収監される。最初の方こそ頼りなげに見えた彼だが、持ち前の頭脳としたたかさで、所内の“調達屋”のレッド(モーガン・フリーマン)に一目置かれるようになる。やがてアンディは所長や看守の税吏相談も受けるようになり、刑務所の中心人物になるが、ある日入所してきた若い囚人から、真犯人の存在を聞いたのをきっかけに、ある“決意”を胸に秘める。ホラー以外のスティーヴン・キングの小説の映画化では「スタンド・バイ・ミー」に続き当時2本目。監督は「フランケンシュタイン」などの脚本を手掛けたフランク・ダラボン。これが初演出である。
[感想]
ひとことで言って、非常に感銘を受けた。たぶんここ10数年間のアメリカ映画の中ではベストテンに入る。
刑務所ものという、型通りになりやすいジャンルでありながら、ハリウッド得意の予定調和劇とは最も遠い。この映画は今まで観た刑務所ものとはどれも似ていない。
公開時にある評論家は“どんな状況でも希望を持つことがいかに大切であるか、そして信じた希望が現実となって実を結ぶことの素晴らしさを描いた映画”だと言った。間違いではないが、核心でもない。それがテーマのすべてだったら、最初からそれに呼応するディテールを積み重ね、ラストでドーンと打ち上げるハリウッド製娯楽劇になったはずだ。
ところがこの映画、観客の期待をいい意味で裏切り続ける。特に私のように原作も知らない観客にとっては、途中まで主題が何かさえつかめず、ラストなんて見当もつかない。かなり描くポイントに“ゆらぎ”が多く一定していない。それでも観終わって感動してしまうのは、映画の視点がストーリーではなく、徹底して登場人物の側を向いているからだと思う。
“当たり前のことを言うな!”との指摘は承知の上だ。でも、主題があまりにも物語(そして題材)の側にすり寄り、“大作のための大作”あるいは“娯楽作のための娯楽作”という堂々巡りをしている映画が多いとは思わないか?
対して「ショーシャンクの空に」は、まずキャラクターがある。彼らが何を考え、それが周囲の出来事によってどう変わり、結果としてどう行動するか、実に微分的に描写する。人間の心なんて日々これ葛藤の連続。描き方に“ゆらぎ”があるのは当然だ。刑務所という舞台に、こういうキャラクターを入れたらどうなる、ということから出発しており、大仰なストーリーの辻褄を合わせるためのキャラクター設定ではないこと。これがこの映画の成功の要因だ。
そういうスタンスのもとに、アンディというキャラクターが選ばれている。無実の罪で刑務所に入り、頭はいいが性格は(最初は)弱い。しかも心の奥底では希望を失わない。いずれ何かやらかすような人物だ。事実、感動の結末になるのだが、これは万人にアピールさせるアメリカ映画ならではの選択に過ぎないのだ。彼がたまたま“希望を失わない”前向きのキャラクターだったから、(少々の娯楽性豊かな展開を付け加えたとはいえ)ああいうラストに持って行けたのである。たとえば別のもっと屈折したような人物を主人公にして、フランス映画の犯罪ドラマみたいな方向に持っていくこともできた。実に拡張性の高い(?)映画作りだ。
それにしてもダラボン監督の、的確で抑制され、ここ一番という時パワーを見せる演出の見事さ。ティム・ロビンスは最高の演技だ。モーガン・フリーマンも素晴らしい。トーマス・ニューマンの音楽。ロジャー・ディーキンズのカメラ。何から何まで満点に近く、鑑賞後の味わいは極上である。でも単に“感動した”の連呼より、前述の柔軟性に富んだ作劇のスタンス、映画に対する作者の謙虚さを評価したい。

