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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ヘンリー五世」

2006-04-20 22:40:50 | 映画の感想(は行)
 (原題:Henry V)89年作品。ご存じシェイクスピアの原作の映画化だ。これには昔ローレンス・オリヴィエ監督・主演による有名な作品があり、これが「ヘンリー五世」のスタンダードとされてきた(私は残念ながら、未見)。本作は当時イギリス演劇界の若手のホープと言われていたケネス・ブラナーで、彼の監督デビュー作にして一番の出来だ。もちろん主演も担当している。

 ストーリーは史実にもなっているが、イギリスの若き王ヘンリー五世が、わずかの兵を率いてフランス軍の大軍を撃ち破るという英雄物語だ。詳しくは原作を読んでいただくとして、スタンダードともいうべきオリヴィエ版とは違うアプローチをしている(と思う。なにしろオリヴィエ版は観ていないもんで)。冒頭いきなり映画のスタジオ風景をバックに語り手が登場し、「この少ないスタッフと製作費で皆様のお気に召す作品に仕上がったかどうか・・・・」などともったいぶった講釈を述べる。この語り手は映画のいたるところに登場し、ドラマの進行具合を観客に説明する。

 こういうふうに書くと、いかにもウケを狙ったキワ物映画と思うだろうが、とんでもない。これほど格調の高い歴史劇はあまりないだろう。とにかく主演のブラナー演じるヘンリー五世の高潔な人間性に圧倒される。彼は一国の王であるが、素顔は苦悩する若者にすぎない。配下の者を危険にさらすかもしれないと悩む場面や、軍の規律を破った親しい部下を泣く泣く処刑するシーンでは、主人公の内面的葛藤がこちらにひしひしと伝わってきて胸が熱くなる。元は演劇であるから、主人公のモノローグが多い。しかし、これが実に真に迫っていて、セリフを聞いているだけで感動してしまう。

 そしてスゴイのが戦闘シーンである。史劇の合戦場面というと、兵隊と馬をずらりと並べて、カメラはロングショットで、要するに物量作戦で見せてしまおう、というのが普通だ。しかし、この映画ではカメラは極端なアップと横移動だけに徹し、登場人物の興奮と恐怖に満ちた表情をビビッドにうつしだす。全員泥と血にまみれ、敵味方もわからない混沌とした修羅場として描かれた戦闘場面は、戦争の一つの本質をとらえている。これはもう、史劇というより、ベトナム戦争といっしょだ。今にもヘリコプターの爆音が聞こえてきそうだ。

 映像は非常に美しい。また音楽が実に格調が高い(演奏はサイモン・ラトル指揮のバーミンガム市響)。難を言えば、戦闘シーンのあとの和睦会議の場面とエマ・トンプソンが出ている部分はまったくの蛇足(爆)。戦いが終わったところでエンドマークが出ていたら最高だったろう。
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「ある子供」

2006-04-19 06:42:19 | 映画の感想(あ行)

 (原題:L'Enfant)2005年のカンヌ映画祭の大賞受賞作だが、ダルデンヌ兄弟監督作品としては前作の「息子のまなざし」の方が断然優れている。あのドラマティックな展開と素晴らしいラストシーン、何より登場人物の切迫した信条を如実にあらわしているカメラワークは、まさに孤高のクォリティを誇っていたと思う。

 対して本作は漫然とした展開と読めるラスト、映像造形もさほど工夫がなく、ハッキリ言って出来としては平凡だ。

 恋人に無断で生まれたての我が子を売る若い父親の姿を通して、荒涼とした世相を切り取ろうとしたことは分かる。特に日常のすぐ近くに人身売買組織が暗躍するという構図には慄然とさせられる。ただし、その“世相を描く”というスタンスを取った時点で興趣は後退するのも確か。映画作家たる者、テーマを映画の中で練り上げるべきであって、“世相”という“映画の外”の対象物に必要以上に寄りかかるべきではない。

 ならば映画の登場人物に単純な“世相の紹介”という次元を乗り越えるだけの存在感があるかというとそれも心許なく、ジェレミー・レニエ扮する主人公にもそのガールフレンドにも、状況に振り回されるだけの軽薄さしか感じない。周りの登場人物も“ただ存在しているだけ”である。

 救いは上映時間が短いことだろうか。このタッチで2時間以上もやられては観ていて辛い。

 質的には前作より後退しているが、こういう賞レースは対象作が万全の出来であるとは限らないことを示している。同じ作家の他作品の実績を勘案しているところも多分にあるのだろう。
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韓国映画なんて、もう沢山。

2006-04-18 06:38:51 | 映画周辺のネタ
 すでに“韓流ブーム”は下火になりつつあるようだが、本日はその韓国映画について書いてみよう。最初に断っておくが、私は「韓国映画だから、その時点でダメだ」とか「この演出家はサヨク(orウヨク)だから最初から否定する」とかいった、偏狭な態度とは無縁でありたいと思っている。作った奴がどこの国の者だろうが、出ている俳優がどんな「くされ外道」だろうが、演出家の私生活がズタボロだろうが、出来た作品が面白ければそれでオッケー。反対に、いくら作者が品行方正な野郎でも、作った映画がカスなら完全否定するのみである。

 韓国映画にも確実に良い作品がある。巨匠イム・グォンテグ監督の傑作「風の丘を越えて/西便制」や「春香伝」は一見の価値はあるし、朝鮮戦争の実像をニュートラルな視点で描いた同監督の「太白山脈」は歴史好きには必見といえる。イ・チャンドン監督の「ペパーミント・キャンディー」は痛切きわまりない秀作で、ホン・サンス監督「豚が井戸に落ちた日」もシビアな快作。我が国でもリメイクされたホ・ジノ監督の「八月のクリスマス」は、誰にでも勧められる恋愛映画の佳篇である。

 しかし、上にあげた作品は、すべて国際映画祭などでインターナショナルな評価が「確定」している。良質な外国映画として、どこの国でも公開されてしかるべきだと思う。だが、韓流ブームが巻き起こってからの日本の劇場(特にミニシアター)でスクリーンを占拠していた韓国映画の数々は、大部分が低劣なシロモノばかり(まあ、全部は観てはいないけど ^^;)。クサい設定と泥臭い展開とご都合主義的な結末、もはや香港映画でさえ恥ずかしくて作らないような三文芝居を得意満面で製作して、それが本国ではヒットしているらしい。問題はどうしてその「この程度」のシャシンを我が国が多数輸入・配給しなければならなかったのか・・・・ということだ。

 単純に考えれば、そんな「低劣韓国映画」を観て喜んでしまう日本の観客が大勢いることが原因だろう。憂国系の掲示板などでは、よく“韓流ブームに踊っているのは在日のオバチャンだけ!”なんてフレーズを見かけたが、在日の人たちだけではあんなブームにはならない。“韓流ブームなんて存在しない。オレの周りでは見かけない”と決めつけるのも早計。ちなみに私の周囲でも韓流スターにハマっている女性(在日ではない)はけっこういた。“韓国映画特集上映”みたいなイベントがあると、劇場内は満員電車みたいな大混雑になることも珍しくない。韓流ブームに踊っていたのは、やっぱり“日本のオバチャン”であるのも事実だろう。そんな層が存在するから、有象無象の韓国映画も輸入されてしまう。

 ではどうして「この程度」のシャシンに日本のオバチャンはハマるのか。それはズバリ“韓流スター”である。つまりは、出ている俳優の存在感だけでくだらない内容の映画を2時間保たせてしまう、そんな“スター万能主義”みたいなスタイルを恥ずかしげもなく前面に出していること、これがオバチャン達にはたまらない。逆に言えば、俳優にスター性がなければ箸にも棒にもかからない。

 韓国の俳優には“スター性”があること・・・・は事実である。オバチャン達からキャーキャー言われている男優はもとより、女優のレベルは(整形云々を差し引いても)昔からかなり高い。でも、そんな“スターにおんぶに抱っこ”の状態で映画を量産するのは、世界的に見て古色蒼然としたスタイルであることは論を待たない。

 “スターが出てくる古臭い三文ドラマ”でしかないほとんどの韓国作品に我が国のオバチャン達が過剰反応してしまったのは、日本の映画界がスターの育成を怠り、下世話な観客を惹きつけておくことに失敗し、まんまと韓国映画ごときに話題を持って行かれたからだと思う。日本映画は質的には世界有数だが、万人を魅了する映画スター(特に若手)はいなくなってしまった。今からでも遅くはない。韓流スターに負けない人材を探して育てるべきである。

 それと、日本も国家が映画産業を助成した方が良いと思う。韓国は国家が補助金出して学費無料の国立映画学校まで作って、やっと「あの程度」だ。対して日本は現状でもレベルが高い。国家がカネ出せばもっと優秀な人材が集まる。そうなれば多くの韓国映画は“忘却の彼方”になってしまうことだろう。

 いずれにしろ、この“韓国映画ブーム”は完全に終わって欲しいものだ。韓国からは昔のように“本当に見応えのある映画”だけを少数輸入するだけで結構。韓国作品が必要上に幅を利かせると、ヨーロッパ映画や韓国以外のアジア映画やマイナーな邦画などの公開の場が少なくなる。映画ファンとしては面白くないからね。
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「ジャングル・フィーバー」

2006-04-17 06:54:09 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Jungle Fever)91年作品。建築会社に勤める主人公フリッパー(ウェズリー・スナイプス)は、有能な建築設計技師であると同時に、会社でただ一人の黒人社員である。ある日、彼についた新しい秘書アンジェラ(アナベラ・シオラ)を見て彼は愕然とする。黒人の秘書を希望したフリッパーの意に反し、彼女が白人だったからだ。最初のうちこそ二人の間には壁が存在したものの、やがて恋が生まれる。だが、周囲のシビアーな状況は、だんだんと彼らを追い込んでいくのであった。監督はスパイク・リーで、同年のカンヌ映画祭に正式出品されている。

 何となく、焦点が絞りきれていない気がするのは私だけだろうか。当初は家庭を持つ黒人技師と白人女性(イタリア系)との不倫を、人種問題をからめて描いていると思ったのだが、途中からヒロインの元の彼氏が経営する店を舞台に、様々な人種の人々の人生模様が綴られたり、主人公と友人(リー監督自身)との対話劇やフリッパーの妻の友達が集まってのディスカッション劇が延々と展開されたり、話があちこちに飛ぶ傾向を見せる。そしてクラック中毒のフリッパーの兄が登場するに及んで、映画のまん中に麻薬問題が居座るようになる。序盤の内容から考えると、あまりタッチの違う決着で、見ているこちらは唖然とせざるを得ない。

 しかし、バラエティに富みすぎる内容は、それだけアメリカの黒人をとりまく状況が“黒人対白人”という単なる人種の対立の視点では語られないことを示しているとも言える。主人公の妻は黒人とはいえ、肌の色は白人に限りなく近い。また、イタリア系のヒロインの家庭は主人公のそれよりも貧しい。純粋な(?)黒人と髪が直毛の混血の黒人との確執。他の有色人種との社会的地位の違い。経済的な差別。スパイク・リー自身、ミドル・クラスの出身であるにもかかわらず、いつのまにか下層階級の人々の代弁者のように位置づけられしまった個人的ジレンマもある。言いたいことがたくさんあってまとまりがつかなくなった、という事実があったと思う。

 でもその“迷い”は決して否定されるものではない。状況をポジティヴにとらえようとする作者の意気込みが感じられて好ましくさえある。冒頭タイトルに代表されるような、音楽に合わせて映像をうねらせるテクニック、主人公の兄がたむろするアヘン窟の描写など、リー監督の類まれな演出力が発揮され、観ている者をぐいぐい引き込んでいく。2時間を超える上映時間も長くは感じない。

 しかしまあ、この頃のスパイク・リーの作風は実に野心的であったなあと痛感する。今は・・・・どうでもいい監督の一人だけどね(少なくとも、私にとっては ^^;)。
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「エビータ」

2006-04-16 18:31:18 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Evita)96年作品。御存知アンドリュー・ロイド・ウェバーによる有名ミュージカルの映画化。

 監督がアラン・パーカーだと聞いたとき“ああ、予想はついたぜ”と思ったのは私だけだろうか。パーカー監督が地元イギリス以外で撮った映画ってのは“鼻持ちならない英国野郎”というレッテルそのまんま当てはまる。「ミシシッピー・バーニング」しかり、「エンゼル・ハート」しかり。南米を舞台にした本作も同様で、この全然パッションを感じられないような語り口は“こんな田舎娘に翻弄されるようなアルゼンチン人ってどうしようもないね”という差別意識だけを印象づけられたような、まことに困った映画になっている。

 独裁者の妻であるヒロインが国民の人気を集め、若くして死んだとき盛大な国葬が催されるが、その実彼女は思慮に欠ける俗物だった・・・・という斜に構えたモノローグが“語り手”のアントニオ・バンデラスによって披露され、映画はそれによって進行する・・・・。

 でも、だから何だってんだよ。瞬間風速的な人気を得る政治家ってのはロクな奴がいないってこと、誰でも知ってるじゃないか。叩けば埃の出る身体で、それでも表面だけ取り繕って、たまたまボロの出ないうちに早々と退場したから、美化されたイメージだけが残ったと。それだけの話なんだよ。そんなアタリマエの筋書きを大仰にカネかけてミュージカルにしちゃって、さも重大なことのようにガナリ立てて、最後に“だから南米人はダメなんだ。その点、我々イギリス人は・・・・”なんて見え透いた皮肉を飛ばしたくてたまらない感じだ。どこがいいんだこんな映画。

 やたら長い上映時間と一本調子の音楽にも閉口した。マドンナは熱演だけど、皮肉なことにマドンナというキャラクターが強烈なため、映画自体がプロモーション・ビデオの寄せ集めみたいな印象が強くなる。これじゃ公開当時にアカデミー賞の主要部門からすべて締め出されたのも当然か。ダリウス・コンディのカメラだけは良かったけどね。
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「ジャーヘッド」

2006-04-15 06:57:10 | 映画の感想(さ行)

 (原題:JARHEAD)各方面から顰蹙を買っているイラク戦争とは違い、90年代初めの湾岸戦争には“侵略者フセインを撃退するのだ!”という、誰もが納得する大義名分があり、多くの国々が多国籍軍の結成を支持した“正義の戦争”であったはず。にもかかわらずこういう厭戦気分溢れる映画が撮られるという事実は、アメリカ映画の懐の深さを(口惜しいながらも)認めないわけにはいかない。

 何よりイラクに赴いた兵士の手記を元にしたディテールの深さが出色。いつ攻めてくるか分からない敵、しかし、主人公達には最後までその姿も見えない。来る日も来る日も訓練に明け暮れ、「地獄の黙示録」の戦闘シーンを見て気合いを入れてはみるものの、重い澱のようなものが心の中に溜まってゆく焦燥感を押し隠すこともできない。

 最前線の修羅場でもなく、本国に残された家族の有り様でもない、待機を強いられる“後方部隊”のやるせない日々を通じて戦争の理不尽さや不気味さをジリジリとあぶり出してゆく姿勢は、かなり斬新である。監督サム・メンデスのスタンスは相変わらず一筋縄ではいかない。

 ロジャー・ディーキンスのカメラワークは素晴らしく、沙漠の茫洋とした風景および油田火災により黒く染まった砂の大地の描写は今年屈指の映像になるだろう。

 最近出番が多くなったジェイク・ギレンホール(けっこうマッチョ ^^;)をはじめピーター・サースガード、クリス・クーパー、ジェイミー・フォックスと曲者を揃えたキャスティングも申し分ない。
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「タイムリセット 運命からの逃走」

2006-04-14 22:14:54 | 映画の感想(た行)
 97年作品。ガールフレンドのワーン(ナッタリガー・タンプリダーナン)が交通事故で危篤状態になり、取り乱すジァップ(サンヤー・クンナゴーン)は、寺でひとりの僧侶から“それは彼女の前世のカルマが原因だ。助けたければお前自身がこの世で5人の命を救わなければならない”と告げられる。彼は死亡事故を予言する紙切れに従い、死の直前にある人々の元に走るのだった。タイで大ヒットしたファンタジー仕立てのサスペンス編。

 タイに限らず、東南アジアの映画は“ゆったり、のんびり”としたタッチが目に付くが、これは珍しくスピード感あふれる作劇で観客を引っ張ってくれる。それもそのはず、監督は「The EYE」シリーズで知られる香港人のオキサイド・パンで、これがデビュー作だ。

 ジァップが助けようとする人たちは、公金を競馬に使い込み自殺しようとする警官や受験に失敗してビルの屋上から飛び降りる寸前の少年、暴走者にはねられそうになる子供や、強盗から射殺される運命にある警官など、どれもが絶体絶命の事態。これを限られた時間内に助けなければならない。とにかく“一難去って、また一難”という事態がずーっと続き、息つくヒマがない。ワン・アイデアには違いないのだが、とにかく見せきってしまう。

 映像が効果的だ。キレのいいハッタリかませた画像処理。駅のホームから列車に飛び込む少女を映したショッキングな画面が食堂のテレビから流されるが、それは“予告”であり、主人公以外には見えないというシークエンスは特に秀逸。さらにそれに続く事故現場と皿の上のケチャップがオーバーラップするあざとい場面もカッティングの上手さでクリアー。すぐさま主人公の活劇場面に移るという呼吸も良い。

 全体的に、映像に少しウォン・カーウァイあたりが入っているかなあと思うが、徹底的にエンタテインメントに振った使い方なのであまり気にならない。スローモーションを活かした画面処理とSFXが絶妙の効果。ここまでやれば、ラストのやや強引なドンデン返し(?)も許してしまおう(笑)。

 異邦人の手による映画だが、仏教国タイの運命観・宗教観をちゃんと押さえているところが本国でも大ヒットした理由だろう。パン監督のその後のフィルモグラフィはあまり感心しないが、この作品に限ってはオッケーだ。ハリウッドでもリメイクできそうな題材である。
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“ブランド戦略”がオーディオ業界を救う(笑)。

2006-04-14 06:56:02 | プア・オーディオへの招待
 AV機器の専門サイト「phileweb」において、音楽評論家の岡村詩野とビジネスライターの渡部由美子が「女性のライフスタイルにとっての、音楽や映画、そしてその再生機器」について語った記事が掲載されていた。以下、一部を抜粋して紹介してみる。

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(インタビュアー)オーディオの再生装置とはどうあるべきだとお思いになりますか?
(岡村)当然、音質が良くなければ話にならないと思いますよ。(中略)置き場に困らないとか、コンパクトとか、そういうことは大事ですよね。
(渡部)そうですね、総合的に見てしまいますよね。音もそうだし、コンパクトさとか、トータルですよね。
(岡村)私は機能と音質を除けばデザインが一番大切です。女性はデザインを重視する人が圧倒的に多いと思います。

(メーカー担当者)女性の方の多くは音質を非常に重要視しているけれど、音質の良い・悪いを比べていく手間を面倒に感じてしまうので、例えばデザインだったり価格だったり、別の要素での満足を求めてしまうのでしょうか。(以下略)
(渡部)情報も少ないんですよ。男性誌では取り上げられますが、女性誌ではオーディオ情報がほとんどありません。
(岡村)結局は「よくわからないけど、デザインがよくて、安くて、小さいものでいいや」ということになってくると思うんです。オーディオはまず入り口の敷居が少し高くなっているだけだと思います。

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 数年前、某掲示板に「私の周りにはCDを数百枚持っていたり楽器演奏が得意だったりする女性がいるが、彼女たちはズタボロのラジカセしか持っていない。結局、女ってものは音の善し悪しが分からないんだな。HA!」みたいなゴーマン極まりないことを書き散らかしたことがあるが、考えてみれば立派な再生機器を使っているかどうかが“音の善し悪しが分かること”に繋がるわけでもない。医学的に音を聴き分ける能力に男女間で差があるなんて聞いたこともないし、なんとまあ失礼なことを書いたのかと反省している(核自爆)。

 要するに、「phileweb」の記事にもあるように、再生機器の選択における「メカがどうのこうの」というネタ自体が女性にとってのハードルの高さに繋がっており、音の善し悪しを確かめる前に敬遠してしまうだけだろう。だから「デザインがよくて、安くて、小さいものでいいや」と妥協してしまう。しかし、その「(パッと見ただけの)デザインがよくて、安くて、小さいもの」というのは、概して低品質だ。そういうローエンドの機種の音ばかり聴いていると、本来良い音を聴き分けられるはずの耳も鈍ってくるかもしれない。

 その「ハードルの高さ」を一瞬で消し飛ばす方法が一つだけある。それは「ブランド」だ。

 女性のブランド好きは誰しも認めるところだろう。有名ブランドであれば、多少収入に合わなくても、ダンナに内緒で平気で買ってしまうのが女性というものだ(←おおっ、またまた物議を醸しそうな表現 ^^;)。だからオーディオ機器にブランド性を持たせれば、市場に溢れる「安かろう、悪かろう」の商品を駆逐することが出来る。

 では音響メーカーがグッチだのエルメスだのといった商標権を一時的に買い取り、既存の製品に貼り付ければ良いのか・・・・というと(笑)、そんな姑息な方法はすぐに見透かされる。いわばピエール・カルダン印のオジサン用靴下と同等のレベルだ(爆)。ブランドはそれぞれの作り手が一から積み上げるべきものである。

 この「phileweb」の記事はBOSEの新サウンド・システム「uMusic」機能のPRに関連して書かれたものだ。BOSEといえば、AV機器に興味のない人でも名前ぐらいは知っている。「何やらスゴい機器を作っているメーカーらしい」という認識は一般的になっている。だが、BOSEの製品はそれほど高価格ではない。学生がバイトして買える機器だってある。だが「BOSEって安物じゃん」という声は(マニア以外では)あまり聞かない。それはBOSEという「決して低くはないブランド・イメージ」を定着化させるマーケティングと、それをクリアできるだけの製品ラインナップを作り上げているからだ。いくらBOSEの製品は高級ではないとはいっても、そのへんのオモチャみたいなミニコンポなんて手掛けない。ローエンドの品目でも、立派にB0SEのクォリティは維持されている。

 対して既存の国内メーカーはどうか。オンキヨーにしてもビクターにしてもパイオニアにしても、確かに上級者向けの高価な製品も出している。だが一方で、チャチなラジカセもどきも作っている。オンキヨーのミニコンポを買っても、そんなのは自慢にもならないし、所有欲も十分満たされない。ただ「音楽が聴ける」という当たり前の環境を得ただけだ。こんなのは女性が好きな「ブランドの世界」とはほど遠く、当然ビクターもパイオニアも「ブランド」たり得ない。

 ピュア・オーディオの専門メーカーという位置付けのDENONなんて問題外。「でのん」という冴えない読み方はもとより、10万円以下のアンプでも重さが15kg弱で奥行き40cm以上、もっと上の製品になると高さが18cmという重厚長大さ。いくら音が良くても、所謂「ブランド」とは最も遠い位置にある。

 BOSEが「ブランド」たり得ているのは、そのデザインによるところも大きい。だが、国内メーカーのデザイン構築能力はその足元にも及ばない。確かに「(パッと見が良いだけの)安物向けのデザイン」はこなすが、質感を伴ったマトモな製品のデザインはまるでなっていない。これでは「ブランド」を展開することができない。

 ではどうすればいいかというと、そのヒントは80年代初頭に松下電器がTechnics印で展開していた「コンサイス・コンポ」と呼ばれた一連の商品にあると思う。当製品は寸法をLPレコードのジャケットのサイズに合わせ、音質も上々だった。価格面でも決して高級品ではなかったが、それほど安価でもなく、学生が手に入れるにはちょっとキツいけど、カタギの勤め人ならば少し奮発すれば買えるレベル。アンプなんてセパレート型だったし、レコードプレーヤーに至ってはディスクを固定してのリニアトラッキング仕様という凝りようだった。見た目も安アパートに置くには無理があるが(笑)庶民が少し背伸びして購入出来るレベルの小洒落たマンションにはベストフィットだ。こういう「誰にでも分かる所有欲と優越感がくすぐられる商品」こそが「ブランド」を名乗る価値がある。

 で、やっぱり一番大事なのは「適度なコンパクトさ」だろう。アンプ類に関してはDENONに代表される「恰幅の良さ」なんて、一部のマニアしか評価しないし、女性にとっては“ドン引き”だ。かといって、量販店で扱っているチンケなミニコンポみたいに「幅20cm以下、高さ10数cm」なんてのは安っぽい。ここは「コンサイス・コンポ」のように「幅が30数cmで薄型」というのが良いと思う。それにしても、単品で売っているアンプ類の幅はたぶん40年以上前からどこのメーカーも40数cmと判で押したように決まっているが、あの「規格」はマーケティング面ではほとんど意味がない。少なくとも「ブランド」を構成する上では邪魔だ。

 そしてデザイン。ここは一般にも名を知られたB&OをはじめMYRYADROKSANYBALYRANORTH STAR DESIGNのような欧州メーカーを見習って、かつ「物真似」には終わらせず、独自にカッコ良さを追求してほしい。そうすりゃ所詮アメリカのメーカーでしかないBOSEなんてすぐに追い抜く。仕上げもツマミをすべてアルミ無垢にする等、質感を高めることだ。

 さらに重要なのは「ブランド名」だ。いくら見てくれが良くても、オンキヨーは「音響」だし、DENONは「電音」である。ティアックが高級品に「エソテリック」と名付けているように、あるいは昔ソニーが一部の商品に「ESPRIT」と命名したように、企業名とは別に「女性向けのブランド」にふさわしいネーミングを用意すればいい。

 具体的なマーケティングとしては、決して「ゴチャゴチャとして狭いオーディオ専門店」で扱ってはならない(笑)。○○電器みたいな大手量販店もダメ。デパートやファッションビルに売り場を設けるべし。それと月9のようなテレビドラマに頻繁に小道具として登場させ、主演のキムタクあたりに“ぶっちゃけ、安物ミニコンポで満足している女って、耳が悪そうで、ついでに頭も悪そうじゃん”なんてセリフを吐かせれば完璧だ(爆)。

 ・・・・まあ、いろいろと書いてきたけど、この「ブランド戦略」がアピール出来る対象は女性だけではない。「いい音で聴きたいけどフルサイズのうすらデカい機器を置くスペースはないし、第一そんなのは女房子供(orガールフレンド)からオタク扱いされて損だ」と思っている中堅オーディオファンの野郎どもにも恩恵を与えるはずだ。それとそういう新たな市場が開拓されると、家電メーカーや新規企業も参入して、ますますこの分野が面白くなってくるだろう。

 なお、スピーカーに関してはあえて言及していないけど、なぜかといえば、すでに安価でコンパクトでしゃれたデザインで、音質も悪くない海外製スピーカーが数多く輸入されており、今さら国内メーカーに頑張ってもらう必要がないからだ(国内で「ブランド」を展開できそうなスピーカーは富士通テンのECLIPSE ぐらい)。この件については、また別の機会に書くことにします。
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「ミュンヘン」

2006-04-13 06:47:04 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MUNICH)観終わって“スピルバーグもこういう映画を撮る時代になったのか”と感慨を新たにした。

 72年の「ミュンヘン五輪虐殺事件」と、それに続くイスラエル情報部の“報復行動”を描く本作、スピルバーグらしい脳天気なドンパチ場面や大仰なSFX処理など皆無。それどころかエリック・バナ扮する工作員の苦悩に深く踏み込もうともしており、いつもの“内面描写には縁のないスピルバーグ”のレッテルを返上するような頑張りには驚かされる。

 やはりこれはラストショットにも示されるとおり9.11テロ以降の状況が大きくのし掛かっているのだろう。確かにパレスチナ・ゲリラによるテロは憎むべき犯罪だが、その背景を検証すれば決して“アラブ側は徹頭徹尾悪い(あるいは正しい)のだ”とか“イスラエルの主張こそ全面的に正しい(あるいは悪い)のだ”とかいう通り一遍の解釈には行き着かない。スピルバーグがユダヤ人としての自らのアイデンティティを前面に押し立てようとしても、多くの要因が複雑怪奇に入り組んだ“現実”を前にすれば、あまりの“重さ”にただ立ちつくすしかないのだ。もはや「シンドラーのリスト」のような単純過ぎる映画は作れない。

 ただしそれを“現状は一筋縄ではいかないものだ”と正直に吐露しているあたり、逆にスピルバーグの真摯さがあらわれているとも言え、作品のスタンス自体には好感を覚える。

 某ホームページで自称“プロの評論家”なる人物が“米国共和党の現政権やリベラル派でさえ解決策を提示しているのに、スピルバーグは何のメソッドも提示していないのが残念だ”みたいなことを書いていたが、まったく的はずれの珍論と言うしかない。たかが一介の映画作家に“国際問題の解決法”のような大それたことを求めるのはナンセンス。それは政治家や学者や社会活動家などのプロフェッショナルの仕事だ。映画は対象を粛々と描けばそれでよいのであって、いたずらにイデオロギーにかぶれるとロクなことはない。

 ヤヌス・カミンスキーのカメラによる冷たくキレの良い映像も見もので、これは本年度の米映画を代表する力作と評したい。
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「身も心も」

2006-04-12 06:50:18 | 映画の感想(ま行)
 97年作品。大学教授の岡本(奥田瑛二)と妻の綾(かたせ梨乃)はニューヨークへの旅行中の留守番を友人の脚本家の関谷(柄本明)とデザイナーの麗子(永島暎子)に頼む。彼らは若い頃全共闘運動の仲間であり、かつて関谷が刑務所にいる間、岡本は当時交際していた麗子を捨て、関谷の恋人の綾と一緒になったのだった。25年ぶりに再会した関谷と麗子は最初はとまどうものの、やがて“捨てられた者同士”の連帯感からねんごろな仲になってゆく。そこへ岡本とケンカした綾が一人で帰国してきて“離婚するかもしれない”と言う。忘れていたはずの若き日の葛藤が、再び微妙な四角関係を形成してゆく。脚本家・荒井晴彦の初監督作で、大分県湯布院でロケされている。

 実に良くできた作品で、感心させられた。同じ四角関係といっても前述の「私たちが好きだったこと」のフヌケた作劇とは雲泥の差で、どっかの映画みたいに全共闘世代の湿っぽいノスタルジアを押しつけるものとも一線を画す、普遍性を持つ人間ドラマの秀作に仕上がっている。

 長回し主体の映像は、まさに登場人物の心象風景そのものだ。ウソと本音と見栄と葛藤が渦巻く人間関係のあやうさ。TV的なカット割りでは途端に凡庸に堕してしまう繊細極まりない心理劇のあやを、寒色系の画面に焼き付けていく川上皓市のカメラの素晴らしさ。

 麗子と寝て、帰ってきた綾とも寝る関谷を単なるズルイ男と設定するような底の浅い作劇ではない。麗子は年下の恋人からプロポーズされている上での情事だし、綾は関谷と寝ることで夫への面当てとしているし、岡本は妻を捨てて母親(加藤治子)の元に逃げ込みたい衝動を必死でこらえている。関谷はそれらを全て承知で、別居中の妻子とのしがらみを忘れるために情事にのめりこむ。本性はみんな優柔不断。しかし若い頃の過ちの精算とかの大義名分を持ち出し、欲望を正当化する狡猾さと、それで周囲をねじ伏せようとする図々しさ。反面その中に若干の純情さを持ち込むことも忘れない。つまりは計算ずくの“大人のアバンチュール”を、ここまで活写した映画はそうないだろう。

 圧巻は、麗子と関谷が“若き日の綾と岡本”になりきって二人だけの芝居をしたあと、そのまま情事になだれ込む前半のシーン。それぞれがフラれた相手の若い頃になりきって、現在の二人の心情を吐露するという二重三重のドラマ運びに、ただただ唸るばかりである。

 主演の4人の演技は申し分ない。実力のある俳優がそれに見合った役を思い切り演ずるという映画のあるべき姿を久々に見られる喜び。荒井監督はこれがデビュー作とは思えない、実に達者な演出だ。

 人間、本音と建前を使い分け、トラブルにぶち当たって時にはやり過ごしながら、トシを取って枯れていくものだという、当たり前のことをしみじみと感じる、真の意味でのアダルトな魅力を持つ映画だ。湯布院の街がまるでヨーロッパの避暑地のように映し出されるが、そういえば作品自体のヨーロッパの秀作群に近いテイストを持っている。まさに必見の映画だ。
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