元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「酔拳2」

2009-08-08 06:26:14 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Drunken Master II )92年作品。中国の国民的ヒーロー、黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)の青年期の活躍が描かれる、お馴染みの作品の第二作である。当時の建築物から衣装、風俗に至るまで、丁寧に再現された点も見どころのひとつだ。

 さて、映画の可能性というものは、精緻な演出技法や見事なSFX(技術)などにより広げられると、誰でも思う。私もほぼ同意見だ。でも、ジャッキー・チェンは別の方法論により映画の限界をコンマ1ミリずつ押し上げていった、世界でも希有の映像作家だと思う(そう、彼は“作家”なのだ。単なるアクション役者としてのレベルはとうの昔に超越している)。

 その方法論とは、他の作家たちが映画という客体に手を加える“作り手”としてのスタンスで仕事に臨んでいるのに対し、彼は彼自身を映画そのものにしてしまう。何のことかよくわからないと思うが(^_^;)、こんなことを感じるようになったのは「プロジェクトA」のラストのNGシーンを観てからだ。

 時計台から落下するあの危険なシーンを、彼はスタント無しでこなし、しかも“落ち方が納得できない”と何度も何度も高所から転落してみせる。あれを観たときショックで涙が出た。たとえばスタントマンを使って要領よく撮ればスマートな映像になったろう。それをあえて自分でやり、死ぬ一歩手前まで行くなんて、それは話題作りなんかよりもっと別の、彼自身の狂気にも似た映画への執念、映画と心中せんばかりの崇高で破滅的な“愛”を感じ、戦慄する。

 自らの肉体を虐め、ギリギリのところで壮絶アクションを演じる彼の映画からは、通常の活劇映画とは次元の違う切迫したオーラが発散されている。形而上的な高揚感が観客を酔わせる。テクニック万能のハリウッド製アクション映画では絶対味わえない、ショーと真剣勝負が一体となった迫力が画面を横溢する。これが映画の可能性のひとつでなくて、いったい何なのだろう。

 この作品にも十分それは発揮されている。クライマックスで彼が火だるまになり、それでも必死に反撃して敵を倒すとき、私はそこにまたしても映画そのものを体言化してみせるジャッキーの“狂気”と“愛”を感じ、感動せずにはいられない。
コメント
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